三 疑いの種を撒く

 どうやら〈闇の目〉の噂は、この辺りの村々全てに広まっているようだった。

 その人物は、つい最近になって、どこからともなく現れたのだという。いつのまにか村の中に入り込み、人々の耳に猜疑心を呼び覚ますような言葉をささやいては、煙のように姿を消してしまうのだと。

 もともとフランの休暇中の帰省に私が同行する形なので、そうものものしい旅の支度をしていたわけではない。フランと私の他には、馬車の御者が一人いるだけだ。

 ガナムの村では何とか事なきを得たけれど、この調子ではよその村での私の身の保証はできない……と、いうわけで、途中立ち寄った村でフランだけが降りて食料を調達し、次の晩は馬車で夜を明かすことになってしまった。

「……すみません。こんなことなら、星祭りになんて誘わなければよかったですね」

「ううん、連れてってって頼んだのは私だもの」

 こんなことになったのに変だけれど、私はまだマーロの村の星祭りに、行きたいのだった。いや、よりいっそう、行きたい気持ちが強くなっていたのだった。

「ちょっと、降りてみませんか。今日はよく晴れていたから、夜空もきっと綺麗ですよ」

「――そうね」

 夜になれば暗くなって、星が輝く。当たり前なのだけれど、城にいたとき〝外〟の存在に思い至らなかったように、夜空の星にも気づかなかった。馬車から降りて、天を仰ぐ。

 そこは街道のすぐそばで、後ろには森、前には草地が広がっていた。そして、その草地に降りそそぐように、満天に無数の星がきらめいていた。

「すごい、綺麗……」

「ですね……僕が星に詳しければ、いろいろ説明できるんですけど……」

 天上に流れる、一筋の星の河。言葉もなく、二人でその光景に見とれていたときだった。

 不意に、馬が高くいなないた。馬車から解かれて、近くの木につないであったはずの馬が、狂ったように走り出す。

「な……何だ、いったい!?」

 御者台でうたた寝していた御者が慌てて追いかけたけれど、馬たちはてんでばらばらの方向へと走り去っていく。

「僕も追いかけます! 千歳は、馬車の中にいてください。絶対ここから離れないで!」

 そう言うなりフランも走っていって、私は一人取り残されてしまった。言われたとおり、馬車の中に戻ろうとしたとき

「……水を、持っているか」

 いきなり後ろから声をかけられて、心臓が止まりそうになった。

 振り向くと、マントを身にまとった背の高い男の人が、森の中に溶け込むように立っている。よく見ると、顔の上半分を覆う仮面のようなものをつけているようだ。

「水……あります、けれど……」

 少し不安だったけれど、それでも水筒を持っていくとその人は美味しそうに水を飲んだ。その姿に、何だかはっと胸をつかれたような気がした。

「……綺麗な星だな」

 水筒を私に返すと、その人は空を指さした。「あそこの三つ並んだ星……知っているか?」

「え? ……ああ、あれ? あれならオリオ……」

 言いかけて、背筋に戦慄が走った。

 ちょっと待ってよ。どうしてここでそんなものが見えるの?

 ――ここは、いったいどこ!?

 そんな私の様子に、男はにやりと笑った。仮面の奥にのぞく双眸そうぼうは……闇の色だ。

「……あ、あなたが〈闇の目〉なのね……?」

「ほう、そう呼ばれているのか。まあそんなのはどうでもいいことだが」

 笑いながら男は言った。

「この世界は偽りだらけだ。偽りは長くは続かない。俺の役目は、疑いの種を撒くことだ」

「――千歳、離れて!」

 私を呼ぶ声とともに、赤い炎が男を襲った。

「フラン!!」

「急に馬が暴れだすなんて変だと思ったんです。それで戻ってきたら……今の男は?」

「え?」

 そのときには、男は煙のように姿を消していた。ふうっと、私は地面にへたり込む。

「千歳……大丈夫ですか?」

 フランが心配して声をかけてきたけれど、私は答えることができなかった。頭の中で、〈闇の目〉の言葉が渦巻いている。

〝この世界は偽りだらけだ。偽りは長くは続かない……〟

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