第四章 白騎士
白騎士は失望した。スルース王フィッツジェラルドがここまで辛抱のできない男だとは思ってはいなかった。恐らく辛抱という概念を忘れてしまっているのだろう、と彼は考える。スルースは武力面、経済面ともに疑いの余地なく世界トップの国だ。そんな国のトップに長々と君臨していると、きっと自分が世界を統一し、先導しているものと思い込んでしまうのだろう。しかし実際、現代世界はそう簡単には作られてはいない。人により後天的に作られた無数の要素が絡み合い、現代世界は多種多様に捻じ曲げられていて然るべきなのだ。それがバランスというものだろう。客観的な王があり、豪族があり、貧民があり、神があるような、そういった時代は当の昔に終了しているだろうに。きっと老人なのだ。老人は新しい話を嫌う。年数を重ねた命が未知を遠ざけようとする様は本当に滑稽だ。彼らは全知全能を無理矢理に自分の世界のみで完結させようとする。死を待つだけの命が生意気に。
「そういうわけで、君にはリベルダートに渡ってもらおうと思っている」そう言うとプラウド王セロフは、茶色のレザーチェアにその背中を十分に埋める。彼の黒い瞳には、白い鎧を纏った大男が映し出されていた。男から魔力を感じ取ることはできない。男との間にある漆黒のデスクにそれは吸い込まれてしまっているのだろうか、と彼は想像する。しかし実際のところそうではない。それを吸い込んでいるのはその男自身だ。彼はそれをよく理解していた。その男の尋常ではないポテンシャルを。
「プラウドからインフィニティを離す、と」白騎士は椅子には座らず、セロフのデスクの前で、鎧の下からその低い声を届ける。彼はセロフの決定に納得がいかなかった。本来インフィニティの規格外の戦闘能力は、武力又は抑止力として使われることが好ましい。そして幾度も戦争という悲劇を乗り越えたことにより、人類が求めるべきは争いではなく調和であるべきだと、世界規模での相互理解を緩やかに進めてきたはずではなかったか。極秘裏によるインフィニティの海外派遣など、気づかれれば武力の行使と取られても仕方のない暴挙だ。なぜここまで行動に粗が出るのだ。白騎士は情けなく思った。
「事の重大さが理解できないかね」セロフは白騎士に思考を促す。
「三体のキャリア、ですか」白騎士は先程セロフがした話を口に出してみせる。確かに異常な事態だ。しかしそれは現時点において問題の域を出てはいない。早々に脅威と認識してしまうのは、セロフ卿のフィッツジェラルド卿に対する不信が招いた不幸だ。彼はそこまで考えて、自分もまたフィッツジェラルド卿を信頼していないことに気がついた。
「弩級の、だ」セロフはそう言うと、瞳の力を抜き、禿げ上がった頭皮を撫でた。後頭部に残った白髪が、太陽の光を反射する。「戦いたいわけじゃないんだ、騎士よ。保険だよ。私は友であるディアブロやリベルダートの民に、万が一にでもその命を落として欲しくはないんだ」
白騎士はセロフの瞳に真摯な輝きを見る。彼は板金製の鎧の下で、決まりが悪そうに眉をひそめる。「ですが、本国にインフィニティが不在というのはどうにも」
「相手がインフィニティなのだ。仕方あるまいよ」セロフは包み込むような笑顔を見せる。それはある程度年齢を重ねた人間にしか作ることのできない種類の柔らかな表情である。「プラウドには優秀な魔法使いが沢山いる。心配は要らない。短い休暇だと思ってくれればいいさ」
白騎士はセロフの笑顔が本当に好きだった。親の影でも見てしまっているのだろうか、といつも彼は思う。彼は両親の顔を知らない。だから彼が育ての親であるセロフに対し本能的にその温もりを求めてしまうのは、きっと人として仕方のない衝動なのだ。兵器としての彼に人の心を残したのはセロフの判断だ。彼はその判断に愛を感じたし、恩を返したいとも思っている。きっとこれはある種の親子の距離感に近いのかもしれない、と彼は考えている。彼は鎧の下でそっとほくそ笑み、目を閉じ、それから自らを省みる。少し神経質になり過ぎているのかもしれない。平和を遠ざけているのは、自分のこの窮屈な考え方なのかもしれない、と。彼は右の手のひらを心臓のある場所に添え、深々と頭を下げる。「良いでしょう。王の御心のままに」白騎士は内心、久方振りにリベルダート王ディアブロ卿と対話できることが嬉しかった。
「顔を見せてくれないか、騎士よ」とセロフは言う。白騎士は主の言葉に従い、その兜を開いた。白騎士の顔を見て、セロフは満足そうに微笑んだ。「美しいな、お前は」
「光栄です」そう言って白騎士は兜を閉めた。
白騎士がリベルダートの中心都市ベイホームに到着したのは、プラウドの空域を出てから二時間半ほどが経った頃だった。しかし空域とは言っても飛行機の類を利用したわけではない。ある程度膨大な魔力を持つ魔法使いは、公共の交通機関の使用に制限が掛かってしまうのだ。世界のありとあらゆる機械は、世界樹の内蔵により、増幅された魔法が使用されているためである。世界樹には人間の発する魔法エネルギーを何倍にも増幅させる効果がある。飛行機や電車、自動車までもがその恩恵により動かされているのだ。軍部ではタクトと呼ばれる指揮棒ほどの大きさの世界樹の枝がそのまま使用されたりもしている。しかし世界樹の恩恵を受けるためには、初めに世界樹に魔力を送り込んでやらなければならない。交通機関の場合は普通、運転手が運転席から内蔵された世界樹へ魔力を送り込み、十分に訓練された操作テクニックで乗り物を動かすのだが、インフィニティやそれに準ずるレベルで多量の魔法エネルギージェネレイターになってしまえば、普段漏れ出している魔力だけで運転手の発する魔力よりも強く、内蔵されている世界樹に響いてしまうことがある。つまりは、機械に誤作動を起こしてしまう可能性がある、ということだ。バグは勿論事故に繋がる。そういうわけで、彼は支給されたタクトを用いたマッハ二の飛行魔法によって、ここまで来たというわけなのである。空を飛ぶことは退屈ではない。雲の上下で景色が変わるし、何より浮世離れしたそのスピードは堪らない。しかし残念ながら風を感じることはできない。飛行中は体が肉塊にならないよう、全身にバリアを張るためである。それがきっと浮世を離れるということの代償なのだろうな、と彼はいつも考えるのだ。
「ちなみにその三体の弩級キャリアというのは、一体どんな姿かたちをしていたのだろう」ソファに深く腰を掛け、リベルダート王ディアブロは白騎士に問う。場所はベイホームに建設された官邸の応接室。窓に掛かるカーテンの向こう側から陽光の気配を感じることはできない。時刻は当に夜だ。しかしどこか遠方より賑やかな音が聞こえてくる。ディアブロはその音の正体を知っている。今日、ベイホームではカーニバルが行われているのだ。
「カールには狼と蛇、ジョルジュには人型だそうです」白騎士はディアブロと机を挟んだ正面のソファに背筋を伸ばして座っていた。両の手は指で組んでいる。
「弩級というのはサイズのことか。それともアンチ魔法エネルギーのジェネレイト量の方だろうか」ディアブロは問う。しかしこれは冗談だ。彼は白騎士がその少し前に話したことについて思考を巡らせていた。彼の視線は二人の間に置かれた低い机の上をただひたすらに滑るばかりだった。
「狼と蛇はサイズ及びアンチ魔法エネルギーともに弩級だったそうです。人型だけはそのまま人の大きさをしていた、と」白騎士は彼の視線の動きに気づきながらも、そう答えた。難しい問題だ。彼にはディアブロが現状を飲み込むのをじっと待つことしかできない。それが完了してやっとスタートラインなのだ。
「そうか」ディアブロは声のトーンを落とす。彼は自分の思考に靄を認めた。争いはもうこりごりだ。しかし今はそれを考える必要がある。これまでのものとは全く規模の違うそれを。「すまない、一服しても構わないか」
「お構いなく」と白騎士は言う。彼はディアブロが応接室にシガーセットと灰皿を持ち込んでいることを確認していた。応接室に備え付けの灰皿はないようだし、煙草の匂いも部屋に染み付いてはいないようだった。ディアブロが事態の規模と深刻さを正確に理解している証拠である。白騎士は彼の心中を察し、気の毒に思う。しかしそれが名手の背負う責任だ。何かを選択して貰わなければ困る。
「失礼するよ」ディアブロは机の端に置いておいたシガーセットを取る。葉巻の先をシガーカッターで切り落とし、専用のライターでそれに火を付けた。彼は目を瞑ってそれを一度だけゆっくりと吸い、やがて灰皿に置いた。蓄えられた黒い口髭の近くで、重たい煙がゆらゆらと浮かんでいた。「なあ騎士よ、君はどう思う」彼は未だその机の色を睨み続けている。
「何がでしょう」白騎士はディアブロが時間の猶予を求めていることを理解した。
ディアブロは頭の中を整理しながら、確実な形を持った思考から順に言葉にしていった。状況が理解できていないわけではない。彼が理解できなかったのは、人一人分の心の有り様だった。「フィッツジェラルドは戦争がしたいのか」彼は一番明確な想いを言葉にする。「奴はなぜ俺たちを傷つける」
白騎士はその鎧の下で心に痛みを覚える。今すぐにでも両手で頭を抱えてしまいたかった。しかし今はチェスの最中だ。駒として、彼がプレイヤーの感情を増幅させるようなことは許されなかった。「フィッツジェラルドは戦争になるとは思っていません。お言葉ですが、リベルダートにそれを危惧するだけの軍事力がないためです。だからあちらは政治的にも軍事的にも力強い圧力を掛けてくる。動機は価値観の相違。そしてあなたたちの考え方は私たちとよく似ている」白騎士はディアブロの代わりにゲームの状況を纏める。それは実にナンセンスな返答であり、ディアブロがそれを求めていないことは彼自身重々承知していた。しかしそれはゲームを進めるうえで重要なことだった。プレイヤーは常にチェス盤の全体像を念頭に置いておかなければならないものだ。
「考え方の違いが、なぜ争いの火種になってしまうのだろう」ディアブロは言葉を変え、白騎士を揺さぶる。
白騎士はディアブロの求めている答えを理解している。また彼はそれについて語ることもできる。しかしまだその時ではない。きっとディアブロも理解して話している。王は理想郷を諦めたくないだけなのだ。しかし今は立場がある。白騎士は駒だ。ディアブロが理想郷を伝えるように、白騎士はゲームの風向きを伝えなければならない。彼はやがて鎧の下で口を開ける。「リベルダートは三年前にスルースから独立したばかりです。かろうじて肉眼では確認できない距離にありますが、それでも十分にスルースの近くに位置しています。目と鼻の先に、睨み合いを続けている国と同じ考え方をする者がいれば、おもしろくはないでしょうね」白騎士は更に続ける。「今フィッツジェラルドが行っているのは掃除です。きっと彼もまた平和を祈っています。それは統一によるものですが」
「これが平和だというのか」ディアブロの右手が強く握られる。「どれだけの同胞の命が奪われたと思う」
殴られるかもしれない、と白騎士は思った。しかしディアブロは席を立たなかった。王はソファの上でその体を僅かに震わすだけだった。白騎士は王の中にマグマを見る。恐らくディアブロは、自らの感情の一部が極端に肥大化していることをよく理解している。情念の理解は名手の資質である。「物事は見る角度によってその色を大きく変えます」白騎士は言う。「今は保留という選択肢も残されています。私の派遣も王セロフがその選択をしたという結果ですから、焦ることはありません」その言葉には嘘が隠されている。それは白騎士の優しさゆえの嘘だった。
「ありがとう」ディアブロは拳をゆっくりと開く。白騎士の嘘も理解している。そのための感謝の言葉である。優しい騎士だ、とディアブロは思った。彼は葉巻の煙を吐き出すときのように、ゆっくりと息を吐いた。「もう寝床は決まっているのか?」彼の視線は白騎士の兜の方へと向かっていた。
「シー・ラトルの三〇三号室です」白騎士は答える。
ディアブロは、国会のすぐ近くにシー・ラトルという高級ホテルがあることを知っていた。「そうか、それは安心だ」彼はソファから立ち上がり、その手で白騎士に退室を促す。「今日はもう休むと良い。長時間の飛行は疲れただろう」
白騎士もまたソファから立ち上がる。鎧が小さく耳障りな音を立てた。ディアブロの言葉どおり、体には相当な疲れが滞留しているように感じられた。「そうさせていただきます」白騎士はディアブロの葉巻の様子を確認する。彼はソファから完全に離れてから、ディアブロに手で着席を促した。「王もゆっくりとされた方が良いです。疲れたでしょう」
ディアブロは息を吐くように笑う。「あぁ、ありがとう。そうさせてもらうよ」彼は再びその巨体をソファに埋め、やがて目を瞑った。「セロフの騎士は優しいな」
「光栄です」白騎士はディアブロに一礼してから振り返り、応接室の扉を開ける。部屋から出てから再び振り返り、再びディアブロの様子を見た。見ると彼は既に葉巻へとその手を伸ばしていた。「ごゆっくり」白騎士は、今度は浅く礼をした。顔を上げると、ディアブロはこちらに向かって葉巻の挟まれた右手をはためかせていた。白騎士は鎧の下で笑顔を浮かべながら、応接室の扉を閉めた。
ディアブロとの面会を済ませた次の日から数えて二日間、白騎士はシー・ラトルの三〇三号室で座禅を組み、サーチ魔法を静かに展開し続けていた。体に疲れが出ないようエネルギージェネレイトの大小を調節しながら、スルース本土の異常を探り続けていた。体が鈍らないように定期的にストレッチをした。食事についてはセロフがホテル側に話を回してくれていたらしく、時間になればホテルスタッフが逐一部屋まで運んで来てくれた。白騎士はホテルの一階でバイキングホールの案内板を発見していたため、自分が特別な待遇を受けていることには気がついていた。食事で我儘を通すのは初めてのことではない。こればかりはどうしようもないのだ。人前に晒せるような顔ではない。しかしそれだけ高等な待遇を受けておきながらも、二日間彼は何も発見することができなかった。アンチ魔法エネルギーの反応を一切感じ取ることができなかったのである。つまり、二日間少なくともスルース本土での弩級キャリアの発生はなかった、ということだ。スルース本土を包み込む魔法エネルギーの流れはとても穏やかで、三日連続での弩級キャリアの発生報告がまるで嘘のようだった。プラウドの偵察部隊は狐にでもつままれたのだろうか、と白騎士は思った。もしそうならば、なんて器用な狐なのだろう、と。
狐の群れが白騎士の網に掛かったのは、その平和な二日間の次の日、昼下がりのことだった。その日も彼は早朝から部屋の隅で座禅を組み、サーチ魔法を展開していた。指の間にはタクトを絡ませている。その日、白騎士が初めにスルース本土の海岸沿いから嗅ぎ取った異変は、アンチ魔法エネルギーの発生ではなく、限りなく純粋で膨大な魔法エネルギーの発生だった。魔力からは人の汚れがまったくもって感じられなかった。エルフの生き残りだろうか、と白騎士は思った。確かにエルフはそのエネルギージェネレイトの仕組み上、実質インフィニティに準ずる存在には当たる。しかしエルフのそれの全ては汚れのない魔法エネルギーであるため、摩擦を発生させないのだ。これだけでは弩級キャリア発生の理由とはなり得ない。白騎士は瞼を開けず、引き続きスルース本土の観察を続けた。結果、汚れはすぐに見つかった。エルフの近くから、間もなくして汚れた二種のエネルギーが発生したのだ。白騎士は意識を集中させる。あれらはインフィニティとサイキッカーだ。しかしその二つのエネルギーの様相は、それぞれが普通のかたちと随分異なっているように思えた。インフィニティのエネルギーはまるで赤子のそれのように澄み渡っていたし、サイキッカーのエネルギーは汚れ過ぎていた。インフィニティではなく、サイキッカーの方がスルースの兵なのだろうか、と白騎士は考えた。彼はサーチ魔法の展開を切り、代わりにその魔力をディアブロが普段発している微弱なエネルギーと絡ませた。エネルギーに意識を乗せ、ベイホームを中心としたリベルダートの市民たちに退避を促す放送を流すように伝えた。自分が一人で片を付ける、という旨を付け加えて。やがてディアブロから了解のメッセージを受け取ると、白騎士はすぐに瞼を開ける。タクトを揺らし、魔法を使う。彼は近距離間の空間跳躍によりホテルの外側にその身を置くと、続いて飛行魔法を発動させ、ベイホーム沿岸へと急行した。想定し得る戦闘と未知を前に、胸が高鳴っているのがわかった。待っていろ。狐の尻尾はすぐそこだ。
シー・ラトルからベイホーム沿岸までは一キロほどしか離れてはおらず、白騎士が到着するまでには十秒と時間を要さなかった。海岸沿いには既にガトリング砲を積んだカーゴトラックが三十台ほど停車されており、その美しい景観を見事なまでに破壊していた。早急な避難が必要だ。放送を待ってはいられない。白騎士は海岸に降り立つ。カーゴトラックの運転席やその周辺には、私服の市民たちがわらわらと集まっている。そして皆が皆、白騎士の天からの降臨に音もなく驚いた。
白騎士はタクトを振るい、自らの喉に魔法を付与する。声が大きくなるだけの簡単な魔法だ。彼の背には美しい青の海があった。「リベルダートの民よ! 聞け!」民兵は皆、白騎士を注視した。砂浜の向こう、アスファルトの上を歩く人間たちがこちらを見ている。そして少なくとも、その声は街中に響き渡っていた。白騎士は証明として、ある程度の魔法エネルギーを放出しながらタクトを高々と振り上げた。「私はプラウドより派遣されたインフィニティである。同胞たちよ。これよりここベイホームにはスルースのインフィニティが降り立つ。戦場がどれだけ広がるのかは私にも想像がつかない。少しでも遠くへと逃げるのだ。私の言葉が信用できない者がいるのならば、ラジオやテレビをつけてみるといい。ディアブロ卿の口からそれが聞けよう」
周囲は一瞬のうちに静まり返ると、やがてざわざわと音を取り戻す。寄せては返す波のようだった。自前のラジオから大音量でディアブロの演説を流す者がいた。トラックで逃げる者もいれば、走って逃げる者もいた。砂浜の向こうにはもう誰もいなかった。それらはすべて、混乱と絶叫の中での出来事だった。
それから五分ほどが経てば、その砂浜ではもう白騎士以外に人影といえるものは確認できなくなっていた。彼は辺りを見回す。ここから海岸沿いに五十メートルほど離れた所に、二台のカーゴトラックが未だ停車されているようだった。しかしそちらから人間の魔力を感じることはない。その事実に安心すると、彼は海の方を見た。広くて青い海だ。水平線がくっきりと見える。海を味わうと、彼は次に空を見上げた。その日は雲ひとつない、綺麗な青空だった。しかし空の青にはどこか過剰とも思える力強さを感じることができた。力強さというのは普通、偽物のみが見せるものだ。彼はその青から底知れない違和感を覚える。非日常的な光景に目が回ってしまったのかもしれない。風と波の音だけが彼の頭の中で響いていた。何かが終わるような気がした。けれど不思議と気分は良かった。
どれくらいの時間、水平線を眺めていたのだろう。白騎士は魔法エネルギーの感知によって我に返る。それはインフィニティを感じさせるゆとりのあるジェネレイトだった。彼は水平線に焦点を合わせ、エネルギーとの距離を測る。近づいて来ている。徐々にエネルギーがこちらへと。エルフがひとつ、サイキッカーがひとつ、そしてインフィニティがひとつ、ではないようだった。接近につれ、インフィニティのエネルギーが四つのそれに分裂する過程を白騎士は目撃する。分かれてしまえば、確かに合計は六人だった。インフィニティを含めた四名が、インフィニティの魔力によって飛行していたのだろうか、と白騎士は考える。しかしどうやらそうではないようだった。エネルギーの動向を見るに、エルフが自身を含めた四名を空中に浮かせ、サイキッカーが子供を一人おぶって水上を滑っているのがわかった。なぜ、インフィニティの魔力を使わないのだろう。俺はなぜ、彼らが三人組だと勘違いしてしまったのだろう。なぜ、インフィニティが分裂したように見えたのだろう。白騎士は混乱する。既存の知識では間に合わないのかもしれない。現状から合理性と論理性が見出せない。問題は知識の方ではなく、認識の方にあるのかもしれない。白騎士の混乱の解消を待たずして、彼らの影が水平線の向こうから昇ってくる。近づく影たちを見据えたまま、鎧の下で白騎士は静かに笑う。狐が終わりを連れてくるのだ。俺は解き放ってもらえるのだろうか、この鎧から。
先に上陸したのは、空中より接近するエルフを中心とした四名の方だった。白騎士はタクトを異空間にしまうと、魔力の漏出を抑制し、彼女らの上陸の一部始終を地上からぼんやりと眺めていた。彼はインフィニティだ。先手を打てば、彼女らの死体をその青い海に沈めてやることも恐らくはできたのだろう。しかし、彼はそうはしなかった。狐の目から見えている景色を確認する必要があると考えたためである。どちらが狐であるのか見据える必要があったのだ。
エルフ以外の三名は地に足をつけたが、彼女だけは低空に浮遊するばかりだった。四名は皆、遠巻きに白騎士の風貌を眺める。やがてエルフだけが白騎士に接近すると、そのまま言葉を紡ぎ始めた。「ねえ、あんたが魔王?」
「魔王」白騎士は呟く。ディアブロがスルースで魔王と呼ばれていることを彼は知っていた。それは利害の不一致であるため仕方のないことだ。しかしいざそれを無垢な少女の口から聞かされると、彼は無念で仕方がなかった。それなりの教育が必要だろうか、と彼は思った。「それはディアブロ卿のことを言っているのか?」
「ディアブロ、だったかな。どうだっけ」彼女は左手の人差し指で顎を触り、自らの記憶を辿る。
「おい、あんた!」叫んだのは、上陸したメンバーの中で最年長と思われる茶髪の男だった。それはこちらを指さしながら、その足を使って歩いて来る。周囲の異様な静けさを確認しながら白騎士に近づき、やがて彼はエルフの後ろでその歩みを止めた。「スルースの人間か?」彼は眉をひそめ、白騎士を見る。二人の身長はちょうど同じくらいだった。
「いいや、私はプラウドの人間だ」と白騎士は答えた。
男は白騎士のその言葉に明らかな動揺を見せたが、その焦りはすぐに違和感へと変換される。「なら何で攻撃しなかった」男は海岸に残った二台のカーゴトラックを指さす。「あのガトリング砲は飾りなのか?」
白騎士は男の指し示す方向を見る。それらに積まれたガトリング砲の砲身は、それがさも当然のことのように、海の方を向いていた。「あれらは元々飾りであるべきものだ」それは俺も同じか、と白騎士は思う。彼は男の方を向いた。「怖かっただろう?」
白騎士の飄々とした返答により、男は彼に対する不信感を強めた。「ああ、撃たれなかったことが」男は目を細める。「不気味だった」
「それはきっと、こちらのせいじゃないさ」白騎士はそう言ってから、その瞳に柔らかく力を込め、集中力を高めた。「ディアブロ卿を殺しに来たんだろう?」彼の強い言葉に男の目が泳ぐ。それは男が土壇場での問答に小慣れていない証拠だった。しかしそれは恥ずべきことではない。嘘は人間を陳腐なものにするだけだ。魂はでき得る限り美しいままの方が良い、と白騎士は思う。いつだって彼は鎧の下より世界を観察しているのだ。
「違う」男はかろうじて嘘を発することができた。
白騎士は男の言葉に耳を貸さなかった。言葉には人の意思が混ざってしまうことを彼はよく理解していた。本来それは美しい場合がほとんどなのだが、と彼は考える。しかし今回の場合は白騎士の立場上、それは厄介なものでしかないのだ。「フィッツジェラルドの命か。それとも自らの意思なのか」彼は問う。男はすぐには答えずに、白騎士の鎧のある一点を注視しながら次の一手を考えていた。面倒だ、と白騎士は思う。スルースの民はそこまで王に対しての忠誠が厚かっただろうか。これもまた知識とは別軌道のようだ。あるいは、これもうねりの内側にある現象なのだろうか。
「王様の命令だよ」状況の停滞を終わらせたのはエルフの声だった。彼女はまるで痺れを切らしたようにそう言った。
白騎士の視界の中、男の顔がみるみるうちに青ざめていく。しかし男が言葉を紡ぐことはない。言霊の発生を恐れているのだろう。しかしもう状況は決定している。後戻りはできない。する必要が無いのだ。「そうか、フィッツジェラルドが」白騎士は呟く。俺の声はきっと男を怖がらせただろう、と白騎士は思った。「それで、お前たちはどうするんだ。殺しに行くのか」
男はエルフの背中に熱い視線をバチバチと飛ばしていた。きっと沈黙を呼び掛けているのだ、と白騎士には察することができる。しかし二人の位置関係上、エルフがそれに気づけるはずがなかった。「悪い人らしいから」彼女は無慈悲に返答を始める。「悪い人は殺さなきゃ。悪いんだもん」
「なるほど」と白騎士は言う。彼は男の表情にうっすらと諦めの色を認めてから、上陸したにもかかわらず、未だこちらへと近付いてこない二人の子供の様子を確認した。インフィニティの少年と、それからシスターの格好をした少女である。彼らはこちらを見つめながら何かを話し合っているようだった。近づいて来ないのは、鎧の大男に恐れをなしているためだろうか。彼らの背後の海に何かが見えた。子供をおぶったサイキッカーが水平線を越え、陸へと十分に近づいて来ているようだった。白騎士は話を続ける。「それはお前たち全員に共有された意思なのか?」
エルフは首を傾げる。「さあ。でも少なくともユウトはそうかな」と彼女は言う。「ていうか、ユウトがそう言ったんだし」
「ユウト、というのは」白騎士は目星をつける。「あちらか?」彼はそう言って、向こうにいる少年の方へと顎を揺らした。
エルフは海の方を見て、少年へと人差し指を向ける。「そう、あれがユウト」
「ユウト」インフィニティの名はユウト。白騎士は少年の名前を言葉と思考を用いて反復させ、決して忘れまいとした。「ならば、彼に直接話を聞くとしようか」彼は魔力を一部開放してから、異空間からタクトを取り出し、手首の僅かなスナップのみで短距離間の空間跳躍魔法を発動させた。一瞬のうちに彼の瞳に映る光景が激変する。今は彼の手の届く距離に少年とシスターがいる。少年は怯えていた。シスターは冷たい目でこちらを眺めていた。「さあ、どうするんだ?」白騎士は圧力の発生をためらわずに言う。
「何がだよ」少年の声は上擦っていた。
「俺は魔王を守護する者だ。お前たちが魔王を殺すようならば、俺はそれが行われる前にお前たちを殺さなければならない」白騎士はそれだけを抑揚のない声で言うと、感情の場所を元に戻した。「俺と戦うのか?」彼はそう言ってタクトを振るい、形状変化の魔法を発動する。発光とともに、彼のタクトは銀色の大剣へと変化した。それは最後の願いの形だった。
「どうするの?」シスターは発現した大剣の刃先に致死的な輝きを認めてから、ユウトにそう尋ねた。「勇者は魔王を倒すものじゃない?」彼女は皮肉な笑みを浮かべる。
白騎士は驚いた。修道女は死が怖くはないのだろうか。もし頭のねじが外れているだけなのだとしたら、今彼女の存在はとても危険なものに当たるのだが。「シスターよ」白騎士は問う。「お前はなぜディアブロ卿の命を狙うのだ」
「おっさんの命なんかいらないわ」シスターは即答する。「私は外に出てみたかっただけよ。だからもうこの場で殺されても別に構わない」彼女は白騎士から目を逸らす。「まあ、もう少しいろいろ見てみたかったけれど」
「そうか」皆が想いを一つにしているわけではないのか、と白騎士は思う。「ならばつるむ人間を考えるべきだな。それで……」白騎士はそのまま少年を問い詰めようと考えていたが、サイキッカーの上陸までは秒読みのようだったので、彼は言葉をそこで区切ることにした。
大量の水しぶきを上げ、やがてサイキッカーもまたリベルダート本土への上陸を完了させる。彼女は砂浜に入った瞬間に、その推力を全くのゼロにした。その不自然な挙動はとても魔法使いにはできることではない。彼女は少年の後ろでぴたりと止まると、おぶっていた幼女を地上へと降ろしてやった。彼女はそれから鎧の男の全身を眺める。口は小さくぽっかりと開かれていた。「ユウト、この方は?」
少年はそれに返答しないだろう、と白騎士は思った。「俺はプラウドの騎士だ」彼は答える。白いワンピースを着たその緑髪のサイキッカーは人形のように美しく、白騎士はできることならば敬語を用いた静かな会話がしたかった。しかし彼の立場上、そういうわけにもいかなかった。まだ圧力を消すわけにはいかない。
「なるほど。プラウドの」彼女は白騎士に優しく微笑みかける。「すると私たちを始末するためにここへ?」
「今ちょうど、始末すべき人間かどうか測っているところだ」と白騎士は答える。「私はお前が一番危険な存在だと思っている」
「あらまあ」サイキッカーは口元を左手で隠し、笑顔を見せる。「でも私には触らないでくださいね? おおよそ死んでしまいますから」
「大した自信だな」白騎士は眉をひそめる。
「ねえねえユウト! タクト貸して! ちょっと使うから!」駄々をこねだしたのはつい先程までサイキッカーの背におぶられていた年端のいかない少女だった。少女は少年の腕にしがみつき、ぴょんぴょんと小動物のように跳ねる。「お願い! お願い!」
少年は不思議そうな顔をする。「どうしたお前。何に使うんだ?」
「海で遊びたいの! 早く早く!」
「ああ」少年は眉をひそめながらもチノパンツのポケットからタクトを取り出し、それを幼女へと譲り渡した。それはあらゆる面においての無知を象徴する行動だった。
「ありがと」幼女は笑顔でそのタクトを受け取ると、瞬間、魔力の全開放とともにその場から姿を消した。しかしそれは人の眼に捉えられないほどのスピードにまで加速したというだけのことであり、本当に消滅したわけではなかった。彼女は移動しただけなのである。騎士の左の脇腹に致死的なまでの重たい蹴りを入れるために。
急激な圧力の変化により、白騎士の肺から口を通して大量の空気が一気に漏れ出る。彼がその呼吸を整え終わる頃には、その体は既にあちらに停車されてある二台のカーゴトラックへと向かって勢いよく吹き飛び始めていた。攻撃をされてしまったか。回る視界の中、彼はそのことに気がついた。
「まだだよ」幼女は白騎士の吹き飛ぶスピードよりも速くカーゴトラックへと疾走し、近い方の車両からガトリング砲をもぎ取ると、その場で低く跳躍した。白騎士の体との衝突により二台のカーゴトラックが彼女の直下からその座標を移動させられれば、彼女の着地する場所は当然地面となる。衝突による耳障りな轟音とともに彼女は地面にその身を降ろすと、瓦礫の中の白騎士に向け、両手で包み込むようにしてガトリング砲を構える。彼女はタクトとともに右手をガトリング砲の中へと強引に突き刺し、魔法エネルギーによってそれを強引に起動させる。ガトリング砲はすぐにそれらしい起動音を上げた。「うわああああああ!」彼女は吠える。魔力を最後の一滴まで体から絞り出すことを覚悟すると、彼女はそのまま白騎士に向かって再び疾走を始める。ガトリング砲の砲身が彼の腹へと突き刺さる。しかしその後においても彼女の走りは続いた。彼女は白騎士とカーゴトラック二台を引き摺ったまま、海岸沿いを疾走し続けた。カーゴトラックはやがてその一方向からの強引な物理的干渉に耐え切れなくなり、二台ともがその途中で火を上げて爆発した。銃弾の全てがゼロ距離で発射され、それらがやがて撃ち尽くされるまで、その疾走は続いた。
ジャンヌはその両膝に両手と上体の体重を乗せ、肩で息をする。汗が止めどなく毛穴から流れ出しているのがわかる。体温はみるみるうちに下がっているようだった。死ぬのかもしれないな、と彼女は思った。しかし彼女はその可能性を断固として否定する。未だ彼女の目的が達成されていないためである。目の前では車両の爆発によって黒くこげついた白の騎士が倒れている。鎧を纏っているということは上位兵の証拠になる。ましてや純白の鎧ともなれば。彼女はプラウドの白騎士という都市伝説を知っていた。それはインフィニティについての言い伝えである。しかしインフィニティそのものだって一般人からすれば伝説のようなもの。つまり、その都市伝説はインフィニティの目撃情報の性格も有しているのかもしれない、ということなのだ。しかしあくまで可能性程度の話なのだが。こいつはインフィニティなのだろうか、とジャンヌは考える。もしそうならば、この首をスルース本土に持ち帰ればきっと相当な金になるだろうが。しかしそうでなくとも魔王抹殺の障害であることに間違いはないのだ。だから何にしろ、ここで倒れるわけにはいかない。何のために彼らに同行したと思っている。彼女の片膝が地面に崩れ落ちる。何のために同行したのだろう、と彼女は考える。何かが間違っている気がする。
「この程度ならば許すことができるぞ」白騎士は横になったまま異空間からタクトを取り出すと、それを一度振るい、鎧の色を全くの純白に戻して見せた。「俺も無駄に歳をとってきたわけじゃない」彼は膝に手を掛け、ゆっくりと立ち上がった。
「はは、流石だ」ジャンヌは無理に笑顔を作る。しかし彼女の心は確かに笑っていた。今の急襲に耐えることができたということは、そのまま彼がインフィニティだという証明になる。これは始末すればかなりの金になる。「やっぱりインフィニティったらこうでなくっちゃね」彼女は何度も体中に力を入れてみる。しかし肝心の体の方は、それに反応できるほどに状態は芳しくはないようだった。
「お前は何を求めているのだ」白騎士は問う。
「金だよ」ジャンヌは騎士の兜を見上げ、即答する。「金は全てを証明してくれる。お前と魔王の死体を王に売って、証明してやる」それはまるで肉食獣のように凶暴な表情だった。
「何を証明するのだろう」白騎士は再び問う。
「何を」ジャンヌは考える。私は金を手に入れたとして、一体何に使うのだろう。何か欲しいものがあっただろうか。何もなかったような気がする。ならばなぜ金が欲しいのだろうか。証明、と騎士は言った。いや、先に言ったのは私だ。それは力の照明だろうか。いや。「幸せの証明だ」
「そうか、幸せの」白騎士は彼女の思考をその年齢を頼りに理解すると、鎧の下で目を閉じ、優しく微笑んだ。「それは一体、誰に証明したいのだろう」
ジャンヌは考える。幸せの証明。そんなもの、母さん以外の人間にしたところで、一体何の意味があるのだろう。彼女は急に頭を使ってしまったがためか、強烈な眩暈に襲われ、力無くその場に倒れ込んだ。
「若いということは罪ではないよ」白騎士は地面で寝息を立てるジャンヌに向かってそう言った。おおよそ聞こえていないだろう、と彼は思った。それは聞こえていなくていいことなのだ。
「おい」それは少年の声だった。「なにやってんだよ」
白騎士はそこにうつ伏せで倒れている幼女の姿を見る。まあ、誤解されても仕方のない構図ではあるだろうな、と彼は思った。白騎士は声のした方、即ち背後を見るためにその体を翻した。「上手いじゃないか、空間跳躍」見ると、インフィニティの少年の右手にはタクトが握られているようだった。そうか、一本ではなかったか。
「そいつに何したんだ」ユウトはタクトをぎりぎりと握りしめる。インフィニティの魔力が、彼の情念に応えるかのようにじわりじわりと漏れ出していた。
白騎士は彼の発するエネルギーをゆっくりと味わう。魔法エネルギーの詳しい情報(白騎士はそれをエネルギーの味と呼ぶ)というのはサーチ魔法ではわからない。サーチ魔法とは、エネルギーの発生とその大きさが漠然とわかるだけのものなのだ。白騎士は個体ごとに表情を変えるエネルギーの味というものを心から愛していた。それゆえに、彼は他者との至近距離での対話をとても好むのだ。しかし今回ばかりは、白騎士はユウトのその特異なエネルギーの味に眉をしかめた。なんだろうかこの情報は。こんな味じゃあまるで。
「なんで黙ってんだよ」ユウトは歯を強く食いしばる。「言えねえのかよ。なあ!」
ユウトから情念とエネルギーが止めどなく溢れ出す。時の経過につれ、白騎士の覚えた違和感が疑惑から確信へと変わっていく。この違和感はもう既に、少年の前に言葉という形で叩き付けても問題のないくらいには濃厚な筋になってしまっている。白騎士は意を決する。間違いない。狐はこいつだ。「少年。ユウトといったな」白騎士は言う。
「ああ?」ユウトはやさぐれた声を出す。彼は白騎士の声が耳障りで仕方がなかった。今すぐここで罪を自覚させ、その瞬間に命を奪ってしまいたかった。なぜ今から殺す人間に自分の名前を再確認させなければいけないのだ。彼は苛立つ。
鎧の下で、白騎士は迷うことなく口を開く。「お前、キャリアだろう」
「は?」ユウトは呆気に取られる。目の前に佇む鎧の男が何を言っているのか、彼にはまるでわからなかった。しかしそこには明らかな絶望の色があった。僅かな思考の末、彼の頭の中で何かがかちりと音を立てて動いた。その疑惑はとても危険なものだった。砂浜に寝転ぶジャンヌの存在が、今の彼にはとても不確かなものに見えた。
「お前の魔法エネルギーからはキャリアの味がする。正確に言えば、キャリアにしか放出できないはずのアンチ魔法エネルギーをお前の魔力から感知することができる、ということだ」白騎士は目の前で呆然と立ち尽くすその少年に対し、容赦なくその疑惑の出どころを説明した。
「キャリア」ユウトは呟く。彼はスルースのあらゆるところで見たキャリアの姿を思い出していた。ゾンビ、狼、蛇、そして影の老婆だ。俺があれらに準ずる存在だと言うのか。彼が強く握り締めていたはずのタクトは、既に地面へと向かって力無くぶらりとうなだれていた。
「キャリアとは主に魔法エネルギーを喰らう存在のことをいう。見たことくらいはあるだろう」白騎士は言う。この少年はきっとキャリアを見たことがあるはずだ。少なくとも三度。彼にはその確信があった。
「よくあることなのか」ユウトは白騎士の鎧のある一点をぼんやりと見つめる。「その、人間が部分的にキャリアと似る、みたいなことは」
「ありえないな」白騎士は即答する。「なぜ魔法を主な生命エネルギーとする種が、それを喰らう存在と溶け合うのだ」
彼の言う通りだ、とユウトは思う。あれらはとても対話ができるような種類の存在ではなかった。どれもこれも皆、人間を見つけた途端に迷うことなく危害を加え始めていた。あれがきっと、魔法を喰う、という本能的衝動なのだろう。しかし俺は奴らのように本能的に動いてはいない。彼はタクトを何度か握り締める。そうだ。俺がキャリアであるわけがないのだ。「自らを律することができるキャリアもいるのか?」そう言ってユウトは白騎士の兜を見上げる。「例えば、俺みたいに」
白騎士はユウトのその真っ直ぐな視線に胸を打たれる。なるほど若い。しかし現実はそれに応じてなかなか上手く形を変えてくれるものではない。いつだって現象はそこにあるだけで、微動だにしないものなのだ。「キャリアは普通、それらすべてが魔力を求め、本能的に動く。例外に当たる個体は未だ確認されてはいない」白騎士は言う。「それを踏まえれば確かに、お前をキャリアと断定することは難しい」
「そうだろ?」ユウトの頬が緩む。「だって見てみろよ。どこがキャリアなんだよ。人間だろ」彼は両手を広げ、自らの無実を証明する。まるでキャリアであることが罪であるかのように。しかし、音を立てて更新された彼の脳の回路は、彼の用意したかりそめの答えを認めようとはしなかった。ユウトは自分がキャリアに準ずる存在であることに薄々、というか、ほぼ確信に近いレベルで気づいてしまっていた。そこにあるのは論理ではなく、恐らく記憶だった。
「記憶を見ても構わないだろうか」と白騎士は言う。「それが一番手っ取り早いが」
「そんなことができるのか?」ユウトはそう言って、左腕に巻かれた不完全なブレスレットを見る。「俺の記憶はこの色のついた大きなビーズたちの中にあるんだ。記憶はコイツの中に入ってあちこちに散らばってる。今俺の中にある記憶は、ここにある三つのビーズの分を超えることはないはず」彼の打ち出す言葉のひとつひとつには、力が込められてはいなかった。ルールの説明をしているに過ぎないためである。
「記憶をそんな物の中に?」白騎士は鎧の下で眉をひそめる。「不可能だな。そんな技術こそ確認されていない」彼はそう断言する。「誰が言ったんだ」
ユウトは様々なことに考えを巡らせようとしたが、しかし話を進ませる必要があったため、彼は白騎士への返答を優先した。「マリーが言った」
「エルフか、サイキッカーか、シスターか、それとも」白騎士は顎を揺らし、自分の背後で倒れている少女を指し示す。「そこの娘か」きっとエルフかサイキッカーだろう、と彼は目途を立てていた。しかし今、世界の在り方はそれ自体が狐の悪戯によって歪んでしまっている。どこまでが振り出しに戻ったのかはわからない。こうなってしまえば、途端にしらみ潰しが一番の安全策となるものだ。
ユウトは騎士のその矛先がマリーへと向いた場合に発生するであろうリスクを適当に考慮する。そして短い考慮の果て、しかし大丈夫だろう、と彼は判断する。彼女もまた、俺と同じく最強の存在なのだ。融通はいくらでも利くだろう、と。「エルフだ」と彼は言う。
「あの子か」狐が二匹になってしまった、と白騎士は思った。彼の脳が新たな情報の氾濫に軋む。やはりその都度に歪んだ世界を定義し直すには、時間も手間もかかってしまうか。このままではきっと、あらゆる側面において無駄が出てしまう。そしてその上、正解に辿り着く可能性も非常に低いものとなってしまうのだろう。白騎士の選択肢はやがて一つに収束する。歪んだ観念を理解するのだ。理解できる立場に自らの身を置くところから始めるべきだろう。それがとても危うい行為であるということは、彼自身よく理解していた。今の俺の立場は駒なのだ、と白騎士は自分に言い聞かせる。与えられた役割は最低限まっとうしたい。ましてやそれが可能だとするのならば。白騎士はタクトを異空間から取り出し、それを自らの右手に埋め込む。痛みはない。それは一体化というれっきとした上級魔法なのだ。タクトの性格が付与された彼の右手は、途端に純白の強い光を放ち始める。「取り敢えずは、今ある分の記憶を見せてみろ」そう言って白騎士は、その光る右手をユウトの頭へと伸ばす。「お前も納得していないんだろう? この世界」
接近する純白の手を前に、ユウトは眠るようにその瞼を閉じた。何もかもが腑に落ちていないのは、彼も確かに同じだった。俺はいったいどこに向かっているのだろう、とユウトは思う。しかし漠然と、何かが終わることだけは理解することができた。ぬめりのある不吉な匂いが、仄かに彼の口内に漂っていた。体が警鐘を鳴らしているのがわかった。それが何に対しての警告なのかを理解する前に、彼の頭を騎士の大きな右手が優しく包み込む。熱が彼の全身を巡り始めた。人肌を感じるのはとても久しいことだった。
白騎士の瞼の裏に様々な映像が流れ込む。それらには全くの既視感を認められず、間違いなく少年の記憶だった。初めに見えたのは大きな爆発だった。深紅の爆発が闇の中で突然に発生し、それがやがて一つの青い星に集約されるというイメージである。一筋の流れ星が、その集約過程においてそれに紛れ込むのが見えた。そこまで確認すると、白騎士は強制的にその観測地点から引き剥がされる。発生した青い星からみるみるうちに離され、やがて星が完全に確認できなくなると、周囲は真っ白な光に包まれる。しばらくそこに佇んでいると、白騎士はその首筋に強い鈍痛を感じ取る。薄れる意識の中で、鈍痛を発生させたものを確認しようと彼は背後にその視線をやった。そこにいたのは黒い長髪の女だった。顔の形こそ整ってはいるが、そこには絶望と致死的な老いが入り混じっていた。彼は力なく地面に倒れ込む。するとそこの地面は溶け、次に気がつけば白騎士は小さな牢屋の中にその身を置いていた。牢屋の錠前はなぜだか内側に付いており、鍵は牢屋の中に落とされていた。しかし白騎士はそこから出たいとは思わなかった。体が動かない。計り知れないほどの怠惰の中に彼はいた。胸の奥には二つの異物が挟まっているように感じた。彼はその二つの異物がとても気になった。きっとこれが牢屋のイメージの原因なのだろう、と彼は直感的に理解する。その理解が感覚によって行われるということはつまり、少年の記憶の中に理解があらかじめ内包されていた、ということだ。しかし、それからイメージが強制的に変更されることはないようだった。なるほどここが断絶の地点か、と白騎士は理解する。恐らくここまでが少年のルールに則った場合の記憶のすべてなのだろう、と。しかし勿論、白騎士はそれだけでは納得しない。彼は両手を鋭く尖らせ、それぞれを胸の中の異物に向かって突き刺した。痛みはなかった。それは覚悟さえあれば何の代償をも必要としない、非常に容易いアクションだった。彼は牢屋の中で修行僧のようにその瞼を閉じる。白騎士の中には二つのイメージが同時に流れ込んでいた。大量の情報に脳が揺れる。しかしそれは確かに理解することのできる類のものだった。強い一本の芯が通った、酷く確かな記憶だった。やがて白騎士は世界の仕組みを理解する。彼は牢屋の中で静かに微笑む。そうか、これはひとつの始まりのための終わりなのだ、と。
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