第二十一章 五

 異を唱えたのは陽月のシャングリラだった。


「そんなことをすれば、世界には魔が溢れるわ。浄化され、消滅していた魂が、汚れたままで巡ることになるのよ。人は生まれながらに闇の囁きを聞き、堕落に誘惑され、やがて多くの悪徳が支配する時代が来る。神々の手も及ばない、混沌の時代がやってくるわ」

「けれども世界はひとりで立つことができる。あのね、陽月。私、知ってる。世界は生きている。でも神も――三柱も、生きてるの。楔を打たれ、繋ぎ止められて利用され続ける大地神が、かわいそうだって、思ったことがあるでしょう?」


 大神がそれぞれに沈痛を示した。特にアストラスの反応は大きく、目を伏せ、顔を背ける。

 大地神は己が身に楔を打った。三柱の代わりとなる三つの柱を生むことができなかったために、その欠損を埋めるべく、己を世界の一部とした。その苦痛が人と同じく存在するのならば、いちるはそれを思いやることができる。我が身に、常に穢れを取り込むことで、少しずつ生きる力を失っていく感覚を、恐ろしいと感じたことがあるからだ。

 フロゥディジェンマが言う。

「循環の力が、魂そのものに宿るように、ちょっとだけ世界を作り変えるの。人は、その人自身の生き方で、魂を洗うのよ。それでも拭えない闇は、私たちが払いましょう」

 女神の白い手が、見えない光を包み込む。

「世界の在り方は、そこに生きる人たちが決める。深い闇も、輝ける光も、人の心が世界に与えるの。彼らの望みが世界を回す。だから、思いが強ければ、死んでしまった人とも、新しい形でもう一度会える――私が作るのは、そんな世界」

「――いつか、終わるときが来る。それでも、あなたはそうするの?」

 呻くように乙女は問いかけた。

 答える乙女もまた、力強く。

「世界をなるべく続けなくちゃいけない。それが私の、大神としての役目だから」

 陽月のシャングリラは、大きく息を吐いた。

「分かったわ」

 次の瞬間、世界が急速に遠ざかった。緑の木々も空も、広い草原も、一点に集い、布を取り払っていくように辺りは白く変わっていく。あれほど満ちていた平穏な空気は消え去り、草原も、乙女たちの姿もない、張りつめた場所に変わっていた。

 奥底、彼方、遠く隔てられいく場所から、声だけが届けられる。

 知らずうちに、いちるはアンバーシュと手を繋いでいた。

「じゃあな、お前たち。お前たちの望む世界を作っていけ」

 大神の声が聞こえてくる。

 いちるは口を開きかけ、何も言えずに閉じた。あのひとを父と呼ぶことはない。ただ、世界を支えた大神が失われる、変革の恐れと悲しみがある。己もまた、彼の神に守られた世界で生きていたひとりだったのだ。

「お元気で」

 絞り出すようにしてやっと言えた一言に微笑んだ気配は、果たしてアストラスのものだったのかすら、もう分からない。だがいちるは、光を得られぬ瞳がわずかに細くなったところが見えた気がした。

「楽園と地上は、永遠に隔てられる……世界は自立して、生きとし生ける者は己の力のみで生きていく…………時と運命の神々だけが、あなたたちの行く末を知っている………………」

 遠ざかる声に向かって、フロゥディジェンマが言った。

「さよなら、アガルタ。どうか、安らかに。いつまでも」

 別れを聞いた世界は、そうして消失した。影も形もなく、異界の、手の届かぬ彼方まで去っていったのだ。


 何もかもが遠のいていく異界で、いちるはアンバーシュを見つめ、首を振り、手を解いていく。アンバーシュがはっとしたように掴んだ手に手を添えて、もう一度、首を横にした。

「わたしには、もう帰るところがない」

 大神の力によって、いちるを含む撫瑚の国は消滅した。東島全体を見れば些細かもしれぬが、それでも大きな傷跡が残っていることだろう。戻ったとしても、肉体を持たぬのではこの身は彷徨う亡霊のようなものにしかならない。ならば、消えていくのが正しかろう。

「だいじょーぶ」

 フロゥディジェンマが片目をつぶる。

「当てはある。ちゃんと連れて帰るから。少し時間はかかるかもしれないけど、心配しないで。約束する、絶対、だいじょうぶ!」

 いちるはアンバーシュと顔を見合わせる。どうやらアンバーシュにも詳細は分からないようで、困惑している。それでよくついてきたものだと感心してしまう。ここは死と同義の世界なのだが、本当によくここまで来ようなどと考えたものだ。

(それだけ、会いたいと思ったのだろうか?)

 わたしに?

「後ろ、向いてた方がいい?」

 訊くが早く、女神は背中を向けた。いつも通りの女神の様子に、双方、どちらからともなく噴き出した。己の身が危うい、異界とも違う曖昧な狭間で、いちるは涙が出るほど笑った。

 そして唇を曲げ、笑いを堪えると、アンバーシュの頬に手を沿わせた。

「……ありがとう、来てくれて。すまなかったな」

 アンバーシュはその手に手を重ねた。

 温かい。このような場所でも、男の存在が確かにあることが感じられる。

「会いたかったから来たんです」

 その言葉に「謝るな」といちるは先制した。

「間に合わなかった、助けられなかったとは、絶対に、言うな。わたしは十分お前に助けられた。こんな己にも、生きる意味はあったのだと思うことができたのだから」

 求めることを諦めていた手は、この男に取られた。

 唱え続けた楽園の名は、女神の姿ですぐ傍らにある。

 心のどこかで憎らしく思っていた生というものの祝福を受けることが、こんなにも喜ばしいとは思わなかった。もし生命の神がいるとするならば、その二つの顔は愛と憎しみだろう。呪いと祝福を贈る、世界の営みそのものを司るに違いない。そんなものが、この先の世界を守ってくれればいいと思う。

 しばらくの間の後、アンバーシュはいちるを胸に抱いた。

「これ以上ない言葉をありがとう、イチル。……おかしいな。嬉しいのに、涙が出ます」

「お前を泣かせるのはわたしだけだ。存分に泣くがいい」

「だから、顔と言動が一致してませんてば。あなたは本当に可愛くないのに、この上なく可愛いな」

 額と額を合わせ、こすりつける。頬に触れた手はアンバーシュの手に包まれて、目尻から涙を落としながら、ふと真剣に口づけを交わした。

 これが、最後の口づけになるのだと、分かっていた。

 瞳の中にいる者が、己であることが信じられない。その天青の色にふと何かを思い出し、いちるは忍び笑った。なに、と穏やかな問いかけに、くすぐられた気持ちで答えた。

「アガルタの空は、お前の瞳の色と同じだったよ」

 フロゥディジェンマが、そっと告げる。

「バーシュ、先に行って待っていて。エマは、いちるを連れていく」

 アンバーシュの身体が浮き上がる。

 この手が届かなくなる前に言わねばならぬことがある。早口に言ったのは、心が逸って仕方がなかったからだ。

「……もう一度会ったとき、お前が誰を愛していても責めはすまい。何故なら、そのときのお前を作ったのは、わたしが側にいた記憶であるはずだから」

 別れたくない。まだ片時も。言葉と反する思いに焦がれて仕方がない。

 何も成せていない。時間が足りない。二百五十年、その中の瞬きほどの時間が、どうしてそれまでのように長く続かないのだ。

(もっと、生きてみたかった)

 目を閉じる。

 溢れた。

(しにたくない)

「生きていたくなりましたか」

 目を開く。男が笑う。

 いちるの神様が笑っている。

 頬に触れる指に目を伏せる。胸の奥底で叫ぶ。お前、まさか計っていたのか。この男は、残酷にも未練になる甘美を山に盛って差し出していたのだ。いちるが、その味を忘れられなくなることを知っていて。

 ああ、ならば、あの刹那の日々の、なんと幸福だったことか!

「あのですね、忘れているかもしれませんけれど、俺の気は長い方なんですよ」

 やんわりと、言い聞かせるように。アンバーシュは苦笑する。


「千年かけても、あなたを待ちます」

 見開いたいちるの目尻に指を伸ばして。

「俺の側から離れないでいてくれますか?」


 答えはひとつであり、願いもまた同じだった。今はまだ、この思いが消えぬから。まだ、この男を欲しているから。


「あなたとの二度目の恋を、楽しみに……――」

「アンバーシュ!」


 男の姿は消え、後には真珠色の光と霧が立ちこめる。

 空気の密度が変化し、天も地もない重力の存在し得ぬ異界に変化しつつある中、いちるの涙は真珠玉の形になって、天に昇る星になってきらめき、踊った。

 肩に置かれたフロゥディジェンマに手を取り、頷いた。もう泣きはしない。次があるなら笑ってやろう。例え拒んだとしてもあの男は来るだろう。そうなれば最後にいちるは微笑っているに違いないから。

「エマ、ありがとう」

 いちるもまた、浮き上がる。帰るところを失った女を危うげなく導きながら、フロゥディジェンマは目を細める。幼い少女の面影がよぎったのは、楽園の女は溶けつつあり、フロゥディジェンマという意識が次第に濃くなってきているからだろう。彼女は、歌うように言った。

「だったら、幸せになって。次も、いっぱい、幸せだって言って。それだけでいい。いちる、大好き。いちるは?」

「わたしも、大好きだ」

 変わらない言葉で思いを伝えてくれた女神の、満面の笑みが、いちるの見た最後のものだった。


 後は、長い長い、光の海を泳いでいく。暖かい大海だった。果ては知らない。けれど、不安になる度に聞こえてくるのだ。ダイジョーブ、と、恐れを拭って呼ぶ声が。

 ゆえに信じていられるのだ。行き着く先がどんな世界でも、そこで、待っている者があると。

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