第三章   信じるということ

「それで気がついたらこんな感じに」ユウトはそう言って、左腕に巻かれたブレスレットを運転席のクリスに向かって見せつける。カール南部からジョルジュにかけての道はコンクリートで隈なく舗装されており、クリスの居住地であるワイズ周辺の道とは質という意味合いにおいてまさに月とすっぽんであった。車体から揺れを感じることはなく、進む道にも不安がない。周りには他の車も多数見受けられ、皆が皆、どこかへ向かうために同じ道を走っている。

 クリスはハンドルを握ったまま、目線を軽くユウトのブレスレットの方へと流してやった。「ふうん、確かに二色だ」確認を終えると、再び彼は運転に集中する。「それで、記憶は戻ったのか?」

 ユウトは左腕を引っ込め、ブレスレットを眺める。ブレスレットにはクリスの言ったとおり、他の透明なビーズよりひと回り大きな黒と緑の二つのビーズが確認することができる。「昨日の出来事、途中から何も覚えてないんですよね」

「ん? すると今回は収穫無しか?」

「俺もそういう結果になるのが普通だと思うんです。でも、黒の回収のときと同じ短いフラッシュバックみたいなのがなぜだか焼き付いている気がして」

「また超新星爆発か?」クリスは少し笑いながら言うと、車のハンドルを慣れた手付きで回す。

「いや」ユウトは緑のビーズを注視する。緑に底は認められず、その性格は黒のビーズととても似通っているように思えた。ビーズの中に宇宙でも存在しているかのような、理解の外にある深さがある。ユウトにはそう思えてならなかった。「こう、誰かに後頭部を鈍器でぶん殴られるようなイメージで」

「ぶん殴られたぁ? それは穏やかじゃないな」クリスの声は所々裏返る。

「ええ。あっ、でも痛みそのものは取り除かれたような感覚があるんです。昨日車の中で言ってた後頭部の痛み。あれってこう、後頭部に痛みを発生させる塊みたいなのがあって、それがたまに強い痛みを引き起こすって感じで起こってたんです。でも気がついたらその塊自体がなくなっていて」ユウトは身振り手振りを交えながら、イメージを適当に伝えようとする。すべてを共有しようとは思っていない。ただ、痛みが消えたという証明として受け取ってくれればそれで十分だった。

「そうか、よかったよかった。痛みはあるよりない方が良い」クリスは運転に集中しながら、形にならない笑みを見せる。「ただ、俺はさっき言ってたフラッシュバックが気になるな」クリスは話を一つ前に戻す。彼はその話題に集中したかった。

「俺がインフィニティだから」ユウトは視界からブレスレットを退かす。

「ああ。インフィニティは兵器として使うのが普通だ。しかし記憶を消して、尚且つそれを手放す意味は?」車内に沈黙が流れる。

 ユウトはクリスの目の中に霧を見る。「事故らないでくださいよ」

「わかってるよ」クリスの瞳に光が戻る。

「何か良くないことに俺が使われていたのかもしれない。そういうことですよね」

「それはそうなんだけど」クリスは自分の思考に穴がないか繰り返し確認する。「なんか処理が中途半端だろ」

「中途半端?」

「口封じをするのなら」クリスは左手をハンドルから離すと、銃の形に指を折り曲げ、その銃身をユウトの頭へと向けた。「殺すけどね、俺なら」

「そうか、わざわざ投棄する理由がない」

 クリスはハンドルに左手を戻す。「どうせ記憶を消すのなら、自分の力として再利用することもできる。投棄がどうしてもわからない」

 ユウトは顎に手を添え、投棄の理由について考える。強大な力を野放しにする意味は?

「まあ結局、それもビーズが集まらないとわからないことなのかもしれないけど」クリスはその推測の先に無限の徒労を感じ、ユウトの思考を妨害する。「星の始まりと鈍器での殴打、か」クリスは鼻から深く息を吐く。「一体何を見てきたんだろうな、お前は」

 車内に短く深い沈黙が生まれた。

「なあ」クリスは沼のような沈黙の中に言葉を落とす。「お前の過去について、一度あのエルフと話してみてくれないか」クリスは頭を荷台の方向へとくいっと揺らし、その要求を示唆する。「機会は作ってやる。先手を打ちたい」

 先手。「何の?」

「それを知りたいんだよ」クリスは赤信号を前にブレーキを踏み込む。

 

「ごきげんよぉう」クリスは荷台に掛けられたシートを雑に捲ると、その奥にある人口の洞窟へと声を送り込む。

「あれ、もう着いたの?」真っ先に返ってきたのはマリーの声だった。

 ユウトもまたクリスの脇から洞窟内を覗き込む。見ると、その中では一筋の弱い光が闇を掻き消しており、彼女らがトランプ遊びをしていることを明らかにしていた。「車が止まったの気づかなかったのか?」とユウトは言う。

「いやあ、遊んでたから。荷物入れる?」マリーは自分の手札を右手に集めると、左手の人差し指をくるりと回し、荷台に詰め込まれている荷物を僅かに浮遊させた。不自然な光は、どうやらその指から発生しているようだった。

「いや、まだいい」クリスは答える。「その前にショッピングだ」

「何か買うの?」荷物は彼女の魔法から解き放たれ、その浮遊を中断する。

「女物の服を買う」そう言うと、クリスはわざとらしくポンと手を打つ。「あぁ、エルフちゃんは着替える必要はないようだから、街を散策してみるといい」

「私だけ除け者ってわけ?」彼女の瞳が鋭くクリスを突き刺す。彼女は魔法の使用による浮遊により、二人の少女を置き去りにいち早く荷台から抜け出した。「私も行くからね」

「お前だけとは言ってないよ」クリスはユウトの肩に手を乗せる。「こいつと一緒に除け者だ」

 ユウトはその目を丸くする。クリスの言葉そのものに驚いたわけではない(わざわざ服を選ぶほど彼に服装へのこだわりはない。記憶とともに自分の嗜好をも忘れただけなのかもしれないが)。唐突なボディタッチに対して脊髄反射的に驚いただけである。

 マリーは怪訝な表情のまま、黒の瞳を上へと動かす。「まあ、一人じゃないならいいかな。確かに、自分だけ着替えられないことが口惜しく思うかもしれないし」

「待ってください」クララは裏返しのまま手札を床に置くと、洞窟の入口へと擦り寄る。彼女の服装は昨日のそれととても近く、デニムパンツがカーゴパンツになった程度の違いしか見受けられない。つまり胸元が少々無防備なままのである。「それってつまり、デートってことですよね。二人きりは駄目です。私もそちらに同行します」真摯な眼差しで話す彼女をよそに、ジャンヌは手札を左手に纏め、開封されているポテトチップスの袋に右手を伸ばした。

 三人だけのときは一体どんな話をしていたのだろう。ユウトはそれがとても気になった。

「嬢ちゃんは駄目だ」クリスは言う。「あんたとそこの穀潰しは俺と一緒に服を選ぶんだ。後で文句を言われちゃあ堪らない。女子供はそういうことを平気でする」

 ジャンヌは指に付着したポテトチップスの塩を舐めると、クリスから譲り受けたジャージで指に付いた唾液を拭き取る。「穀潰し」言葉を吐き出し、その言葉の意味を確認する。

「私をその程度の女だとお思いですか」クララは胸に手を添え、訴える。

 クリスはぽりぽりと頭を掻く。思わぬところで事態が滞った。彼は突破口を探す。「あんたがどの程度の女かは知らないよ。ひと言多かったのなら謝る」

「弁解は不要です。同行を許してください」

 ユウトは彼女の言動を不思議に思う。彼女の自分への好意を考慮に入れたとしても、それはここまで食い下がらなければならない案件なのだろうか。

「服は気に入ったものを着るべきだ」クリスの言葉から軸が抜け落ちる。

 クララは彼の異変を敏感に感じ取ると、目を細め、クリスの底を覗く。「なるほどそういうことですか」彼女は顎に手を添え、目を閉じる。「無駄だとは思いますが」やがて彼女はそう呟くと、息を細く吐いた。緩やかに瞼が開き、柔らかなグリーンの瞳が露わになる。「分かりました。可愛い服をお願いしますね」彼女は即席の笑顔を作る。

 よかった。クリスは胸を撫で下ろす。「ああ、じっくり選んでくれ。金は気にしてくれなくて構わない」頬の筋肉に緊張を感じながら、言葉を吐き出す。彼は弱く滲んだ視界の中、闇に腰を据えるジャンヌの姿を捉える。

「ジャンヌちゃんも綺麗なお洋服、クリスさんに買ってもらいましょうね」クララはジャンヌの方へとその視線を動かす。

 ジャンヌはクララの笑顔を確認すると、クリスの方へと視線を移した。「私は今ある服で大丈夫です。今のこれだって十分過ぎるくらいですし」彼女はジャージの襟元に指を掛ける。

 昨晩の出来事で何度も聞いていたはずの彼女の敬語ではあったが、依然としてそれはユウトの耳に違和感を残した。

 ジャンヌの未成熟な心を前に、クリスは精神的なゆとりを感じる。それと同時に、クララとの会話がどれだけ自分の精神を疲弊させるものだったのかを彼は理解した。「遠慮は要らないぞガキんちょ。その今ある服ってのがもうないんだ」

 ジャンヌは顔をしかめる。「いや、それならずっとこれでもいいですし」

「不潔な奴は連れていかない」クリスは言う。「俺は潔癖症なんだ」

 ジャンヌは呆気に取られたように口を薄く開くと、そのまま即座に考えを纏め、やがて口を尖らせる。「じゃあ、買う」

「お前が買うわけじゃない」クリスはしばらくジャンヌの表情の変化を待ち構えたが、彼女が自分の行方を見失ってしまったかのような不安を含んだ混乱の表情を見せたため、彼はそのまま言葉を続けた。「人に物を買ってもらうときは?」

 求められているものは当然の礼儀か。ジャンヌは溜め息を吐く。「お願いします」彼女の細く開かれた目がクリスを見据えることはなかった。

「よし」クリスは満足そうに頷くと、タクトをポケットから取り出し、それを手首のスナップにより高速で振るう。「それじゃあ各自、動こうか」荷台から黒のキャリーケースがふわふわとその姿を現したかと思えば、それはやがてクリスの持つタクトの先でその移動を止めた。ユウトの記憶が正しければ、それは彼の衣服が大量に収納されたバッグのはずだった。

「動かすんですか? 荷物」ユウトもまたポケットに手を突っ込み、タクトを取り出す準備をする。

「いや、コインランドリーがあれば洗おうと思って」クリスはそう言うと、何かを思い出したように黒目を明後日の方向へと動かす。「あぁ、デート代」彼は尻ポケットから長財布を取り出す。タクトを煙草のように指の間で挟むと、残った指で財布の中から適当に紙幣を三枚取り出し、ユウトへとそれを差し出した。「ほら、このくらいあれば大丈夫だろ」

「こんなに要らないですよ」ユウトは胸の前で両の手のひらを見せる。

「いいからほら。カッコいい服買っといてやるから」三枚の紙幣が彼の手の中で吹き流しのようにひらひらと揺れる。「頼んだぞ」

 ユウトは彼の瞳に何かの力を認める。クリスさんは何かを伝えようとしている。そしてそれが俺に伝わっていると思っているのか。ユウトは彼と過去に交わした会話を思い出す。しかし結局、ユウトは彼が自分に何を望んでいるのかを理解することはできなかった。ユウトはいまひとつ腑に落ちないままに、自分の価値と不釣り合いと思われるその三枚の紙幣を受け取る。紙幣に印刷された偉人の瞳が、混乱にするユウトの思考に生ぬるい刺激を与えた。

「全部使ってくれても構わないよ」とクリスは言う。

「ほとんどそのまま返しますよ」

「好きにするといいさ」クリスはタクトを握り直すと、再び荷台に視線を戻す。「ほら、いつまでも座ってないで」彼は財布をポケットにしまうと、その手をはらはらと揺らし、彼女らに外出を指示する。

「ええ」クララは荷台からこちらへとぴょんと跳び出した。「ばにらはどうしましょうか。お店に入るのでしょう?」彼女はクリスの顔を見上げる。「殺してしまいますよ?」

 クリスは薄く口を開くと、顎に左手を持っていく。確かにその問題に対しての方策の検討をすっかり忘れていた。「直接人に触れなければ、そいつが暴れ出すことはないんだろう?」

「ええ、契機は肌と肌の接触です。暴れ出します。無差別に」

 クリスは荷台の中に残されたジャンヌの姿をその目に映す。無差別ならば、なぜ彼女は生きているのだろう。移動中、僅かでも肌の接触がなかったとでも言うのか。クリスは考える。そして自分がジャンヌを無意識のうちに危険な空間に置いていたことを思い、寒気を感じる。もしも最悪の事態になっていたのならば……。イザベラに殺されていても文句は言えなかっただろうな、とクリスは思った。

 クララはクリスの視線を素早く追うと、彼の疑問の正体を理解する。「ばにらは処女の方には優しいんですよ?」

「ちょっとクララさん!」ジャンヌは薄い闇の中で顔を赤らめる。

 ユウトは居心地の悪さを感じながらも、その僅かな間、ジャンヌから視線を外すことができなかった。やがてジャンヌは彼の不自然な視線に気がつき、結果、必然的にお互いに目が合う。「変態!」ジャンヌは嫌悪感を露わにすると、ユウトに罵声を浴びせる。彼女は顔の紅潮を隠すために膝を抱えた。

「ごめん!」ユウトは目を逸らすと瞼を強く閉じ、脳の冷却を意図的に促進させようとする。しかしそれはあまり上手くはいかなかった。性的興奮は色味こそ抜け落ちるも、その軸となる反射的な衝動そのものがすぐに消滅することはなかった。最低だ、とユウトは思った。弁解の余地はない。

「まるで一角獣だな」クリスは呟く。「それじゃあ魔法でお前の全身に薄い透明な膜を張る」彼はクララの視界の中でタクトを雑に振る。「それで十分か?」

「私の触覚を外の刺激から守るのですね」クララはクリスの瞳に輝きを認める。「ええ、それで十分です。できますか?」

 クリスは手首のスナップを利かせ、手先だけでタクトを振るう。「ユウト、嬢ちゃんに触ってみてくれ」彼はそう言うと顎を動かし、ユウトに行動を指示する。

「はあ」ユウトは未だ完全なる平穏には至らない精神状態のまま、顔を上げ、クリスの指示のままにクララへと接近する。言われたものの、しかし一体、どこをどう触ればいいのだ。半端に伸ばした彼の両手はその行き先を失い、彼女の前でその動きを止める。指示を仰ぐようにクララの顔を見ると、彼女はにっこりと笑顔をくれた。

 クララはユウトの汗ばんだ右手を両手で包み込んだ。「ええ、感じません。温もりも、汗も」

「ばにらは?」クリスは問い掛ける。彼女にしか確認することのできない超感覚的な存在を、まるで肯定するかのように。

「反応しません。大人しくしていますわ」クララはユウトから視線を僅かに外す。

「そうか、よかった」クリスは安堵する。「ならこれで問題は全て解決だ」そう言うと、次に彼はその視線を荷台の方へと向けた。そこには未だ膝を抱えるジャンヌの姿があった。「時間を無駄にするなよ」

 ジャンヌはクリスの言葉を聞くと、それをほとんど咀嚼することなく反射的に膝から頭を上げた。彼女はスタントマンさながらのフットワークで首尾よく荷台から抜け出す。「いけない。また無意味な罪を重ねるところだった」彼女は自分に言い聞かせるようにそう呟くと、クリスの右腕にしがみ付く。「ありがとう、クリスさん」彼女は目を瞑り、彼の腕に頬を寄せる。

 クリスは露骨に嫌悪感を表情に浮かべると、彼女の付属した右腕をできるだけ体から遠ざけようとする。「よし、じゃあ行くか」彼は拘束された右腕から左手によってタクトを救い出すと、それを振るい、魔法によって荷台のシートを下ろす。彼はその後ユウトの方を一度見てから、そのまま彼に背を向けた。「それじゃあデート、楽しんでくれ」彼はタクトを指の間で挟むと後ろ手に手を振り、次第にユウトから離れていった。クララは一度だけユウトとマリーを見て、それからは二度と振り返らなかった。ジャンヌは一度も振り返らなかった。

 段々と三人の後ろ姿が遠くなる。ホテルの広い駐車場を、地味な色の軽自動車がぽつぽつと埋めているのが見えた。ホテル自体は小さい建物ではない。だから彼は、その大きな建物と車の数の落差に少しだけ違和感を覚えた。空には小さな雲がいくつか浮かんでいた。時刻はきっと十五時くらいだろう。カーゴトラックに備え付けられていたラジオプレーヤーが、ちょうどその少し前の時刻を指し示していたことを彼は偶然に憶えていた。

「私たちも行こっか」マリーは彼の後ろから言葉を届ける。

 手を取ってはくれないのだろうか。ユウトはぼんやりとそう思った。がらんと開けた駐車場の中で、彼は誰かの温もりを感じたくなった。「ああ」ユウトはそれだけ言うと、彼らの幻影を振り払うようにその身を翻した。

「なんで連れて行ってくれないんだろうね」マリーは未だ幻影を見ていた。「私だけならまだしも、ユウトは連れて行ってあげてよくない?」

 彼女のらしくない言動が、不思議とユウトの胸をざわつかせる。他人の心情を気にするようなタマだったか、こいつは。「そうしたらお前が寂しいだろ」彼は適当な言葉を返した。

「寂しい」マリーは呟く。その瞳は彼らの幻影以外の何かを見つめていた。「そうか。確かに寂しいな」彼女は何かを思い出したかのようにそう言う。

 彼女は時折そんな目をするのだ。空気の中に存在する何かを読み取るような、そんな目である。ユウトはそれの正体が前々から気になっていた。そして彼女のその瞳を機に、彼は抱えていた疑問そのものを思い出す。彼女は何を知っているのか。自分の過去について彼女が全てを伝えてくれるのならば、こんな面倒なビーズ集めをしなくても済むのではないか、と。そしてその疑問は車内で交わしたクリスとの会話に繋がり、やがてはそれが彼から受け取ったあの正体不明な期待の眼差しの正体へと繋がった。彼はそれを求めていたのだ。そうだ。自分は過去に分け入らなければいけない。兵器としての過去を探らなければいけない。「なあ、マリー」ユウトは強引に話を切り替える。きっとこの反則行為についてはそれだけの摩擦が伴うものなのだ。ユウトは不自然さに腹を括る。「俺の過去について、教えてくれないか」

 マリーは思考を完了させるまでの間に合わせをするかのように、表情のない顔をユウトへと向けた。やがて彼女は困ったような表情を見せる。「ビーズの意味がなくなっちゃうよ。それに私がそれをしちゃうと、終わっちゃうから」

「何が終わるんだ?」ユウトの視線が彼女の目を突き刺す。

「あぁ駄目だよ。ほんとに駄目だから」彼女は彼から目を逸らし、自分の顔の前で両手をはらはらと靡かせる。「私がユウトの近くにいること自体、ほんとはもう反則なんだからね」

 反則。彼はその言葉から何も連想することができなかった。「クリスさんが気にしてるんだ。インフィニティとしての、兵器としての俺がどう使われていたか」

 マリーは不思議そうな顔をすると、やがて彼の思考の源泉を理解し、それに対しての言葉を紡ぎ出す。「大丈夫だよ。ユウトは一度も兵器として使われてない。そういう物騒なことは何もないから」

「一度もないのか?」

「うん。ユウトの力は誰にも発見されなかったし、利用されたこともないよ」マリーは視線を少しユウトから逸らす。「自分で利用したこともなかったしね」 

「そうか」ユウトは言葉を先走らせ、思考を後追いさせる。「それならクリスさんにはそれだけ伝えておこう。どうせそれ以上は話せないんだろう?」

「そうだね。このくらいかな」マリーは申し訳なさそうに笑う。「ごめんね」

「構わないよ。俺も何かの終わりを見るのは嫌だ」ユウトは彼女と自分の間に挟まる障害の存在をシルエットとして把握する。デート中に話すことがなくなってしまったな、とユウトは思った。観光を楽しむことだけに力を注ぐのはいささか楽過ぎる気がしてならなかった。彼は少し申し訳ない気持ちになっていた。何に対しての感情なのかはわからなかった。しかしその感情は古い水路のように緩やかに、彼の中で永遠にも似た時の流れを刻んでいるようだった。


 州はジョルジュ、街はゼイヴン。クリスがカーゴトラックを走らせている最中、ユウトは今日の目的地を彼からそう聞かされていた。同時に都会とも聞かされていたため、彼は巨大な建造物や大量の人間が行き来する色味のない街並みを想像し、内心身構えていた。しかし実際、建物は彼の眺望を阻害するほどに高くはなかったし、平日の昼下がりということもあってだろうが、人の行き来も実に少なかった。人工的な匂いさえするもの、緑の木がアスファルトの隣で優雅にその新緑を輝かせていた。遠くに目をやると橋が見える。大きな橋だ。きっとあそこにはそれに見合うだけの大きな川が流れているのだろう、と彼は思った。空気も新鮮なもので、汚れを感じることはなかった。川が良い空気を運んで来てくれているのかもしれない。天気も変わらず良かった。クリスさんはこういう街に住むべきだろう、と彼は思った。クリスの住むワイズは空気こそ良いが、それ以外に何があるかと問われると、実際、何もないのだ。空気だって、土臭さでその良さを半減させていたような気だってするくらいだ。中心街からも遠く、買い出しも面倒そうだった。ユウトはゼイヴンの空気を肺いっぱいに吸い込み、やがて吐いた。街の外見に、彼はひとまずこれ以上ない満足感を得ていた。そしてそれから彼は、ワイズが新鮮な野菜を強みとしていたことを思い出した。しかしやはりそれは、彼にとって魅力とはならなかった。

「何か食べようか」街を歩きながら、ユウトは跳ねるような声でマリーにそう問い掛けた。

「あぁ、ユウトの好きな物でいいよ」とマリーは言う。「エルフは口に物を入れても、その味が分からないから」

「分からないのか?」ユウトは真新しい記憶の中に、不自然な取っ掛かりを感じる。

「うん。だからユウトの好きなお店に入っていいよ?」

「ああ」ユウトは即興の言葉で脳の活動を保留しようと考えたが、その短い返答から伸びた複数の尾ひれは彼の思考を掻き混ぜ、そして塗り替えていった。自分の不器用さにうんざりしながら、彼は足を止め、その視線でゆっくりと街角をなぞった。「じゃあ、あの店にしようか」彼の持ち上げた右手の人差し指は、安全を絵に描いたようなその店の方向へと吸い込まれていく。店を選ぶにあたって、料理の種類、料金設定、店の場所、彼はひとまずそれらを形として考慮には入れた。しかしやはり知らない街である。安全というブランドが最も魅力的であったし、あまり街の奥にも行きたくはなかった。

 マリーは彼の人差し指の指し示す方向へと目を向ける。表情が曇った。「ファミレス? もっと高そうなトコのがいいんじゃない? おじさんのお金なんだしさ」彼女は口元に左手を添え、何かを企むかのように目を細めた。

「馬鹿、クリスさんのお金だからだよ」ユウトはそう言うとマリーを背に置き去り、そのファミレスへ向かって歩き出した。それはクリスの家のテレビで何度も宣伝文句を並べ連ねていた店だった。料理が旨そうだということは当の昔に知っていた。彼は振り返らなかった。彼女が付いて来てくれるかどうかということについては、特に疑問点として彼の思考に上ることはなかった。彼女は結局、付いて来てくれるのだ。

 

 想定外にファミレス内はすし詰め状態だった。店の入り口の前には三十人超の人が行列を作っており、窓から店の中を覗くと、その行列は店の中にまで続いているようだった。まるでテーマパークのようだった。テレビショーの最中に何度もコマーシャルを流せるような飲食店ともなるとこれほどの人気になるものなのか、とユウトは思った。別の店にしようかとも考えたが、その思考は短時間での収束を見せなかったため、彼は取り敢えずその列の最後尾で足を止めた。店の入り口を示唆するバリアフリーのスロープまでにもなかなか骨太な距離があった。

 マリーは彼の後ろの領空を陣取る。「違うお店にしない? 時間かかりそうだし、これじゃあお店に入れてもゆっくりできないでしょ」マリーは深く考えることなく、行列に対しての感想を述べる。

「他の店にしようか」彼の落としたその言葉は決定事項ではなく、その保留である。彼はそう言った後、行列の進み具合と自分の後に並んだ行列に目をやり、店の中を窓越しで確認して、それから思考の海へとその身を沈めていった。

「他の店だってどこも開いてないよ」

 若い男の声がユウトの意識をサルベージする。今話したのは誰だろう。

「本当? どこもこんな感じなの?」マリーは若い男の声に反応する。

 ユウトは彼女の存在を確認し、それから彼女の視線の先を確認する。そこにはショートヘアーの青年がいた。ユウトは彼の顔を見上げる。声の主はどうやら自分の後ろに並んでいる彼だったらしい。なんて優しい人なんだ、とユウトは思った。その行為は善意でしか成り立たないように思えた。

 青年は彼女の返答に少し戸惑うような表情を見せてから、すぐに彼女の誤解の正体を突き止める。「ああごめん、そういう意味じゃないよ妖精ちゃん。店を開けてないってことだ。チェーン店はここだけだからね」彼は浮遊する彼女を見上げて言う。

 マリーは彼の答えを受け取ると、明後日の方角を見つめながら彼の言葉を脳内で何度か回し、適当なレベルでその思考を止めた。彼女は目を細める。「みんなサボってるの?」

「定休日が重なってしまっている、とかですか?」ユウトは彼女の言葉を遮り、代わりに青年の言葉に応対する。

 青年は視線をユウトの方へ向けると、右手で自分の顎のラインをなぞり、何かを考えてから(というか考えたまま)、その口を開き始めた。「ああ、定休日はきっと重ならないように設定してるよ。阿呆に商売はできない」

「じゃあ何があったの?」マリーは尋ねる。相手の反応を気に留めない純粋な返答である。ユウトにはそれが上手くできない。その性格は記憶とは別の場所で作用しているもののように思える。

「ええと」青年は右手を顎から首の後ろへ移すと、自分の前後で行列を作る人々の様子を、目を細め、隈なくチェックし始める。ひと通りそれが完了すると、彼はユウトの身長に合わせるために、膝を軽く折り、背中を丸める。やがて口元に左手が添えられ、次に言葉が発せられた。「君たち余所者かい? 遠くから?」

 ユウトは自分の発する言葉に問題がないか調べ、やがて解き放ってやった。「ええ、バージンから」マリーが話を聞こうとやや高度を落としたのが横目に見えた。

 青年も横目でマリーの下降を捉える。「冗談だろ。保護者は?」

「今は別行動です」とユウトは答える。

「そうか。保護者がいるのならいいんだ」と青年は言う。

「それで、なんでここ以外のお店がどこも開いてないのかな」マリーは会話の脱線を拒んだ。

「ああ」青年はその体制のまま、今度は黒目の移動だけで大雑把に周りの人間を見回し、それから話した。「みんなお祈りしてるんだよ」

 マリーは彼の言葉を一度すとんと体の中に落とすと、異物の混入を感じ、やがてそれを吐き出した。「なんで?」

 ユウトの疑問も彼女のものと全く同じだったため、彼は口を噤み、ただただ青年が次に発するであろう言葉に集中力を高めていた。

「そりゃあ」青年の目が他所を向く。「神が死んだ、から」


 ユウトは空を浮遊していた。それはマリーの魔法による浮遊である。永遠を思わせる青い空と文明の結晶としての街の間、彼と彼女はそこに身を置いていた。見下ろす街の中には、視野の開放によって、大きな橋の下に流れる太い川を認めることができた。川は空と同じ色をしており、街の中にも永遠が流れていることがわかる。

 マリーは青年の話を全て聞き終わると、すぐに左手の人差し指を空中で一周させ、ユウトの体を空へと上昇させた。勿論、強制的に列からは除かれた。ユウトは青い空の中で弱い吐き気のような感覚を覚える。空腹である。

「なあ、本当に行くのか?」ユウトは腹を押さえながらそう言った。高所に対する恐怖はあまり感じなかった。カラブスの件で慣れてしまったのかもしれない。もしくは彼女に対する信頼のためかもしれない。兎にも角にも、その遠すぎる地面は最早絵画に等しかった。

「へへ、ごめんね。ちょっと気になるんだ」彼女は申し訳なさそうに笑顔を作る。「ええっと、こっちって言ってたよね」彼女はある方向に人差し指を伸ばすと、やがて軽いジョギングくらいの速度で移動を始めた。進行方向について自信がないのかもしれなかった。ユウトの体も彼女に続いて移動を始める。彼は何も言わなかった。そちらの方向で合っていると彼も思ったためである。そちらが青年の指し示した方向で合っている、と。

 神が死んだ、と青年は言った。しかし本当に神様が病床にてその永遠とも思える生命にピリオドを打ったわけではなかった。青年は、神に生命を与える者たちの言葉を借りただけだった。それは即ち、信じる者たちのことである。青年の話によれば、信じる者たちは皆自宅の窓という窓を閉め切り、この世が終わるその時を部屋の隅でそれぞれ息を殺して待っているらしかった。まるで自分の天敵との遭遇を恐れる神経質な小動物のように。ユウトは訊いた。想像の産物である神様が死ぬわけがないのだから、本当に心から神様を信じる者ならば、陳腐な噂に惑わされず、それ相応の場所で祈りを神へ伝え続けるべきなのではないのか、と。ならばその場所はどこか、と青年はすぐに言葉を返した。教会だ、とユウトは少し考えてから答えた。教会には人々に神の声を伝えるシスターがいるから、と青年はユウトの言葉の尻に自分の言葉を繋げてやった。そうやってユウトの言葉の源泉を辿った後、青年はその源泉に発生してしまった濁りの正体を開示した。シスターの失踪という濁りの正体を。

 マリーがそわそわし始めたのは濁りの全貌を確認してからのことだった。シスターはゼイヴンの街に何名いるのか、失踪してからどれくらいの時が経ったのか、教会は何処にあるのか、彼女はそれらについて青年を問い詰めた。空白を空けず、次々と。

「あれだ!」マリーは地上に広がる街へと人差し指を伸ばした。

 ユウトは別の座標から彼女の指し示す方向を見る。するとそこには、周辺の民家とは大きく性格の異なったひとつの建物の存在が認められた。真っ白な建物だった。民家二つ分くらいまでは軽々入ってしまいそうなサイズである。屋根は絵に描いたような三角形で、その細い先端には白の十字架が確認できる。それはきっと建物がひと通り完成した後で、丁寧に、そして慎重に乗せられたものなのだろう。パティシエが最後の仕上げとしてショートケーキの上に苺を乗せるように。「ああ」彼は教会の美しさに恍惚としながらも、かろうじて返答を空に落とした。

「おっ、祈ってる祈ってる」マリーは左手を額に翳し、建物の入り口付近を覗く。そこには二十人ほどの信仰者がいた。彼らはそれぞれ大きな扉の前で膝をつき、蠅のようにその両手を熱心に擦り合わせていた。「皆が皆、引きこもってるわけじゃないみたいだね」と彼女は言う。

 ユウトもまた視線をそちらへと落とし、入り口付近を確認する。信仰者がいた。彼は保留していた彼女の言葉を縫い直すと、少し間を置いてそれに返事をする。「でも祈ってるだけじゃあな」

「扉に鍵が掛けられてるんじゃない?」とマリーは言う。「まあ、それは見てからのお楽しみだね」そう言うと彼女は左手の人差し指をくるりと回し、自分とユウトの体を教会の入り口付近へと急速で降下させていった。

 地表への降下速度は一定であり、そこには現象に対しての彼女の支配を認めることができる。ユウトはそれが当然のことであるかのように、恐怖を感じることはなかった。吹き上げる風は涼しく、心地よかった。

 マリーは地上からある程度離れた高度にその身を留まらせると、人差し指を揺らし、コンクリートでできた地面の上にユウトの両足を丁寧に乗せてやった。彼女は信仰者たちの小さな背中を少し眺めてから、やがて口を開いた。「ねえ、鍵は開いてないの?」

 何人かの信仰者は祈りを中断する。そしてこちらを確認すると、やがて立ち上がった。見ると、信仰者の多数は初老の大人が占めているようだった。そこに誤って紛れ込んでしまったかのように、子供が何人かいた。

「神の領域に侵入するおつもりなのですか」

 初めに言葉を発したのは、見るからに温厚そうな白髪の老爺だった。信仰者たちを背に話す彼の頬周りには、歳相応の無数の皺を認めることができる。蓄えられた長い髭もまた、真っ白だった。

「あなたたちはいつも教会の外で祈りを捧げているのですか」ユウトは質問に質問を返す。彼は老爺の問いそのものに得心がいかなかった。「教会は使用しないのですか」

 老爺は目を細める。「エイシストが冷やかしですか」

「教会の中に入るべきです。そしてそこで思う存分神に祈るべきだ。シスターがいなくとも、祈ることはできるでしょうに」ユウトはすし詰め状態となったファミレスの光景を思い返す。きっとあそこにいた人間たちがこの街のエイシスト、無神論者なのだろう。彼らはファミレスに対しては随分な大人数だった。しかし街に対してはどうなのだろう。きっとこの街で無神論者は少数派なのだ。

 老爺は未だユウトの底を探ることができずにいた。「何を考えているのです」と老爺は言う。

 しかし老爺が彼の底を探れるわけがなかった。彼がその腹に覗かれて面倒なことなど何ひとつとして抱えていなかったためである。彼は初めから神様とそれに準ずる聖なる存在の意味を信じてはいなかった。だから彼が信仰者たちに伝えたかったことは、事実無根の嘘に騙されるな、というマニュアルじみた道徳だけだったのである。底の見えない、底を探るべき相手は、彼の隣にいるのだ。

「私たちがシスターさんを見つけるって言ってるんだよ」答えたのはマリーだった。

 ユウトは彼女の隣で眉間に皺を寄せる。彼女の言葉が多方向にその触手を伸ばし、多種多様なしがらみに絡みついていくのがありありと分かった。老爺以外の信仰者たちが静かに話を始める。幾つもの囁きが絡み合い、それらはやがて地鳴りのような重要性を持ち始める。その不吉な響きは彼の耳にも例外なく届いた。引き返せない。彼はそう思った。

「テレサを探してくれるのですか?」老爺の声は彼らの囁きと独立した響きを持つ。

「テレサ」とマリーは呟く。「それがシスターさんの名前なんだね」

 

 教会正面の扉に鍵は掛かっていなかった。三メートル超のブロンズ製の両開き扉は、鈍い音さえ立てたものの、マリーの両腕及びその体を滑らかに教会内へと招き入れた。背後から信仰者たちの阿鼻叫喚が聞こえる。マリーはそれに一瞥すらくれてやらなかった。彼女にとって、彼らの叫びも救いの対象であるからだ。

 ユウトは信仰者たちの姿を一度確認してから、彼女の後を追って教会内へと足を踏み入れた。扉を抜けたその先で彼の瞳が真っ先に映したものは、建物の深奥に存在する巨大なステンドグラスだった。ステンドグラスに透過された陽の光は、多種多様な色を与えられ、その延長線上にある彼の瞳へと集約されていく。飛び込んでくる光から彼は何かを感じ取る。しかしその何かの正体に辿り着くまでには、失われた記憶の領域が未だ大き過ぎるように彼には思えた。感覚を頼りに記憶を遡ろうとすれば、その先には決まって膨大な闇が待ち受けていたからである。何かがあるのだ。自分の奥には、何かが。

「大丈夫?」マリーが低空から彼の顔を見上げる。

 彼女の声が彼の意識を闇から引き上げる。「ああ」彼はそこで初めて自分の口が薄く開かれていたことに気がついた。

「早く手掛かりを探そうよ」そう言うと彼女は石造りの教会内を縦横無尽に飛び回る。左手を目の上に翳して何かを探すような仕草をしてはいるが、ユウトにはどうも彼女の飛行速度が速過ぎる気がしてならなかった。それはまたジョギングくらいのスピードである。あの速度では僅かな痕跡を見落としてしまうだろう、と彼は思った。

 ユウトはステンドグラスから視線を落とし、教会内の散策を始める。歩く彼の両隣には、それぞれ四人掛けくらいの礼拝用の木製の椅子が多数設置されてあった。白い石造りの巨大な柱が何本かあり、天井は文字どおり天を思わせるほどに高かった。空気はひんやりと冷たい。ユウトは天井に向けて右腕を限界まで伸ばしてみる。それからインフィニティの魔法の暴発を恐れ、彼は腕を引っ込めた。一度深呼吸をした。

「テレサさーん!」マリーの声は教会内に響き渡るが、やがてそれは建物に吸い込まれる。

 彼女はユウトの歩く先で空中を旋回していた。ユウトは彼女の位置を確認してから、そのまま視線を下ろす。すると彼女のいる地点には、もう多数の椅子は存在していないようだった。椅子の行列はある地点で途切れるようだ。ユウトは教会内をまた幾らか歩く。石造りの床と硬い革靴の裏がぶつかり、コツコツと小気味の良い音色を奏でる。その音もまた、逐一広い空間に反響した。椅子の行列はある地点で確かに途切れた。今まで椅子のあった両隣の空間のその先には、ポケットとなるような余分な空間がある。翼廊だ。教会は普通、そうやって十字架の形を模しているのだ。彼は雑学として、なぜだかそれを知っていた。役に立たない知識へのアクセスは可能なのか、と彼は少し呆れる。マリーはパイプオルガンの存在に夢中になっているようだった。椅子の行列の終了地点、角度の緩やかな昇り階段の前でユウトはその足を止める。そこからステンドグラスやパイプオルガンのある地点までには、目で確認するだけでももう何の異常もないことがわかったし、そこの単純な造りくらいなら彼女の雑な検索でも十分だと考えたためである。そしてやがて気になるものを彼は見つけた。柵である。彼の前にある階段の右側だけに、妙な角度で柵が設置されていた。あれはなんだろう。ユウトは柵に近づき、その正体を探る。柵の奥には階段があった。しかしそれは先程まで彼が目にしていた昇り階段とは正反対のものだ。降り階段である。その先には明かりが灯っておらず、階段はひねりの加えられた構造になっていたため、行く先に何があるのか、彼のいる場所からでは確認することができなかった。侵入する必要がある。彼は直感的にそう思った。「マリー!」ユウトは地下への階段から少し離れ、マリーの姿が確認できる場所へと移動する。この静寂の中で今の声が届いていないわけがなく、彼女はすぐにパイプオルガンから目を逸らし、こちらを見つめた。やがて彼女はこちらへと飛行する。

「何か見つかった?」そう言いながら、彼女は彼のすぐ近くへと到着する。

 ユウトは階段のある方向へと人差し指を伸ばした。「地下がある」

「地下?」マリーは首を一度傾げてから、彼の指先を目で追った。しかし彼女の角度からは妙な柵が確認できるだけである。

 ユウトはそれ以上彼女には何も伝えずに、柵の方へと歩き出す。無駄な説明で悪戯に何度も静寂を壊すことは避けたかった。

 やがて再び、ユウトは地下への階段の前に到着する。

「おお!」マリーは彼の頭上から階段の存在を確認する。「手掛かりあるよ? ここ」彼女はユウトの隣にその座標を変更させ、人差し指で階段の先を指し示す。どうやら彼女の中で、地下への侵入は既に決定事項のようだった。

 ユウトは彼女の漆黒の瞳をじっと見つめる。僅かな時間の中、その瞳は微動だにしなかった。それは純粋である。きっと彼女はシスターの発見という目標に向かって、あらゆる不確定要素を踏みつけにしていくつもりなのだ。悪路を走る重機のように。

「なあ、どうしてシスターさんを見つけたいんだ?」ユウトは気になっていたことを訊いてみる。その答えについては大体の見当は付いていたのだが、どうにも彼女がすぐさま行動を起こすほどの強力な動機になり得るとは彼には思えなかったのだ。

 彼女は少し考える。それは自分に求められている答えに対しての思考ではなく、彼の質問の理由についての思考だった。「シスターさん一人の我儘であんなことになってるんだよ? 解決した方が良くない?」彼女は首を傾げる。

 彼女の答えは、ユウトが考えていた答えそのものだった。彼は自分の抱えている疑問を明らかにすべきか迷った。自分の考え過ぎなのかもしれない。彼はクララの件で自分が中身のないハリボテの動機で派手に動いてしまっていたことを思い出す。そもそも自分は他人を疑えるほど合理的な人間であるのだろうか。

 マリーは彼の微妙な表情の変化を見逃さなかった。「急に動いたのはね、実は別の理由のせいなんだよ」

 やはり奥があった。彼は彼女の返答に快感すら覚える。「どんな理由なんだ」

「神様が死んだって、あの言葉。エルフの私としては見過ごせないんだよね」彼女は空中で片膝を抱える。「神様って、希望そのものだから」

 ユウトは首を傾げる。「希望が死ぬと、エルフとしてはどう厄介なんだ?」

 マリーの視線は片膝を包むために両腕で作られた小さな領域へと落とされる。「エルフはね、人間の心のゆとりを少しずつ貰いながら生きてるの。だから希望が失われるとね、厄介っていうか、存在自体が消えちゃうから」

 ユウトの顔に絶望の色が浮かぶ。「死ぬ、ってことか?」

「この世界の概念で言えばね」彼女は膝から両腕を離し、微笑んだ。「まあでもそっちの方は全然問題なさそうだから。安心して。だから今は取り敢えずこの街のために動いてあげてよ。可哀想なこの街のために」

 考えが散らばったまま、ユウトは話す。「俺は動く気なんて、元々なかったんだけどな」

「でも可哀想だなって、助けてあげたいなって思ったでしょ?」

 ユウトは散らばった考えを放棄し、彼女の言葉に集中する。「そりゃあまあ、少しは」彼は頭を掻く。

「それならきっと、動機としては十分なんだよ。助けたいと思って、それが助けられる場所にいる人なら、きっと助けていいんだ。普通はそれをしがらみが縛ってしまうんだけどね。でもユウトは我儘になることができる。インフィニティだから」

 ユウトは彼女の言葉に違和感を覚える。それは彼女の説明と、実際の自分の心との差異から生じたものである。「しがらみならある。俺はできることなら、クリスさんに迷惑を掛けたくなかった」

「そう。それがネックなんだよ、ユウト」彼女は人差し指を揺らす。「インフィニティの力を心が縛っている。この状態の異様さ、重大さがわかるかな?」

 口を軽く閉ざし、ユウトは思考の沼へとその身を浸からせる。しかしその沼に水路はない。どこにも繋がらないのだ。一歩目を踏み出す取っ掛かりすら見出すことができない。あるいはその一歩目が答えになり得るのかもしれない、とユウトは直感的にそう思った。熱が伝わったためである。それは思考の流れを妨げる薄い壁の向こうから届いたものだ。膨大なエネルギーの片鱗である。きっとその壁はダムの役割を果たしてくれているのだ。崩れれば沼は氾濫し、エネルギーに犯されてしまうのだろう。

「残念ながらわからないんだよね」マリーは言葉で彼の思考を中断させる。「しょうがないことなんだよ。それも」

「お前に訊くこともできない」とユウトは言う。

「勿論」マリーは音もなく階段の方へと移動した。そして体を反転させ、彼の方を再び見る。「ねえ、今はしっかり生きてみてよ。私は素直なユウトが好きだから」彼女は言葉と笑顔を残すと、もう一度反転し、彼より先に階段を下って行った。

 彼女の姿が闇の中へと落ちていく。ユウトはタクトを取り出し、すっかり使い慣れた炎の魔法を微弱に発動させる。丸い火の玉が闇を照らす。マリーの言葉を頭の中で反復させながら、彼もまた真っ暗な階段を下っていった。素直な自分。彼女の言うそれを作るためには、記憶は必要ないのだろうか。


 弧を描く階段のその先に、どこかの部屋に繋がる扉でもあるものだろうとユウトは考えていたが、実際には何もなかった。そのまま直通で地下空間だった。彼は火の玉の火力を上げ、地下空間の広域を照らし出す。何本もの太い柱が見えた。白い柱だ。石造りであり、地上にあったものと同じものに見える。床もまた白い石で造られており、空間全体が地上と同じもので構成されていることがわかった。しかし地上の空間とはまるで違い、彼には随分と空虚に見えた。そこには椅子やパイプオルガンなどのオブジェクトと呼べるものはおろか、壁さえもなかった。ユウトはもう一度、降りてきた階段の周りを確認する。しかし闇に制限された視界の中に認められるものは、やはり白い柱の他には何もなかった。文明の温度を感じることができない。空気が冷たい。それが石の温度なのだろう。隙を感じさせない、張り詰めた冷たさだった。ユウトはすぐにでも地上に出て、柔らかな陽の光の中に全身を浸からせてやりかった。彼の脳裏に虹色に染め上げられた陽光が思い浮かぶ。それは教会に入ってから彼が真っ先に目にした光景である。その情景を思い出すのはおかしなことだ。それは彼自身もよくわかっていた。あれは陽光をガラスに透過させたものだ。純粋なものではない。しかしなぜだかあの光は、普段目にしている純粋な光よりも、不思議と彼の目には暖かく映ったのである。

「なんか上より随分と広くない?」洞窟のような地下空間にマリーの声が反響する。「闇に底が見えないよ。なんだろね、ここ」彼女は目を細め、階段を中心とした四方の闇を順番に注視する。ユウトの炎はどの方向の果てをも照らし出すことはできなかった。

 ユウトは火の玉の付着したタクトを動かし、声を頼りに彼女の姿を探す。揺れる視界の中、彼女の白いワンピースが闇の中で微かに煌めく。見ると彼女は、既に二つ向こうの柱の陰までその身を移動させているようだった。「あんまり急ぐなよ」

「別に急いでなんかないよ」マリーはその身を翻す。彼女の純白のワンピースが、遠心力によって白い薔薇の如く一瞬のうちに咲き誇った。「闇が怖い?」彼女は首を傾げる。

 闇が怖いか否か。その質問は見当違いではないか、とユウトは思った。文明の進化を鑑みれば、人類にとって闇をはらう行為は既に恐怖によるものではなく、当たり前に生活するため、生きるうえでのアドバンテージを得るために行う行為へと当の昔に変化しているはずなのである。闇は照らされていているのが普通なのだ。「いや、厄介だとは思うけれど」彼は適当な言葉を返すと、瞼を僅かに閉じ、彼女の表情にフォーカスを絞る。「お前、夜目が利くのか?」

 彼女は彼の言葉の意図を汲む。「目じゃなくて魔法だよ。弱いのをいっぱい飛ばして、その反射で空間を把握するんだ」彼女は人差し指でそのテクニックの概要を空中に描く。

「イルカみたいだな」ユウトは嘲る。

「どっちが先かはわからないけどね」彼女は両手を背中の後ろで絡ませ、挑発的に首を傾ける。「ユウトもやってみたら?」

「できるのか?」ユウトは新たな魔法に期待する。

 マリーは悪戯っぽく白い歯を見せて笑った。「残念、できないよ。人間の魔法エネルギーの粒子は大きすぎるから」彼女はユウトから視線を外すと再びくるりと体を回し、首と瞳だけを動かしてもう一度彼の方を見た。あるいは見えていないかもしれない。「ユウトは歩いて、ね」彼女はユウトを背に置くと、魔法によりゆっくりと移動を始める。

 ユウトは彼女の背中を追って歩き出す。彼は彼女の言葉に落胆しなかった。挑発されたことに対しての静かなストレスさえ発生はしたものの、元々ない能力がやはりないと再確認させられたことについては、特筆すべき心の動きが生じることはなかった。彼はそこまで身勝手な人間ではない。「なあ、どこまで歩かせる気なんだよ」彼は言う。「当てがないだろ」

「それについては心配要らないよ。地下空間に入ってから、深奥から糸みたいにか細い魔法エネルギーが伝わってきてる。人間のサーチ魔法に引っかからないレベルの微弱なものだけれど、それと確信できるだけの熱量があるから」彼女は部屋を右折する。それからため息をひとつついた。「だからつまり、全部用意されてたんだよ。初めから。もうきっと答えは決まってたんだね」

 彼女を追って部屋を右折してから、彼は彼女の言葉を上手に解読しようと努めた。彼女の背中や羽からでは、表情を読み取ることはできなかった。「つまり、この先にシスターがいるってことなのか?」

「いやいや、魔法エネルギーの性格から個人を特定できるのはクララちゃんくらいのもんだよ。いや、でも知らない人にはチャネリングできないって言ってたし、今それは関係ないのかな」彼女は一度言葉を吐いてみてから修正作業に入る。「ともかく、エルフは魔法エネルギーの感知能力が人間より少し優秀なだけで、宿主の正体までは分からないんだよ」彼女は言葉と一緒に、絡まった思考の塊を頭の外へと放り投げる。そして彼女はストレスを吐き出すように部屋を右折する。

「じゃあシスターじゃないかもしれないってことか」顎を触りながら、彼女を追ってユウトもまた部屋を右折する。

「いや、その正体は私もシスターさんだとは思うんだけど」

 ならば今の話は何のためのものだったのだろう。ユウトは眉間に皺を寄せる。しかし彼はすぐにその考えを改める。情報の共有のためではないか、と。本来会話とはその程度のもので十分であるはずなのだ。神経質になってしまっているのだろうか。闇を恐れているのだろうか。冷静になった頭でマリーの背中を見つめていると、彼はあることが気になり出した。「マリー、お前方向に自信はあるのか?」

「勿論。しっかりエネルギーを辿ってるからね」マリーは得意げにそう言う。

「そうか、それならいいんだ」ユウトは漠然とした不安を抱えたまま、無言で彼女が次に起こす行動を見守ることにした。今までの道のりを思い出しながら、彼はじっと彼女の間の抜けた白い翼のはためきを眺める。その事態が起こるまで、都合よく彼女の声は一度も洞窟内に響くことはなかった。

 そしてやがてその事態は起こった。マリーは三度目の右折を始める。

「待てマリー」彼の疑問はたった今、それを突きつけるために必要なだけの質量を持った。彼は右折をしなかった。彼女が白い柱越しにこちらを見るまで待ってから、彼は本題へと入っていく。「この道は間違ってる」

 マリーはその何秒かの間にまばたきを連続で行った。「なんでそう思うの?」

 ユウトは怪訝な顔で彼女を見つめる。彼女の反応が堅固なものであることが彼には予想外だった。彼女のその純粋な表情で、きっと自分が間違っているのだろうと直感的に彼は理解する。しかし表情では説明にならない。できることならば、頭の中に存在する不安要素を、言葉を介し、ひとつ残らず抹殺して欲しかった。「俺たちはついさっき二回右折をした。この間隔でまた右に曲がってしまったら、元の場所か、あるいはその近くへと戻ると思うんだ」彼は不安要素を吐き出しながら、地下に降りてきてからの状況を整理した。地下空間にあったものは、無数にも思える純白の大きな柱だけ。それらは五メートルほどの間隔を開け、等間隔に配置されていた。頭の整理とは言っても、地下空間はあくまでそれだけだった。きっと何かパズル的な要素が絡んでこの不安は取り除かれるものなのだろうと彼は思った。彼は少しの恥に備える。天然のマリーに頭で劣ってしまうという、自尊心を原因とする恥に。

「え、ほんと?」彼女は目を丸くすると、その目を泳がせ、やがて顎に左手を添えた。

 ユウトは彼女の返答をほんの少しだけ待ってみようと思った。しかしやがて、ある程度の纏まった静寂が彼の疑惑の念を十分に掘り出すと、彼はそれを反射的に口にした。「気づかなかったのか?」

「うん。気づかなかった」即答だった。

 彼はすっかり呆気に取られ、頭が真っ白になってしまった。この後はどうしようか。一体なにをどうするというのか。使い慣れた思考回路が、混乱という名の猛毒に犯されていることがありありとわかった。

「まあいっか」マリーは吹っ切れたように左手を顎から外す。「些細なことだよ」

「同じ場所をぐるぐる回ることが?」彼は一度頭のスイッチを切る。

「宿主には近づいてるよ? エネルギーの熱量は確実に上がってるし」

「でも、戻るんだぞ」彼は自分の五感を軸とした道理を信頼すべきか、彼女の感覚を信頼すべきか、わからなくなっていた。正しく言えば、考えてすらいなかった。どちらも不確定要素が多すぎたためである。「何かの間違いじゃないのか」

 マリーは腑に落ちないといった表情を浮かべると、おもむろに自分の左手を胸へと持っていく。それから明後日の方向を見つめ、何かを考えてから口を開いた。「つまり、私たちは変なことをしてるってことになるのかな」彼女はユウトの瞳を見つめる。

 ユウトは頭を再起動させる。考えるまでもないことではあったのだが、それはもう一度頭の中を周回させておいた方が良いことのように思えた。何かの分岐点になり得る重要なことなのかもしれない。しかし結局、彼の答えが変わることはなかった。彼は言葉を確認し、やがて吐き出す。「ああ、変だ」彼は彼女の瞳を見つめ返した。

「進んでみたいとは思わない?」マリーの黒い瞳が輝く。

 ユウトは彼女の言葉を無言のままに噛み砕く。

 マリーは彼の返答を待たなかった。「エネルギーと現実空間が噛み合ってない。ユウトはどっちを信じるのかなってことだよ」

 その二者択一ならば当の昔に辿り着いてはいるのだ、とユウトは思った。しかし未だ彼がどちらか一方を選べていないこともまた事実だった。彼は返答の作成のために思考を巡らせる。が、やがてそれは、彼の脳内を占拠する膨大な闇を前に足踏みを始めた。彼は不確定要素の存在を再認識する。もし地下空間を継続して進むという選択をするのならば、ここから先は彼女の感覚に全ての判断を委ねることとなる。それはきっと、現に記憶喪失下にある彼の感覚とは別次元のものであり、地下探索は不条理の連続となることが想像することができる。それは危険を伴うことかもしれない。今ここで右折をするというのは、その危険を容認することと同義である。逆に引き返すという選択をした場合の不確定要素といえば、ここで進むことがもしかしたら記憶障害のない正常な人間にとっての当然の選択となるのではないか、ということである。自分が彼女の足を引っ張っているのではないか。しかしそれについては言葉で解決できる問題に思えたため、彼は思考を放棄し、取り敢えず口を開いてみた。「なあマリー。この場合、お前みたいにエネルギーに従うのは普通のことなのか?」

「普通を選んで欲しいわけじゃないよ?」マリーは首を傾げる。

「違う。記憶がないから、魔法エネルギーについての正しい理解ができていないってことを言いたいんだ。例えば今俺がクリスさんだとしたら、素直にお前について行くのか?」

 マリーの目は一度大きく見開かれ、すぐに戻った。「そうか、経験則の欠落ってことなら」彼女はそう呟くと、やがて僅かに口角を吊り上げる。「賢いね、ユウトは。この場合はエネルギーを信頼すべきだよ。五感だけに神経を集中させる人は大抵足元を掬われるんだ」彼女は体を回転させ、頭を進行方向へと向ける。「まあおじさんだったら、私の言うこと聞いてくれなそうだけどね」彼女はユウトの右折を確認せずに前進を始めた。

 ユウトの視界の中でマリーの全身が一度柱の後ろに隠れ、やがて現れる。二人の位置関係上、その柱の前を通過して彼女と合流するのが彼にとっての最短距離だった。彼はその方向に向けて始めの一歩を踏み出してから、しかしその足を戻し、少し考えたのちに彼女の使ったものと同じルートを辿って行った。


 それからも何分間か、彼女のデタラメな地下迷宮攻略は続いた。攻略の最中、ユウトは彼女の白い背中を見つめながら、頭の中の地図に逐一地下の攻略状況を描いた。体感で言えば、やはりおかしな進路ばかりだった。同じ場所を回ることはいつからか当然の行動となり、やがては今歩いてきた道をそのまま引き返すという事態さえ起こり始めた。彼女が純粋な顔で彼の横を通り過ぎたとき、彼はもう一度、しかし義務的に、彼女に疑惑の念を突きつけた。今のお前の行動が本当に正しいのなら、なぜ地下空間はこんなにも訳のわからない構造になっているのか、と。彼女は彼に背中を向けたまま端的に答えた。この空間は一人の人間の魔法によって意図的に捻じ曲げられているからだよ、と。求めた答えに届かなかった為、彼の問いは続いた。ではその人間の目的は? 外部からの侵入を防ぐ為ならば、入り口を塞いでしまえばそれで済む話なのではないのか。彼女はしばらく口元に人差し指を置き、あらゆる思考のルート巡ってから、宿主は構って欲しいのかもしれないね、と嘲るように言った。それはあくまで仮説にも至らない冗談であり、ましてや答えなどではなかった。答えを吐ける者は、あくまで魔法の宿主だけなのだろう。

「ここだね」迷宮の中、マリーは急に立ち止まる。

 ユウトは足を止めて周囲を見渡すが、確認できるのは依然として闇と柱だけだった。「何かあったのか?」彼は彼女に問い掛ける。

「ユウト、火を消して。魔法は嫌みたいだよ」彼女は手を揺らし、指示をする。

 他人の魔法は嫌なのか。ユウトはマッチの火を消すようにタクトを何度か振るい、その先に付いている炎を消してやった。ひと振りごとに弱くなっていく炎を見つめながら、インフィニティの魔法なんて誰でも嫌がるだろうな、と彼は思った。空気との摩擦に耐えきれなくなった炎はやがて消え、程なくして深い闇が彼の視界を埋めた。

「マリー」視覚の不自由による不安に耐えきれなくなり、ユウトは音としての言葉を発する。彼はそれからのコンマ何秒かの間、聴覚に神経を集中させ、マリーの音を待ち望んだ。

「見えてくるよ」それはマリーの声だった。

 彼はその声にまず安堵してから、彼女の言葉の意味を考える。見えてくる。光無き場所ではこんなにも無力な人の目が、やがて何かを映すとでも言うのか。彼は闇をじっと見つめる。何を見つめているのか、何を見つめるべきなのか、何もわからないままに。

「慌てないで。魔法の光に慣れ過ぎただけ。ユウトは闇の色を知っているはずだよ」とマリーは言う。

 闇の色。ユウトは彼女の言葉をなぞる。きっとそれは、未だブラックボックスとなっている記憶領域に向けて発せられた言葉なのだろう、と彼はすぐに結論付けた。新しい記憶の中で、つまりはクリスに拾われてからの記憶の中で、彼が深い闇と対峙した機会といえば、ヘアリイの森での一件くらいしかなかったはずなのだ。ゆえに彼はその無責任な結論に辿り着くことができた。闇の色。つまりは目を暗闇に慣れさせれば良いのだろうか。彼は引き続き闇を見つめ続けることにした。しばらく目を細めて闇を睨んでいると、やがてその中から何かがぼんやりと浮き出てくるのがわかった。目が慣れてきたのだろうか、と彼は思う。それはきっと何かの輪郭なのだろう。柱のようには見えなかった。もしそれが見慣れたあの白い柱ならば、たとえそれが一部だとしても、すぐにそれだとわかるだけの自信が彼にはあった。彼は引き続き注意深くそれの全体像を確認しようと努める。「見えてきた」彼はそれだけ彼女に伝えた。しかし取っ掛かりとして輪郭の一部が確認できれば、それからは予想外にも早かった。彼は自分の目が捉えたそれが窓だったということに気づく。白い木製の窓だ。彼の目は時間の経過とともに闇を払い除けていく。窓ガラスの向こうに居座る黒、それが完全に確認できるようになった頃、彼はやっと辺りが明るいことに気がついた。あれほどまでに深く底の知れなかった闇は一体、どこへ行ってしまったのだろう。彼は明かりの源を探す。天井に白熱灯が一つ備え付けられていた。白熱灯はまるでそれが当然のことと言わんばかりに、四畳半ほどのその狭い部屋を煌々と照らしていた。一切の闇を許さない光量によって、その隅々まで。

「ユウト」マリーは彼の背後から話しかける。「見えてる?」

 彼は白熱灯から視線を落とし、彼女の声のした方へと向き直る。「ああ、見えてる」そこには彼女の姿があった。彼は柔らかく笑った。

 彼女もそれに笑顔で応えた。それから表情を凛としたものに変化させると、彼女は人差し指で部屋の一方向を指し示した。

 ユウトは彼女の人差し指の先を見る。そちらでは大きな一対の白いカーテンが部屋の天井から床に至るまで垂れ下がっているようだった。しかしその光景に特筆するほどの異常性は感じられない。彼はもう一度彼女の顔を見る。

「いるよ」目配せをしながら、マリーは言う。

「俺が捲るのか?」

「嫌なの?」彼女は首を傾げる。

 彼女のその仕草を見て、これ以上の問答の無意味さをユウトは悟る。彼は彼女から目線を逸らし、おもむろにカーテンへと近づくと、両手でそれぞれのカーテンを掴んだ。布の感触が手に心地よかった。彼は一度マリーの方を向いてから、視線を戻す。カーテンの隙間からは意図的に意識を逸らした。覗き見をするのは気が引けた。彼は特に呼吸を整えることはせず、あるタイミングで一気にカーテンを開いた。彼の目線の高さに鉄製の十字架が現れる。視界の下方に何かの存在を感じ取り、彼はそちらにフォーカスを移し替える。そこには紺色の修道服を着た少女がいた。恐らくシスターとして認識しても問題はないのだろう。彼女は胸の前で指先を浅く絡ませたまま、クイーンサイズのベッドの上で薄く口を開けていた。掛け布団の上に体を寝かせている。目は長方形の透過性の低い真っ黒なサングラスに隠されており、その様子を確認することができない。乱れた黄色の長髪を纏った彼女の頭には、シスターを連想させるベールはなく、代わりに頭の輪郭に沿って二本の桃色の角が生えていた。異形の存在なのだろうか。彼は角の先端から根元にかけて視線を動かす。根元のそれぞれが一筋の太い本流を介し、髪の奥底で繋がっているのが見えた。その角はきっとカチューシャの類なのだろう。彼女がまず人間であるという事実にユウトは胸を撫で下ろした。

「お休み中?」マリーはユウトの頭越しにシスターの姿を確認する。彼女もまた、真っ先に二本の桃色の角と長方形のサングラスに興味が湧いた。なんだろう、あれらは。彼女はすぐさま魔法エネルギーの粒子をそれらに向けて飛ばし、触れ、それら二つのアイテムがウェアラブル式の魔法エネルギー送受信及び映像投影端末であることを理解する。訪問者を無視して魔法遊戯か。シスターの判断が誤りであり、不健全なものであると考えると、彼女は指先に適当な量の魔法エネルギーを集中させ、それらの機器をシスターの頭から外してやった。

 魔法機器が外され、シスターの薄く開かれた黒い瞳が露わになる。「ちょっと」シスターは空中に浮遊する二つの機器に手を伸ばす。しかし、マリーの魔法を纏ったそれらの機器は彼女の手の追随を俊敏にすり抜ける。シスターは機器の捕獲を一旦諦めると、横になったまま周囲の様子を確認し、ユウトとマリーを発見する。彼女は一度目を擦ってからマリーの方を注視する。黄色の長い髪が彼女の顔の前に何本か垂れ下がっていた。「今大事なとこなのだけれど」

「お客さんだよ」マリーは二つの機器を自分の指先に留まらせる。「テレサちゃん、でいいんだよね」

「ええ、まあ」シスターは訝しげに目を細める。「クリプトを抜けたの?」

「クリプト?」マリーは首を傾げる。

 テレサは体を何度か軽く捻り、それから首を鳴らした。「地下迷宮」

「ああ」マリーは一度明後日の方向を見てから、シスターの方へと視線を戻す。「私はエルフだから」

 テレサの薄い目が瞬間的に見開かれ、すぐに元の大きさに戻る。「へえ、それじゃあ多分最短ルートなのね。折角頑張って作ったのだけれど」

「もうちょっと構って欲しかった?」マリーは挑発的に微笑む。

「まあね」テレサは黄色の髪の毛に人差し指を絡ませる。それから何かを考えながら人差し指を髪の毛から解き、うつ伏せになって枕を抱いた。枕が押し付けられ、頬が変形する。「取り敢えず一旦ゲーム機を返してくれる? 協力プレイ中なの。向こうに迷惑が掛かっちゃうから」

 マリーは挑発的に機器をくるくると空中で回す。「これのせいで外にいる人たちに迷惑掛かっちゃてるんだよね。分かってる?」

「知らないわ。私は今まで大切なことを彼らに再三語ってきたつもりだもの。希望の責任は既に私にはない。今はゲームをさせて」

 それから少しの間が空いた。マリーは何かを考えているようだった。まだ話すべきことがあるだろう、とユウトは焦る。彼はすぐさま言葉を紡いだ。「信仰者たちが店を開けていません。世界の終わりを前にその身を震わせているようなのです。このままではゼイヴン自体が傾きかねませんよ」

 テレサは彼の報告を聞くと、軽くため息を漏らし、渋い顔をする。「それは確かによろしくないわね」

「神の死を否定してあげてはくれませんか」

 テレサは黄色の髪を右手でくしゃくしゃと柔らかく乱すと、それからその指で眉間を押さえた。「私は神様なんて謳ってはいないわ。結果的に新興宗教のような形を取ってしまってはいるけれど、私はあくまでカウンセリング業務のつもりでずっと仕事をしているの」

 ユウトは彼女の言葉のあらゆるところに違和感を覚える。「カウンセリング業務に教会や十字架、修道服は必要なのですか?」彼は彼女の服を指し示す。「それにそれらは大衆宗教のアイテムでは?」

「ああ」テレサは修道服を両手でつまむ。「全部貰いものよ。みんな買ってしまってからそれを言うものだから、断れないのよ。大衆宗教のものを使っている理由もそれで十分でしょう?」

「教会も貰いものなのですか?」ユウトのまばたきが早くなる。

「必ずしもお金が悩みを解決してくれるとは限らない、ということよ」

 ユウトは絶句すると、こめかみを押さえ、自分の中の常識を測り直す。「でも教会なんか建てますかね」

「悩みは猛毒よ。頭の中には自分しかいないのだから」彼女もまたこめかみに指を付けると、ユウトの顔を見てそっとほくそ笑んだ。「あなたはどうなのかしらね」

「どうって?」ユウトは彼女の視線に居心地の悪さを感じる。その目は確かにこちらに向かって薄く見開かれている。しかしなぜだか、彼女が自分という人間を見ているようには感じられなかった。人間が少なからず発するプレッシャーというものを全くと言っていいほど感じることができなかった。まだ眠たいのかもしれない。しかしきっと違うのだろう。恐らく彼女は像としての人間を見ていないのだ。

「とても透き通った目をしているわね。悩みはないの? それとも忘れているだけなのかしら」

 ユウトはテレサに失望する。彼女の示した人間像は、彼が思い描く彼自身のものとは随分と異なっているように思えた。忘れている、という断片的な情報を除いては。「そんなにすっきりしている人間に見えましたか?」

「お悩みが?」

「ええ。俺は今記憶喪失下にありますし、それに関係のない人にまで続けざまに迷惑を掛けてしまっています」薄く開かれた彼女の瞳は、それらの事実を突きつけられてもなお微動だにしない。彼はそれに少しの違和感を覚える。「個人的に、気にはしているつもりなのですが」

「でもそれが楽しいのでしょう?」

 ユウトは薄く口を開いたまま瞳だけで空を見回し、思考する。俺は楽しんでいたのか? いいや、クリスさんに迷惑を掛けることはでき得る限り避けたいと思っているはずだ。もしかして違うのか?

「道理や現象の全てが心に届くとは限らない。心は本来、世界とその駆動源を別にするものよ。きっとあなたに悩みなどないわ。今のあなたはとても綺麗だもの」

 違う。綺麗であってはならないのだ。俺は居候だ。厄介者なのだ。ユウトは自分にそう言い聞かせる。彼は自分を許すわけにはいかなかった。「そんなことはないです」

「同じことを二度は言わないわ」彼女は枕に頬を擦り付ける。「わかっているでしょうし、ね」

「ユウトの問題は同時にどうにかなるんだよ」マリーは痺れを切らしたように話を始める。彼女の指先に浮くゲーム機器の回転が速くなっていた。「今はテレサちゃんの話が聞きたいの」

 テレサは眉間に薄く皺を寄せ、マリーの言葉の真意を探る。「例えば?」

 マリーは首を傾げる。「分からないの?」

 テレサはマリーの瞳の奥に何かを見る。マリーの瞳は真っ直ぐで、どこまでも純粋だった。テレサはそれに居心地の悪さを感じ、視線の絡みを解いてしまう。それは職業上、彼女に最もそぐわない行為のひとつだった。人の心の深奥を覗き、理解し、同調し、そして心地よく不協和音を起こす。それが彼女の職業である。目線を外すということは即ち、それらの第一段階の放棄に該当する。負けた、と彼女は反射的に思う。年下のしかも女性が、自分の脅威になり得るとは夢にも思ってはいなかった。彼女は意を決し、マリーの美しい瞳を見つめ直す。彼女の黒い瞳は、やはり目が眩むほどに綺麗だった。何者なのだろうか、とテレサは思う。少女にしては純粋過ぎるし、カウンセラーに必要なだけの大きさの器すら持ち合わせているようには思えない。エルフだから? いいや、世界エネルギーのつまみ食いと心の成熟の間に関連性はない。それに心が成熟してしまえば、瞳の色は幾らかくすんでしまうはずなのだ。思考はどこかの段階で必ず団子結びになり、方程式のようなスマートな形状が失われてしまう。その場合は大抵が間違いなのだ。考えるほどに、目の前のエルフの存在がより一層ミステリアスなものになっていくようだった。しかし実際、その矛盾自体がひとつのヒントとなっていた。彼女の思考が飛躍する。枕の上で脳が音を立てて回転し、一つの大胆な仮説を叩き出す。それは未だ霧に包まれている。彼女は霧を掃うことが大好きだった。カウンセラーの職に就いていて良かった、と彼女は思った。それは職業柄しばしば起こる感情である。そして彼女はその度に、きっとカウンセラーは自分にとっての天職なのだろうなと自覚するのだ。

「大丈夫?」テレサの不自然なまでの真っ直ぐな瞳に、マリーは不信感を覚える。彼女は今までそんな種類の目を見たことはなかった。

「あなた、もしかして全てを知っているんじゃないの?」テレサはマリーの気遣いに返答という形をもって応えた。彼女の瞳に力が込められる。それはカウンセラーとしての目ではない。今回は相手の心を気遣う必要がないためである。彼女は霧を掃う能力に全ての力を集中させていた。

 マリーの指先で機器の回転が止まる。「へえ。早いね」

「それなら私が語るべきことは」

「さっきも言ったでしょ? 私はテレサちゃんの話が聞きたいんだよ」

 そういう意味だったのか、とテレサは思った。そして自分がその勘違いに至ってしまったこと自体に、彼女は病的な問題を感じる。いつから諦めていたんだろう。テレサは音もなく笑った。「私の話を聞くの?」

「引きこもりなんだから悩みを解決しないと、でしょ?」マリーは一度笑顔を見せてから言葉の手応えのなさに違和感を覚え、テレサの表情を注視した。テレサは顔の半分を枕に埋めたまま、視線を媒介としてこちらに笑顔を送っていた。マリーはユウトの方を見る。「私、なんか変なこと言ったかな」

 ユウトは混乱しながらもマリーが最後に言った言葉を脳内で再生し、噛み砕く。引きこもり、そして悩みの解決。「言ってないと思う」とユウトは言う。

「ふふ」笑みを口元にまで広げると、テレサはやがて静かに目を閉じる。「それなら、私の世界に入る必要があるのかしら」彼女は目を開け、二人のいる方向に向けて両手の人差し指をくるりと回した。

 テレサの一挙一動に集中していたユウトとマリーは、背後での突然の爆音にその身を震わせる。二人は反射的に振り返り、部屋の角に設置されたウッドラックの抽斗が一本こちらに突き出されていることを確認する。爆音の種類とも合致していたため、二人は取り敢えず音の正体にだけ得心がいく。しかし既にテレサの魔法は彼らの注視する抽斗には適用されてはいない。彼女の魔法は抽斗を伝い、既にその中へと侵入していた。テレサのその細い指先に、飛ばした魔法エネルギーから情報となる振動が返ってくる。やがて目的のアイテムに魔法エネルギーが触れると、器用にエネルギーをアイテムに這わせ、抽斗からそれらを掬い出してやった。ユウトとマリーの瞳に空中を浮遊するアイテムが映る。それらはマリーの指先で躍っているものと同じ形状のゲーム機器二組だった。サングラスが二つに、対となる角の付いたカチューシャが二つである。カチューシャのカラーリングは白と赤だった。テレサは上体を起こし、全身を九十度回転させ、クイーンサイズのベッドに足を投げ出すようにして座る。二人の後ろ姿を見据えながら、伸びたままの両手人差し指を勢いよく拳の中へと戻してやる。するとまるで糸で引かれたかのように、四つの機器が予備動作なしにユウトとマリーの頭部目がけて襲い掛かった。二人は反射的に顔を両腕で隠したが、がら空きの頭頂部にカチューシャが容赦なく装着される。二人は両手をカチューシャに伸ばすが、その手が届くよりも先に、ガードのなくなった顔面に漆黒のサングラスが強引に取り付いた。二人はそれぞれに出鱈目な奇声を細切れに漏らしながら、サングラスから伝わる謎の圧力を前にテレサのクイーンサイズベッドに背中から倒れ込む。二人の間にはあつらえたようにテレサの体があった。テレサは二人に装着された機器から魔法の適用を外し、代わりにマリーに取り上げられていた桃色カチューシャの機器のセットに魔法を這わせ(機器は混乱の中でマリーの魔法から離れてしまい、部屋の床に落ちる寸前だった)、自分の頭部に装着してやった。機器の作動音の裏で二人が静かになっていることを確認すると、テレサもそのままぐったりとベッドへと倒れ込んだ。予想していなかった魔法の使用に、テレサは沼のようにどろりとした疲労を感じる。疲れた、と彼女は思う。しかしやがて漆黒のバイザーに映像が投影されると、途端に疲労は快感を増長させるためのスパイスへと変わり、それは彼女の表層から魂にかけての距離の中で緩やかな溶解を始めた。彼女は深呼吸をひとつする。摩擦のない柔らかな空気が彼女の小さな肺を満たしていった。


 いつの間にか草原の真ん中にいた。地面には名前の知らない短い草が無数に生えており、空の青にはどこか過剰とも思える力強さを感じる。ここはどこだろう。彼の意識が緩やかに空間へと定着していく。右手に何かが握られている。見るとそれが剣であることがわかった。鍔の付いていない雑多な剣である。装飾がなく、まるで日用品のひとつのようだ。剣というより、物を斬るための道具という認識の方がしっくりくる。「マリー」彼は妖精の名前を呼ぶ。少し肌寒い。服装が変化しているようだった。生地の薄い紺色の半袖シャツと灰色の七分丈のサルエルパンツを知らぬ間にその身に纏っていた。彼は記憶を遡る。今日は生地の厚い白の七分丈のシャツとデニムパンツをクリスから分け与えられていたはずだった。空間そのものが変化しているのだろうか、と彼は考える。クララのときにそうなったように。「マリー」彼は再び彼女の名前を呼んだ。返答にはあまり期待してはいなかった。感覚的ではあったが、彼はそれだけ自分の仮定に自信を持つことができた。

「はーい」眩い光がユウトの視界の中に瞬間的に現れると、マリーの姿だけをそこに残して消えた。「ユウト見てー、ステッキー」彼女は左手を色の濃い青空へと高々と掲げる。見るとその手には木製の杖が握られていた。杖は一本の木によって作られており、片方だけとぐろを巻いている。彼女の服装に変化はなかった。そしていつもどおり、足は地上に付いてはいなかった。

 これはこれで妙だ、とユウトは思う。「接触、じゃないのか?」

「接触?」彼女は杖から目を逸らし、ユウトの方を見る。それから薄く口を開けて明後日の方向を少し見てから、「あー、違うかな」と言った。

 再びユウトの視界の中に先程と同じ性格の光が現れ、やがて消える。「綺麗でしょう?」次にその光が残した像は、派手な翼を背にした少女だった。風船のように膨らんだ純白のドレスや、青の宝石が埋め込まれたティアラ、全身に細々と施されたアクセサリーたちがそれぞれ光を反射させ、彼女の存在が神聖なものであることを一生懸命に証明しているかのようだった。長い金髪が重力に逆らうように空中を漂い、彼女のシルエットを巨大化させている。

 ユウトは目を細め、少女の顔を値踏みする。頭の中では少女が光の中から発した短い声が未だに反響し続けていた。「テレサさんですか?」彼は自分の感覚を頼りに、目の前に佇む実像のその裏を掬う。

「あら、これでも分かってしまうのね。大したものだわ」テレサの意思を持つそれは答える。

「テレサちゃんなの?」マリーも彼と同様にテレサを見据え、その目を細める。彼女の喉が、解せないという意味合いを持つ濁った音を鳴らした。

「一体、何で分かってしまったのかしら」テレサは自分の恰好を適当にチェックする。「顔?」彼女はわざとらしく自分の頬に人差し指を突き刺す。

 顔はほとんど枕に埋もれていたので憶えていない、とは言わなかった。「声ですよ」とユウトは答えた。

「声?」テレサは右手でそっと自分の喉をなぞる。「不思議な子」彼女は何度か息を漏らすようにして笑った。「あなたがユウト。そして」彼女はマリーの方に目線を動かす。「あなたがマリーね。聞かせて貰ったわ」

 彼女のその言葉で、ユウトは初めて名前を名乗っていなかったことに気がついた。そこまで深入りするつもりがなかったためだろう、と彼は考える。「どうやって」

「耳を澄まさずとも聞こえるのよ、ここではね」

「なんでそんな恰好してるの?」マリーは戸惑い交じりに言う。

「あら、似合ってないかしら」テレサはドレスの裾を摘み、マリーに向けて挑発的な笑顔を見せる。

「ドレスは似合ってるけど、アクセ付けすぎでしょ。じゃらじゃら。いっぱい付ければ良いってもんじゃないんだよ?」マリーは腕を組み、自分が人生の先輩とでも言わんばかりに踏ん反り返った。

 おしゃれという意味合いで引っかかったのか。ユウトは目を細める。

 テレサは両手を開いて、それをマリーの目線の高さへと差し出した。全ての指に、大小さまざまな指輪が嵌められている。形もそれぞれ異なっている。彼女はその手をゆっくりと揺らし、太陽光を乱反射させた。「可愛さではなく、強さを求めた結果よ」

「じゃらじゃらしてたら強いの?」

「現実でもそれは同じでは?」テレサはマリーの思考を振り払う。

「これはゲームなのですね」口を閉ざしてしまったマリーの代わりに、ユウトが言葉を紡いでいく。「となると、これは映像?」彼はあの真っ黒なサングラスの内側に、今目にしている映像が投影されているところをイメージする。しかしとてもそうは思えなかった。目玉を意識的に動かしてみても、草原の見える範囲が変わるだけで、サングラスの縁などのリアルを感じる要素を確認することができなかった。一体どういう仕掛けなのだろう。

「ゲームであることは正解。でも映像ではない。あのバイザーは目を光から守る程度の役割くらいしかないわ」

「これでゲームなの?」マリーは目を細め、草原を見回す。ゲームではない世界を生きてきた彼女は、そこにあるべき異常、空間の綻びを見つけ出すことに躍起になる。しかしその空間は、彼女にとってもどうにも自然でならなかった。

「あのカチューシャ」思考が彼の脳から言葉を介して漏れ出す。

「いい勘をしているわ。それに」テレサはマリーの方を見る。「マリーさんはカチューシャの仕掛けを見たはずでしょう?」

「魔法エネルギーを飛ばして、絡めて、共通空間を作り出す装置。でもこんなんじゃあ」マリーは言葉を途中で止める。それ以上は言ってはならないような気がした。

「ふふ」マリーの表情に絶望の影を認め、テレサは悦に入る。「綺麗でしょう?」

 テレサの言葉に対し、マリーは断固として口を開かなかった。

「カチューシャから魔法を飛ばしているのですか?」彼は混乱のままに言葉を発する。それを取り除くために。

「魂の形はそのまま魔法エネルギーの性格となるの。あのカチューシャはそれを同一のチャンネルに飛ばす装置。つまり同じ時間にカチューシャを付けている人たちと、同じ夢で遊べるということよ」

「夢」再び彼の視界に光が現れる。しかし今度はひとつではない。彼らを中心に幾分か距離を置いて、幾つもの光が連鎖的に出現しては次々に消えていった。それぞれに特徴豊かな格好の人間を残して。「それなら、あの人たちも」

「ええ、プレイヤーよ」テレサは彼の視線を追わなかった。「決闘してみる? この辺りならまず負けはないと思うけれど」

「喧嘩はキャリアとしかしないから」マリーはいじけたように言う。

「物の怪の類が入り込める余地はないわ」テレサは右の手のひらを空中に一度翳し、それから人差し指を不規則に動かす。その瞳が何に焦点を合わせているのか、ユウトとマリーには分からなかった。「いい装備をあげるわね。スキルなしではきっとつまらないと思うから」彼女はそう言って何度か人差し指を揺らした。「二人とも手を出して。手のひらは上」

 ユウトはすぐに彼女の指示に従った。マリーは怪訝そうな目で彼女を見てから、ユウトの伸ばした手を見て、同じように指示に従った。二人の手のひらにそれぞれ五つの指輪が落ちる。どこから落ちてきたのかはわからなかった。きっととても低い場所からなのだろう。「なんです、これ」ユウトは指輪をテレサに見せながら尋ねる。

「嵌めてみてごらんなさいな」テレサは身振りでそれを促す。彼女の五本の指には余さずそれぞれ指輪が嵌められている。片手だけではない。両手ともに、である。

 ユウトは剣を地面に突き刺すと、左手の上にある五つの指輪のうち一つを右手で摘み、左手の人差し指に嵌めてやった。サイズはなぜだかぴったりだった。夢の空間の成せる業なのだろう、と彼は思う。光を放ったのは彼の上半身だった。派手でわざとらしい光だ。その光は彼に驚く暇を与えずに、シャツの代わりとしてなのだろうサイバネティックな白のコートを残してその姿を消した。「なるほどこのための指輪なのですね」と彼は言う。仰々しいコートから覗くサルエルパンツがとても滑稽に見える。

「すべて嵌めたらこのゲームの楽しさが分かるわ」とテレサは言う。

 装備が全て揃うだけだろうに。そう思いながらユウトは指輪をもうひとつ嵌めてみる。次の光は視界の外から届いた。どうやらコスチュームの指輪ではなかったようだ。姿を変えたのは彼が地面に突き刺した剣の方だった。無骨な日用品だったそれは、光の消滅とともに、針のように細くしなやかなレイピアに変貌していた。綺麗だ、と彼は思う。指輪をひとつ嵌めるごとに自分の情報が新しいものに書き換えられていく感覚が、彼は愉快で堪らなかった。彼は次の指輪に目星を付ける。

「で、これの何がおもしろいの?」

 それはマリーの声だった。ユウトは彼女の方を見る。彼女の姿に彼ほどの大胆な変化を認めることはできない。しかし細部までじっくり観察すれば、彼女の足には硝子のハイヒールが、頭にはテレサの物と酷似したティアラが装着されていた。地面にはコミカルな形のステッキが突き刺さっている。短い棒の先には黄色の星が模られていた。

 テレサはマリーの右手を睨む。指それぞれに指輪の存在を確認することができた。「服とパンツがそのまま。エルフの周波数に対応できていないのかしらね。でも指に嵌めているのなら、きっと効果は発現するわ」

 ユウトは彼女たちの話を適当に耳に入れながら、残りの指輪を次々に指へと嵌めていく。光が連鎖的に発生する。サルエルパンツはコートと同じデザインのパンツに変化し、足はそれぞれ厚底のブーツに包まれ、両手は指の部分に生地のないグローブに包まれた。相当に胡散臭い見てくれになってしまっているのではないか。ユウトは両手のグローブを見つめながら顔をしかめる。

「効果って何! 遊びに来たわけじゃないんだよ!」マリーは声を荒らげる。

「私は遊びたいのよ」マリーの怒号に怯むことなく、テレサは再び空中にて人差し指を躍らせる。「杖を取りなさい」何らかの意図を感じさせる人差し指の動きが終わると、光とともに三匹の大型犬サイズのクリーチャーが現れる。三匹はその全身が金色の鎧に包まれており、その中にある生き物の正体を確認することができない。あるいは何もいないのかもしれない。

「殺せっていうの?」三匹に闘争心を剥き出しにされながらも、マリーはただひたすらにテレサを睨みつけ続けた。

 テレサはマリーからゆっくりとピントを外し、ユウトの方を見る。「レイピアを取りなさい。おもしろいこと、好きでしょう?」彼女の言葉に呼応するかのように、三匹はユウトの方に頭を向ける。

 ユウトはレイピアに手を掛け、それを地面から勢いよく引き抜く。何度かそれを振るい、重さを確かめる。先程までの剣と比べ、随分と軽かった。

「ユウトは暴力を振るうんだね」マリーは瞳のみを動かし、ユウトを見た。

 彼女の歯軋りが聞こえたような気がした。「食わず嫌いはいけない」とユウトは言う。「ちょっと試してみるだけだよ」彼はレイピアを腰の高さで構えてみる。

 テレサは静かに笑った。「そのレイピアはひと振りひと振りが長距離範囲攻撃になる優れものよ。構えなくっても適当に振るえば片付くわ」

「そうなんですか?」ユウトの構えが緩んだその瞬間、三匹のクリーチャーが途端に地面から跳躍する。それぞれが顎を限界まで開き、彼へと同時に襲い掛かったのだ。彼はあまり焦らなかった。無論、そのレイピアの真価を先に聞いてしまったためである。彼は空中の三匹を線で結ぶようにしてレイピアを振るった。青いエフェクトが剣先から溢れ出し、それが三匹の体を真っ二つに引き裂いた。血は出なかった。三匹は空中でその体を灰に変え、やがて見えなくなった。斬撃の軌跡に彼の心臓が高鳴る。彼はそれから空中に向かって二三度斬撃を繰り出してみた。

「お見事」とテレサは言う。

「最低だよ」とマリーは返した。

「マリー見ただろ?」ユウトは腰に鞘が出現していることに気づき、それにレイピアを収納する。手は離さなかった。「血も出ない、肉塊も残らない。ここは夢なんだよ。今の奴らはきっと、俺らの脳が作り出したキャリアのようなものなんだ」彼はゲームという表現を避けた。

「夢。キャリア」マリーは考える。

「こういうことだ」ユウトは鞘から素早くレイピアを引き抜くと、勢いを殺すことなくそのままそれを振るった。斬撃はマリーのいる座標へと疾走する。

「えっ?」マリーは信じられないといった表情を見せると、無慈悲にも迫りくる青い斬撃を前に、反射的にその顔面を両腕で守った。斬撃は彼女の体に到達すると、その存在を消す。「んにゃあ!」正体不明の謎の力が適応され、彼女の体は地面に叩きつけられた。

 マリーの落下により周辺に砂煙が舞った。エルフである彼女が地面と接触しているところを見るのは初めてだった。強い衝撃が地面を媒介として彼へと伝わる。誤算だったか。ユウトは焦った。しかし実際はまったく彼の思惑どおりだった。

「ダウン性能を付与してあるから、あのようになるのは当然よ」テレサは安心しろと言わんばかりに彼に微笑みを投げかけ、それから地面に落ちたマリーの方に目をやった。「痛くないでしょう?」

 マリーは地面からふわりと離れ、浮遊を再開する。呆気に取られながらも、彼女は自分の全身を視診、触診する。「痛くない」と彼女は呟いた。「落ちたのに?」

 テレサは右手の親指と人差し指で円を作り、自分の右目周辺をそれで囲い、そこからマリーの姿を見た。「データ上で体力はしっかりと減っているわ。零になったら十分間くらい制限が掛かってしまうから、気をつけてね」彼女は左手人差し指の指輪をなぞり、右手の中に一瞬の光とブローバック式の銀色の銃を発現させる。それから彼女はそれを滑らかにマリーの方へと向け、一発ズドンと発射させた。マリーの体が一瞬だけ緑色に発光した。

 躊躇のない発砲と銃声に、マリーはその小さな体を激しく痙攣させる。「何したの?」

「回復よ」彼女は銃を手離す。銃は重力の適用により落下したが、地面と接触する直前に少しの発光とともに消滅した。「遊びであることが分かった?」

 マリーは直前に自分の身に起こった不思議な現象の数々を思い出す。クリーチャーの消滅、痛みを伴わない斬撃魔法との接触及び地面への落下、そしてテレサの発射した謎の銃弾。彼女はこの夢の世界に致死的な危険性を認めることができなかった。即ち夢であり、遊びなのだろう、と彼女は考える。「分かったよ」分かった。この空間には虚像しかないことが分かった。彼女はもううんざりだった。

「分かったのなら杖を取って。遊ぶわよ」とテレサは言う。

「何して遊ぶのさ」マリーは渋々左手の人差し指を回し、地面に刺さったコミカルなステッキへと魔法エネルギーを飛ばす。しかし魔法は発動しなかった。「ちょっと、魔法使えないよ」彼女の声色は明確な怒りの色を持つ。

「制限がなければゲームにならないでしょう」テレサは煩わしそうに言う。「デフォルトで無限飛行が付いているだけでも十分にズルなのよ?」

「めんどいなあ」マリーは大きく息を吐きながらそう言うと、ふらふらと杖の方へと飛行し、やがて空中からサルベージ作業のように両手でそれを引き抜いた。「で、どうするの?」彼女は両手でそのふざけた星の杖を持つ。彼女は少しだけこの空間に興味が湧いていた。もっとも、貶すための興味ではあったが。

「決闘をするわ。いろいろ考えたのだけれど、やっぱり決闘がこのゲームの一番の魅力だと思うの。きっとそれが、一番に現実との差異を感じることができるから」テレサはそう言うと再び右の手のひらで空を触り、それから何度か人差し指を躍らせた。すると彼女の一メートル前方の地面が割れ、巨大な木製の扉が生えてくる。発生した事態の規模に対して、それはあまり時間を要しなかった。虚像の世界が成せる業だろう。それから扉は雷鳴のような音を立ててゆっくりと開いた。「この先がコロシアム。パーティーも組んでおいたから」彼女はそう言うと、背中の後ろの大きな一対の白い翼をはためかせ始める。「それじゃあ、楽しみましょうね」彼女はそう言うと、二人をそこに置き去りにして扉の中へと滑空していった。

 扉の奥から漏れ出す光は、その先に広がる光景を彼らに教えてはくれない。しかし、二人はそこに向かわなければならなかった。逃げ場などはない。そこ以外に当てがないためである。ゲームの盤上に乗せられれば最後、前以外に道のない迷路を延々と彷徨うことになるものだ。ユウトにはそれを容易に理解することができた。考えたわけではない。元々彼は知っていたのだ。


「逃げんなこの野郎!」マリーはその体を地上から十メートルほど上空に浮遊させたまま、コロシアム内を逃げ惑う相手プレイヤーに向け、多種多様の派手なエフェクトの魔法を浴びせる。しかしその命中精度はとても低く、コロシアム内にカラフルな天変地異を巻き起こすだけだった。

「もっとちゃんと狙いなさい」テレサは地上からマリーに声をかける。虚像の空間がゆえ、距離は声を届けるための障害とはなり得ない。八人のプレイヤーを相手取った決闘ではあったが、彼女は決闘開始時点に足を止めたその場所から一歩も動いてはいなかった。魔法と武器を用いて彼女を襲う者が三人ほど現れたが、皆それぞれがテレサの返り討ちに遭った。急襲を掛けた二人は体力を零にされその姿を消し、一人は彼女の風魔法を受け、吹き飛んだ。それからはしばらく彼女に近付く者は現れなかったし、彼女自身もマリーとユウトの戦闘能力を上昇させる魔法の発動しか行わなかった。今回はあくまで二人を楽しませることが彼女の目的だった。

「拘束するぞ!」ユウトはレイピアを地上へ向けて細かく揺らし、斬撃を蛇のように繋げ、鞭のようになったそれを一人の相手プレイヤーへと飛ばした。青の斬撃がプレイヤーの体に絡み付き、その自由を奪う。「ほら!」

 マリーは右手で杖を握ったままに人差し指を立て、青の斬撃の中でもがくプレイヤーにその銃口を向ける。左手を添え、銃身のブレを予防する。「妖精ビィイイイイイイイイムッ!」発声と同時に、その指先から強烈な白の光が発射される。濃度は非常に高く、絵具で描かれたように頑なな白だった。その太い光は相手プレイヤーの姿を隠し、光が消える頃には既に彼の姿はそこにはなかった。

「よし、これで三」ユウトはうねる斬撃を何もないそこから引き戻す。「次は」彼はコロシアム内に残存する相手プレイヤーの数を確認する。コロシアムにオブジェクトはない。平坦なステージの中、彼は相手プレイヤーを三人数えた。

「もう結構よ」テレサは右手の親指と人差し指で作った円から相手プレイヤーの体力を確認し、それから言う。左手の小指に嵌められた指輪を右手でなぞり、そのまま直上にその右手を翳す。すると彼女の右手の少し先に円形のワームホールが現出した。「試合終了までおよそ十秒。あなたたちがどうこうできる残時間とは思えないから、あとは私の遊びに使わせてもらうわね」彼女は自分の実力を彼らに見て欲しかった。それにこの残時間ならば、自分がショーとして技を見せた方が、彼らにこの空間の魅力を効率的に伝えられると考えたのだ。彼女は頭上に作ったワームホールの中へと跳躍する。マリーとユウトの視界から彼女の姿が消えた。彼女は既にワームホールを用いた空間跳躍により、相手プレイヤーのうちの一人の背中にその存在を陣取らせていた。彼女は左手の薬指に嵌められた指輪に右手を滑らせ、それによって出現したナイフを右手で軽く握る。ナイフの刃は赤子の足の小指ほどの長さしかない。彼女は右手の勢いを殺すことなく、その刃をプレイヤーの背中に押し込んだ。体力ゲージが音もなく零になり、プレイヤーはその姿を消す。そのプレイヤーの体力残量が限りなく満タンに近いことを彼女は知っていた。異常な形状のそのナイフが一撃必殺の特殊な武器であることも彼女は勿論知っていた。残時間は七秒。彼女はナイフを落す。残った二人の相手プレイヤーの体力残量を彼女は思い出す。右の奴が五十パーセント、左の奴が虫の息だ。どちらも距離はここからとても遠い。しかし同じ手は使えない。空間跳躍、一撃必殺はともに連続使用には制限が掛かる。彼女は左手中指の指輪をなぞり、まず保険のために自分の姿を透明化させる。透明化の持続時間は五秒。試合中に彼らに悟られることはもうあり得ない。彼女は左手親指の指輪をなぞり、体力が微量に残っている方のプレイヤーの足元に毒沼を生成する。毒の殺傷能力は非常に低く、彼女はいつもそれを足止めとして、沼として使用しているのだが、その毒で十分なほどに彼の体力残量は少なかった。左の体力が零になるのを待たず、彼女は右手親指の指輪をなぞり、右のプレイヤーを見据えた。彼女は発現した全長一メートルほどのスナイパーライフルを握り、構え、スコープ越しにターゲットであるプレイヤーの姿を覗く。銃身に添えた左手を動かし、十字レティクルがターゲットの丸い頭を美しく四等分すれば、彼女は迷いなく右手の人差し指でライフルの引き金を押し込んだ。プレイヤーの体が頭部を先行にして吹き飛ぶのがスコープ越しに確認することができた。そしてすぐにその存在は消滅する。彼女はスコープから目を離し、ライフルを地上に落とす。試合終了のゴングが聞こえた。彼女はコロシアムの中央に浮遊する巨大なデジタルタイマーを見る。タイムは残り一秒でそのカウントダウンを止めていた。毒沼の方にはもう誰もいなかった。彼女は深くため息をついた。簡単だ、と彼女は思った。なんて空虚な存在なのだろうか。嗚呼、神よ。人の心とは一体、何の冗談なのでしょうか。彼女は聖書を読むべきか考えた。しかしそれが間違いであることを彼女はよく理解していた。彼女はもう既に、自分と同じ姿をした神と出会っているのだから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る