摩擦追憶インフィニティ
@kashikomugi
序章
「さあて、早々にフィッツジェラルド卿に嗅ぎ付けられたわけだが」そう言うとクリスは食卓の上に薔薇色の命令状を乗せた。
朝食の入った籠の隣にそんな禍々しいものを置かないで欲しい。ユウトはバゲットを一つ頬張りながら、目を細めた。木造の食卓に置かれた一枚の紙を前に、彼の頭の中の記憶の残滓が彼自身に対して警鐘を鳴らしていたのだ。しかし彼にはそれの理由が分からなかった。
「これが昨日言ってたやつ? それじゃあユウトはスルース軍行き?」マリーは空中から命令状を眺めながら言う。今朝の彼女のそれは魔法の使用による浮遊であり、真っ白なワンピースから伸びる二つの羽は、窓から入る土臭いそよ風にふわふわとその羽毛を揺らすばかりだった。彼女の長い白髪が、空中でぱらぱらと不可思議な模様を作っていた。
「それが違うらしいんだよな」クリスはユウトの向かいの椅子に深く腰を掛けると、長い茶髪に隠されたうなじを掻いた。
「違うんですか?」
「あぁ、読んでみな?」クリスは顎でそれを促す。
ユウトは食べかけのバゲットを取り皿に置くと、代わりに命令状を手に取り、それに目を通し始める。その様子を見たマリーは、魔法によってふわふわと自分の体の位置を移動させ、彼の背後から一緒になって命令状を眺め始めた。
クリスは視界の端で、浮遊する妖精と木造ロッジの親和性を認める。妖精が人の大きさではなく親指くらいのサイズであれば更に良かったのだが、と彼は思った。
「てっきりプラウドに対しての圧力要員にされるとばかり思っていたが、まさかディアブロ抹殺に駆り出されるとはな」バゲットを齧り、誰に話し掛けるでもなく、クリスは呟く。
「リベルダート、派遣。リベルダートって?」ユウトは命令状の内容をクリスに問う。
「リベルダートはスルースの南方に位置する島国さ。海を越える」クリスはバゲットで空中に何かを描きながら答えた。それはきっとスルースとリベルダートの位置関係を表わした簡単な地図だったのだろうが、この世界の土地勘はおろか、自分の記憶すらないユウトがそれを読み取るのは酷く難しいことだった。
「海!」マリーは唐突に声を上げ、宙をうっとりと見つめた。
「じゃあ、この目的ってとこに書いてあるディアブロの粛清っていうのは」ユウトは問う。
「ディアブロはリベルダートの王の名前だ」クリスは答えた。
「粛清って、殺せってことですか?」
「だろうな。ディアブロはスルースの連中には魔王って呼ばれてる」
「魔王?」
「リベルダートは元々スルース領だったんだ。ディアブロはそこの人々を強力な魔法によって洗脳し、利用し、遂には支配した。まぁ、簡単に言えば魔王ってよりか盗人だな」
「処分して然るべき人間ってことでいいんですか?」
「人殺しはよくないよ?」マリーは言う。
「当然。殺すのが人ならな」
「人じゃないんですか?」
「言っただろ? 魔王だよ」クリスの口調は淡々としたものだった。「取り敢えず飯を食ったら南に向かって車を走らせよう」
「南、そっちはビーズの反応が密集してる方角だよ? いいの?」マリーはユウトの背後でぽつりと呟く。消え入るような、独り言のような呟きではあったが、ユウトがそれを聞き逃すことはなかった。
ユウトはマリーの方に上半身をぐるりと向ける。その際に片手を掛けた椅子の背もたれでは、命令状がくしゃくしゃになっていた。「ビーズがあるのかマリー?」
「ビーズ? なんだそれ」
「これですよクリスさん!」ユウトは体を食卓へと向き直すと、その先にいるクリスに向かって、自分の左腕に巻かれた粗末なブレスレットを指し示した。ブレスレットは透明で小さなビーズたちによって構成されており、それに加えて五ヶ所に明らかなビーズの破損箇所が認められるものである。お世辞にも美しいと言えるものではない。
「あぁ、記憶の。それがどうかしたのか?」
「どうやら僕らの目的地の方向に散在しているそうです。そうだ、鉄道とかないんですか? それならクリスさんに迷惑をかけることもないですし」自分の記憶についてのヒントが目と鼻の先にあるという事実にユウトの胸が躍る。
「あぁ遠慮はいらねえよ。俺宛にも届いてるから」クリスは言うと、サラダの中にフォークを突き刺し、雑多に釣り上げられたレタスやらブロッコリーやらを一気に口の中へと捻じ込んだ。「残念ながら移動は車でのみとのご命令だ。インフィニティの輸送に公共の交通機関はまずい」
ユウトは焦った。「それじゃあ俺のせいでクリスさんにまで」
クリスはサラダをごくりと呑み込むと、「いや、俺の任務はフェリーターミナルへのお前の護送だから。まぁ軽い旅行みたいなもんだ」と言った。
「それでも迷惑ですよ」
「何も迷惑じゃないさ。こんなド田舎で現役時代の貯金を切り崩しながら家庭菜園で細々と生きてる身の上だぜ? 暇潰しにはちょうどいい」
「現役時代って、おじさん三十代前半くらいにしか見えないよ?」マリーは言う。
「そんくらいだよ、妖精ちゃん」クリスはユウトの後ろで浮遊する彼女に向かって、朝日に光る白銀のフォークをゆらゆらと指の間で遊ばせた。フォークの動きと彼の子供じみた表情が相まって、ユウトには彼がまるでとんぼを捕まえるときの少年のように見えた。
「そういうの、人に向けるのどうかと思うんだけど」マリーは目を細め、自分の身を守るように両肩を抱いた。
「エルフだろ」
「礼儀の話!」
「失礼」クリスのフォークはぶらりと地を向き、サラダの中へと吸い込まれていった。しかし彼の鋭い視線は彼女からしばらく動かず、ユウトはその眼光になぜだか寒気を覚えた。
「じゃ、じゃあクリスさんの車でリベルダートを目指すってことで大丈夫なんですか?」ユウトは堪らず短い沈黙を破った。
「それでオーケーだ。作戦開始は一週間後。タクト二本の支給は受けたが、それにつけてもキャリアは面倒だ。不測の事態に備えて今日の昼には出よう。宿泊はカールの南部とジョルジュの適当な街で。それでゴールはフェリーターミナルのあるフローラだ。そんだけ余裕があればまあ大丈夫だろ。楽しく行こうぜ」そう言うとクリスはバゲットを一つ取り、それを無造作に噛み千切った。
ユウトの目には、彼がまるで遊園地に行く前の子供のように見えた。「殺しをしに行くのに楽しんで、って。まぁ、記憶が戻るんだから俺も嬉しいですけど」クリスにつられるようにユウトもまたバゲットを一つ取り、適量を噛み千切った。
笑顔でバゲットを齧るユウトをよそに、クリスはバゲットを無理やり人差し指で口の中に捻じ込むと、「それじゃあいろいろ用意しとくから、ゆっくり食ってろ」と言って、奥の部屋へと消えていった。
クリスの居なくなった部屋では窓からのそよ風が途絶え、開かれたカーテンの揺れが死んでいた。食卓はまるで嵐が過ぎ去った後のように静かで、ユウトに凪を思わせた。しかしその空間には違和感があった。普段はおしゃべりなマリーが二人きりの空間において押し黙っているという状況、それがユウトにはとても不自然に思えたのだ。
「ユウトさ」凪いでいた空間を揺らしたのはマリーの声だった。しかし彼女の言葉は続かなかった。それもまた不自然なことだった。
「なんだ?」彼は振り向かなかった。彼女の困った表情が手に取るように分かった。
「あっ、ええっと、記憶、いるかなって」
ユウトは彼女の言葉の意図することが分からなかった。「いるだろ、そりゃあ」
「そう、だよね」
彼女のその言葉にユウトは少しの苛立ちを覚えた。「マリーは、俺の記憶がない方がいいのか?」
「ううん、いいんだ。私は、ユウトが選んだ道が好きだから」
彼は振り向かなかった。
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