第一章   柔軟運動と体操を

 クリスのカーゴトラックが霧に包まれた森でその動きを急停止させたのは、彼の自宅から車を走らせ始めて三時間ほどが経ってからのことだった。

 いくら道に迷ったところで車が動かなくなるわけではない、そう高を括っていたクリスにとって、エンジン停止は彼の心を折るには十分過ぎる事態だった。クリスは腕時計を見る。出発時に比べ、太陽の光は既に幾分か弱くなっているようだった。

 深い森に、エンジンの空転音が何度か虚しく響き渡る。

「かぁ、なんでこう」クリスはハンドルに頭を乗せる。彼のキーを回す手がだらりと力なくうなだれた。

「ま、まあ仕方ないですよ。それよりどうしましょう」

 沈黙する二人の脳内に、間の抜けた野鳥の鳴き声やら枝葉の揺れる音やらが無慈悲に流れ込んでくる。

「ねぇどうしたの? 急に止まるから頭打っちゃったんだけど」荷台から頭部を貫通させ、運転席と助手席の間からマリーが顔を出す。

 彼女のその芯の無い声や、涙で潤んだ瞳などから、彼女が荷台の方で昼寝をしていたことがユウトには分かった。

「エンストらしいんだ」

「こんな森の中で?」

「かなり走ったから、目的地にはだいぶ近いはず」クリスはその頭を上げない。

「はず、ってなに? おじさんそれも自信無いの?」

 クリスは即座に応答しない。

「実は、随分前から磁石も壊れちゃってて、結構適当に進んでるんだよね」クリスの気持ちを案じ、ユウトは彼の代わりにマリーの問いに答えを返す。

「どうすんの?」

「どうしますクリスさん?」

「取り敢えず妖精ちゃんは適当に飛んで、近くに街がないか調べてくれ」

「あいあいー」マリーは頭部に次ぎ左手をも荷台の方からにょきりと生やすと、敬礼を見せ、その貫通していた全てを一気にひょいと引っ込めた。彼女のそこにいた痕跡は何も残らない。

「俺らはこのオンボロの調子を診るぞ」運転席の方のドアが音を立てて開く。

「俺、車とか分かんないですよ?」

「バカ。お前は俺の不安を和らげる役だ」そういうとクリスは完全に車の外に体を出し、ドアを勢いよく閉めた。

 肩を落としてボンネットの方へと歩くクリスを見て少しにんまりと笑うと、ユウトもまた、ドアを開けて外に出た。森の澄んだ空気が彼の肺を巡った。

 

「なんだこりゃあ」クリスは言葉を落とす。

 早々に異常が見つかったのかと、ユウトは車から降りながら若干の安堵を覚えるが、同時にクリスが未だ車のボンネットを開いていないことに違和感を覚えた。

「ユウト、これ見てみろ」

 ユウトはクリスの右手が指し示す方向を注視しようとするが、それは車のボンネットよりも下方を指し示しているらしく、位置関係の問題ですぐにその異常を確認することはできなかった。彼は異常が確認できる地点にまでその歩みを進める。「なんで」目の前の光景にユウトは唖然とする。動物か何かの死体でも転がっているものかとユウトは想像していた。しかしそれは動物ではなく自分と同い年くらいの人間の少女で、しかも深い寝息を立てていた。

 少女が身に纏う白いワンピースはマリーの着ているそれをユウトに思い起こさせるが、髪の色は彼女の白とはまるで違い、鮮やかな緑色をしていた。体の大きさもマリーと比べて幾分か育っており、足には丁寧に一対の革靴が装着されていた。

 轍の隙間にて胸に両手を置いて体を寝かせており、生い茂った草はまるで彼女の体を護っているようだった。

「ワイルドチルドレンかね」

「よく轢きませんでしたね」

「車に向かって縦で寝てるし、気づかずに通ってても轢くことはなかったかもな」クリスは冗談を言う。少女の寝息が澄んだ空気に溶けていく。そのか細い音だけが静かに空間を流れた。「寝返り打たれたらヤバかったし、まぁラッキーってことにするか」

「どうします?」

「どけるしかないだろ。足、持ってくれ」クリスはユウトに顎で指示を出しながら少女の頭の方に回ると、膝を折り、体勢を低くする。

「助けないんですか?」

「責任も取れないのにそういうことをするもんじゃない。狼に噛みつかれたいのか?」

 ユウトは即座に彼女の足の方へ移動することはなかった。何かが彼を引き留めた。彼女を不憫に思ったのも勿論なのだが、それ以上に、なにか石のような物が自分の脳内に詰まるような違和感があった。クリスの判断が間違っていることが彼には分かったのだ。しかし確証がなかった。知っているからといって、それを証明できるというわけではない。

「ん?」クリスは彼女の体に手を伸ばすが、その手は止まり、代わりに咄嗟の声が漏れた。

 ユウトはその未来を知っているようだった。美しい緑の葉が、冬には跡形もなく枯れ落ちるのを人が知っているように。彼は慌てることなく運命の収束を見守っていた。

「ユウト、これ」かろうじてそれだけ音に変換すると、彼の体は「く」の字に折れ曲がり、瞬間、ユウトの視界から外れた。

「クリスさん!」クリスの飛んだ方向にユウトが目をやると、彼は森の中の一本の木に強く叩き付けられており、間もなくして腹を抱えながらその場に蹲るのが見えた。

「ごきげんよう、ユウト」女性の声が響く。そして、なぜだかユウトはその声に正体の分からない温もりを感じた。

「クリスさんに何をしたんです!」温もりを振り切り少女の方を向くと、彼女の瞳が既にそこにはあった。同じ目線の高さ、そして彼女の透き通った肌に、彼の胸はじんわりと熱くなる。脳内に詰まっていた石が記憶の扉を叩く。その音は快活なものではなく、とても鈍かった。

「私のせいにしないでください。あなたの悪い癖ですよ、ユウト」少女はそう言ってにっこりと笑いかける。彼女の声一つ一つが彼の記憶の扉を叩いた。後頭部がズキズキと痛み始め、ユウトは堪らず右手でそこを覆った。

「なぜ俺の名前を知っているんです」

「傷が痛みますか?」

「ユウト! キャリアだ! タクトを使え!」クリスは木製の指揮棒、即ちタクトを取り出し、周囲のキャリアを適当に一掃する。しかしキャリアに限りはなく、次から次へと森の奥から湧き出てきていた。遭遇すれば、湧き出なくなるまで湧き出てくる。それがキャリアの本質である。

 不思議な少女とのコンタクトでぼんやりとしていたユウトの意識が、彼の声によって周囲の状況へと向く。頭痛も途端に消えたようだった。「囲まれてる」キャリアを見るのは初めてだった。しかしその見てくれには明らかに悪意が込められており、一目で有害な存在であることが分かった。それは生気のない人間たちの群れだった。皆痩せこけた頬をしていて、中には目玉の飛び出しているものや、蛆の湧き出ているものもいた。ユウトは知っている。そうだ、これらは普通、ゾンビと言うのだ。

「受け入れないのですか?」

「なに言ってるんです!」ユウトはズボンのポケットからタクトを取り出し、構える。

「加減はできるのですか?」

「分かりません」

「ならばここは私が請け負います。ばにら!」少女は左腕を目の前のキャリアの群れへと伸ばす。彼女の声に呼応するかのように、森がひとしきり騒めいた。そしてその騒めきはユウトの脳内をも侵食する。再び記憶の扉が鳴る。

 ユウトの視界を赤が埋める。それは腹から上を切り落とされたキャリアの群れから噴き出る血の色だった。

「魔法なんですか?」ユウトは思わず言葉を落とすが、少女の耳には届かなかった。

「ばにら! 全方位蹴散らしなさい!」振り上げられていた少女の腕が、今度は翼のように優雅にはためいた。

「その半分で十分だよ!」聞き慣れた声が遥か上空からユウトの耳へと届く。彼女の声で間違いはない。しかし、なぜだかその声は、目の前で雄々しく左腕を広げる少女の声にも聞こえた。

 ユウトは直上に彼女の姿を確認する。彼女が太陽を背にしていたため、それは真っ黒な影として彼の瞳に映った。その姿はまるで、堕天使のようだった。「後ろにビーム! 落ちます!」彼には、次に彼女がすることを容易に想像することができた。

「分かりました」少女は答える。

「妖精ビィイイイイイイイイムッ!」マリーの大きな掛け声と同時に、強烈な光が森の中を照らした。

 ユウトは血の噴水を眺めながら、後方にて降り注ぐ光の温度を感じていた。それは太陽のように力強く、まるで人肌のように温かかった。

 

「今日は結局二百キロしか進めてないぜ?」クリスは酒場のカウンター席で窮屈そうに地図を広げ、指でその上をなぞる。

 その店は民宿内の施設としてひっそりと営業していて、その静かな店内に利用客は一人として見て取れなかった。

 好んで田舎に宿泊する人の方が珍しいか、ユウトはそんなことを思った。

「昼に出た割には進んだほうですよ。一応もうカール北部でしょう?」

「馬鹿。真っ直ぐ進めてないんだよ。磁石壊れただろ? 霧だって濃かった」クリスはポケットからボールペンを取り出し、地図上に丸を三つ描く。「ここが俺の家だろ? そんでここがフェリーターミナル。本来なら南に一直線で済むはずなんだ。で、ここが今いるトロイ」

「東に逸れてますね」

「そう、逸れてるんだ。だから直線距離では二百も進めてない」クリスはストレスを体内に鎮めるように、ウイスキーのオンザロックを口の中へと流し込む。

「飲み過ぎじゃないですか?」ユウトはメロンソーダをストローで口へと運ぶ。クリスが今何杯目のウイスキーを飲んでいるのか、彼には分からなかった。

「飲みたくもなる。磁石は壊れるわ、車はエンストするわ」

「でも全部直ったじゃない」マリーは二人の頭上にて人差し指を揺らし、魔法で取り除いた枝豆の実を次々と口へと運ぶ。

「まったくあのクソガキ、何考えてやがる」

「本当なんですかね、あれ」

「信じるしかないだろ。磁石もエンジンも、アレと離れたらすぐに直ったんだ」クリスは箸を二本握りしめると、それを鶏の唐揚げに突き刺した。「問題はあの嬢ちゃんがなんでそんなことしたのかって話だ」突き刺された唐揚げから肉汁が溢れ出る。

「収束のための過程だかって言ってましたよね」

「気にしなくていいよ。決めるのはユウトだから」マリーは明後日の方向を見ながらそう言う。

「妖精ちゃん、なんか知ってんのか?」クリスは唐揚げを噛み千切る。

 マリーの視線は動かない。「おじさんが知らないんなら、私も何も知らないよ」

「あの子みたいなことを言う」クリスは呆れた。

「あの子、やっぱり助けないんですか?」

「ばにらが助けてくれる、本人がそう言ってただろ」クリスはグラスに口をつける。

「そうですけど」

「クララに逢ったのですね」突如聞き慣れないバリトンボイスが三人の会話に割って入る。それはカウンターの向こうでグラスを拭く店主の声だった。

「何か知ってるのかい、ご主人」クリスの瞳が鋭く光る。

「ええ、その子はクララでまず間違いはないでしょう」

「何者なんですか、彼女は」ユウトは齧り付くように問う。

「正体は分かりません。それゆえの処置です」

 ユウトは主人の答えの意味するところが全くわからなかった。「処置、ですか?」

「村の皆で彼女を追放したのです。心が離れてしまいました。彼女の異端さはその事態を引き起こすには十分過ぎるものでしたから」

「大の大人たちが示し合わせて、子供一人を街から追放したのかい」クリスはウイスキーを口に含む。

「返す言葉もありません」

「彼女について、知ってる分だけ教えてもらえませんか?」と再びユウトは問う。

 グラスを拭く主人の手が止まる。目には情念がこもり、やがてグラスを持つ手は小刻みに震え始めた。

 ユウトは自分の提案を取り下げようと言葉を用意する。しかし、主人がゆっくり目を閉じ、深く息を吐くのを見て、その言葉を心の内にしまうことにした。

「一年前。あの子は、クララはいつの間にかこの村にいたんです」と主人は言う。

「いつの間にか?」

「不思議でしょう? ここ、トロイは見てのとおり小さな村です。普通、村の女性が子を孕めば、すぐにでもその情報は村中に飛び交うものなのです。ましてや出産し、あれだけしっかり育ってから発見される子など」

「村の人間の恋人で、外から車で連れてきたってのはないのかい?」クリスはジェスチャーを交えながら言う。

 主人は静かに首を横に振った。「彼女は昼も夜も一人で村を徘徊し、残飯を漁ってその生を繋いでいました。とても人に愛されている人間には見えませんでした」

「残飯って」クリスは苦笑する。

「村の人間も見兼ねて彼女に食事を分け与え始めました。それまでは良かったのです。何も問題はなかったのです」ユウトは再び主人の目の奥に情念の火を見る。

「なにかあったんですか?」ユウトは問う。

「念力による虐殺です。村の人間を大量に」

 ユウトは絶句し、あの森で見た真っ赤な血飛沫を思い出した。あれがキャリアの血でなく人間の血だったとしたら。ユウトの頭の中でトロイの小さな村が真っ赤に染まる。鮮血を噴き出した人間の下半身が群れを成し、血の涸れた者から力無く地へと倒れていった。激しい胸焼けが彼を襲った。

「妻が死んだんです」

 空気の流れが止まる。ユウトは胃液の逆流を感じる。続いて主人の口から発せられるであろう言葉に耳を塞いでしまいたかった。

「優しい人でした。あの子にクララという名前をつけたのは妻なんですよ」主人は俯き、音もなく笑う。引きつったその笑顔は痛々しく、寂しかった。

「ばにら、ってのはなんなのかね」クリスは顔色一つ変えず主人に問う。口の中には鶏の唐揚げがまだ残っているようだった。

「虐殺が行われたその日、クララは叫んでいました。ばにら、やめて、殺さないで、と。大粒の涙を流し、小さな肩を抱いて。不憫でした」

「彼女が虐殺したんじゃないのか?」クリスは口の中の唐揚げを呑み込み、箸を新しい唐揚げへと伸ばす。

「力を制御できないのかもしれません」

 クリスは唐揚げを齧る。「詳しく聞いてやらなかったのか?」

「その翌日に姿をくらましてしまいましたから」

「ふうん」クリスは視線をテーブルへ落とし、グラスを口へと運んだ。

「そのばにらっていう目に見えない存在が、彼女の意思に囚われることなく、念力を発することはあり得ないんですか?」とユウトは言う。

 クリスは首を横に振る。「魔法においてもサイキックにおいても、当人の命令を無視することのできる自律デバイスの存在は今のところ確認できてないよ」

 ユウトはしばらく思考し、自分なりの結論を出した。「力が制御できないんだとしたら」と彼は呟く。

 クリスの箸がユウトを追った。「助けようったって無理だぞ。とっくに日は落ちてる。あの子の居た場所まで辿り着けるかどうかすら、危ういんだからな」

「クララは、森にいたんですか?」主人は話に割り込む。

 クリスは答える。「あぁ、道に寝っ転がってたよ」

「そうですか、やっぱりまだヘアリイに」主人は柔らかく笑う。

 ユウトはじれったく思った。「クリスさん」

「わがまま言うなって。地図見てみろ」テーブルに落ちる水滴を避けながら、クリスは地図をユウトの前に持っていく。彼は再びボールペンを取り出した。「いいか? ここがトロイだ。周りは?」トロイの村を囲む緑のエリアの上を、彼のボールペンの先がぐるぐると回る。

「森です」とユウトは答える。

 クリスはボールペンをユウトの方へと向ける。「そう。このバカでかいヘアリイっつう森だ。この森のどこであの子と逢ったんだ?」

「分かりません」

「ヘアリイは迷路です。クララが消えてからというもの霧が晴れませんし、何より夜はキャリアが多いです。迂闊な行動はよした方がいいですよ」

「ほおら、ご主人もこう言ってる」クリスはしたり顔を浮かべた。

 ユウトの口は遂に開かなくなる。彼だって自分の想いの暴走にはとっくに気がついているのだ。彼女を助けたいという漠然とした気持ちだけが一人歩きしていた。後ろ盾としての方法はおろか、動機だってあるのかすら、彼自身にもわからなかった。

「迷わないよ」目の前の皿から枝豆が一つ、上空へと昇って行くのがユウトには見えた。届いたのは空中で枝豆を味わう彼女の声。しかしその声はあの子のものにも聞こえた。「ユウトなら迷わずあの子のところまで辿り着けるんだよ」マリーは言葉を繋げた。

「今冗談はマズいぞ妖精ちゃん」クリスは振り向き、浮遊する彼女にボールペンを向ける。「なんでか知らんがユウトの心はあの子にお熱だ。責任の取れない発言は慎め」

「責任なら取れるよ。本当のことだから。ユウトはクララちゃんと引き合うよ」マリーはクリスと目を合わすことなく、枝豆を口の中へと飛ばす。「美味しくないな」

「あの子の居場所が分かるのか?」ユウトもまたマリーを見つめる。

「私が分かるわけないよ。分かるのはユウト」そう言って、彼女は人差し指を彼へと向けた。

「またわけの分からないことを言う」クリスは呆れてテーブルの方へと向き直ると、グラスに残った僅かなウイスキーをくいっと口へと流し込み、宿の部屋の鍵と一万円札、それと腕時計をテーブルの上に置く。そして彼は席を立った。「なら気が済むまで探してこい。妖精ちゃんがいれば何とかなるだろ。俺は明日も運転なんだ。先に部屋に戻って寝てるからな」

「鍵が無いとクリスさんが入れないじゃないですか」

「タクトでピックするよ」そう言いながらクリスは後ろ手に手を振りながら、酒場を出ていった。

「カーゴトラックだけでなくタクトまでお持ちとは。やはり軍の方々なのですか?」と主人はユウトに問いかける。

 ユウトは返事を考える。自分が異形の存在であることを話すことができるのならば、説明は簡単である。しかし、それが話していいことなのかどうか、彼には判断することができなかった。彼は鉄道の利用を規制された身である。もし目の前の少年がインフィニティだと主人が知れば、クリス同様、主人にまで迷惑が掛かる羽目になるのではないか。ユウトの想像は闇の中を巡る。彼には自分自身の危険性がいまいちよくわからなかった。

「いや、なんというか、軍人になりに行く途中と言いますか」とユウトは言う。

「インフィニティゆえに、ですか」

 主人の発言に少年は息を飲む。「分かるんですか?」

「それだけ高濃度の魔法エネルギーを絶えず漏れ出していては、誰にだってわかりますよ」主人は笑顔を見せる。「フィッツジェラルド王の命ですか?」

「ああ、ええ。命令状が届きまして」

「そうでしたか。プラウド派遣、ということになるのでしょうか」

「いえ、目的地はリベルダートです」

「リベルダートにインフィニティ。魔王を始末するのですね」

「らしいですね」ユウトは空気の重さに耐えきれず主人に笑顔を見せる。しかし主人の表情が変わることはなかった。

「怖くはないのですか?」

 ユウトは恐怖について考える。しかしその感情は、彼の中に全くと言っていいほど、有りはしなかった。「クリスさんが言ってたんです。インフィニティは文字どおりの最強だって。なら、その力を世のため人のために使うのは当然なのかなって、そう思ったんです」

 主人は一瞬驚いたような表情を見せると、まるで肩の力が抜けたように、柔らかく微笑みを見せた。「そうですか」と主人は言う。「あなたにならクララを任せても大丈夫かもしれませんね」

 主人の言葉にユウトは照れるように笑顔を返す。

 テーブルに置かれたクリスの腕時計が、午後十時を示していた。

  

 ヘアリイの森の入り口付近、冷たい風が吹き抜けるそこには、既に暗がりを照らすための街灯は一つとして残ってはいなかった。目の前で腰を据える底知れぬ闇が、二人の体を飲み込もうと、その大きな口を開けている。月明かりはない。天気が良くないのだろう。ふと振り返ると、遥か向こうにトロイの村の灯りがぽつぽつと見て取れる。ユウトは森の前で足を止める。「ここからどうするんだマリー」

「真っ直ぐ進むんだよ。ひたすらに真っ直ぐ。そうすれば自然と引き合うよ」

 ユウトは彼女の漠然とした行動案がいまひとつ腑に落ちなかった。しかしなぜだかそれが至極正しい行動だということが彼にはわかった。勿論、それを主張する胸の熱の正体についてはわからずじまいだったが。「なあマリー。俺はお前のそのアイデアが正しいとは思えない。この馬鹿デカい森の中、彼女が運良くこの一直線上にいるものなのか?」ユウトは胸の熱と正反対の言葉を発する。

「理由が必要なら説明はできないよ。結果だけがこの先にあるだけ。ユウトもわかってるんでしょ?」闇の中ゆえ、ユウトに彼女の表情は読めなかった。

「何を知ってるんだよお前は」

「残念ながら何も知らないんだよね」

 煙に巻く彼女の態度から、ユウトは期待を胸の中に落とす。きっと彼女は何も話してはくれない。しかし今はそれでもよかった。彼の最優先事項はあくまでクララだった。 ユウトは始めの一歩を踏み出すと、それ以降足を止めることはなかった。

 マリーは彼の後ろを浮遊する。「コツは掴めた?」

「何の?」

「ううん」

 ユウトの足は止まらない。進むに連れ、正体不明の胸の熱は次第に増していく。目の前に一本の木が現れる。暗がりにも関わらず、なぜだかそれは彼の目に鮮明に映った。「マリー」

「目を閉じて。怖がる必要なんかないから」

 ユウトは何も言わず彼女の指示に従う。今なら世界がマリーの命令を聞いてくれるような気がした。彼の瞼が静かに閉じる。歩みのスピードに変化は無い。一歩、一歩、また一歩。瞳に映るのは闇の中にある闇。そこに一切の光は届かない。そこは間違いなく彼の、彼だけの世界だった。

「ほら、抜けた」

 しばらく歩くとマリーの声が聞こえた。目を開けると、既に彼の目の前に木はなかった。「何も感じなかった。これがインフィニティの力なのか?」

「最強なんだから、これくらいのことはワケないよね。さ、接触するよ」

 ユウトは彼女の言葉を疑う。接触。それは目標との、クララとの接触という意味で間違いはないのだろうか。だとしたら、いくらなんでも早過ぎないか?

「頑張ってね。ユウトが望むのなら、私は黒にだってなれるから」とマリーは言った。

  

 雲が晴れたのか、突如月の光が森の中を昼のように照らし始めた。暗闇の中から次々と天然色の優しい緑が現れ、彼の心に癒しを与えた。

「ごきげんよう、ユウト」

 声が響いた。ユウトは急いで声の主を探す。「どこです?」

「こちらですよ」

 彼女の二度目の発声により、ユウトは声のする方向を完全に突き止める。「危ないですよ」五メートルほど上方、木の枝に腰を据えている彼女に向かってユウトは言った。彼女の緑の髪が、月の光の下で静かに輝いていた。

「危ないのはあなたの方です。こんな時間に外出ですか?」枝の上でクララは足を組み直す。

 ワンピースの奥が見えそうになったため、ユウトは慌ててそこから視線を逸らした。肉欲のためにわざわざ逢いに来たわけじゃない。ユウトは自分の心にそう言い聞かせる。「あなたにもう一度逢いたかったのです」

 クララは少し驚くと、それから静かに笑顔を作る。「まあ、嬉しい」

「少し話をしませんか?」ユウトの瞳は依然彼女を映さない。

「私の犯した罪の話でしょうか」

「咎めに来たわけではありません」ユウトは真っ直ぐに気持ちを伝えるため、顔を上げ、力強く彼女の瞳を見つめた。

 二つの視線が絡み合う。彼の胸の熱がその温度を上げる。クララは彼の気持ちを包み込むように笑った。ユウトは彼女のその表情が好きだった。僅かに残っていた記憶の欠片たちが火花を散らし、反応する。発生した火の粉は記憶の扉へと飛んだ。ユウトもまた、彼女の笑顔に応えるように笑った。

「話をするのなら、目線の高さを合わせなければいけませんね」クララはそう言うと、絡んだ視線をほどき、両手を使って自分の体を枝からふわりと離してやった。女性にあるまじき大胆な行為に純白のワンピースは対応することができず、彼女の下着は上空にて露わとなった。

「ちょっ!」五メートルの落下など一瞬である。ユウトは反射的に彼女の落下するであろう地点に移動すると、両腕を伸ばし、彼女のその育った体を受け止めようとした。

 しかし結果的にその行動に意味はなかった。なぜならクララの体は三メートルほど自由落下をした後、まるで重力に逆らうかのようにその落下速度を急激に落とし、命の危険を全く感じない程度の速度で、呑気に地上へと舞い降りてきたためである。

 唖然とするユウトを無視するかのように、やがてクララの体は彼の腕の中にすっぽりと収まった。「驚きましたか?」クララは悪戯っぽく笑う。

「危ないですよ」言いたいことはいろいろとあったが、彼は取り敢えずそれだけを言葉にした。突然の事態に、言葉を作るために必要な回路が動作不全を起こしているようだった。

「実は私も最強なんですよ?」笑いながらクララは言う。

 ユウトは彼女を地面へと降ろした。「インフィニティなんですか?」

「いいえ、私はサイキッカーです。魔法を主軸に動くこの世界とは一線を画すエネルギーで動いています。だから、あなたがた魔法使いにはそのエネルギーの正体を突き止めることができないのです」クララは彼の周辺を適当に歩く。

 なるほど超能力者だ。ユウトは理屈を飛ばし、感覚的に理解する。「つまり、その認識できないエネルギーの量が、俺の魔法エネルギーと同量だと?」

「いいえ。実は私自身のサイキック力は極僅かなものなのです。本職のサイキッカーさんを前に、『私はサイキッカーなんです!』なんて言ったら鼻で笑われてしまうほどに」クララは貴女のように奥ゆかしく笑う。「最強なのはばにらのサイキック力。あなたがくれたインフィニティの欠片です。憶えていますか?」彼女の指が空中をなぞる。

 ユウトは後頭部に激しい痛みを感じ、そこを反射的に手で覆う。それは彼女と初めて出会ったときに起こした痛みと同じ種類のものだった。

「やはり駄目ですか。どうやらここでの私の役割は、あなたにビーズを渡すことだけのようですね」

「すいません、憶えてないです」

「ええ、わかっていますよ」クララの悲しい笑顔は、酒場の主人が見せたものとどこか似通って見えた。それはきっと、心が人に伝わらないときに見せる表情なのだ。

 ユウトは記憶を掘り起こそうと努力をするが、取り立てて手応えと言えるものはまるでなく、後頭部の正体不明の痛みが増すだけだった。

「無理をするとあなたが崩れてしまいます」クララは痛みに喘ぐ彼に近づき、両の手で彼の頭を包み込んだ。彼女の胸の形が、ワンピース越しに彼へと伝わる。「今は忘れなさい。ここは奇跡の楽園なのです。彼女には感謝しないといけませんね」

「こんなにも優しいのに」ユウトは言葉を続ける為のストレスを隠すことができなかった。「村の皆を殺したのですか」

「あれはばにらの暴走です。この子の優秀さが裏目に出てしまいました」

「本当にそうなのですか?」ユウトは意を決し、考えていたことを伝え始める。自分の考えが合っているのか間違っているのか、彼はそれだけを確認したかった。

「ええ、ばにらは処女の方以外ならば確実に殺せるのです。優秀でしょう? タクトを持つ人間を一撃、とまではいかなかったようですが」

「そうじゃない」ユウトは深く息を吸う。「本当に、ばにらは自律しているのですか?」

 森が一斉に騒めきだす。まるで世界の禁忌にでも触れたように。

 彼女の胸がユウトから離れる。「私が殺したと、そう言いたいのですか?」

 ユウトは彼女の瞳を見る。「エネルギーが宿主の支配を離れて独り歩きするなんてことが、俺にはどうにも考えられない。自動でエネルギーが発動するであれば、きっとあなたが無意識的にそれを望んでいるのです」

「あなたがそれを言うのですか」

「あなたはきっと、他人との接触が恐怖なのです。俺もあまり人付き合いは得意ではありませんから、その気持ちはわかります。他人と関わるときには、人格が分裂するんですよね」

「それはマナーの一環です」彼女は淡々と答える。

「きっとそれを理解しているあなただからこそ、ばにらが敏感に作動するのです。おそらく肌の触れ合いを契機として。俺にも今、攻撃しているのでしょう?」

「しています」クララは空(くう)を見る。

 ユウトは彼女の視線を追うが、その先に生命の存在を認めることはできなかった。「インフィニティであり、タクトも持っている。だから俺は攻撃がわからない、効かないのですね?」

「ええ」

 ユウトはにっこりと笑う。彼は自分の予想が当たっていたようで満足した。「一緒に旅をしませんか? いつまでも森に一人は寂しいでしょう? 俺もクリスさんもタクトを持っていますから、きっとばにらの暴走にも耐えることができます」

「あなたは私を拒絶しにきたのですね」

 ユウトは彼女の言葉の意味が分からなかった。「一緒に、と言ってるじゃないですか」

「いいえ。あなたはばにらの存在を、私の世界を拒絶しました」

「それは」まだ想像の産物に縋るのか。ユウトは少しの苛立ちを覚える。

「私のビーズは赤のはずなのです。しかし既に流れが違ってきている。私は赤を主体に作られた器だったのに。こんな仕打ち、考えられない」クララはヒステリーを起こしたのか、両手で緑の髪の毛を掻き回す。

「なにを言っているのです?」

 クララの手が止まる。「なるほど、マリーさんが私の座を奪ったのですね。しかしもういいです。構いません。たとえ黒の器になろうと、私のすべきことは変わらないのですから」彼女はひとしきり言葉を発すると、自分の胸にその左手をずぶずぶと貫通させる。血は出なかった。まるで彼女の体が、彼女の腕を受け入れているようだった。

 彼女の喘ぎ声が森の空気を濡らす。心なしか、月明かりが少し強くなったように思えた。「何を」恐怖により、ユウトの言葉は続かない。

「記憶が必要なのでしょう?」クララは彼に微笑みかけると、左腕をゆっくりと体の中から引き抜く。彼女の親指と中指に摘まれた何かが月明かりを吸い込み、やがて辺りを闇へと戻した。「やっぱり黒。第五の記憶」彼女の濡れた瞳は闇の中へと堕ちていった。

 

 彼の頭にイメージが流れ込む。それは果てしない闇の中に現れた爆発だった。膨大なエネルギーによって起こされたそれは、やがて球体に収束し、見覚えのある青の星となる。そこに紛れ込む一筋の光をユウトは見逃さない。その光は赤く、熱を帯びて見えた。

 

「ユウト! まだ半分だよ! 起こした摩擦分キャリアが来るから!」

 イメージが晴れる。聞こえたのはマリーの声だった。今まで度々クララのものと聞き間違えていたことがまるで嘘であったかのように、その声が彼女のものであるとはっきりと彼にはわかった。ユウトの頭が揺れる。どうやらマリーが体を揺らしているらしい。体を触られている感覚はない。魔法を使って揺らしているのだろうか。彼はやがて瞼を開く。しかしその先は闇であり、状況は把握できなかった。

「サイキックでは辺りを灯せません。ユウト、雲を掃いましょう」クララはユウトの右腕が握る。「タクトはどこです?」

「右の、ポケットです」ユウトの意識は未だ完全に晴れない。

「失礼しますよ」ユウトの右ポケットの中でタクトが自然と動き出し、やがてそれは彼の右の手のひらと接触する。そしてクララはタクトを彼の右手越しに柔らかく握った。「ばにら! テレパシーを!」その言葉を合図にユウトの中にイメージが流れ込む。それは眩いレーザーだった。しかしそれは、昼下がりに森でマリーが見せたものとは真逆の方向に放たれているようだった。

「ひゃあっ!」彼の耳元で、クララのらしくない声がする。

 ユウトの闇の中に強力な光が差した。光の源を探すと、それはどうやら自分の握るタクトから放たれているらしかった。彼の視界が光で眩む。

「なんです?」大音量の発射音の中、ユウトはやっと声らしい声を出す。

「インフィニティの魔力を使用しました! 雲は晴れたのでもう十分です! 止めてください!」強風が彼女の緑の長髪を激しく乱した。

「止めろってどうやって?」

「分からないんですか?」

「魔法なんて使ったことないですよ!」

「そんな! もう一度テレパシーを使います! ばにら!」

 彼の意識が再び彼女によって犯される。そのイメージは、レーザーがタクトから切り離されるといったものだった。タクトの唸りはすぐに止んだ。作られた月明かりにより、彼の視界はすっかり晴れ渡っていた。

 クララは彼から手を離す。「よかった。何とかなりましたね」

「なってませんよ」闇という障害を振り払った代償として、ユウトの視界の中には全長十メートルほどの黒い狼が映り込む。木々の隙間から覗く狼との距離は百メートル以上離れており、むこうは未だこちらには気がついていないようだった。しかしその巨大な犬歯から森へと垂れる大量の涎は、ユウトの恐怖心を誘き出すには十分過ぎる代物だった。

「フェンリル。なるほど神殺しの器ですね」クララは淡々と語る。

「デッカいだけでただの犬っころじゃん。それより何? クララちゃんが黒だったわけ?」マリーはユウトの左腕に巻かれたブレスレットを見ながら言う。見ると、ブレスレットの破損箇所の一つが大きな黒いビーズで埋められているようだった。

「あなたの侵入がなければ、私は赤だったのです!」クララは声を荒立てる。

「ごめんごめん。私も必死だったから。わかるでしょ?」マリーはジェスチャー混じりに謝る。

 クララはぷいとマリーから視線を逸らした。「赤の器にとって、赤のビーズが任されない悔しさも分かってください。こんなに知識を任されたのに」

「だからごめんって! 一緒に来るんでしょ? 仲良くしようよ」

「仲良くはさせてもらいますよ。私だってそれくらいは」

 フェンリルを無視したまま元気にお喋りする彼女たちにユウトは違和感を覚える。どうやらユウトに比べ、女性陣には随分と余裕があるようだった。

「ちょっと、アイツこっち見てますって」ユウトはフェンリルの視線がこちらの方向で静止するのを見逃さなかった。

 二人は視線をブレスレットからフェンリルへと向ける。フェンリルは巨大な瞳で彼らを見つめ、大きな口で舌なめずりをした。閉じられた牙の奥からは青い火の粉がチリチリと漏れ出しており、見るからに戦闘本能を抑えきれていないようだった。

「なんです? 失恋した女の子の顔がそんなにおもしろいですか?」クララは頬を紅潮させ、涙交じりにフェンリルを睨みつける。「おかしいとは思っていたのです。赤ならば、目覚めたときにインフィニティと一緒にいた方が効率はいいですもんね。私にしか見えない一角獣をわざわざ。しかも人まで殺させて。私の心は赤なのに」

「ドンマイドンマイ」浮遊したまま、マリーは自分の頭の後ろで両手を組む。

 ユウトの困惑は晴れない。「さっきから何を」

 クララは細く長い息を吐き、鋭い眼光で世界を睨んだ。「フェンリルは私がやります。よろしいですね?」

「私は構わないよ」とマリーは言う。

 彼は困惑の中に一筋の光を見る。「できるんですか?」

「できるに決まっています。おいで、ばにら」クララはその左手を空中のある場所に置く。ばにらを呼ぶ彼女の声は優しかった。「あなたが否定したこの子の力、今から見せてあげます」言うと彼女はユウトににっこりと笑顔を見せた。空中を泳ぐ彼女の左手が、突如として純白の光を放つ。月明かりを凌駕するその鋭い光は、やがて彼女の左手の中で棒状の形に収束した。「まぁ、簡単に殺す気ですか? エネルギーを抑えてください。ばにらはお馬鹿さんですね」クララは恍惚とした表情で、棒状の光を眺めながら言う。光はその延長を止め、ビデオの逆再生のように彼女の左手の中へと戻ったかと思えば、やがて彼女の右手までもが光り出す。「そうですよばにら。いい子ですね」クララは光る両手をしばらく眺めると、やがて腕を大きく動かし、光を振り払う。「綺麗ですよばにら」

「クララさん。それは?」彼女の様変わりした暴力的な両手がユウトの瞳に映る。なぜその形にしたのか彼には分からなかったが、彼女の両手に嵌められたそれは、ユウトには真っ赤なボクシンググローブのように見えた。

「私だけ『さん』付けはおかしいでしょう?」クララは真っ赤な右手と左手を力強く叩き合わせる。森そのものを思わせる緑の髪に、純潔を絵に描いたような艶のある白のワンピース。本職の妖精であるマリーより妖精らしい彼女には、ボクシンググローブはあまりにもミスマッチのように思えた。

「まあまあ。ユウトはいい子だから。わかるでしょ?」マリーはクララからふつふつと湧き出る怒りにまるで動じることはない。

「わかりますよ。そうですよね。黒になら、当然の対応ですもんね」クララは再び拳を勢いよく合わせる。「何分くらいならくれますか?」

「うへぇ、もう日付変わっちゃってるよ。どうする?」マリーはユウトの左腕、ブレスレットの隣に巻かれたクリスの腕時計を覗き込む。

 彼女の言葉に驚き、ユウトは急いで腕時計を自分の目の前に持っていく。腕時計の針は既に午前の零時半を指していた。ユウトはクララに与える時間を考える。彼女にとって、与えられる時間が長い方が良いのか短い方が良いのか彼にはさっぱりわからなかった。しかし、彼女の震える両手から、与えられる答え自体は早い方が良いのだろうということだけはわかった。

「じゃあ、十分くらいなら」

「ありがとうございます」そう言うと彼女はそこに突風だけを残し、その姿を消す。

 何かを感じ取ったのかそれと同時にフェンリルは大きな口を開け、こちらへと青の炎を吐き出した。

「うわあああ!」襲い掛かる炎を前に、ユウトは両腕で自分の顔を覆い、恐怖をそのままに絶叫する。

「妖精バリアァ!」マリーは左手の人差し指を青の炎に向ける。炎はユウトの目の前で透明な何かにぶつかると、辺りに青の光だけを残し、やがて消えた。

「妖精に炎なんて最っ低!」

「マリー! お前こんなこともでき……」ユウトの称賛は途切れる。それもそのはずである。炎が晴れたその先で、あの巨大なフェンリルがこちらに腹を向けた状態で遥か上空を浮遊していたのだから。「なんだあれ」

「ユウト見てなかったの? クララちゃんのアッパーだよ! 顎にバチーンって強烈なヤツ!」マリーは左腕を振り上げ、アッパーカットのジェスチャーをする。

「どこにいるんだ?」ユウトは目を凝らすが、百メートルも先にいる彼女の姿を捉えることなどできるはずもなかった。

「今はアイツの頭の上!」マリーは指で彼女が今いるのであろうそこを指し示すが、既にその先にフェンリルはおらず、ユウトには大きな地鳴りだけが届いた。「決まったぁ! っくー! いいなあ! 私もやりたいよぉ!」マリーは左腕をブンブンと振り回す。

 届いた地鳴りと彼女のその動作から、ユウトはクララが何らかの行為によって狼を地面に叩き落としたのだと理解した。ダウンを取られた狼の図体は今、角度的に森に隠れて見えないのだと。ユウトは呆れたように言葉を失う。

 地鳴りが止んだかと思えば、続けて向こうの森が青く光った。鋭い光ではない。それは靄(もや)のように浮き出る種類の光。その光はユウトに先程の炎を思い起させた。

「炎を纏って接近戦を避けたのか、あの犬っころ」マリーは左手を目の上に翳し、フェンリルの状態を確認する。

 体が物を貫通するように、視界もまた森を貫通しているのだろうか。ユウトは浮遊する彼女を眺めながら考える。

「おぉ!」彼女は体を痙攣させ、驚いたように言う。「サイキック首絞め!」

 マリーの反応を見て、ユウトもまたフェンリルの方へと注意を向ける。あちらでは深い森の上空で、青い炎を全身に纏ったフェンリルが先程と同じ格好で宙に浮いているのが見て取れた。サイキック首絞め。それはフェンリルの首元に纏わりつく、あの大きな白い影のことを指しているのだろうか。狼から喘ぎ声が漏れる。大きな口元から涎がどろりと溢れ出しているのが見て取れた。炎が次第に弱くなる。それは命そのものを表しているようにも見えた。やがて炎が完全に消えたかと思うと、狼の体は光に引き摺られるように再び森の中へと落下する。実際的な揺れを含む地鳴りが届き、ユウトはその揺れに合わせ、体のバランスを整えた。

「馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿……」ユウトの頭にクララの声が止めどなく届く。どうやらそれは鼓膜を介してはおらず、雲を晴らしたときに彼女が使った脳内への介入と、どこか感覚的に似通っているように思えた。針のような閃光が森の中を走り回り、地鳴りがそれに応えるように連続的に響いた。

「可哀想」しばらくするとマリーが言葉をぽとりと落とす。クララの大音量のテレパシーの中でも、なぜだか彼にはそれがはっきりと聞こえた。「あなたは何のために生まれたんだろうね」マリーの頬を一筋の光がゆっくりと伝う。

 芯を失ってもなお、クララの叫びは続く。弱い雨が二人の肌へとその手を伸ばし、やがて触れる。ユウトの魔法が切り裂いた空には、真っ白な月が煌々と輝いていた。


 結局、クララは酒場のマスターにしか自分の(ばにらの)過去の行いについて謝ることができなかった。

 その夜、本来ならばユウトが寝るはずだったベッドの中で、彼女はマリーの腕に抱かれ、ひとしきり泣いた。彼女の罪の大きさを鑑みれば、できることならばトロイの住民全員の前で土下座でもなんでもすべきだったし、彼女自身、そうしたかった。

 三人がトロイに戻った時間、当然、民家に灯りは一つとしてなく、村は静まり返っていた。唯一の灯りは、魔法の練習がてらユウトがタクトを介して灯したその小さな炎だけだった。しばらく歩いて三人は宿へと辿り着くが、宿もまた暗く、静かだった。

「クララ?」宿の前にて静寂を切り裂いたのは、聞き覚えのある優しいバリトンボイスだった。ユウトの瞳が、声の主である酒場の主人を捉える。

「おじさま」クララは答えた。

 主人の右手が僅かに動き、やがてだらりと元の位置に戻る。「触れては駄目なのか?」

「えぇ、この子が動きますから」クララは宙をなぞると、やがて頭を深く下げた。「ごめんなさい。酷いことを」クララの声は震えていた。本来ならば殺されても文句は言えない。しかしばにらがそれを許さない。彼女はもうどうしようもなかった。いっそ殺されてしまいたかった。

 主人は慎重に言葉を選ぶ。「止められない力だったのだろう?」

「出て行くべきだったのです。もっと早く」

 主人は言葉を失う。自動で人殺しをする機械としては、彼女のその言葉はとても正しかったためである。しかし彼女は機械ではない。彼女の心はどうなる。主人は彼女に贈るための優しい言葉を考えるが、どうしても気休め程度のものしか浮かんでは来なかった。主人は目を閉じる。「君の手に余る力だったのなら、私は君を許せるよ」

「許す許さないの問題ではないのです。私はおばさまを、いえ、あなたの妻、そして村の皆を殺した殺戮者です。何よりあなた方が許してくれたとしても、私が私自身を許すことができません」クララは唇を噛み締める。

 主人は考える。どうするべきか、少女に何を言ってやるべきか。しかしやはり何もできないし、言ってやれることもきっとなかった。主人は俯く。「村の皆には謝らないほうがいい。大切な人を亡くした者たちだ。逆上し、君に襲い掛かれば、また大惨事になりかねない」主人は鼻をすする。「明日は何もせずにすぐ出て行くのだ」

「ええ、そうさせて頂きます」クララは顔を上げると、彼とは目を合わせず、もう話すことがないという風に彼の横を通り過ぎた。殺してしまわないよう、十分な距離を置いて。

「クララ」主人は彼女の方を向かない。

 足を止めさえはしたが、彼女もまた振り向かずに答える。「なんでしょう」

「その靴、大切にしてやってくれな」

 クララは左手で涙を拭く。「ええ」彼女はそれだけ答えて、宿の中へと消えていった。

 マリーは居心地の悪さを感じたのか、彼女を追って宿の中へと滑空した。

「旅の御仁」主人は地を向いたまま言う。「どうかクララと良い旅を」

「できるだけ」ユウトは言葉の浮かばぬままに喋り出す。「いろんなところ、見て回りますよ」ユウトは宿の中へと歩き出す。彼に主人と誓いを交わせるほどの覚悟はなかった。

 しかし主人にはその言葉だけで十分だった。「ありがとうございます」彼の言葉がユウトの背中を押した。

 

 部屋に入るとクリスのいびきが聞こえた。彼を起こしてしまうといけないので、電気をつけるわけにもいかず、再び小さな炎を灯して部屋の中を進む。まるで泥棒のようでユウトの胸が高鳴った。部屋を進むと、寝室の入り口には三人分の替えの衣服が折り畳まれて置いてあった。

「また一着多い。妖精の服は汚れないから、変えなくていいっていつも言ってるのに」マリーは小声で愚痴を言う。

 彼女の態度とは対照的に、クララは衣服を抱き、声を殺して泣いた。

 ユウトは三着の衣服を見て、信じられないという風にクリスの寝顔にその視線を向ける。見るとクリスは、見慣れないアイマスクをして眠っていた。

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