第19話捕らわれの身

 冷たい床の上で、ヴィヴィアンは膝を抱えて座っていた。

 夜会用の華やかで繊細なドレスは露出が多く、身体はどんどん冷えていく。

 羽織っていたあたたかなショールは、ここに来る途中で落としたらしく、むき出しの肩にはうっすらと血が滲んでいた。両手は扉を叩いたことで赤く腫れ、爪にも血が滲んでいる。殴られた腹もズキズキと痛んだ。


(どうしよう。どうしよう。どうしよう……!)


 ヴィヴィアンは唇をかみしめ、必死で考えた。

 こんなことになるのなら、クロエに送ってもらうんだった。

 後悔しても遅いのだが、ついそんなことを思ってしまう。後悔したところで、今の状況が変わるわけでもないのに――。



 * * *



 馬車の大きな揺れは、道を逸れたことが原因だった。

 立ち上がろうにも、その後も馬車は大きく揺れ、バランスが取れない。

 ソフィアがどうして座ったままでいられるのか不思議だったが、彼女は座り込んだままオロオロするヴィヴィアンを蔑んだように見下ろした。


「なんて無様なの……! やはりあの方には相応しくないわ」


 “あの方”とは、レイモンドのことだろう。

 自分を見つめる侮蔑を浮かべた瞳を、ヴィヴィアンはぼんやりと見つめた。

 座席につかまり、立ち上がろうと足に力を入れると、ソフィアがその足を蹴り払う。ヴィヴィアンはベタッと腹這いに倒れ、とっさについた手のひらに傷みが走った。


「レイモンド様に相応しいのはわたくしよ。あの方がこの国にお帰りになった時、宮殿で初めて会ったあの瞬間から、ずっとわたくしはあの方を想って参りましたの。それを、後から出て来て……!」

「レイモンド様と――」


 言い終わらないうちに、床についていた手を踏みつけられ、ヴィヴィアンは小さく悲鳴をあげた。


「馴れ馴れしくあの方のお名前を呼ばないでちょうだい……!」

「わ、わたくしを……どうするおつもりですか?」


 とにかくこの状況をなんとかしなければ。

 ヴィヴィアンは、ソフィアを刺激しないよう、レイモンドは名前は出さずに震える声を絞りだした。

 ヴィヴィアンはクロエの前で、ソフィアの馬車に乗り込んだ。もしもヴィヴィアンの身になにかあったら、真っ先に疑われるのはソフィアだ。

 こんなことがなければ、今頃ヴィヴィアンはエドワードにソフィアを推薦していただろうに、なんとも皮肉な話だ。

 それをなんとか彼女に伝える術はあるだろうか――。ふとそんなことを考え、心の中で打ち消す。

 今となっては、ソフィアを推薦するなどあり得ない。ただし、それはヴィヴィアンが生きて帰ることが出来たらの話だ。


(生きて――)


 その言葉が浮かび、ゾクリと背筋が寒くなった。

 青ざめたヴィヴィアンを見て、ソフィアが口を開く。それはいやに冷静で、静かな声だった。


「わたくし達は、途中で馬車が故障し、親切な旅人に助けられた。馬車を直している間、とある建物で待つことになったものの、その旅人は盗賊。助けるどころか、襲い掛かって来た。わたくしは御者に守られ、命からがら逃げだしたものの、あなたは――」


 言葉が途切れると、ソフィアは突然笑い声をあげた。様子が一変したことに驚いたヴィヴィアンが目を見開くと、ソフィアはニタァと口角を上げた。


「さて、どうなってしまうかしら?」


 楽しげに歌うように話すソフィアの笑顔は、この世のものとは思えないほど鬼気迫っていた。こんなことをしておきながら、なぜこんな風に笑っていられるのだろう。

 クスクスと軽やかな笑い声をぼんやりと聞いていると、馬車が止まった。

「降りなさい」


 ソフィアが冷たく言い放つと同時に、馬車の扉が外から開けられた。



 * * *



 気を失っていたヴィヴィアンが寒さで目を覚ました時、視界に入ったのは、蜘蛛の巣が張った窓だった。窓からは月明かりが差し込み、わずかだが、室内の様子が分かった。既に使われていないこの建物には、ヴィヴィアン以外、人の気配はない。

 起き上がろうとすると腹に傷みが走ったが、今はそんなことに構っていられなかった。

 

 車の扉が開け放たれた時、外にいたのは御者だけだった。

 運が良かったのか、盗賊役の男たちはまだ来ていなかったのだ。

 ソフィアは御者を叱責するが、来ていないものは仕方がない。「運びなさい」と命じられた御者は、躊躇することなく、ヴィヴィアンに手を伸ばした。勿論、ヴィヴィアンとて抵抗したが、みぞおちを殴られてからは記憶がない。

 あれからどれくらい時間が経っているのかは分からないが、人の気配がないということは、男たちはまだ来ていないのだろう。ソフィアの計画も万全ではなかったということか。

 逃げるなら、今しかない。ここがどこかは知らないが、馬車が移動していた距離からして、公爵邸からそんなに離れてもいないはずだ。歩けば民家も見つかるだろう。だが、当然のように扉は開かなかった。少しの隙間に指を差し込んでも、叩いても、その扉はびくともしない。じんじんと手が痛み、疲れたヴィヴィアンはその場に座り込んだ。

 色々なことが思い出される。その思い出の殆どにはエドワードがいた。

 領地が隣だったとはいえ、母はほぼ毎日のようにヴィヴィアンをダルトン伯爵家に連れて行ってくれた。人嫌いだというダルトン伯爵は、最低限の使用人しか置いておらず、幼くして母を亡くしたエドワードのために乳母を雇うこともしなかった。乳母の代わりに招かれたのがヴィヴィアンの母、アイリーンだったのだ。乳母の代わりとはいえ、年齢的にも既に乳離れしていたエドワードに対して、アイリーンは教育係として通うようになったのだという。伯爵にしてみれば、生活苦の男爵家に支援の手を差し伸べてくれたのかもしれない。そういういきさつがあり、エドワードとヴィヴィアンは、本当の兄妹のように育った。

 小さな頃一緒に遊んだこと、遊び疲れて一緒に眠ってしまったこと、大好きなお菓子をわけてくれたこと、庭に咲く花で花冠を作ってくれたこと――。

 ふ、とヴィヴィアンは小さな笑みを浮かべた。

 その花冠をかぶせながら、エドワードはお嫁にもらってくれると言ったっけ。あの頃は本当に幸せだった。その約束は、果たされるのだと信じていた。その時のヴィヴィアンは、家柄の違いだとか、その後エドワードが背負う運命など知る由もなかったのだ。


「最後に、ひと目でいいから、会いたいな……」


 開かない扉に背を向け、窓から見える朧な月を見ながらそう呟くと、扉になにかがぶつかるような大きな音がした。

 男たちが到着したのかもしれない。

 驚き、恐怖に震えたヴィヴィアンは、部屋にあった粗末な机の裏に隠れた。

 一層身を縮こまらせ、じっと息を潜める。男たちは鍵を持っていないのだろうか。まるで体当たりするかのような大きな音が部屋中に響く。


(このまま、諦めて――! お願い!!)


 だが、願いも虚しく、とうとう硬い扉がミシミシと音を立て始めた。

 ギッ、ギッ、と蝶番が外れそうな音が続き、ヴィヴィアンはとうとう悲鳴をあげた。


「嫌! 来ないで! やめて……やめて!」


 ヴィヴィアンの悲鳴を聞き、音が益々激しくなる。居場所を教えてしまっているのはわかっている。だが、その恐怖から出る声は止まらない。じっとしてなどいられなかった。


「やめて……エド! エド! 助けて!!」


 ガシャンと大きな音を立て、蝶番が外れた。その音にヴィヴィアンの身体が飛び跳ねる。血が滲んだ手で両耳を塞ぎ、ヴィヴィアンはギュッと瞼を閉じた。ドクドクと逸る自分の鼓動を一際大きく感じる。恐怖に縮こまる肩を、大きな手にグッと力強く掴みあげられ、ヴィヴィアンは心臓が飛び出そうになった。


「イヤッ! 離して!」


 滅茶苦茶に手をバタつかせるが、がっしりと掴んだ手は外れない。それどころか、そのまま引き寄せられ、強い力で抱きしめられた。

 身体を硬くし、抵抗するヴィヴィアンを、男は力ずくで抑えつける。


「ヴィヴィアン! 俺だ! 落ち着くんだ!」


 耳に入らないのか、ヴィヴィアンはなおも暴れる。


「ヴィー!! もう大丈夫だ。ヴィー!」


 懐かしい呼び名に、ふっとヴィヴィアンの身体から力が抜け、その瞳はしっかりと男を見つめた。


「――エド!」


 夢ではないだろうか。

 あんなにも会いたいと求めたエドワードが、ヴィヴィアンの目の前にいる。

 額には玉のような汗を浮かべ、険しい表情をしているが、ここにいるのは確かにエドワードだった。


「エド……! エド……!!」


 嬉しさのあまり、力いっぱいしがみつくと、エドワードがそれに応える。


「良かった……。間に合った……。 良かった……!」


 絞り出すように呟いた言葉が、ヴィヴィアンのむき出しの肩を撫でる。

 ふるりと震えたヴィヴィアンに気づき、エドワードは自らの上着をヴィヴィアンの肩にかけた。


「――すまない。ソフィアにまんまと嵌められた。黒幕はエイヴォリー公爵ではなかった。リルバーン伯爵……いや、ソフィアだったんだ」

「ソフィア様が……全ての、黒幕……?」


 ヴィヴィアンは、ソフィアが馬車で見せた冷たい表情と、狂気を感じさせるような笑顔を思い出した。

 ソフィアはレイモンドと結ばれることを当然と思っていたようだ。一体なにがあってそう思い込んだのだろうか。想い人役を引き受けた時は、そのような情報は当然無く、他の候補者と一緒で“顔見知り”といった印象だったし、現にヴァルキリー公爵夫人のお茶会で彼女とレイモンドが遭遇した時も、そのような素振りはなかった。ということは、単なる婚約者候補のひとり、というレイモンドたちの考えの方が正しいだろう。――ソフィア本人を、除いては。


「なぜ、ソフィア様は――」

「ヴィー! 怪我をしているのか?」


 エドワードがかけてくれた上着をぎゅっと握ると、エドワードの視線が注がれる。汚く腫れた手を見られたくなくて、すぐに隠そうとしたが、それよりも早く手を取られた。


「……すまない。ヴィー……本当に……」


 いつも冷静だったエドワードの顔が、くしゃりと歪む。苦しそうなその表情に、ヴィヴィアンの胸が痛んだ。

 優しく撫でる感触に心がざわつき、顔に熱が集中する。

 なぜ、そんな顔をするのだろう。

 なぜ、そんなに優しく触れるのだろう。

 目の奥がじんと潤み、ヴィヴィアンは手を引こうとした。


「エドワード様のお手が汚れてしまいます……」


 エドワードは手を離そうとはしない。それどころか、身を屈ませて顔を寄せると、赤黒く腫れた手にそっとキスを落とした。


 なぜ、そんな愛おしそうにキスをするのだろう。


 堪えきれず、ヴィヴィアンの目からは涙が零れた。

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