第8話 そばにいた者、いる者

 その後、俺たちはまたしばらく紅葉狩りを満喫してから山を下りた。時間はお昼過ぎ。お腹も空いたので、旅館近くのそば屋で昼食を取ることにした。のれんをくぐると、先ほどまで俺と漢の勝負を繰り広げたイケメン、紫苑寺がざるそばを啜っていた。


「なんでアナタがここにいるのよ」

「オレは勝負に負けたら蕎麦も食べられないのかい?」

「ワタシのそばには近づかないでってことよ。蕎麦だけに」

「昔のキミはそんなつまらないダジャレを言わなかっただろ‼ 旦那の影響か!?」

「夫婦はだんだん似てくるものよ」

「ノロケるんじゃない‼」


 別れた後にふたたび顔を合わせるとはなんとも気まずいな。紫苑寺から離れた奥の座敷に方へ行こうとしたら、急にアヤさんに肩を掴まれた。そして彼女はよりにもよって紫苑寺の隣のテーブルに座っていた。


「なんでわざわざこっちに座るんだい? 離れて座ればいいじゃないか?」

「イヤよ、それじゃなんだかワタシがアナタに負けた気がするじゃない。それに—―」

「それに?」

「元仕事のパートナーとの5年ぶりの再会よ? 積もる話もあるわよ」

菖蒲あやめ…」

「まずはそうね、ワタシとトモの馴れ初めから」

「帰って欲しいなら、直接そう言ってくれないか!?」


 ただ紫苑寺に嫌がらせしているようにしか見えないけど、本当は嬉しさの裏返しではないか思う。そんなアヤさんを微笑ましく思いながら席に着いて、俺はきつねそば、アヤさんは天ぷらそばを頼んだ。


「トモ、えび天一つあげるから、油揚げを一枚ちょうだい」

「あぁ、いいよ」

「はい、トモ。あーん」


 アヤさんがえび天を俺の口の前に差し出した。前言撤回、これは紫苑寺に対する単なる嫌がらせかもしれない。だって一度もやったことない『あーん』を、今ここで発動するなんて悪意しか感じない。ほら、もう紫苑寺のせっかくのイケメン顔が悲しみと嫉妬で歪んでるよ。


「ほら早く口を開けて。はい、あーん」

「いや、その紫苑寺が見てるから…」

「関係ないわ。今しないと、一生あーんしないから」

「喜んでいただきます‼ あーん……うん、美味しいです」

「それはよかった。じゃあ次はトモの番だから。あーん」


 アヤさんが口を開けて待っている。なにこれ超ドキドキする。でもアヤさんは恥ずかしいのか、耳まで真っ赤になっている。強がるぐらいならしなければいいのにと思いつつ、餌付けをするようにアヤさんの口に油揚げを入れた。


「ありがと、美味しいわ。なに、アスター。そんなにあーんが羨ましいの?」

「べ、別に‼」

「いいわよ、あーんしてあげる。トモが」

「男に、しかも菖蒲の旦那にあーんしてもらったって何も嬉しくないよ‼」

「冗談よ、トモのあーんはワタシだけ……いえ、ワタシといずれは生まれてくるワタシたちの子どもだけのものだから」


 俺と紫苑寺、あまりの破壊力に撃沈。俺へ向けられたメガトン級のデレは紫苑寺のメンタルHPを根こそぎかっさらっていった。俺は嬉し恥ずかしだけど、紫苑寺には同情するしかない。


 アヤさんもひとしきりからかって気が済んだようで、それからはおとなしく昼食を楽しんだ。一足先に食べ終えた紫苑寺は会計を済ませると、俺たちのテーブルに戻り一万円札を3枚置いた。


「だいぶ遅いけど、ご祝儀だよ。菖蒲がこんなに恥ずかしがったり、楽しそうにしたりするのを初めて見たよ。とも、菖蒲を泣かせたら殺すからな」

「分かってるって。死なないけど」

「じゃあ引き出物代わりに依頼はアナタに譲るわ。受け取りなさい……きら

「ありがたくいただくよ。じゃあお二人さん、末永くお幸せに」


 そう言って紫苑寺は蕎麦屋を後にした。それから俺たちは残りの1泊2日は温泉、料理、景色など互いに心の底から堪能し、温泉旅行は幕を閉じたのだった。ちなみにアヤさんの裸も思う存分堪能したけどな。

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