第二章   愛の甕

 クリスは見誤っていた。カールの南部に位置する街、カラブスの治安のことくらいは当然のことのように認知していたはずだった。富裕層の占める中部は比較的安全であり、それに対し郊外はスラムとなっており、危険地帯である。ざっくりとした認識であったが、しかしその認識自体に誤りはなかった。むしろ今のこの状況がその証明となっているのだから。見誤っていたのはスラムの治安の悪さの具体的な程度の方である。まさか車にまで構わず絡んでくるとは。クリスは呆れていた。

「おいガキども! どけ! 轢くぞ!」クリスは運転席の窓を開けて、トラックの進路を塞ぐ子供たちに向かってそう叫んだ。

 ガキども。助手席でユウトもクリスと同じ認識をする。仮面で顔を隠している者が殆どだったが、その群衆の中に、少なくとも自分より身長の高そうな人間を認めることができなかったためである。それどころか一回りも二回りも小さい者が殆どのように思えた。子供たちの衣服はそれぞれ黒ずんでおり、中には布が十分に肌を隠し切れていない者も見て取れた。

「聞いてんのか! オイ!」クリスはそう言って、何度かトラックのエンジンを吹かしてやった。

 ゴミ処理場のようなスラム街に、カーゴトラックの轟音が鳴り響く。群衆の後列が僅かに散り、周りのゴミの山からは幾らか人が顔を出した。

「金目のモンを置いてきな!」群衆の方から若々しい声が響く。

「んだとオイ! どいつだ今言ったやつは!」クリスはハンドルを殴る。エンジン音にクラクションの音が混ざった。「舐めたこと言ってるとぶっ殺すぞ!」

「殺せねえからわざわざブレーキ掛けたんだろ? ゴチャゴチャ言ってねえで、金目のモンを置いてけっつってんだよオッサン!」喰い気味に先程と同じ声が返ってくる。先頭で仁王立ちをしている黒の猫耳フードの子供が一歩前に出た。「私らだって喧嘩がしたいわけじゃないんだ」

「テメェがリーダーだな?」クリスの声が静かになる。「こいつらどかせろよ」彼は顎で指示する。

「だぁから、飯の種になるモン寄越せばどくって言ってんだよ」先頭の子供が腕組みを解き、クリスを挑発するように右手を揺らした。

 クリスは舌打ちを一つすると、右ポケットからタクトを取り出し、車の中で僅かに揺らす。

 彼らの背後で、スラムのゴミの山の一部が浮き上がるのがユウトには見えた。

 暴動に参加していない人間の幾らかがゴミの浮遊に気がついたが、驚きが声になるよりも先に、それは群衆の目の前に落下する。トラックと子供たちの間に砂煙が立ち込める。彼らの反応をいち早く確認したかったのか、クリスはもう一度タクトを振るい、砂煙を掃った。見ると子供たちは見事に一人残らず腰を抜かし、それぞれが地面にその小さな尻をつけていた。

「どけろ」クリスは言う。

 力の差を理解したのか、群衆の殆どが悲鳴を上げ、必死に手足を使い、散り散りとなる。中には突風により仮面が剥がれ、泥だらけの素顔を露わにしている者もいた。 

「タクトを持ってんじゃねえか! あんた!」尻もちをついたまま、リーダー格の子供が目を輝かせる。「みんなぁ! こいつらタクトを持ってる! 何としてでも逃がすんじゃねえ! 裏市場に流せばみんなも中心に戻れる!」

 辺りが静かに騒めき出す。仮面の集団は勿論のこと、ゴミの山から顔を出していた者たちや、山に隠れていた者たち、寝床で体を休めていた者たちまでもが、体勢を整え、じりじりとトラックに近づいてくる。生地の少ない布きれを身に着け、虚ろにこちらへと近づく彼らの姿は、ユウトにはキャリアのそれと見分けがつかなかった。

「悪いねオッサン。ここは絶対通さねえ。そいつは私らの希望なんだ」リーダー格の子供は立ち上がる。「どかせたきゃ降りて、直接勝負しな」

「身の程知らずが」クリスはドアのロックを外すと、エンジンを切り、鍵を引き抜く。「ユウト、俺がこの馬鹿どもを散らす。その隙に荷台の嬢ちゃんたちを起こしてやれ」

 ユウトは状況の悪化を恐れる。「戦わせるんですか?」

 クリスは既にドアを開け、トラックの外に出ていた。「ビビらせるんだよ。戦力差を馬鹿にでもわかり易くする。お前も手伝えよ? 最強じゃないのは俺だけなんだから」そう言うとクリスはドアを勢いよく閉め、トラックから離れていった。

 ユウトはクリスの背中を眺めながら急いでシートベルトを外すと、彼を追いかけるようにトラックを降り、彼女たちのいる荷台の方へと移動した。

 

「オラオラかかってこいガキどもォ!」クリスの怒号がユウトの耳へと届く。

 ユウトは荷台のシートを捲り、差し込んだ光の中に彼女らを探す。しかし彼は一目で彼女らの姿を確認することはできなかった。どうやらもっと奥の方にいるようだった。「あの、起きてます? ちょっと手を借りたいんですけど」ユウトは闇へと問い掛ける。爆音と突風が車両越しに伝わる。それはきっとクリスの起こしたものだ。もし寝ていても無理矢理起こすべきなのだろうか、とユウトは考える。

「ユウト?」闇の中から芯のない声が返ってくる。

「クララさんですか?」

「ええ。どうしたんです? 車が止まっているようですが」

「現地の人に絡まれまして。クリスさんが今彼らを魔法でおどかしているんですが、クララさんたちにもそれの手伝いをして欲しいんです」

「構いませんよ」クララが光の下へと這い出てくる。衣服は昨晩のものとはまるで違い、デニムのハーフパンツと七分丈のTシャツというボーイッシュな構成だった。「あなたがたの願いはでき得る限り叶えるつもりですから」

 彼女の胸元の程よい膨らみからユウトは目を逸らす。「それじゃあお願いします。殺さないでくださいね」

「分かっています」クララはユウトの視線の移動に気づくと、妖艶な笑みを浮かべた。「ユウト?」

「なんです?」

「見てもいいのですよ?」言うとクララは胸元に指を掛ける。

 ユウトはそれを横目で確認した。「な、なにをしてるんですか」頬に熱を感じる。

「私は元々そういう器なのです。あなたの命令ならば、その先だって」クララは四つん這いになったまま、じりじりと距離を詰める。荷台と地上の高低差により、ユウトの目線の高さにはちょうど彼女の胸があった。クララの左手がユウトの黒髪に伸びると、やがてそれは顔の輪郭に沿って頬へと落ちていく。彼の心臓が高鳴り、視界が彼女の瞳を中心に歪む。血液は唸りを上げ、全身を駆け巡った。体が痺れる。全身に鳥肌が立ち、背中に汗が滲んだ。

「ユウト」彼女はそう呟いて、やがて両の瞼を閉じた。

「ちょ、ちょっと」ユウトは声を絞り出す。しかしそれは彼女には届かない。彼女の唇が近づく。彼がその目を閉じることはなかった。

「えい」

 彼の視界を肌色の何かが遮った。途端に彼女の唇が見えなくなった。

「うわあ! 舐めないでよ馬鹿!」

「イタッ」

 マリーの声がそこにあることにユウトは幾らか遅れて気がついた。視界の歪みが消え、彼はそこにマリーの姿を見る。彼の脳が目の前の状況を整理する。どうやらマリーが左手で、彼女の唇の接近を防いでくれたようだった。望んでいなかったはずなのだが、いざそれを逃してしまうと彼は少し残念な気持ちになった。

「ひはをはひはひは」マリーの左手が彼の目の前からどけられると、そこには舌を出して悶絶するクララの姿があった。目には涙の粒が見て取れる。どうやらマリーに頭を引っぱたかれ、舌を噛んでしまったらしい。

「エッチなことに逃げるからだよ!」マリーは荷台で胡坐をかき、腰に手を当てて言う。

「私はエッチなことがしたいんです」クララは口を尖がらせる。

「変態。ユウトも最低!」マリーはユウトに視線を向ける。

「なんで俺?」爆音とともにトラックが大きく揺れる。あちらの戦闘が激化しているのだろうか、とユウトは考える。「そ、それよりクリスさんの支援を。マリーも手伝ってくれ。周りにいる人たちを驚かせるんだ」

 マリーはしばらく目を細くしてこちらを見つめると、ため息をひとつ漏らす。「おじさん一人じゃあ辛いだろうしね。ほらっ、クララちゃんも行くよ」マリーは左手の人差し指をくるりと回す。

「ひゃあっ!」マリーのアクションと同時にクララが声を漏らす。見ると彼女の体が四つん這いの体勢のまま空中に浮遊していた。マリーは荷台の上に立ち、適当にストレッチをする。

「ちょ、ちょっとマリーさん! 自分で飛べますから!」クララは空中で激しく手足を動かす。

「ほっといたらまたユウトとエッチなことするでしょ?」マリーのストレッチがやがて終わる。「よし、レッツゴー!」彼女が左手を上げると、彼女らの体は間髪入れず荷台から飛び出していった。

 彼女たちの後を一陣の風が通り抜け、ユウトの漆黒の髪を乱す。自分も参戦しなければ。ユウトは荷台のシートを下ろすと、タクトを取り出し、クリスたちが対応できていないであろうエリアへと駆け出した。相手は三百六十度どこにでもいるのだ。同じ場所で戦うのはいささか効率が悪い。しかし結果的にその考えは、インフィニティであるがゆえの驕りだった。

 

 度々ゴミに足を取られながら荒野を走っていると、やがて爆音と突風は多方向から確認できるようになり、先程よりも激しく、発生するスパンも短くなっていた。彼女たちがしっかりやってくれている。ユウトは胸を撫で下ろした。彼もまた適当にタクトから炎の魔法を噴射させ、近隣住民を恐怖によって家に帰してやった。

「うわあああああああああああああああ!」

 突如、甲高い叫び声が聞こえた。ユウトは慌てて叫び声の主を探すが、彼の方から探り当てる前に向こうから位置を特定させるだけの十分な情報が伝わる。ちょうどユウトの右側にあるゴミの山に、上空から何者かの体が突き刺さったのだ。誰だか知らないがやり過ぎだ。できることなら怪我人も出したくないのだが。ユウトは足を止め、ゴミの山から生えるハーフパンツの下半身を眺めることにした。それの両腕がやがてゴミの中から現れ、自分の頭を引き抜こうと奮闘し始める。ユウトは手を貸さず、タクトを構えて様子を見ることにした。

「ぷはあ!」コミカルな効果音が聴こえそうなほどに勢いよく抜けたその頭には、見覚えのある黒の猫耳が付いていた。

 よりにもよってリーダー格か。彼のタクトを握る手に汗が滲んだ。

「ぺッ! ぺッ! くっさ! あーもう最悪」

 仮面が取れ、子供の性別が女だということが分かる。言葉遣いとは裏腹に少女の顔立ちは整っており、不思議とその顔は他の人間ほど泥で黒くなってはいなかった。無造作なショートの黒髪が、彼女の綺麗な顔立ちをより一層強調する。明らかに身を置く場所を間違っていそうなみてくれであった。ユウトは息を殺し、不意打ちをすべきか考えていた。

 少女の細くなった目の中で黒目がぎょろぎょろと動き始める。やがて彼女の瞳がユウトを映すと、まるで宝物でも見つけたかのようにその瞼が限界まで開いた。「あ! お前助手席にいた!」少女は人差し指でユウトを指し示す。そしてその視線はやがてタクトの方へと動いた。「お前もタクト持ってんじゃん! うっし! 私はツイてる!」彼女は体に染み入るほどに深くガッツポーズをする。「おいお前! 悪いけどそれ、貰っちゃうからね」

「い、いいのか! 俺はインフィニティだぞ!」ユウトは脅しのために体に力を入れる。何も考えずに力んだため、どういう形で魔法が出力されるのかは不安だったが、それは程よい爆風として彼を中心に発生され、辺りのゴミを撒き散らす程度に留まった。

「そんなの漏れ出してる魔法エネルギーを見れば誰だって分かるよ。あっちのおっさんが強いから試しにお前を叩いてみるだけ」少女は両手の指先をそっと地面につける。背丈と格好とが相まって、まるで本物の黒猫のようだった。少女はその臨戦体勢らしきフォームからすぐに攻撃に移ることはせず、ユウトを中心としてじりじりと円軌道に移動を始め、目標の観察に入った。

 先手を取るべきか? 最大火力で? しかし怪我はさせたくない。ユウトの頭の中でさまざまなプランが浮かんでは消える。

「雑念があるみたいだね。お兄さん」

 少女の言葉がユウトの意識に染み入る。「いつもこんなことしてるのか?」

「あぁん?」少女の目が細くなる。「悪いけど私はここの風習なんざ知らないよ。どいつもこいつも馬鹿だから、私がトップに立ってやってるだけさ」

「は?」ユウトは困惑する。「スラムに落ちたばっかりってことか?」

「落ちたとか、そういう人間を一括りにするような言い方をすんじゃねえ!」少女の黒のパーカーは前のチャックを閉められてはおらず、彼女の魔力の開放によって捲れ上がる。

 黒猫が毛を逆立てているみたいだ、とユウトは思った。

「確かにここにいるのはロクでもねえ奴らばっかだよ。ギャンブルに嵌まった奴、事業に失敗した奴、バイト生活に体が持たなくなった奴もいた。他人と喋れないから働けねえとかいう甘ったれもいたな。ゴミの吹き溜まりだよ。私はそいつらのことなんざどうだっていい。私が助けたいのは子供たち。さっき言ったゴミたちよりちょっとばかしマシなゴミの都合で産み落とされた子供たちだ。そのために私はスラムに降りた。知恵を持ってね」

「その知恵ってのがこれかよ」

「あぁ。通りすがる余所者から金品を毟り取る。そうやってカラブスの治安を最悪にしてやるのさ。そうすればいつかフィッツジェラルド王のお耳にも入るだろ。たとえそこまでいかなくとも、メディアが嗅ぎ付けてくれさえすれば私らは勝てるんだ。そしたら私は言葉を届けることができる」

「どんな言葉を届けるんだよ」

「ガキ産ませるときはそれ相応のチェックをしろって言うんだ。馬鹿どもの所得とか家庭環境とか、精神状態だって! どうにだってなるはずなんだ。なったはずなんだ!」

「痛ッ」ユウトは突如現れた後頭部の痛みを左手で押さえる。それは昨晩、クララとコンタクトを取ったときに感じた痛みと同じ種類のものだった。しかしその痛みは昨晩より強くなっているような気がした。

「ハッ、なんだい手負いかい? やっぱり私はツイてる。もうお喋りはいいだろ? 行くぜぇ!」黒のパーカーがさらに激しく捲れ上がり、やがて少女の両の瞳が真紅に光り出す。

 ユウトは少女から漏れる魔法エネルギーを本能的に感知する。魔力が強い。タクト無しでこれほどか。彼は少女のプレッシャーに耐えきれず、すぐさま火球の放出をイメージする。「っらぁ!」ユウトは発声と同時に、フェンシングさながらタクトを突き出す。タクトから直径二メートルほどの火球が放出されると、それはそのサイズに見合わないハイスピードで少女のいる座標へと着弾した。魔法による炎はゴミの山には引火せず、黒煙と靄だけをそこに残した。しまった、とユウトは思った。彼は即興で炎そのものをイメージしただけであり、サイズや火力等の火球のディティールまでをイメージに加えることを忘れていた。とても少女が瞬時に反応できるスピードではなかった。死んでしまってはいないだろうか。ユウトは靄の中に少女の姿を探す。

「こっちだよ」

 少女の声が響いた。全身に鳥肌が立つ。魔力の開放によるプレッシャーから、ユウトは彼女が背後にいることに気がついた。バリアを。ユウトは振り向きざま、自分を包み込む半透明な球体をイメージする。そしてそれは問題なく発生し、先程の火球ほどのサイズの膜がユウトの体を包み込んだ。ユウトは胸を撫で下ろす。少女は?

「残念」

 遅かった。声のする方向を瞬時に思考し、ユウトの至った結論はそれだった。聴覚が導いた答え、下方へと視線が動く。ユウトの視界に黒の猫耳が映った。ユウトは絶望しない。既にそれをする段階は終わっていた。これは答え合わせに過ぎないのだ。

「ハロー」上目遣いをした少女が、至近距離でこちらに手を振る。彼女は既に膜の中にいた。つまり彼女は膜が展開されるその前にそれ相応の距離に身を置いていた、ということだ。

 目の前の状況にユウトの意識が混濁する。結局、瞬時に次の一手は思いつかなかった。

「いただきぃ!」少女はタクトの握られた少年の右手へと跳躍する。

「うわぁ!」少女の飛び掛かりに驚き、ユウトは瞬時に両目を瞑る。しかしこれを取られるわけにはいかない。彼は強くタクトを握りしめた。

「ふにゃあ!」

 作り出した闇の中に少女の悲鳴が響く。握りしめた右手に違和感はない。恐る恐る瞼を開くと、なぜだか少女は再びゴミの山へと突き刺さっていた。

「ぷはっ!」コツを掴んだのか、少女の頭は先程より首尾よくゴミの山から引き抜かれる。「ペッ! 何? 弾かれた? 何に?」少女は黒くなった目を丸くする。

「ど、どうだ猫女! もう諦めて引け!」ユウトは無知のままに力の差を盾とする。

 少女は舌打ちをすると、右手親指の爪を噛み始めた。「まさか絶望してあの出鱈目なパワーなのか? つまりはエネルギー漏れの状態でも濃度が規格外ってことか。近付けないなんて噂以上だ。どうする。でもあのおっさんは強すぎるし。タクトはもう駄目か。なら」少女の瞳にやがて赤が戻る。体勢は先程の猫のものに整えられ、再びパーカーがゆらりと逆立った。「こっちは!」少女の両足が白く光る。少女は地面を一蹴りすると、ユウトの方へと蛇行しながら疾走を始める。スタートの瞬間に前足が地面から離れたところを見れば、あれが走るための体勢ではなく、走り始めるための体勢、即ちクラウチングスタートのそれであることがわかる。

 速い。ユウトのタクトが彼女を追うが、その照準はとても定まりそうになかった。像を結べなくなるほどのスピードではない。しかし芸術的に不規則な蛇行走行を見るに、それはとても生半可な攻撃で足を止められるような相手ではないことだけはわかった。彼女の瞳から零れる赤の閃光は、なぜだかユウトには涙のようにも見えた。下手な攻撃では底が知れる。バリアだ。ユウトはすぐさまイメージを変更する。いつの間にか消えていた半透明の膜が再び発現した。

「んがあ!」赤の閃光が半透明の膜にぶつかる。

 ユウトの目の前には、透明な壁に顔をぶつけて悶絶する少女の姿があった。「どうだ!」

「何が!」少女は腰を深く落とし、両手の指に力を込める。「シングルなんて!」少女が唸り声を上げると、やがて両手の爪が白く発光し始める。それは疾走の瞬間に彼女の両足から放たれた光と酷似していた。

 指先の光にユウトが集中していると、それがじわじわと五センチほど延長されるのが見て取れた。「インフィニティに魔力で勝負するのか?」

「こっちはクウィント乗せてやるよインフィニティ!」少女は両開きの壊れた扉を抉じ開けるように、両手の光の爪を膜へと突き立てる。彼女が体重を指へと乗せると、爪の先がやがて膜を貫通し始める。

「なんで!」ユウトは爪の侵入を見逃さない。

 少女はにやりと笑った。「本日二度目の、残念、だね」光の爪がそれぞれ左右に大きく移動し、膜の一部を引きちぎる。欠損した場所を起点としてバリアの全体が消滅する。あれだけ自信を持って展開していたバリアが、消えるときにはまるで泡のように一瞬だった。

「貰った!」少女はわずかに腰を落とし、それから膝を伸ばす。

 跳躍だ。ユウトは彼女の視線を追い、瞬時に判断する。彼はタクトに拒絶の思いを込めてにやりと笑う。馬鹿め、と。

「甘いよ」フェイントだ。少女は跳躍を中断し、一瞬にして彼の視界から消えるほどに深く姿勢を落とすと、彼の足を払った。

「がっ!」想定外な彼女のアプローチのために、彼は全身を地面に強く叩きつける。タクトは未だ手中だ。彼はそれを感触により判断する。

「このくらいの大きさならひと月は持つかな」

 彼女の声は満足そうだった。彼にはその意味がわからなかった。お前は失敗したはずだ。瞳を動かすと、そこには少女の生足が確認できた。彼は続けて自分の右手を見る。するとタクトもまた間違いなくそこにはあった。この勝負は俺の勝ちじゃないのか? ユウトは困惑する。

「んじゃ、確かに貰ったから」少女はご丁寧にユウトの視界の中にそれを持って行くと、挑発的に振り回した。

 いつの間に。ユウトは両目を見開く。突如視界に現れたのは、自分の左腕に巻かれているはずのブレスレットだった。状況のまずさを理解し、彼は息を飲む。地面に転がるゴミの悪臭が彼の焦りを増長させた。「返せ!」ユウトは全力で左手を伸ばすが、その手が届く前にブレスレットは視界の外へと引き上げられてしまう。「それは駄目だ!」

 少女は彼の頭を右足で踏みつける。「ふん。黒真珠くらいしかまともなお金にならなそうだけど、まぁいいや。どうせこれが限界だし」

「それは真珠じゃない! 俺の記憶なんだよ! それしか手掛かりがないんだ!」ユウトは彼女の左足首を掴む。このままアキレス腱を引き裂いてしまおうか。考えるだけで、彼にそれができるわけがなかった。考えている間に少女の左足は弱く光り出す。「熱ッ!」ユウトは光の熱に耐え切れず、彼女の足から手を離してしまう。

「往生際が悪いよ。勝負なんだからさ」少女はブレスレットを腕に装着すると、ポケットから爆竹とライターを取り出すと、爆竹に火をつけ、適当な場所へと放り投げた。爆竹は遠くでバチバチと破裂音を鳴らし、火花を散らす。破裂音がひとしきり鳴り終わると、少女は喋り出す。「あんたがバリアをシングルで張るからいけないんだよ。私のこと舐め過ぎ。一応国内で六位、張ってたんだからさ」

 少女の言葉は彼の耳には入らなかった。ユウトは少女を炎で吹き飛ばしてしまおうかと考え、そのイメージを整えている最中だったからだ。

「ユウトー! どこー?」聞き慣れた声がユウトの集中力を解く。その声は随分と間が抜けており、こちらの危機的な事態に気がついていないことだけは明らかだった。

「マリー! ここだ!」そう言った瞬間、目の前にある少女の脚部が光り、頭部への圧力が消える。

「あっ! ユウト! そっちは片付いた?」マリーはユウトの姿を発見すると、ふわふわと呑気に地上へと降下していった。

 ユウトは片膝立ちになると、少女の生意気な猫耳を探す。しかし少女の姿は見えなかった。「マリー! ここにいたガキはどこにいった?」

「ガキ? 見てないけど。どうかしたの?」

 ユウトはきつく瞼を閉じ、歯を食いしばると、やがて話す。「ブレスレットを盗られた。よりにもよって、ブレスレットを」彼は自分の太腿を殴る。

「え? ブレスレットを?」マリーはユウトの左腕を見る。「あれま。ほんとだ」

「なに間の抜けた声出してんだよ。俺の記憶の手掛かりなんだぞ! 唯一の!」ユウトはマリーの顔を見ない。彼女を責めるのは筋違いだ。このストレスを受け入れるのは自分の太腿であるべきなのだ。

「あぁ、それなら安心していいよ」とマリーは言う。

「は?」上げた視線の先には彼女の笑顔があった。

「むしろそれは、手掛かりが増えるチャンスだよ」

「ユウトー! マリーさーん!」

 ユウトの頭に浮かんだクエスチョンマークを掻き消したのはクララの声だった。ユウトとマリーは声のする方向を見る。見るとクララは、ゴミの敷き詰められた地面の上を滑るようにしてこちらに接近していた。摩擦を失ったような不自然な動きだ。つまりあれはきっと、念力によるものなのだろう。

 二人に対して適当な距離にまで近づくと、彼女は地面に足をつける。その挙動により彼女の体が若干地面から浮いていたことがわかる。「どうやらこちらの方々も退いたようですね」

「さっきの爆竹が撤退の合図だったのかな?」とマリーは言う。

「ええ、多分。私たちも早く離脱しましょう? 長居は危険です」

 ユウトはクララを一度見てから、再びその視線を自らの太腿へと落した。「駄目だ、ブレスレットが」

「どうかしたのですか?」クララはユウトへと近づく。

 マリーは頭の後ろで両手を組む。「盗られたんだって。ブレスレット」

「ブレスレットを盗る?」クララはユウトの寂しくなった左腕を見る。「こんなの次の目標が決まったようなものじゃないですか」

「うん。まあ取り敢えずはその泥棒さんを捕まえないとだね。おじさんに伝えないと」

「それではマリーさん、伝えてきてくださいな。空からの方が早く済みますから」

「テレパシーの方が早く済むと思うけどね」

「まぁ、おケチさんですね」クララは妖艶に笑う。

「クララちゃんはエッチだからね。ユウトと二人きりにはさせないよ」

「ふふっ、ばにら、クリスさんにテレパシーですよ」クララは空を撫で、やがて目を閉じる。

 ブレスレット強奪に対しての女性陣の反応に、ユウトの頭が段々と冷えていく。恐らくなんとかなるのだろう、と彼は思った。「なぁ、マリー」冷めた頭でクララの顔を見つめながら、ユウトは彼女について気になっていたことを口に出した。「クララさんの言うばにらってのは、結局のところいるのか?」

「んん? だからクララちゃん以外に見える人がいないってだけで、そこにはいるんでしょ?」マリーはそれがさも普通のことのようにそう言う。

「だからそれってつまり、いないってことなんじゃないのか? その結論で決着が付いたから、ビーズを回収できたんだろ?」

「ばにらちゃんの存在については残念ながらなんにも決着はついてないよ。重要なのは、ユウトがばにらちゃんの存在を否定することだったからね」

「ふうん」ユウトの思考が停止する。

「連絡、終わりましたよ?」クララは目を開く。

「クリスさん、なんて言ってました?」

「この辺りに車を置きっぱなしにするのは危険なので、クリスさんは先に中心街へと向かうそうです。車が必要になればテレパシーを寄越してくれ、と」

「さすがおじさん。フットワークが軽いね」

「それじゃあ早くあの黒猫を探しましょう。きっとまだ近くにいるはずです」


 午後五時にカラブス中心街にてホテルのチェックインを済ますと、部屋に荷物を置き、クリスは街へと繰り出した。夕焼けに照らされたメインストリートにはレストランやパブが立ち並んでおり、それぞれから活気溢れる声が弾み出でていた。先程までのゴミの山がまるで嘘のようだった。愉快な雰囲気に当てられ、クリスの気持ちは幾分か和らぐ。街の温度も快適だ。そよ風がクリスの肌を撫でていった。本来ならばユウトにも街を堪能してもらうつもりだったのだが。クリスは舌打ちをひとつ街へと落とす。何が悲しくてゴミの中でブレスレット探しなどさせなければいけないのだ。やがてクリスの足があるパブの前で止まる。ストレスを息に絡ませ、体の外へと放出する。もういい歳なんだ。切り替えよう。酒だ。なんなら女だって。クリスはストレスに背中を押され、店に吸い込まれるかのように木製の大きな扉を開けた。


「暗くなってきちゃったね」中心街へと沈む太陽を眺めながら、マリーは言う。

「今日はもう諦めて、クリスさんと合流しますか?」クララはサイキックにより持ち上げていたゴミの束を地上へと降ろす。

「きっとまた月が照らしてくれます。探せますよ」ユウトはゴミの束を持ち上げる。慣れない魔法のため、空中に浮遊するゴミの束からはぽろぽろとゴミが何個か零れていた。

 クリスと別れてから、彼らは基本的にゴミの山を漁ることによって、少女の影を探していた。この方法に至ったのには経緯がある。彼らはこの広大なゴミの海をひっくり返す中で、そこに身を潜める一人の老爺と言葉を交わしたのだ。ユウトは真っ先に猫耳の少女について尋ねた。すると老爺は答えた。「あの子、ジャンヌは、一週間ほど前に突如としてこのスラムに落ちてきたのだ。ここに来る人間の殆どは普通、絶望というか、生気を失った表情で落ちてくるものなのだ。しかし彼女の目はなぜだか凛としていて、澄んだままだった。それがとても不自然で、印象的だった。間もなくして、彼女はここの子供たちを集め、チルドレンという集団を作り上げた。それからは何も情報は伝わってきていないな。毎日のように余所者から金品を取り上げているようではあったが……。タクトを持っているようだな。彼女を探したいのならば、それでゴミの山をひっくり返してみるといい。彼女らはあちこちに『かまくら』を作っている。なぜだかチルドレンは定住を避けるのだ」と。そして彼は最後に、「できる限り、我々の住処を壊さないでくれよ」と付け加えた。手掛かりがそれしかなかったため、ユウトはそれにしがみつくしかなかった。

 マリーはふわふわとユウトに近づく。「ねえ、もっかい飛んで、探してみようか?」

「いや、ゴミの山をひっくり返したほうがいいだろ。三回飛んで駄目だったんだ。きっとあの人が言ってたように、どこかにかまくらを作ってるはず」

「うーん」マリーは不満そうな声を漏らすと、少し遠くの方へと捜索の足を伸ばす。やがて彼女は一つのゴミの山を観察し始める。目に見えるだけの住処が無いことを確認すると、彼女は左手の人差し指をくるりと回し、そのゴミの山を持ち上げた。

「それにしても効率が悪いですね」クララはマリーとは対照的に捜索作業を中断し、ユウトの方へと近づいた。彼女は両手を背中の後ろで組み、ユウトの顔を眺めた。「ねえ、そうは思いませんか?」

「住処を壊さないでくれ、と言われてしまいましたし」ユウトは浮かせていたゴミの山を降ろす。もっとも、その半分くらいは既に地面に落としてはいたのだが。

「無闇に人と話すものではないですね」クララは口を尖らせる。

 ユウトは彼女の言葉に耳を疑った。「なかなか乱暴なんですね」

「ええ、誰かさんと似てるでしょう?」

 ユウトは彼女の方に視線を向けない。誰のことを言っているんだろう。そんなことを思いながら、彼は自分もまた彼女と同じことを思っていたという事実を伏せた。

「ねえあんたたち、ジャンヌちゃんを助けることができるのかい?」

 それは初めて聞いた声、幼い少年の声だった。どこから響いているのかはわからなかった。

「下ですよユウト」クララは人差し指で地面を指し示す。

 彼女の指し示す先、つまりは足元に目を向けると、そこには少年の頭が生えていた。黒い髪の毛は整えられてはおらず、ぼさぼさに乱れていた。

「何してるんだ、君」ユウトは問う。

 少年は頭の角度を変え、こちらを見上げる。糸のように細い目が印象的だった。「遊んでるように見えるかな? なぜそう見える? 僕はなぜあなたがそう見えたのかが気になった」

 変な子だ。ユウトは素直にそう思った。「普通、地面に人が埋まってたら、頭のおかしい奴だなと思うだろ」

「思うね、そこが地面なら。しかしここら辺は一帯がゴミだ」

「屁理屈だな」

「問題なのはそこじゃないけどね」

 ユウトは少年の思考を理解することを諦めた。「なあ、お前チルドレンの一員なのか?」

「僕を登場人物に数えないでくれないか。僕はただのゴミ処理係だよ。上から雇われてここに来ているんだ。ここの人間とは関係がない。というか、すべての人間と関係がない」

「ゴミ処理係がゴミに埋まる必要は?」とユウトは問う。

「ゴミじゃないものがたまに紛れ込んでいるんだ。下層の方にもね。資源ゴミはリサイクルができる。分別は大事だ。ゴミとは名ばかりで、弄ればまた使えるからね」

「ふうん」ユウトは彼の話を頭に入れなかった。わざわざ体まで突っ込んでご苦労なことだ。「それで、そのジャンヌって奴は猫耳のことでいいのか?」

「ああ、猫耳のことでいい。彼女を助けてやってはくれまいか。あれはゴミじゃあないんだ。ここに置いておいてはいけない」

「助けるって、具体的に何をすればいいんだ?」

「それは会えば分かるよ」

「どこにいるんだよ」

「知りたいかい?」

 彼の回りくどい話し方はユウトに明確なストレスを与える。ユウトは頭をぼりぼりと掻き、ストレスの発生を喰い止めようとする。それは殆ど生理的なものだ。「お前が助けろって言ったんだろ。知ってるなら教えろ。こっちは大切なものを盗られてるんだよ、あのどぶ猫に」

「実は君が手放しただけだったりして」少年は嘲笑する。「まったく何度あれを手放すつもりだい? 記憶の残滓が泣いてるよ。怖いよー、怖いよー、ってな具合にさ」

「俺は必死に抵抗した。あれは俺が俺に辿り着くための唯一つのヒントだったんだ」

「君が本当に必死に抵抗したのなら、本来盗られるはずなんてないんだけどね。だってインフィニティなんだぜ? あんた」

「くどいですよ」話を断ち切ったのはクララだった。「ユウトをどうしたいのです」

 彼女の声が彼の意識を引き上げる。ユウトははっとする。今まで自分がどこにいたのかわからなかった。繋がれた首輪をぐいと引っ張られるような衝撃がそこにはあった。

 少年の首がぐるりと回り、その視線はクララの方へと向く。「仕組みを知ってるくせに、なに僕のせいにしようとしてるのさ」

「黙りなさい」クララは両手を強く握りしめる。彼女の視線は、少年の真っ直ぐな視線と絡み合うことは無かった。「そのような一部の暴走が結果的に全体の破滅を引き起こすのです。恥を知りなさい」

「だからそれがお門違いだって言ってるんだ。今感情を暴走させているのは君の方だろ。これだから脳タリンの赤の器は嫌いなんだ。恥を知るのはお前だ、女」

 クララの目が瞬間的に大きく見開かれると、彼女は目を閉じ、ある程度深く息を吐く。「ジャンヌさんの居場所を教えてください」

 少年はその細い目で彼女を観察すると、再びユウトの方へとその首を回した。「いいんだね?」と少年は言う。

「構わない」ユウトは意識の外側で答えを返す。言葉に心は乗らず、どこか業務的だった。

 少年はユウトを見て鼻で笑うと、その首をゴミの中へと引っ込めた。彼の頭があった場所には、底の見えない穴がぽっかりとその口を開けていた。彼を追うように周辺のゴミが途端にその穴へと流れ込み、彼の居た痕跡をすっかり消してしまう。

「無理はいけないよ。君が痛みに耐えられなくても、僕は別に構わないんだからね」

 ユウトの頭の中に少年の声が響く。濃度の高い空耳のようなもの。それはクララの使うテレパシーと同じ感覚だった。ユウトは静かな地鳴りを全身で感じる。空気がビリビリと揺れ、肌が痺れる。地鳴りとは名ばかりで、まるで世界そのものが雄叫びを上げているようだった。周囲のゴミたちが次第に浮遊を始め、空中のある一点に密集し始める。夕闇に照らされたそれらは多方向へと激しく回転し、やがて何かの形に収束する。浮遊したゴミたちは非常に多量であったため、その何かを模るために必要のなかった分は、力を失ったかのように地面へとぼとりぼとりと鈍い音を立てて落ちていった。

「ユウトなにあれ? クララちゃんのサイキック?」マリーは先程の経緯を知らないがために、未だ空中に浮くそのゴミの塊を横目にユウトへと接近する。

「ちょっといろいろあったんだ」ユウトは未だに自分の意識との距離を感じていた。「なあマリー、あれを取ってきてみてくれないか?」ユウトは指でゴミの塊を指し示す。

「ん? いいよ~」マリーは大きな翼を広げ、しかし羽ばたくことなく、ふわふわと上空へと昇っていく。

 ユウトから見て彼女は夕日を背にしていたため、彼女の姿はシルエットとなりユウトの瞳に映る。シルエットからは幾らか羽毛が零れ落ち、その姿はエルフというより、天使のように見えた。彼女のシルエットがやがてゴミの塊のそれへと辿り着く。まるで影絵のようだな、とユウトは思った。

「うおお! 上手!」影が品の無い声を発する。「ユウトー! わんちゃんだよわんちゃん! かわいい~。うげっ、くっさ! なにこれゴミでできてんじゃん」

「見えないから! こっちに持ってきてくれ!」ユウトは口に右手を添えて言う。

「はいは~い」魔法の放出を断ち切り、彼女は重力によって地上へと落ちる。マリーはユウトの視線の高さまで落下したのち、いつものようにホバリングを再開した。「はいこれ、わんちゃん」マリーの腕には、一メートル弱ほどの犬を模したガラクタが抱かれていた。「ダックスフンドかなあ?」

「胴長ですし、ダックスフンドでしょうね」クララは左手で顎を触り、真面目そうに犬種への意見を述べる。まるで名推理でもしたかのように。

 マリーの腕の中でガラクタがばたばたと手足を暴れさせる。「わわわ!」

 ユウトは品なく暴れるそのガラクタを見つめる。「いや、ゴミでできてるのに犬種も何もないだろ」

「差別はよくありませんよ?」

 クララのその指摘を的外れなものと捉えると、ユウトは地面を見回し始める。「ゴミ処理係はどこにいったんだろう」

「仕事場に戻ったのでは?」とクララは言う。

「このガラクタだけ置いて?」

「ガラクタじゃないんですよ、きっと」クララはマリーを見る。「マリーさん、その子を降ろしてみてくださいな」

「ええ~? なんで? どっかいっちゃうよ?」マリーはガラクタの頭部に頬を擦り付ける。「くさっ」

「試しに、ですよ。それにそのサイズの犬なら、逃げてもすぐに捕まえられますから」

 納得いかないというようにマリーは頬を膨らませたが、やがてそれはしおれ、小さな吐息となる。「まぁいいよ。しょうがないなあ」そう言うと、彼女は全身が地面と平行になるように体勢を変え、両の手のひらでガラクタを掴み、それだけを慎重に地に降ろした。

 地面に足を付けたら死ぬ呪いでも掛かっているのだろうか。彼女の不自然な行動を見て、ユウトはそんなことを考えた。

 彼女の独りよがりな愛情から自由になったガラクタは、そこらへん一帯の匂いを嗅ぎ始める。それは普通の、いわゆる動物の犬の仕草だった。三人はしゃがみ、ガラクタの動向をそれぞれ見守る。それに向ける気持ちはそれぞれ全く違っていたようだったが。

「この子の名前、ばにらにする」マリーは酷く低いトーンで言葉を落とす。

「それでは私の子と名前が被ってしまいます。それ以外にしてくださいな」

 突然三人を包んだ僅かな沈黙の中、ガラクタは息を細切れに吐き出し、体温の調整をする。

「え、なんか言った?」マリーは不思議そうな顔でクララを見つめる。

 クララもまた不思議そうな顔で彼女を見つめ返した。「ばにらではこの子と名前が被ってしまうから、変えてくださいと言ったのです」彼女はそう言って宙を撫でる。

「何と被るの?」

 マリーの発する言葉に筋が通っていない。傍から彼女らの問答を聞き流していたユウトにもそれくらいは分かった。会話において摩擦ならまだしも噛み合ってすらいない状態は、耳に入れるだけの立場の者でさえも大きなストレスになるものだ。何を言っているんだ? ユウトは彼女の顔に目を向けるが、その瞳はとても綺麗で、まるで彼女の底知れぬ純粋さをたたえているようだった。

 クララは彼女から目を逸らし、代わりにガラクタの方へと視線を向けた。ユウトは彼女のその仕草に不信感を抱く。厄介事には深入りしない性格なのか、と彼は思った。しばらく見ていると、彼女のそのグリーンの瞳が力強く見開かれる。マリーとユウトはクララを見つめていたため、ガラクタが変形する瞬間を目にしていたのはクララただ一人だった。

 彼女の横顔が赤い光に照らされ、彼にもまたほんのりと熱が伝わる。彼は異変を感じガラクタの方を見るが、既にそこにはなにもなかった。「あれ?」

「あそこです!」クララの指は遥か向こうの空を指す。夕闇の中、彼女の指の示す先には一番星のような鋭い光があった。

「ちょっと! やっぱり逃げちゃったじゃん!」マリーはその翼を急いで広げると、星へと向かって滑空を始める。彼女から抜け落ちた羽毛が、ユウトとマリーを目の前を通り過ぎた。

「やっぱりって、あんな逃げ方……。ユウト! 私たちも追いますよ! ばにら!」

「うわあ!」

 クララはサイキックによりユウトの体を浮遊させると、そのままサイコエネルギーを足の裏に密集させてゴミの上を滑走する。彼女と同じ移動スピードで彼の体もまた空中を飛ぶ。彼の視界の中を景色が次々と過ぎ去っていく。マリーはいつもこんな景色を見ているのだろうか。ユウトはふとそんなことを思った。

 

 扉を開けた瞬間、たくさんの笑い声と品の良い音楽がクリスを包みこんだ。いい雰囲気だ。クリスの口角が僅かに上がる。店内はその全てが立ち飲み席のようだった。客の何人かがそれぞれ進行中の会話を止めずに彼の顔を確認する。彼はポケットに片手を突っ込み、客を値踏みしながらパブのカウンターへと向かう。第一印象でさえもそれなりに胆の据わっている人間と認められなければ、こういう場所では信頼を勝ち取れない。彼は長い人生の中でそれを既に理解していた。どれくらい長い人生だったかはもう忘れてしまったが。

「ウイスキーのロックを」クリスはそう言ってパブのカウンターに半分に折られた千円札を乗せる。主人はスキンヘッドで、その肌は長い年月によりあちこちに皺が寄っていた。大きな特徴として彼は左目を縫い合わせていたが、それについてクリスが尋ねることはなかった。興味が湧かなかったためでもあったが、それ以上に現役時代に似たような人間を何度も見た経験があったことが理由としては大きかった。今更訊くまでもない。どうせ自分と同じ境遇だ。

「銘柄はどうなさいますか?」主人の目は細く、鋭かった。

「悪い、詳しくない。適当なやつでいいよ。あぁ、一番出てるやつ」

「かしこまりました」主人は微笑みを浮かべながら、既にカウンターに出ている瓶を手に取る。「初めて見るお顔ですね。どちらから?」

「出身地次第じゃあ飲めない酒でもあるのかい?」クリスは白い歯をちらりと見せる。

 主人は彼の言葉を味わうように静かに鼻で笑う。「ご冗談を」彼は後ろの棚からロックグラスを取り上げる。

「バージンのワイズだよ」とクリスは言う。

「バージンですか。すると、タバコでも?」彼は喋りながら氷を三つグラスに入れる。

「いいや、コーンだよ。タバコじゃあ自家消費ができないんでね」

「お吸いにならない。ここは嗜むお客様多いですよ?」彼は瓶のキャップを開け、グラスへとそれを注ぐ。

「臭いくらいは我慢できるさ。俺もそこまで子供じゃない」

「立派なことです。奥のテーブルの女には気をつけてください。彼女は商売に来ておられますので」彼はカウンターに無音でグラスを置く。「お待たせ致しました」

「どうも」クリスはグラスを手に取るとカウンターにもたれ掛かり、奥のテーブルにて一人で飲んでいるその女を観察する。全身白のミニワンピースで、下腹部には黒のレースが施されていた。その長い黒髪には、あのエルフの少女には決して出すことのできない特有の艶があった。既に適当に熟されてはいるが、その顔立ち自体は若さを残しており、整っている。可愛げが無く、酷く攻撃的で、そして酷く薄幸的な美しさだった。ロックアイスの融解を待つことなく、女を肴に彼は酒をひと口流し込む。混じり気のない酒の味。体中に有害なものが流れていく感覚。彼はそれらを堪らなく愛していた。息にアルコールを絡め、それをゆっくり体の外へと排出する。「営業妨害はいけないんじゃないのかい?」と彼は言う。

「旅の思い出がそんなことになってしまってはおもしろくないでしょう」主人は千円札をレジに入れ、そこから代わりに幾らかの銭を取り出す。「お客様」

「情報料だ。ありがとう」クリスは主人の方を一度も振り返らず、真っ直ぐに女のいるテーブルへと向かった。

 女は店の奥のハイテーブルに頬杖を突き、右手の指先でロゼワインを遊ばせていた。その指には淡い桃色のネイルが施されている。瞳は虚ろにグラスの中を見つめており、まるでワインの海の中に何かを探しているようだった。客の何人かは話を切り上げ、不憫そうにクリスを見つめた。彼は当然それらの視線には気がついていた。そしてそれが当然のように、足を止めることもなかった。「折角の夜に一人で飲むのも詰まらないでしょう」そう言ってクリスはそのテーブルに左肘を乗せる。彼の身長にそのハイテーブルは幾分か低く、その不安定な体制は下手をすれば腰を痛めてしまいかねなかった。しかし彼女との目線の高さは合っている。それは重要なことだ。彼のロックグラスの中で氷がからんと音を鳴らした。「酒は賑やかに飲むのがいい」

 女は何度かゆっくりとまばたきをすると、クリスの値踏みを始める。ワインをテーブルから取り上げ、彼女はやがて視線を逸らした。「連れが居ます。迷惑ですわ」

 クリスは姿勢を楽にする。「ご冗談を」彼は考えていた言葉を区切り、その隙間をウイスキーで埋める。女の艶のある声に彼は確かな興奮を覚えていた。しかしそれは性欲と言うには幾分か静かなものだった。魂の芯より絞り出された蜜のようにどろりとしたそれは、本能からではなくむしろ理性の方から零れ出たものだ。おもしろい。彼はにやりと笑うと、止まった時間を動かすようにグラスから口から離した。「その連れを、見繕いに来たんでしょう?」

 女の表情は怪訝なものへと変化する。しかし視線は再び絡んだ。「冷やかしなら結構です」彼女の声のトーンが下がる。明らかに営業用のそれではない。

「買いますよ」クリスはテーブルにロックグラスを置き、尻ポケットから長財布を取り出すと、それを彼女の視線の先で催眠術のように怪しく揺らした。「一番短いので幾らです?」

 彼女は彼の行動が腑に落ちないようだった。しかしこうなってしまっては客だ。逃がすのもそれはそれで馬鹿らしい。女は意を決するとワイングラスをテーブルに置き、クリスへと近づく。ヒールの音は木造の床に吸い込まれ、鈍い音色が店内の雑音に溶けていった。二人の腕がやがて絡みつく。「三十分、八千円」彼女は自分の肩にかけられた黒いハンドバッグに手を掛け、千円札二枚を迅速に取り出せるように準備する。

「なら八枚だな」彼は長財布の中で手早く紙幣を数え、やがてそれをテーブルに叩きつける。

 ハンドバッグから手を離し、彼女は呆れた。普通の客ならば、財布から一万円札を一枚抜き取り、彼女の手に握られた二枚の千円札と交換するものなのだ。麻薬の取引のように、音もなく、丁寧に。何かと思えば格好つけの貧乏人か。彼女は心の中で彼を嘲笑する。しかし、テーブルの上に叩きつけられたそれらの紙幣に目を向けた瞬間、彼女の沸騰した嘲笑の念は混乱という名の差し水をされ、あっという間に引いていった。

「それじゃあ五時間、楽しませてくれ」

 彼がテーブルに置いた八枚の紙幣は、それぞれ全てが一万円札だった。

 

「畜生! なんだコイツ!」

 ある程度飛行を続けると、その先から聞き覚えのある声がユウトの耳へと届いた。それは一時間ほど前に聞いたばかりの声。やっと見つけた、とユウトは思った。そこは既に中心街にある程度まで近づいた地点であり、向かう先では街へと繋がる巨大な門が、来る者拒まずと言わんばかりにその扉を開放していた。地面からはいつの間にかゴミが消え、代わりに綺麗な緑が育っていた。先でマリーが移動を止め、空を睨んでいるのが見えた。

「ステルスはどうなってるの?」

 ある程度彼女の声が近づいた地点で彼は辺りを見渡すが、なぜだか彼女の姿は見当たらなかった。ユウトの体の移動もまたマリーの隣で停止する。「どこにいる!」彼も彼女と同じように声のする方を睨んだ。

「この周辺で間違いはありませんね」クララは左手の人差し指を揺らし、自分とユウトの体を地上へとゆっくり降ろす。「出てきなさいな」返事は無い。

 三人が息を殺すと、自然とあのガラクタの細切れの吐息が聞こえるようになる。マリーはそちらの方向を指差す。それはユウトも既に見ている方向である。彼がクララの方を見ると、彼女もまた頷いた。後は仕掛けを暴くだけだ。

「ばにら」声を発したのはクララだった。「吹き荒れなさい」彼女が左手を振るうと、周辺一帯に強風が発生する。風は次第に強くなり、多種多様な子供の声が漏れ出すようになる。どこからそれが漏れ出しているのかは依然ユウトにはわからなかった。強風により巻き上げられた細かい砂が彼の肌を刺す。彼は光を消さない限界まで瞼を閉じ、目の前で起こる変化を見逃さんとする。

「妖精バリア!」マリーは魔法により強風を避ける。

「ちょっと! ステルスが乱れてる!」

 黒猫の声だ。そう思った途端にユウトの視界にて変化が起こる。そこにいたのか。景色の一部に電波障害のような乱れが発生し、軍隊蟻のように群れを成した子供たちの姿がそこに浮き出された。子供たちは風から身を守るために、それぞれが両腕で自分の顔を隠していた。

「チルドレン全員の魔力を導入した透過魔法、というところですか」クララは子供たちの大群を眺めてそう言う。彼女の髪は風に靡いてはいなかった。「ばにら、もういいですよ」彼女がそう言った途端に、まるで今まで何事もなかったかのように風がぴたりと止んだ。「いったい何人いらっしゃるのでしょうか、チルドレンは」彼女は目を細め適当に人数を数えようとするが、やがてそれが面倒になる。「先程より幾分か増えているようですが」

「黒猫は?」ユウトは子供たちの中に黒の猫耳を探す。しかし先に手掛かりを掴んだのは彼の目ではなく、耳の方だった。子供たちの悲鳴や混乱の声に混じり、特徴的なグロウルが聞こえたのだ。突風により統率を乱す子供たちの中、ユウトはグロウルの聞こえた方向を注視する。そして遂に彼は異常を見つける。そこにあったのは、他の集団に比べて密度の高い子供たちの塊だった。「マリー! あそこを調べてくれ!」ユウトは人差し指でマリーへと怪しい場所を伝える。

「あいあいー」マリーは敬礼をこちらに見せると、指を一度鳴らし、体に纏われた半透明の膜を解除する。彼女の体は移動を再開し、やがてその密度の高い集団の上空へと辿り着く。

 子供たちはそれぞれ手にした木の枝を振るい、魔法を発動する。「エルフだ!」「ぶっ殺せ!」それらは混乱の中でユウトが聞き取った子供たちの声だった。しかしマリーはその地点において再び半透明の膜を展開しており、彼らの放つ攻撃魔法を無効化しているのが見て取れた。もっともその膜がなくとも、彼らが発動できる魔法はせいぜい火花が良いところだったため、致死的な色は見えなかったが。

「わあ! 可愛いね、その服!」

 マリーのその甲高い声は、この程度の騒ぎには掻き消されないようだった。ビンゴだ、ユウトは思った。「クララさん、あそこまでの道を」彼はそう言ってマリーのいる方向を指差す。

「分かりました。ばにら、エネルギーをすべてこちらへ」クララは左の手のひらをマリーの方へ向けると、左手首を右手で締め付けて固定し、意識の集中を始める。彼女の左手が指先まで硬直したかと思えば、それから微動する。すぐにサイキックが発動し、彼女とマリーを繋ぐ一直線上にいた子供たちの体は次々と重力に逆らうように宙へと浮き始めた。子供たちはそれぞれに悲鳴を上げる。何の前触れもなく自らの体が三メートルも上空に浮かべば、それは当然の反応である。サイキックを受け宙に浮く子供たち、そしてそれを地上から眺める子供たちの中には、すぐにこちらに向かって木の枝を振るい、火花を放つ者もいた。

「彼らは今混乱しています。今はそれぞれが火花ですが、数が数ですので、偶然に一度でも上手く共鳴すれば、レーザー魔法くらいにはなりますからね」

 ユウトはクララの顔を見る。「守ってくれますか?」

 彼女は腕を固定させたまま、こちらへと柔らかな笑顔を向けた。「私はあなたの意思に答えることができます。それは何時如何なる場合においても、です」

 彼は彼女の笑顔を確認すると、子供たちの方へと向き直る。タクトを軽く振るい、半透明の膜を体の周りに展開させる。準備はできた。彼は意を決し、子供たちで構成された三メートル級の肉のトンネルの中へと潜っていった。

 

 肉のトンネルは彼らの体臭とゴミの臭いが混じり合い、強烈な悪臭を生成していた。あんな酷い環境で生活していれば当然のことだ。ユウトはそう思いながらも嗚咽を漏らす。

「殺せ!」「もっと魔力を込めろ!」子供たちは彼に向かって乱暴に木の枝を振り、火花をちりちりと散らす。偶然強く発生された炎でさえも、彼を覆う膜がそれを無慈悲に跳ね除けた。

「ジャンヌちゃんをどうする気ですか?」

 飛び交う罵声の中、ユウトは随分と落ち着いたその声を捉える。彼は上下左右あらゆる場所にいる子供を見渡すが、勿論子供たちの顔は全員仮面であり、声の主が早々に特定できるはずもなかった。「盗まれたものを返してもらうだけだ」彼は足を止め、話のできる子供を探す。

「僕を探す必要はないよ。チルドレンという概念が全を示し、個を包摂してくれる」

 ユウトは先程と同じ声を聞く。「お前は一人しかいないだろ。俺はお前と話がしたい」とユウトは言う。

「ブルジョアジーは思考が劣化していて駄目だな」

 ユウトは呆れる。「難しい話をする気はないんだ。俺は変な奴にあの黒猫を助けるように頼まれた。あの黒猫が助けるに値する人間かどうか測りたい。情報を寄越すんだ」

「彼女はお前らのような思考の停止した豚どもの中に現れた革命の使途。僕たちを助けるためだけにここに降りてきてくれた。それを助けるなんておこがましいにも程があるな」

 駄目だ、盲目過ぎる。「俺はジャンヌの情報を寄越せと言ったんだ」

「神の子を探ることなんて」

 ユウトは地面に唾を吐く。「今の話は全部なかったことにしろ」そう言うと彼はずんずんと力強くその歩みを再開する。トンネルの終わり、マリーと子供たちの塊のある地点までは、もうあと百メートルほどのようだった。

「それ以上神に近づくな」背後から聞こえるその声は先程と同じものだった。

 ジャンヌちゃんであり、神の子であり、神なのか。「思考の停止、ね」ユウトは皮肉交じりにそう言うと、纏わりつく煙を振り払うようにマリーの元へと向かって走り出した。

「ユウトー! これこれー! 可愛いよー!」マリーは彼の接近に気づき、子供の塊の中心辺りを空中から指差す。

「何が可愛いのか見せてみろ!」彼は走りを止め、彼女へと指示を出した。

「これー、可愛いでしょー?」彼女はいつものように無邪気に人差し指を揺らし、塊の中から子供を一人、空中へと引き摺り出さんとする。ユウトは上昇する子供に黒のフードと猫耳を認め、にやりと笑った。ジャンヌだ、とユウトは思った。空中へとゆっくり持ち上げられるジャンヌの右腕には、幾らかの子供が必死にしがみ付いている。まるで磁石に付着した砂鉄のように。

「痛い痛い痛い! 千切れる! もういい! お前ら離せ!」ジャンヌの叫び声を機に、子供たちがぽろぽろと地上へと落ちていく。ふう、と安堵の表情を見せる彼女の右腕には、あのガラクタの犬が噛みついている。

「こっちに寄越せばコメントしてやるよ!」ユウトはタクトを右手の指先でくるくると回し、左手の変形をイメージする。イメージの参考にしたのは、昨晩クララが見せてくれた、あの酷く暴力的で爽快感を感じさせる形だった。ジャンヌとのコンタクトはでき得る限りチルドレンのメンバーと離れた所で行うべきだ、と彼は考えていた。それが先程のチルドレンのメンバーとの会話によって彼が出した答えだった。年端のいかない子供たちに神様の底を見せるのはいささか不憫に思えた。この世における神の不在は経験の中で知るべきだと。あるいはこれが経験なのかもしれなかったが。

「ほら見てっ! 可愛いから!」マリーは指をくるりと回し、黒猫をこちらへと放り投げる。

「うわあああああ!」落下の恐怖を前に幼い神は叫ぶ。目の前で待ち構えるボクシンググローブの存在も知らずに。

「躾の時間だ」ユウトは赤のグローブが装着された左腕を、矢を引くようにぎりぎりと体の後ろへと持っていく。「クララ!」彼が言葉を発するよりも先に、彼女の周辺に密集していた子供たちの座標が、それぞれ安全地点へと不自然な力により引き離された。覗いてくれていたか、と彼は思う。彼女の落下に集中し、タイミングを読む。ここだ。やがて彼の深紅の矢が解き放たれる。人間味溢れる神様の降臨に合わせて。「よいっしょお!」彼の左の拳は彼女の頬に触れ、そのまま爽快に振り抜かれた。彼女の体はそれこそ矢の如く遥か遠方へと吹き飛んでいった。クリーンヒットである。彼女は悲鳴を上げなかった。胆が据わっているのか。あるいは失神しただけなのかもしれない。

「貴様よくもジャンヌちゃんを!」「神様ぁ!」子供たちはそれぞれが違う声で鳴き叫ぶ。しかしこれで彼らが、神が神でないことを知ることは永遠になくなった。憎しみはすべて持っていこう。彼らから神を取り上げられていいのは、神本人か彼ら自身だけだ。

「ねえユウト何してんの? 可愛くなかった?」マリーはとぼけた顔をこちらへと向ける。

 ユウトは機械が排熱するときのように、ふっと息を一度吹いた。「手が滑った。追いかけてくれ」そう言った途端、彼は自分の体に浮遊と移動を感じる。重力をなくした視界を揺らせば、そこには案の定彼女の姿があった。「これじゃあ言葉が要らないじゃないか」

「言葉は他人と交わすものですよ?」緑の髪を靡かせ、クララは含みのある笑顔を浮かべる。

「あっ! 待ってよ!」マリーは後ろから彼らを追う。彼方の夕空を見れば、未だに飛行を続ける米粒のようなジャンヌの姿が見て取れた。マリーはユウトのしたことの意味がよく分からなかった。昔からそんなことばかりだ。しかし彼女はそんな彼が好きだった。そんな彼だったから。


「あなた、そんなに元気なの?」女は少し笑うと、目を細め、クリスの目の中に嘘の色を探した。僅かな時間が彼女の混乱を溶かすと、その下からは侮蔑の念が顔を出してきていた。性欲処理に五時間を要する男を彼女は今まで見たことがなかった。しかも大金を払ってまで、だ。

 クリスは音もなく笑うと、少しのウイスキーを食道へと流してやった。酒は言葉をスムーズに発するための潤滑油だ。「元気には自信がある。まだまだ若い」彼はテーブルに手を付き、彼女の瞳を眺める。どうやらそこからは先程までの翳りが取り除かれているようだった。

「おもしろい人」そう言うと女は八枚の紙幣を手に取り、もう片方の手でクリスの手を握る。彼女の瞳がテーブルに置かれた飲みかけのロゼを映すことはなかった。「なら早く店を出ましょう?」

「いいや、まだ飲み足りない」クリスはウイスキーの残量を確認し、次のオーダーを考える。酒だけではなくつまみのオーダーを。

 女は過去の経験を軸として、彼が自分の體に求めているだろうことを考えた。自分の客が退店を拒む際に望んだこと。それがきっと今、彼の考えていることで間違いはないはずだ、と。「あら、ここで?」

 クリスは口に残っていたウイスキーを吹き出し、しばらくむせた。「馬鹿かあんた。俺はあんたの時間を買っただけ。あんたはこれから五時間、俺と喋って、食って、飲んでればいいんだよ」そう言うとクリスはグラスに残ったウイスキーを口の中へと流してやった。「何か食べたいものは?」

「え?」彼女は彼の言葉を頭の中で何度もなぞるが、遂にそれの意味するところを読み取れそうにはなかった。「食べて、飲んでるだけでいいの?」

「喋るのを忘れるな」クリスは人差し指で彼女を指差す。そしてその指は、やがてぴんと上を向く。「あっ、あんたの好きな食べ物、わかったぞ」そう言うと、彼はテーブルの上の残り少ないロゼのグラスに手を伸ばす。「飲み物は?」

「飲み物」女は聞き取った音を口から発し、再び聴覚を通して脳を刺激する。「ああ、同じものでいいわ」彼女の返答は混乱による余韻をそこに残した。

「同じものね」クリスは両手にそれぞれグラスを持ち、カウンターの方へと歩いて行く。歩きながら、彼がロゼのグラスに残った少量のワインを飲んでいるところを彼女は見逃さなかった。女はテーブルに右の肘を立て、火照った頭を軽く押さえてやった。

 

 しばらくすると、カウンターから彼が戻ってくる。両手にはそれぞれ代わりの酒が握られていたが、彼女にはそれがどちらもロックグラスに見えた。

「どうぞ」クリスはそう言ってグラスの片方を彼女へと差し出す。

 困惑しながらも、彼女は差し出されたロックグラスを受け取った。「なんで私までウイスキーなの?」

 クリスはとぼけた顔をする。「あんたが同じものをと言った」彼は素早く正確に返答する。それはまるで、あらかじめ用意されていた台詞のようだった。

 女は考える。同じもの。確かに二種類の解釈ができるが。「意地が悪いのね」

「おもしろい方が良いだろう?」クリスは子供のように歯を見せて笑う。

 女は彼のその無垢な表情に、細かいことを気にしている自分が馬鹿らしく思えた。「まあいいわ。仕事柄お酒は弱くないし」かと言って強いわけでもないのだが、と彼女は頭の中で付け加える。彼女は瞼を静かに閉じ、グラスに唇をつける。混乱のせいで、飲んでいる姿はいつもより様にはなっていないのだろうなと、彼女は思った。やがてその考えを巡らせている自分に気がつく。いつも様にはなっていないか。

「お名前は?」

 闇の中に彼の声が響く。女は周りの雑音が聞こえなくなっていることに驚いた。それは酷く久しい感覚だった。「イザベラ。あなたは?」イザベラは瞼を開く。自分の心臓の高鳴りが聞こえた。不思議な感覚だった。性欲は毎日呆れるほどに消費しているし、恋をするのに必要な分のピュアな心は当の昔に剥がれ落ちてしまっている。これはきっとそういった種類の興奮ではない。彼女はただ、目の前にいる謎だらけの男と、言葉を交わしたくて仕方がなくなっていた。

「俺はクリスだ」彼はグラスを差し出す。「素敵な夜にしようか」

 イザベラは口元を隠し、音もなく笑う。「今更ね」

「今更なんてことはないさ」クリスはグラスを揺らす。「乾杯」

「乾杯」ロックグラスが二つ、小気味のいい音を鳴らした。二人はそれぞれウイスキーを味わう。アルコールが体の内側から彼らの殻をどろどろと溶かしていった。

「ウイスキーが好きなの?」先に話を切り出したのはイザベラの方だった。

「いや、酒は嫌いなんだ」とクリスは言う。

 イザベラは呆れたように笑う。本当に食えない男だ。「無理に飲んでるの?」

「無理じゃないからこうやって飲んでる。俺はアルコールが入っていればなんでもいいんだよ」

「じゃあなんでウイスキーなの?」

「効率が良い。飲み易いし、それに嘘がない」クリスはグラスを眺める。

「嘘?」彼女は首を傾げる。理解のできないこと。それは他人の価値観を探るチャンスなのである。

「なんかさ、ザ・アルコールって感じがしないか? 危険な味に嘘が無いというか、とにかくそういう純粋な感じに惹かれるんだよ」

 純粋。それは今の自分から最も遠い概念の一つだ、とイザベラは思う。「純粋、ね」彼女もまた自分の手の中にあるウイスキーを眺めた。ならばなぜ。「ねぇ、なんで私に八万も出したの?」

 クリスはグラスから視線を逸らし、考える。「おもしろいと思ったんだよ」

「私が?」イザベラは顔をしかめる。

「あぁ、いい匂いがした」

「匂い?」イザベラはすぐに自分の左手首の匂いを嗅いでみた。半年ほど前に客から貰った香水の匂いがした。商品の名前は憶えていないし、何をモチーフとした匂いなのかも分からない。いい匂いだと思ったから、なんとなく使い続けているだけだった。それに根が貧乏性の彼女としては、使い切っていない香水を捨てるというのはそうできることではなかった。

「おもしろいものの匂いってのは、鼻で嗅ぐもんじゃない。いや、あるいは嗅覚も関係しているのかもしれないけれど」クリスは勝気な表情を崩し、空を見つめる。彼は彼自身が生んだ疑問の答えを探そうとしていた。「まあなんていうかこう、あんたからどろどろの蜜のような情念が匂ったんだよ」彼は軽いボディランゲージを交え、頭の中にあるイメージを表現する。

 イザベラは目を細める。「まあ、占い師か何かなの?」

「占いは好きじゃない」間を埋めるように彼はウイスキーを一口飲んだ。「ただ、考えているように見えた。何か大切なことを」

「大切なこと」イザベラは視線を彼から自分のウイスキーへと移し、グラスを回した。しかし焦点は酒そのものには合わなかった。彼女はもっと先にある何かを見ていた。

 クリスはその表情に見覚えがあった。そうだ。その表情が見たかったのだ。その表情の先にあるものが見たかったのだ。「酒には答えは書いてないよ」

 彼女は目を伏せ、やがて瞼を閉じた。「ええ」

「何があったのかな?」

「お待たせ致しました」会話を断ち切ったのは主人の声だった。右手の上にはトレイが乗せられており、その上には、少々大きめの皿と二つの取り皿、そしてラタン製のカトラリーケースが乗せられていた。焼けた肉のいい匂いが、クリスの嗅覚を刺激した。「ソーセージの盛り合わせでございます」そう言って主人は、トレイの上にある物を一つずつテーブルの上へと移していった。

「どうも」クリスはグラスを揺らし、返事をする。

「ごゆっくり」主人は軽く会釈をすると、カウンターの方へと戻っていった。

 イザベラはテーブルに置かれた皿の上のそれらを見る。ソーセージは、色、長さ、そして太さがそれぞれ違い、多種多様だった。「下品な人」

「好きだろ?」クリスは悪戯に笑うと、ケースから銀色のフォークを取り出し、皿の上に乗せられたそれらの中の一つに突き刺した。

「もうあまり好きじゃないわ」そう言うと彼女もまたフォークを取り、それを細長いソーセージに刺して、口へと運んだ。勢いよく噛み千切ったその断面からは肉汁が漏れ出し、噛む度に口内を質のいい油がコーティングしていった。

 クリスもソーセージを一口食べる。味の良さを確認すると、彼は口の中に残った後味をウイスキーで消してやった。「それはいつから?」

 イザベラも酒を一口飲んだ。「仕事を始めた頃にはもう嫌いだった」

「金に目が眩んだ?」

「お金でしか守れないものもあるから」

「あんたはそれを持ち合わせている」クリスは彼女の左手の薬指を見る。しかしそこには何もなかった。仕事中ならばそれは手掛かりにならないか、とクリスは思った。

「昨日までね」イザベラは遠い目をする。

 真実のため、瞬間的にクリスは良心を捨てる。「男にでも捨てられた?」

 イザベラは微笑みを浮かべ、口を開く。「あんまり女性にそうやってずかずか言うのは良くないわよ? 私は構わないけれど」

「回りくどいのは嫌いなんだ。時間が無駄になる」

「よっぽど時間が好きみたいね」

「時間は可能性だからね」

 可能性。イザベラは彼の言葉を頭の中で反芻する。「ねえあなた、子供はいるの?」

「いないね」

「そうよね」イザベラは、彼に子供がいる場合に聞こうとしていたことを胸の中へと落としてやった。それは既に喉元にまで出かかっていたため、押し殺すには少しの痛みを伴った。おかしなことだ。イザベラは話している間、彼が人の親だとは一度たりとも思わなかった。想いを吐き出したかっただけなのかもしれない。「子供のいる人がこんなお金の使い方、するわけないものね」イザベラは引きつった笑みを浮かべる。頬の筋肉はストレスを感じる。自分の焦りが表情として具体化されてしまっていることが簡単にわかった。

「子供のいる人なら金はどう使うのかな」クリスはフォークの先に残ったソーセージを口の中に入れる。溢れ出す肉汁をじっくりと味わう。

「可能性のためよ。子供の可能性のために使ってあげるの」イザベラはグラスを回す。食べかけのソーセージを、フォークが刺された状態のまま自分の取り皿の上に置いた。

「随分と含蓄のある答えだ」クリスは適当に言葉を連ねる。まるで、犯人を追い詰める際に探偵がその証拠を並べ立てるように、怪しく、意味有り気に。「子供を持ったことがあるのかい?」

 イザベラはグラスを静かにテーブルに置く。しかしそれを持つ手は離さない。グラスから伝わる冷気は彼女にとっての命綱だ。目を伏せ、唇は薄くぽっかりと開ける。頭がぼんやりとして、自分が返答を考えているかどうかもわからなかった。ジャンヌとの思い出が記憶の海からガスのようにぼこぼこと浮き出てくる。しかしそれらが像を結ぶことはない。それらはただ細切れに、彼女へとネガティブなイメージを送るだけに過ぎなかった。

 クリスは食道をゆっくり酒で濡らす。「話が止まってるよ」

 彼の言葉がイザベラを意識の海から引き上げる。「ここから先はあなたに関係ないわ」

「冗談」クリスはグラスをテーブルに乗せ、彼女に顔を近づける。「俺があんたの何に惹かれたか忘れたのか? 何の匂いに誘われたか」

 匂い。イザベラはそれをキーワードに、彼と交わした会話を頭の中で復元する。「どろどろの」真っ先に思い出したのは、彼の発した印象的な形容詞だった。「蜜のような」

 クリスは彼女の返答に満足し、その言葉の後を続ける。「情念」

「情念」イザベラは彼の言葉を反復する。「おもしろいものじゃないわ」

「それを決めるのはあんたじゃない」

「そんなに他人の身の上話が聞きたいの?」

「聞きたいから金を積んだ」そう言ってクリスはしばらくイザベラの沈黙を確認する。「ここからが本番だろう?」

 イザベラの口がゆっくりと開き、やがて音を作る。「長くなるわ」

「五時間以内には収めてくれよ」クリスは酒をひと口飲む。酒の残量が気になった。次はボトルでオーダーしてしまおうか、と彼は思った。

 イザベラは嘲る。「そんなにかからないわよ」。


 ある一定距離を高速で移動した後、クララは左手の人差し指をくるりと回し、自分とユウトの体の移動を停止させ、百八十度旋回する。空を見るとジャンヌの体は未だ遥か上空にあった。しかしその体は既に落下を開始しており、彼女の頭の方向はちょうどこちらを向いていた。クララが停止した位置は、おおまかに計算されたジャンヌの落下地点である。

「気絶してるんじゃないのか?」ユウトは自身の無重力状態を不快に思いながらも、飛行中のジャンヌの身を案じる。

「大丈夫です。既にばにらのエネルギーをテレパシーで潜らせていますから」クララはユウトに微笑みを見せると、すぐに表情を真剣なものへと変化させ、両手をジャンヌの方へと向けた。「おいで」クララがひと言そう呟くと、その手の周辺には緑色の光が漂い始めた。

「うわあああああああ!」

 黒猫の声だ、とユウトは思った。叫び声の発生はとても急であったため、彼はそれに違和感を覚えた。テレパシーで潜らせている。彼はクララの言葉の意味を頭の中で適当に考える。テレパシーでエネルギーを潜らせて、ジャンヌの意識そのものを停止させていたのだろうか、と。スイッチのオンとオフを切り替えるように。彼の視線の先にあった小さな黒点は急速に拡大され、ジャンヌの体は一瞬のうちにそのディティールまでもがはっきりと確認できるほどへと変化した。その途端、彼の視界はクララの両手から発生した緑色の淡い光に包まれる。何が起こったのか、クララが何をしたのか、視界を埋め尽くす緑色の光からは、彼はすぐにその内容を理解することができなかった。ただ、その光からは優しい森の匂いがした。それは昨日嗅いだばかりの深い森の匂いだった。

「おお! ナイスキャッチ!」聞こえたのはマリーの声と、彼女の拍手の音だった。

「どうも」クララはマリーの賛辞を受け取ると、周囲に大きく広がる光を自分の手のひらの中へと集約させていく。やがて光は全て消え、彼女は掲げていた両手をぶらりと下ろし、目を閉じる。彼女の呼吸は細く、深いものになっていた。光が最後まで残存していた座標には、ジャンヌの体が確認できる。ジャンヌは地表から一メートルほど上空で寝そべった状態のまま、きょろきょろとその目玉を動かしていた。意識が混濁した状態のままに、本能的に自分の置かれている状況を確認しているようだった。

「おい」ユウトはジャンヌに声をかける。

「おわっ! インフィニティ!」ジャンヌはユウトの存在を確認すると、体を痙攣させ、その目を丸くする。そして今やっと気がついたという風に、地表との距離に対して静かな驚きを見せた。彼女は再びユウトを見つめる。「おい、降ろせよ」

 ユウトは彼女の反応にうんざりする。自分の立場がわかっていないのだろうか。「俺がやってるんじゃない。文句はそこにいるボーイッシュな格好のお姉さんに言え」

 ジャンヌは目を細める。「騙されないよ。このお姉さんからは魔力を全然感じない。それに人の体重を支えるほどの浮遊魔法なんて高等魔法に該当するはず。インフィニティでもなけりゃあ、とてもこんな長時間安定させられるわけがない」

 そうなのか、とユウトは思った。「このお姉さんはサイキッカーだから、きっと魔法使いの常識は通用しないよ」

「サイキッカー」ジャンヌの視線がクララの方へと向く。クララは依然目を閉じたまま、一定の早さで呼吸運動を静かに繰り返していた。やがてジャンヌの視線はユウトの方へと帰ってくる。彼女は人差し指でクララを指し、話し始める。「じゃあ何、このお姉さんもエネルギーのジェネレイトが無限ってわけ?」

「さあ」ユウトは首を傾げる。「おーい、何してんだマリー!」彼は遠巻きに浮遊を続ける彼女の存在が気になり、堪らず呼びかける。

 名前を呼ばれるとマリーはこちらへと向かって移動を始め、やがて浮遊するジャンヌの隣でその移動をやめた。「いやいや、なんか二人とも真面目な顔してたから。そのまま接触するのかなあって思って」

 接触か、とユウトは思った。「場の空気を読むなんてガラじゃないだろ」

「失礼だなあ。昨日のクララちゃんのときだって大真面目だったでしょ?」マリーは眉をしかめる。「それが目的なんだから」

「うわ、こっちまで飛んでんじゃん」ジャンヌはマリーの存在を確認すると、軽蔑にも似た表情を見せる。「軍の人間ってのはみんながみんな無限ジェネレイターなの?」

「私はエルフだから、エネルギージェネレイトの源泉が人間とは別なんだよ」

 ジャンヌはマリーの背中から生えた白い羽を見る。「あぁ、あんたはエルフか。ということは世界そのものをエネルギーに変換してるわけだ。よく飢餓から生き延びているね」

「おかげさまで」

 また置き去りにされた、とユウトは思った。しかしそれが仕方のないことであることも彼は理解していた。それらはきっと記憶が戻れば自分にも理解できる会話なのだろう、と。「記憶」ユウトは呟く。そうだ、それが無ければ。「おいクソガキ、俺のブレスレットを返すんだ」

 ジャンヌは舌打ちをする。「ならこのふわふわした状態をなんとかしなよ。どうせあんたも身動き取れないんだろ」そう言いながら彼女はフードのポケットの中からブレスレットを取り出した。彼女は汚いものを摘むように、取り出したブレスレットを親指と人差し指の間でぷらぷらと揺らす。「こんなオンボロ、別にくれたっていいじゃないか。軍人なら儲けてるだろうに」少女はブレスレットに向かって言葉を細切れに発する。

「それがないとユウトの記憶が戻らないんだよ」マリーは両手を背中の後ろで組むと、自身の座標を移動させ、目線をジャンヌの高さに合わせてやった。

「記憶」ジャンヌはマリーの瞳を覗くと、再びその視線をブレスレットへと戻す。「メモリーチップでも埋め込まれてるの?」彼女は黒のビーズに目を凝らす。しかしその中に広がっていたのは、どこまでも純粋な黒だけだった。

「それは記憶を呼び起こす道具じゃなくて、記憶を証明する道具なんだよ」マリーは言う。その言葉の意味するところは、ジャンヌには勿論、ユウトにも理解することができなかった。

「ねえ、ほんとに必要なの?」ジャンヌは尋ねる。

 実際ユウトにも同じ疑問は常々付き纏ってはいた。それについて見て見ぬふりを続けてきたのは、それしか縋るものがなかったことと、きっと記憶の穴の中に、ブレスレットの効果を裏打ちする知識があるのだろうという予想に起因していた。ユウトは黙って彼女らの会話を聞くことにした。ここでマリーが納得のいく説明をしてくれるのならば、それは彼にとっても得なことである。

 マリーはとぼけたよう顔をする。「実際に上手くいったよ? ね、ユウト」彼女はそう言ってユウトの方へと笑顔を向けた。

 上手くいった。ユウトは頭の中で彼女の言葉を繰り返す。彼女の言うそれは、昨晩の超新星爆発のようなイメージの再生を指しているのだろうか。ユウトは考えたが、その多方向へと伸びた思考は、どれも何処にも繋がっているようには思えなかった。会話を続けるには不確定要素が多すぎたため、彼は彼女に対しての返答を即座に用意することはできなかった。

 ジャンヌは二人の息の合わない会話に呆れ、ため息をつく。「まあいいや、こうインフィニティだらけじゃ、きっとどう足掻いたって上手くはいかないんだ」

 マリーは首を傾げる。「インフィニティはユウトだけだよ?」

「理論的にはね」ジャンヌの返答は、まるでそれがあらかじめ用意されていたもののように首尾よく発せられた。彼女は退屈そうに右手の人差し指でブレスレットをくるくると回し始める。「ほら、返すから早く降ろしてよ」

「ああ」ユウトはクララの様子を伺う。しかしそこに目立った変化を認めることはできず、彼女は依然深い呼吸により、肩をゆっくり上下させるばかりだった。それを眺めると、彼はマリーに対して求めていたことのひとつを思い出した。「なあマリー、クララの様子が変なんだよ。何か解らないか?」

「んん?」マリーはクララの正面に当たる位置へふわふわと移動すると、顎に手を当てがい、目を細くして彼女の顔を睨みつける。しばらく観察すると、彼女はクララの瞼を指で開いた。「これ寝てるだけだよ。白目剥いてるし」クララの白目が気に入ったのか、彼女は声を抑えて笑った。

「寝てる?」あれだけ派手に超能力を披露した直後に睡眠に落ちるものなのだろうか、とユウトは思う。「ついさっきまで起きてたじゃないか」

「次々にエネルギーを使ったから疲れちゃったんでしょ」とマリーは言う。

「疲れるもんなのか?」ユウトは火球を打ち出したときの状況を思い出す。イメージ生成が難しかった感覚はあるが、特に生成後に疲れはなかったように思えた。

「クララちゃんは出力の仕組みが特別だから」彼の腑に落ちないという表情を見て、マリーは説明を付け加える。

「エルフのあんたも大概だけどね」ジャンヌは吐き捨てるようにそう言った。やがて一息ふっと吐き出すと、彼女は思い直したように言葉を紡ぐ。「ねえ、仕組みはどうでもいいから、早くそのお姉さんを起こしてくれないかな。これ以上私の時間を減らさないで」

「クララちゃーん」マリーはクララの透き通るほどの美肌に軽やかな往復ビンタを食らわせる。しかし反応が返ってくることはない。

 ユウトもジャンヌ同様、自由の利かない今の状況に少しの苛立ちを感じ始めていた。「なあ黒猫」自由への諦めにより脳がクールダウンする中、彼はふとジャンヌに用があったことを思い出した。「お前、ゴミ処理係の男の子と仲良いんだな」

「ゴミ処理係?」ジャンヌの返事には苛立ちの響きが認められた。「そんな知り合いはいないけど」

 いない。ユウトはその言葉を軽く咀嚼すると、すぐさまそれを体の外へと吐き出してやった。普段あれだけ大所帯で活動している彼女だ。一人くらい忘れてしまうこともあるのだろう。ユウトはそう考えると、用意していた話を続けた。ゴミ処理係の彼の言葉には、伝えるだけの価値があるように思えた。「お前のこと、ゴミじゃないって言ってたんだ。だから助けてやってくれって」

 彼の言葉はジャンヌを苛立たせる。情念が今にも自分という器から噴き零れそうになっていることが、彼女自身にもありありとわかった。だからこそ、彼女はそれを一旦抑えることにした。焦ることではない。どの道きっとこの会話は、自分が丁寧に作ってきた器の崩壊へと繋がっているのだ。何もかもが終わり、また始まってしまう。ジャンヌは直感的にそれを理解した。「で、あんたはそれをどういう意味だと思うのさ」

 ユウトは彼女問いを不思議に思う。「お前がスラムにいるべき人間じゃないと、そういう意味だと思った」彼は考えを纏めながら返答する。

 ジャンヌは自らの視界に映る彼の姿を不快に感じ、目を逸らした。「じゃあその助けるってのは?」

 ユウトは考える。彼女の問いに対する回答についてではなく、主に彼女がそれを問う意味について。「お前を中心街に戻してやれって意味だと」

「じゃあ、そのお前ってのは?」

 ユウトは首を傾げる。「お前はお前だよ」彼は顎をジャンヌの方へと揺らす。

「お前じゃ分からないね」ジャンヌは髪を雑に掻き上げる。「ちゃんと名前を言ってよ」

 名前。その回答は簡単である。しかし、ユウトは意図して彼女のことを名前で呼ぶことを避けていたため、その回答を言葉にして発することがとてもこそばゆかった。しかしこのままでは話が進まない。そう考えると、ユウトは意を決する。「ジャンヌ」

「だよね」ジャンヌは空中に股を広げて座ると、空を見上げる。「じゃあ母さんの知り合いだったのかな、その人」彼女は深く息を吐く。「こんなとこで働く人と知り合いなんて。いや、分相応って感じか」いつの間にか自分の激しい情念が冷めていることに彼女は気がついた。それは既に呆れの感情に近しかった。

「自分の母親をそういう風に言うもんじゃないだろ」とユウトは言う。「それに仕事している人を悪く言うな。まだ何も知らないガキなんだから」

「知らないのはあんただけだ」彼女の冷たい眼光がユウトを突き刺す。瞳は黒のままだが、その力強さは赤い瞳のときと似通った色を含んでいた。

 ユウトは彼女の過去について尋ねようと思った。無知を諭されてしまっては、知る努力をしなければ仕方がないだろう、と。しかしなぜだか口は開かなかった。その危険性を彼は知っていた。感覚的なものではあったが、そこには確かな匂いがあった。

 ジャンヌもまた何かを思考すると、やがてその鋭い眼光を自主的に抑えた。

 ユウトは視界の脇で何かが動いたことに気がついた。異変の方へ目を向けると、マリーがこちらへとある程度の速度で飛んできているのがわかった。

「あだっ!」マリーはある地点まで近づくと、何かに頭をぶつけるような仕草を見せる。彼女のその様は、窓ガラスに体をぶつける間抜けな鳥をユウトに思わせた。「痛ぁ……」彼女は自らの額を両手で撫でる。

「なにしてんだ?」とユウトは尋ねる。

「接触! 接触するから!」彼女は痛みによる涙でその瞳を潤わせながら、必死に何かを訴えていた。

 接触。ユウトは思い出す。それは先程、そして昨晩聞いた言葉だ、と。途端にマリーの姿が視界の下方へと置き去りにされ、やがて消えた。彼は自分の体が音もなく上空へと浮上していることに気がついた。「マリー!」ユウトは地上に残されたマリーを見る。彼女の姿は既に米粒ほどまでに小さくなっており、彼はそのあまりの高度に目が回りそうになった。

「おいインフィニティ!」

 響いたそれはジャンヌの声だった。ユウトが声のする方を確認すると、そこには案の定彼女の姿があり、だんだんこちらへと近づいてきていた。彼女もまた混乱の表情を浮かべ、彼と同じ高度を浮遊していたのだ。

「どういうつもりなんだよ!」彼女の混乱はやがて怒りへと変化する。ユウトのすぐ隣にまで彼女の体は接近し、やがて止まる。

「わからない、なにがなんだか……」そう言った途端、彼は重力が全身に適用されたことを感覚的に理解する。突如浮力が消え、体が落下を始める。同時にジャンヌもまた落下を開始しており、その落下スピードはお互い同じ加速度で早くなっていった。

「魔法!」落下の最中、ジャンヌは風の唸りに負けないように、ユウトへと大声で端的に指示をする。それはインフィニティの魔力を当てにしての物言いだったが、つい先日簡単な魔法の使い方を覚えたばかりの彼が、即興でその状況を打開させるだけの魔法を見繕えるはずもなかった。

 吹き上げる轟音の中、ユウトはノープランのままタクトを取り出し、がむしゃらにそれを振るう。変化はなかった。当然である。脳の殆どの領域を死の恐怖が占領してしまっているのだから。イメージが創れないのだから。地表の接近は一向に止まることはなく、遂に彼は死の許容を意識し始める。

 駄目だ、この男は使えない。彼の表情から絶望を読み取り、ジャンヌはタクトの握られた彼の右手へと必死にしがみ付く。また拒絶による跳ね返しを食らえば、後は地面に体を打ち付けて死ぬだけだ。そう彼女は思っていたが、死の恐怖に満たされた彼の心からは、拒絶の想い、即ち跳ね返しが発動することはなかった。彼女は彼の右手越しにタクトを握り、強く魔法エネルギーを送り込む。しかし問題はその先にも残存していた。「なんで!」ジャンヌは叫んだ。彼女の送り出す魔法エネルギーに、彼のタクトが反応を見せなかったためである。しかしそれでも彼女はエネルギーを送り続ける。死が確定するまでにはまだ時間はある。その僅かな時間の中で、彼女は何度も何度もエネルギーをタクトに対して放出し続けた。折角タクトを掴めたのにそのタクトがバグるなんて……。死は既に確定しているのかもしれないな、と彼女は思った。しかし彼女はそれでも生を諦めることはしなかった。自分の力で乗り換えた運命の先が死だなんて、いくらなんでも詰まらな過ぎる。

  

 地表に体を打ち付けた記憶はある。自分の体の落下速度が瞬間ごとに急激な上昇を続け、地上に生えた細やかな緑が次第にはっきりしたものへと変わっていった。下方から吹き上がる風が髪の毛を千切れるほどの勢いで靡かせ、突如目の前に現れた不可避的な死の恐怖に、下腹部がキリキリと痛む感覚。すべてを覚えている。しかしそれらの衝撃的な出来事による残滓が視界のどこにも認めることはできなかった。ジャンヌの目の前に広がる光景は、その一面が見慣れたゴミの山になっていたのだ。言葉は出なかった。先程まであったはずの死の恐怖を処理するのに、脳がすっかり疲れてしまっているようだった。ひょっとしたらここはあの世なのかもしれない、ジャンヌはそう思った。

「あの世じゃないよ。まだ君は死なせない」

 ジャンヌは声のした方向へと視線を向ける。見るとそこには、ユウトの縮尺をそのまま少年のものへと合わせたような男の子がいた。ジャンヌから見ると、ユウトは少年というより、青年というか、お兄さんというイメージが強かった。その点、目の前に現れたその自分と同年代ほどと思われる彼からは、ユウトから感じた精神上の威圧感を覚えることはなく、彼に比べて幾分か居心地が良かった。彼の黒の髪の毛はぼろぼろに乱れており、身に纏う布はチルドレンの子供たちが使うそれにとても似通っていた。その身なりもまた、彼女の緊張を解きほぐすのにいい役割を果たしてくれた。「寒くない?」ジャンヌは柔らかい笑顔を彼に向ける。それは、ユウトたち相手には一度も見せることのなかった種類の笑顔だった。

「僕には構わなくていいよ。僕の中には何もないから」

 ジャンヌは少年の底を探ろうと彼を注視するが、彼の表情には感情を乗せた微細な変化すらも認めることができず、そこには手掛かりと言えるだけものが何ひとつとして存在しなかった。そしてまた反対に、彼の冷たい視線が自分の底にまで届いているような感覚があった。これ以上はまずい。ジャンヌはそう思うと、少年の瞳を覗くのを止めた。

「また目を逸らすんだね」少年は、彼女の視線の僅かなずれを見逃さない。またも表情は動かず、まるで口周りの筋肉だけが、他の筋肉と独立して動いているようだった。「まあいいや、未だ目覚めていないけれど、彼も呼んでしまおう」そう言うと、少年は首を九十度回し、何かを見る。

 ジャンヌは彼の視線の先を追いかける。するとそこには巨大な十字架がそびえ立っており、その中心には磔にされたユウトの姿が確認することができた。「だっさ」本当にこれがインフィニティなのか? ジャンヌは失望する。しかしショックは感じなかった。自分が他人への失望にいつの間にかすっかり慣れてしまっていることに彼女は気がついた。ジャンヌはそびえ立つ十字架を適当に観察する。するとそれは、自分が今足を置いている地点の遥か下方より生えていることが分かった。そしてここで初めて、彼女は逆算的に、自分もまたゴミで埋められた地表を遠く見下げる高所に身を置いていることに気がついた。見ると、足元は直径五メートルほどの薔薇の花畑だった。薔薇は色とりどりで、中には科学技術でなければ出せないような不自然な色のものも確認できた。「なにこれ」

「器の柱だよ」少年は言う。彼の足元にも地表から生える長い柱が存在している。しかし彼の立つ柱には一切の薔薇は育っておらず、まっさらだった。「あぁ、僕のこれは間に合わせだから」彼はとんとんと柱を蹴る。

「ここはどこなの?」ジャンヌは異常の観察を切り上げ、話す。

「おやおや、口調が優しくなってるよ? いいの? それで」少年はわざとらしく首を傾げ、何かを企むように音もなく笑った。「いつものように喧嘩腰でいないと、君が顔を出してしまうよ」

 少年の発する言葉にはネガティブな響きが含まれており、それは彼女がまだ閉じたばかりの柔らかな心の扉に、不吉な音をきしきしと立てた。「何か知っているの?」

「あんたが知っているんだろう? 国内六位様」少年の目つきが鋭くなる。

「それは褒めてるのかな。それとも貶してるのかな」彼女の態度から甘さが消える。

「勿論褒めてるよ。町内六位でも州内六位でもなく、国内六位なんだからね」

「国内一位でも、世界一位でもないんだ、私は」ジャンヌは自分の右手を見る。「でもいいんだ。私はもうあの人とは違う。もっと大切なことを見つけたんだ」

「それが逃げることかい?」少年の口角が僅かに上がる。

 ジャンヌは少年の言葉を真っ向から否定することはできなかった。だからそれを飲み込み、別のアプローチを試みることにした。「弱い立場の人間を助けたいと思ったんだ」彼女は手探りのまま言葉を紡ぐ。認めていない罪を赦してもらうために。

「自尊心を保つため? ゴミのような人間の上に立って楽しかった?」

「だからあの子たちは被害者なんだよ。ゴミなんかじゃない」

「正しいよ。でも被害者は君もなんだ」少年の姿がジャンヌの視界から消滅する。「ゴミのような身分からのし上がっている最中の君が、他人の心配なんかするべきじゃない」

 少年の声が格段と近くなる。ジャンヌが視線を動かすと、彼は既に自分と同じ柱の上に身を置いているようだった。彼女は驚かない。今の彼女にとっては、目の前で繰り広げられる些細な異常より、進行される致死的な問答の方が重要だった。視界の端で、彼の使っていた柱が音を立てて崩れ始めていた。「のし上がっている最中」彼女は言葉を繰り返した。

「間違ったことは言ってないよね? 両親は離婚、母親は水商売だもん。ド底辺もいいとこだ」少年は嘲笑混じりに言う。

 ジャンヌの拳は脊髄反射的に放たれた。脳を介さず、彼女の魂が、目の前の人間は殺して問題の無い人間だと、そして今すぐに殺してしまえと即座に判断、命令したのだ。しかし振るわれた彼女の拳の先に、既に少年は存在していなかった。

「でも君はその一対の脚で国内六位のスピードを叩き出した。絵空事のようなサクセスストーリーだ。これだけのことをしてのし上がっていないと言える人間がいるとするなら、それは嫉妬以外にはあり得ないよ」少年の音は止まらなかった。「初めて負けたんだよね。それでいじけちゃってるんだ」

 ジャンヌは瞳孔が開いたままの目で少年の姿を探す。やがて彼女は、体を上下さかさまにして空中を浮遊する彼を見つける。その様は彼女にマリーの姿を思い出させた。必死に走り続ける人間を傍目に、ふわふわと呑気に空を飛ぶ生意気なエルフの姿を。「あの人の、母さんの差し金か? それとも連盟の関係者?」

「残念ながら誰の依頼でもない。これは通常業務の一環。だから僕の分け前もいつもどおりさ」

 ジャンヌは目を細くする。「警察の雇われか、更生保護施設の人間か?」

「いいや、僕はしがないゴミ処理係だよ」

 ゴミ処理係。ゴミ処理係の男の子。ジャンヌは聞き覚えのある言葉を頭の中で連想する。そうだ、それは今磔にされているあの頼りないインフィニティが言っていた言葉だ。「するとあんたがゴミ処理係か。あのインフィニティから聞いたよ」

「ふうん、じゃあ話は早いね。ならもう文句は無いだろ? さっさと助かってくれないか」

「あんた話聞いてなかったの? 私はチルドレンの皆を幸せにしてあげたいの」

「チルドレン」少年は遥か下方の地表を指さす。「あの子たちのこと?」

 ジャンヌは彼の指の示す先に視線を持っていく。見ると地上では、おびただしい数の子供たちが群れを成していた。彼女は彼らがチルドレンのメンバーであると即座に判断する。彼らはそれを裏付けるだけの粗末な身なりをしていたし、何よりチルドレンの証である仮面を一人残らず装着していたためである。しかし同時に、自分がいつの間にか仮面を失っていたことに気がついた。記憶には幾つか穴があるようだった。そのどこかのタイミングでなくしてしまったのだろうと、彼女は適当に答えを出す。それより今は目の前の問題だ。「あの子たちまでこのおかしな空間に入れたのか」彼女は言う。

「おっ、よくここがおかしな空間だってわかったね」

「私の住み慣れたスラムにこんなふざけた柱はないよ」ジャンヌは靴の裏で柱をこんこんと蹴ると、柱の淵まで素知らぬ顔で歩いていく。「おーいみんな! 浮遊魔法で降ろしてくれ!」彼女は地上の彼らへと大声を張り上げる。あれだけの魔力の塊があれば逆転の可能性は大いに生まれてくるだろう、と彼女は考えた。

「みんな、じゃ誰も反応できないでしょ」少年は彼女の背中に言葉を浴びせる。「ちゃんと名前で呼んであげなきゃ」

 ジャンヌは口を薄く開いたまま、虚ろな目で子供たちの仮面を見渡す。地上にいる子供たちは僅かな雑音をも発することなく、皆が皆じっと彼女の目を見つめていた。

「ん、どうしたの? 名前だよ名前。もしかして忘れちゃった?」再び少年は嘲笑する。「忘れられるわけないよね。憶えてすらいないんだから」

「あんた、一体どこまで知ってるんだ」

「君が助けたかったのは誰だったのかって話」少年はジャンヌの言葉を無視する。

 ジャンヌはまるで自分の言葉が蒸発し、消滅してしまったかのように感じた。しかしその理由を彼女は即座に理解することができた。自分の問いがナンセンスであったためなのだと。彼は自らを空っぽであると言い切っていた。彼女は考える。きっとそれが答えなのだと。ならば、やはりそうだ。これはどう足掻いても、私が罪を償う物語だ。「私が助けたかったのは」

「お前が助けたかったのは」地上を見下ろす彼女の傍らに少年は接近し、やがてふわりとその体を寄り添わせる。小さい腕が彼女を包む。それは決して痛みを分け合うための行為ではない。執行者として、罪人の自覚を確認するための行為である。

「私だ」ジャンヌの瞳に力が宿る。途端に視力が極端に強化され、子供たちの中の一人にしっかりとその焦点が合う。それは魔法の効果だったのかもしれない。しかしこの時の彼女にとって、異常の正体については些細な問題だった。焦点の合った子供はその右手を自らの仮面へと持っていく。仮面を外し、地面へぽとりと落とす。子供の仮面の下には自分の顔があった。それは今より随分と昔の、ちょうど初めてかけっこで一位を取った頃の自分の顔だった。「ごめんね。私、逃げちゃった」ジャンヌはぎこちない笑顔を見せる。彼女の声には優しさの色が含まれる。

「うん」地上から少女が幼い声を届ける。口の開閉こそ確認できたが、その声はなぜだかとても近く、まるで自分の中から響いているようにジャンヌは感じた。「でも、戻ってきてくれたから。だから嬉しい」少女は飾り気のない綺麗な笑顔を見せる。それを機に、他の子供たちもまた次々に仮面を外し、地面へと落としていく。そこにいる子供たちは、皆それぞれジャンヌの顔を持っているようだった。

 ジャンヌの笑顔もまた次第に柔らかいものへと変化する。「ねえ、一つ訊いていい?」彼女は初めに仮面を外した少女に問い掛ける。自らが罪を犯した動機について、彼女には一つだけ腑に落ちないことがあったのだ。

「なあに?」少女は首を傾げる。

「あなた、走るのは好き?」

 少女は目を伏せる。「わからない」

 わからない。やはりそうか、とジャンヌは思う。

「でも」少女はやがて伏せた目を上げ、ジャンヌを見据える。彼女の瞳はどこまでも純粋なままだった。「私、お母さんのこと大好きだから」

 彼女の突然の告白にジャンヌは呆気にとられる。しかしそこには力強い真実の響きがあり、未だ柔らかなジャンヌの心の扉を解き放つには十分過ぎるインパクトがあった。「今そんなこと訊いてないでしょ」ジャンヌは笑いながら答える。「ありがとう」

「うん」少女はこちらに満たされた笑顔を見せると、大きく両腕を広げ、周囲の子供たちの姿を一通り見回す。「みんな」少女の声を合図に、周囲の子供たちが一斉に彼女の方を向く。子供たちの体内からは眩い光が溢れ出し、やがてそれは子供たちの姿をジャンヌの視界から隠していく。

 眩しい。ジャンヌは反射的に光を腕で遮った。

「もういいよ」耳元で響いたのはゴミ処理係の声であり、それはジャンヌがその視界を封じてから三秒ほどが経った後の出来事だった。

 わざわざ指示を貰わなくとも、腕越しの光の強弱により異常の終幕は自分で判断できるのに。ジャンヌはそう思いながら腕を視界からどかし、地上の少女へと目を凝らす。見ると地上には既にその少女以外の人間がおらず、彼女の胸には緑色の光を放つ巨大な真珠のようなものが抱かれていた。「なに、あれ」

「儀式の終幕だよ。もうすべて理解できたようだから」少年の腕がジャンヌの体から解かれると、彼は磔にされているユウトの方へとゆっくりと飛んで行った。

「さあ、新たな門出だね」それは少女の声だった。しかしその声からは先程までの純粋さとは別の誠実さを強く感じることができ、まるで別人の声のようにも聞こえる。

 ジャンヌは少女の姿を地上に探す。しかし、そちらにはもういないことを薄々彼女は理解していた。声の響きが違った。その声は脳からではなく、明らかに彼女の鼓膜を揺らしたのだ。ジャンヌは振り返る。見ると少女は既に彼女と同じ柱の上に立っていた。距離は目と鼻の先である。ジャンヌは言葉を発さなかった。少年の言葉どおり、すべてを理解していた。これは罪を償う物語ではない。これはきっと罪を背負う物語なのだ。背負う覚悟を手に入れる物語なのだ。

「あなたはあなたの像を結ばせた。後は受け入れるだけ」少女はそう言うと、両手で緑の真珠をこちらへと差し出した。「取って」

「待って、まだ自信が無いんだ」ジャンヌは頭を抱え、後ずさりをする。しかし彼女は既に柱の淵に立っており、もうそれ以上後ろに足を乗せる場所は残されてはいなかった。

「逃げても構わない。未来を少し失うだけだから」少女は優しく笑う。「でも私は知っている。あなたが決して未来を諦めたりできないこと」

「どうして?」

「未来は時間の集合体だから」

 時間、それは可能性。そうか。「なら、諦める訳にはいかないね」ジャンヌはしかし諦めたように力なく笑った。それは未来へ対しての諦めではない。それは逃亡、及び休息に対しての諦めである。私は闘わなければいけないんだ。走り続けなければいけないんだ。そしてそれは、もっと以前に定められていたことだったのだと。

「闘いの先には栄光としての逃亡が、義務としての休息が待ってる」

「馬鹿だね。何も分かってない」ジャンヌは笑う。しかしそれは先程とは別の、覚悟により裏打ちされた清々しい笑みだった。「それまでが最高にキツいんじゃんか」ジャンヌは真珠へと手を伸ばした。

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