第十二章 女神覚醒

 イザナミの墳墓から噴き出す禍々しい気はその勢いを増していく。

(止められなかったか……。結果的に明斎の執念が女神を呼び起こしたのか……?)

 雅は揺れる地面に這いつくばって奥の宮を見た。

「ダメだったの?」

 藍は女神が起きてしまった事を知り、絶望しかけていた。すると倭の女王の一人である卑弥呼が、

『黄泉の玉を掲げなさい』

と藍に告げた。

「はい」

 藍は卑弥呼の言葉に応じ、右手に持っている黒い玉を高く掲げた。その玉はまるでイザナミの墳墓から噴き出し荒れ狂う禍津気に呼応するように揺れ始めた。そして藍の手を離れ、空高く舞った。

「何?」

 藍は黄泉の玉の動きのびっくりして身を引こうとした。

『案ずる事はない。それは心強き味方』

 もう一人の倭の女王である台与が言う。

「え? 味方?」

 藍はキョトンとして白々と明けて来た空を舞う黄泉の玉を見上げた。

「この気は……?」

 藍は黄泉の玉から漏れ出て来る気に覚えがあった。黄泉の玉はパッと散り、封じ込められていた気を解放した。やがてその解放された気は次第に集まり出し、人の姿に変わった。

「貴方は……」

 藍はようやくその気の持ち主が誰であるのか理解した。衣冠束帯の大柄な男。彼こそ、姫巫女流を創始した小野篁の霊体であった。

『お久しゅうございます、皇祖神様』

 篁の霊は卑弥呼と台与に深々と頭を下げた。

『とうとう、其方の力を使わねばならぬ時が来ました』

 卑弥呼が応じる。篁は卑弥呼を見て、

『潮時でありましょう。お戻し申し上げる時であると』

『そうですね』

 卑弥呼と台与はイザナミの墳墓を見て言った。

「戻す?」

 藍には意味がわからない。

『但し、その前に穢れを祓わねばなりません。いささか骨が折れる事になりましょう』

 篁もイザナミの墳墓を見て言った。

『来ます。備えよ』

 台与が藍に告げる。藍はピクンとして、

「はい!」

と応じ、剣を正眼に構えた。鳴動していた墳墓からゆっくりと何かが湧き上がって来る。

「あれが始めの女神か……」

 雅が目を細めて呟く。イザナミの墳墓から出て来たのは、漆黒の髪、漆黒の肌、漆黒の巫女服を着た那美の巫女だった。およそ五十メートルにも達しようかという大きさである。

『ハァァァァァ……』

 女神は禍津気を吐き出しながら、ゆっくりとその全貌を地中から出し、向き直る。その目には黒目はなく、只白い。何も見ていないのか、全てを見通しているのか判別がつかないものである。

「何をするつもりだ?」

 藍達に背を向けた女神の動きを見て、雅は眉をひそめた。

「どこへ?」

 藍が言うと、

『女神は黄泉比良坂に行くつもりぞ。止めねば、あの世の魔物が現世に溢れ返る』

 篁が言った。藍はギョッとした。

「黄泉比良坂を開くつもりなのですか?」

『始めの女神がなす事はこの世の終わりの始まり。黄泉比良坂が開けば、日の本に限らず、この世の全てが滅びる』

 篁が言う。藍は篁を見上げて、

「私はどうすればいいんですか?」

『女神の穢れを祓うのだ。今、女神は穢れにまみれている。その穢れを祓いしのち、全てを終える儀を以て、お帰り願う』

 篁の言葉に藍は眩暈がしそうである。

(あんな凄まじい気を放っている女神を止める事ができるの?)

 藍が葛藤しているうちに女神はゆっくりと動き出した。その巨体は下にある木も神殿も土も石も全て腐らせながら進んで行く。歩いているのではなく、宙を滑っているようだ。風もなく、女神の動きもゆったりしたものであるのに、漆黒の巫女服は激しくはためいている。女神自身が放出している禍津気の気流のせいである。

『迷うているいとまはない。行くぞ、我が末葉まつようよ』

 篁が先陣を切るように飛翔し、女神を追う。

(末葉って子孫の事だっけ?)

 日本史の教師である藍は、辛うじて篁の言葉を理解した。

「はい!」

 藍はその身に宿った二人の女王と共に篁を追いかけた。

「頼むぞ、藍……」

 雅はすでに自分にはどうする事もできない戦いである事を知り、藍に全てを託した。


 一方、京都にいる仁斎と丞斎は、始めの女神が起きてしまった事、篁が解放された事を感じ取っていた。

「とうとう姫巫女流も終焉の時か」

 丞斎が謎めいた事を呟く。仁斎は腕組みをして、

「その時が来たのだ。我らが滅びる訳ではない」

と応じた。


 鳥取分家で資料を探していた善斎と道斎は、南の方角に今まで感じた事のない気を感じ、手を休めて邸を飛び出した。

「何が起こっているのだ?」

 善斎は眉間に皺を寄せ、明るくなって来た東の空を見上げた。道斎が彼に並び、

「この方角は、確か比婆山ですね」

「比婆山か……。やはりあの話は本当だったのか」

 善斎が妙な事を言ったので、道斎は、

「何の事ですか、善斎様?」

と尋ねた。すると善斎は、

「平安の昔、世を乱そうとはかった術者がいた。その者は比婆山の女神を起こして、この世を終わらせようとしたそうだ」

「比婆山の女神というと、イザナミの事ですね?」

 道斎は善斎を見て言った。善斎は東の空を見上げたままで、

「そうだ。比婆山の女神が起きれば、あの世とこの世が同じになり、生者全てが死人と化すと言われていた。そんな大それた事をなそうとした者を止めたのが、我らが祖の小野篁公だ」

「そうでしたか」

 道斎は善斎より三十歳程若いので、その話は初耳だった。

「篁公はその術者を倒し、術者が集めた闇の力を押さえ込み、その背後にいた建内宿禰を根の堅州国に追い返し、これを封じた。そして姫巫女流を創始し、日本各地に建内宿禰を封じる社を造らせ、自らの寿命が尽きる時、押さえ込んだ闇をその身に宿して旅立たれたと」

 善斎の語る話は、道斎には驚きの連続であった。

「比婆山の女神が起きてしまったようだな」

 善斎は表情を険しくしてそう言うと、

「道斎、手分けして一門に連絡するぞ。全ての力を結集して、女神を止めるのだ」

「はい」

 二人は身を翻し、邸の中に戻った。


 そしてまた、日の光が射し始めた東京の小野宗家の裏庭の黄泉の井戸の前では、剣志郎達が騒然としていた。

「じゃあ、手遅れなんですか、もう?」

 剣志郎は遠野泉進が女神が起きてしまったと言ったので、酷く動揺していた。それは裕貴や御幸や大吾も同じだ。

「騒がしいぞ、お前ら! まだ終わったと決まった訳ではない! 狼狽えるな!」

 泉進が一喝すると、剣志郎達はビクッとして黙った。泉進は彼らを見渡し、

「皆の気を藍ちゃんに送る。今は藍ちゃんだけが頼りなんだ」

 藍だけが頼りと聞き、剣志郎は藍が心配になった。

「お前がそんな事でどうする、竜の子! しっかりせんか!」

 泉進が剣志郎の背中をぴしゃりと叩いた。

「は、はい!」

 剣志郎はハッとして背筋を伸ばした。泉進は裕貴を見て、

「まずはお前からだ。ありったけの気をこいつに注ぎ込め」

 そう言って剣志郎の背中を見る。裕貴は剣志郎が頼りなく思えたが、

「わかりました」

と応じると、身体の気を巡らせ始めた。

「御幸ちゃんはその次だ。で、その次はお前だ、陰陽師」

 泉進は大吾を見て言った。

「は、はい!」

 大吾は何故か敬礼して応えた。

(儂らの気なんぞ高が知れておるが、竜の子の気と融合させれば、それなりの価値を生み出すはずだ)

 泉進は気を高めている裕貴達を見て思った。

(一応声をかけてみたが、あいつは力を貸してくれるだろうか?)

 泉進は遥か岩手県にいるある人物を思い起こした。


 明るくなって来た岩手県の辰野神社の境内で気を高めている若い男がいた。かつて藍達と戦った辰野たつの実人みひとである。

「どうしたの、兄さん? 今日は調子がいいみたいね?」

 その実人に声をかけたのは、その妹の薫である。実人はチラッと薫を見て、

「今日使わねば、もう二度と使う日がないのでな」

と言うと、更に気を高めていった。

(小野藍……。わずかばかりだが、我が力を捧げよう。この未曾有の危機、乗り切ってくれ)

 実人は心の中でそう念じると、高めた気を放出した。

「何か起こっているの?」

 異変が起こっているらしい事を感じる程度しかできない薫は、病み上がりの兄の身を案じて尋ねた。

「お前は知る必要はない」

 実人は眉一つ動かさずに言った。薫はムッとして、

「何よ、その言い草は!?」

と言うと、プイッと顔を背けて、社務所に歩いて行ってしまった。実人はそれをチラッと見て、フッと笑った。

(お前は何も知らなくていいのだ、薫)

 実人は妹を思い、何も言わなかったのだ。

(頼んだぞ、小野藍)

 実人は遠く島根にいる藍に祈った。


 藍はあらゆるものを腐らせながら進む女神の前に篁と共に立ちはだかった。

「お戻りください、始めの女神様!」

 藍がありったけの声で叫ぶ。しかし女神はまるで藍と篁の姿が見えないかのようにそのまま進んで来る。

「きゃ!」

 藍は女神の禍津気が巻き起こす気流に飛ばされそうになり、後退して女神から離れた。

『黄泉の穢れを祓わぬ限り、女神には我らの声は聞こえぬ』

 篁が言った。そして、尚も前進して来る女神を見据える。

『それに加え、あの愚かなる末葉が女神のお怒りを呼んでしもうた。一筋縄ではいかぬぞ、藍よ』

 篁が自分の名を呼んだのを聞き、藍はドキッとした。

(このようにお会いするとは夢にも思わなかった篁公に名を呼ばれるなんて……)

 藍は篁について女神の背丈より遥か上空に飛翔した。

『黄泉の穢れを祓うには、それ相応の気が要る。其方の気のみでは足らぬ』

 篁がそう言った時だった。

「え?」

 藍は遥か彼方から突然飛ばされて来た相当量の気をその身に受けた。

(これは……?)

 その気に覚えがあった。藍の渾身の正拳突きをいとも簡単にかわした辰野実人。

(元気になったんだ)

 そんな相手の回復も喜んでしまう藍を篁は微笑んで見ていた。

(この者の代に姫巫女流がしまいになるのはまさしく定めという事か)

 実人の気を吸収した藍の身体が輝きを増した。すると藍達をまるで無視していた女神がスウッと顔を向ける。

『女神が竜の気を感じたぞ。我らを敵と看做みなしたようだ』

 篁が告げた。藍は篁の言葉に頷いて身を引き締め、女神を見た。女神はゆっくりとではあるが、藍達の方へと動き始めている。

『フォォォォォ……』

 口から禍津気を噴き出し、巫女服をはためかせながら、女神は藍に迫った。

『俺の勝ちだ、宗家の小娘!』

 藍は明斎の叫び声が聞こえた気がした。


 泉進は裕貴と御幸の気を納めても、剣志郎の「器」が満杯にならないのに驚いていた。

(凄まじいな、この男の気の器は……。辰野親子が欲しがった訳だ)

 そして泉進は、その辰野親子の一人の実人が、彼の要請に応じて藍に気を送ったのを感じ取っていた。

(さすが辰野神教だな。正しい使い方をすれば、彼奴も凄腕の修験者しゅげんじゃになれる)

 泉進は実人の存在を心強く思った。そして、

「さあ、陰陽師、お前もありったけの気を竜の子に注ぎ込め」

 泉進は大吾を見て言った。

(この男も、死んだ兄の気を受け継いでいるから、常人の数倍の気を宿しているはず)

 大吾は剣志郎の背後に立ち、両手をかざして、

「行くぞ、竜神! 藍さんを守るため、俺の全てをお前に託すぞ」

「あ、ああ……」

 剣志郎はいちいち藍の事を持ち出す大吾の言動が恥ずかしかったが、今はそれを非難している場合ではないと考え、素直に応じた。

「大吾の奴、藍ちゃんの事が好きなのかな?」

 裕貴が呟いた。すると御幸が彼を半目で見て、

「何よ、裕貴君、気になるの?」

「あ、いや、そんな事ないって。今は御幸が一番気になるよ」

 裕貴は顔を赤らめながら小声で言った。

「バ、バカ……」

 御幸も真っ赤になって嬉しそうに応じた。

「はああ!」

 大吾は自分は例え倒れてもと思いながら、剣志郎に自分の持てる気全てを送り込んだ。

「おお!」

 いちゃついていた裕貴と御幸は、大吾が放った気の量に驚いて目を見張った。

「おう、やるな、陰陽師。ようやく竜の子の器が満たされて来たぞ」

 泉進も大吾の気の量に感心しながら言った。大吾は照れて頭を掻きながら、

「いやあ、それほどでも……」

 泉進はそんな照れる大吾を放置し、遂に自分の気を高め始めた。

「うは、こいつは……」

 裕貴は泉進の気の高まりに更に驚愕した。御幸は言葉を失っている。

「この程度では、まさに焼け石に水であろうが、ないよりはましだ」

 泉進は自分の気を練り、剣志郎の身体に納めた。

「うわ!」

 それまで何も感じていなかった剣志郎であるが、泉進の気の塊を投入されると、さすがに身体にズシンとこたえたようだ。

「よし、竜の子、満タンだ。藍ちゃんに飛ばせ」

 泉進が剣志郎の背中をポンと叩く。剣志郎は戸惑った表情で、

「え、飛ばせって言われましても……」

 まごまごしている剣志郎を見て、泉進は苛つき、

「もう一度告白するつもりで、藍ちゃんの事を思え! そうすれば、おのずと気は飛んで行く!」

と怒鳴った。「もう一度告白する」という言葉に、大吾も裕貴も御幸も一斉に剣志郎を見た。

(へえ、告白したんだ……)

 三人の共通の思いだった。

「藍ィッ!」

 剣志郎は真っ赤になりながら、大声で叫び、藍の無事を祈った。すると彼の身体から皆の気を纏った竜の気が噴き出し、凄まじい勢いで明るくなって来た空へと飛翔し、やがて見えなくなった。


 藍は実人の気を受け、力が増した気はしたが、まだ女神に立ち向かえるとは思えなかった。

『足りぬ気は我が気で補え、藍』

 篁が藍の右肩に手を添えた。途端に藍の身体に篁の気が流れ込む。

(凄い……。篁公が亡くなって千百年余り経つけど、その間中気を高めてらしたのかしら?)

 藍がそう思ってしまうほど、篁の気の量は多かった。

『しかし、あくまでこの気は補うものでしかない。何故なら我が気は闇。お前の真の力とはならぬ』

 篁の謎の言葉に藍はギクッとして彼を見上げた。そして、その言葉で篁が何故姫巫女流を創始したのか理解した。

「そういう事だったのですね、篁様」

 藍は姫巫女流の始まりの全てを感じ取り、涙した。

『情にふける暇はないぞ、藍よ。私の事で泣いてくれるのは嬉しいが、まだ終わってはおらぬ』

 篁は優しい眼差しで藍を見て言った。

『フォォォォォ……』

 女神は禍津気の勢いを増し、藍と篁に迫って来る。

『気を剣に込め、女神に向けて放て』

 篁が言った。藍は黙って頷き、身体の中を巡る気を姫巫女の剣に集約していく。

『放て、藍!』

 篁が叫んだ。藍は二人の女王と共鳴するように気合いを入れ、剣を振り降ろした。剣の先から集約された気が噴き出し、女神に向かう。

『クォォォォ……』

 女神はそれを防ぐために禍津気を集中させて来た。

『まだ足らぬか?』

 篁の予想通り、藍が放った気は禍津気に弾かれてしまった。女神は更に藍に迫って来る。

「どうすれば……?」

 実人から届いた気を全て放出してしまった藍は迫り来る女神を前に困惑していた。その時だった。

『グアオオオ!』

 咆哮ほうこうと共に光り輝く竜の気が飛翔して来た。

「え?」

 藍は剣志郎を感じた。

(剣志郎?)

 そしてその竜の中に泉進と裕貴と御幸、そして大吾の気も感じた。

(みんな……)

 藍の放った気を弾いた女神がのけ反り、竜の気をかわした。弾けないと判断したのだ。それほど竜の気は凄まじかった。竜の気は女神を後退させ、藍に宿った。

「はああ!」

 藍は吸収し切れないと思ったほどだったが、何故かその気に触れると安心した。

(剣志郎の思いが伝わって来る……)

 申し訳ないと思うくらい、剣志郎は藍の身を案じていた。

(ありがとう、剣志郎。そして、裕貴君、御幸、北畠さん、泉進様……)

 藍は彼らの気を噛みしめるようにその身に宿した。

『クウォォォォ……』

 女神が呻くような声を発した。

『女神が竜の気を恐れている。藍、一気に穢れを祓うぞ』

 篁が言った。

「はい、篁様」

 藍はより強く輝き出しながら応じた。

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