第二十一章 四

 感情の波が去ると、別れの時を意識した。

 彼がここにいるということは、地上ではひとつの出来事が終わりを告げたのだろう。胸から顔を上げると、首を傾げて微笑まれた。憎たらしくて仕方がないというのに、いちるも笑っていた。本当に、よくここまで来たものだと思ったのだ。

 どちらからともなく手を繋ぎ、桜の木立を抜けていく。森の入り口にはアガルタの乙女たちが集まっており、銀の獣に行く手を阻まれて立ち往生していた。尾を動かして軽く威嚇していた獣は、くあ、と大きくのどかな欠伸をしていたが、やってくるこちらに気付いて両足で立ち上がった。

「エマ」

 アンバーシュから手を離し、両手を伸べると彼女はやってきた。そしていつものように腰に抱きつく……と思ったが、いちるは目を瞬かせることになった。

 位置が違う。それに、どちらかというと何故か、自分が抱きとめられている。

 少し見上げる位置に顔がある。それは、少女ではなく、妙齢の女の顔だった。

 乙女たちが驚愕の囁きを交わしている。

「エマ……?」

「うん」

 女は頷く。銀の髪の先が紅色に染まっているのも、紅の瞳も、フロゥディジェンマのものだ。だが彼女の持つ光があらゆるところから放たれて、見つめる今も眩しい。白くほっそりとした首を傾けて、女はいちるの驚きを微笑した。すべらかな両手が頬を包む。


「――むかしむかし、地上に焦がれたアガルタがいた。彼女は夢見てた、ここにはなくて地上にあるもの、それはきっと、とても素晴らしいものなんだって。そして運命に落っこちて、地上に行くことになったけれど、残された片割れはずっと後悔してた。どうして一緒に行けなかったんだろう、地上であの子は泣いていないだろうか……だから、追いかけていくことにした。扉をくぐって、地上へ」

 だって、片割れがいないとアガルタじゃないから。笑って、乙女の誓約の強さを明るく語る。

「でも、案内のない道程は辛すぎた。ぼろぼろになって地上に出たけど、そこまでだった。けれど、なんとかして生きなければ。そうやって辿り着いたのは、豊穣の女神クシェレムローズの胎内」

 ここにいるのは誰なのか。

 いちるはアガルタたちを見遣り、再びフロゥディジェンマである女を見つめた。銀の髪、紅の瞳。容貌は、西人の美しさを持っている。それがまっすぐ、いちるだけを見つめ続ける。

 いちるだけを包み込む。


「生まれた私はそれまでの全部を忘れてしまっていたけれど、一つだけ忘れないでいたことがある。――私、ずっと待ってた。あなたに会える日を。例え、あの子自身じゃなくても。逢えて本当にうれしい。だって、あなたは私の大事な片割れが生んだ、たった一人の娘だもの」


 女神はいちるに頬擦りする。痛いほどに。



「あなたは私の、私たちの、たった一人のお姫様! いちる、生まれてきてくれて、ありがとう!」



 光の女神の瞳から生まれた雫が触れ、髪から滑り落ちる。

 かつて、楽園の娘たちは誓い合ったのだ。お互いを慈しみ守ること。片割れであること。そして、彼女は叶えてくれた。姿を変え、形を変えても、忘れないで、見つけ出してくれた。いつか唱えた理想郷の名前が、今ここに、幸福の響きを持って発せられる。

「アルカディア――……エマ……」

 それは、いちるを、ずっと愛してくれていたのだ。




「……銀朱(ぎんしゅ)の」

 陽月のシャングリラが進み出る。傍らにいる金髪の女は、彼女の片割れだ。腕を組むその女は、髪の長さや色彩が異なるだけで、フロゥディジェンマによく似ている。その周りの乙女も、アルカディアの一族と呼び表されるためかどこかしら似通っていた。

 彼女らに向かって、フロゥディジェンマは笑う。いちると頬を触れ合わせたまま。

「もう一度、ここに戻ってくるなんて思わなかった」

「ええ、私たちも、そう思っていた。河を渡り、扉をくぐった乙女は、二度とこの楽園に呼び戻されることはないから。銀朱のアルカディア、あなたは、戻ってくるはずはなかったのよ」

 陽月の双人の目には影がある。

「これから、どうするつもりなの。アガルタでなくなった上に、地上の神として生まれたあなたがここに来ることは、本来ならば許されない……扉をこじ開けてその子に会いにきたとしても、連れて帰ることはできないわ」

「陽月の。私は意味のないことはしない。ちゃんと当てはある」

「銀朱の、あなた」と陽月のが言いかけた時だった。

 何かが降り、何かが弾け、何かが吹き飛んだ。

 乙女たちの驚きと悲鳴が上がり、ぐええ、と潰れしゃがれた鳴き声がした。

 いちるは、アンバーシュの背中越しに、フロゥディジェンマが見据えるそのひとに目を奪われる。

「アマノミヤ……」

 悠然とした仕草で振り返った東の大神は、そこから前方へと視線を移す。その先には金の髪を流したアストラスが、地上でばたつく何かを踏みつけ押さえている。片足を載せられた黒い生き物は、やがてぐったりと力をなくして項垂れた。

「やれやれ、やっと静かになった。ありがたく思え、名も無き末弟よ。生まれ出ることはできなかったが、私たちが来てやったんだ。これでやっと我々は完全な形になるのだからな。――おい、アマノミヤ。さっさとやることをやってくれ。アガルタの乙女たちに首を捻られる前にな」

 蝙蝠のような翼に太い蛇に似た胴体を持った黒い生き物は、恨めしげに緑の目でアストラスを睨んでいた。乙女たちも、彼らを憎たらしそうに、あるいは悲しげに疎んじている。アンバーシュたちはともかく、大神の登場に乙女たちの園が蹂躙されているのは目にも明らかで、いちるは何故この神が己の前に立っているのかを注意深く思案した。

 感情の伺えぬ、凪の海の目でいちるを見るアマノミヤ。ここに来て何を言われるのか。東神に拾い上げられることのなかった己を省みると、この神の悲しみが知れた。

 憎悪でもない、嫌悪とも違う。無関心という形で、この大神はいちるを捨てたのだ。

 アンバーシュが立ちはだかる。

 それに少し笑う形で、アマノミヤの薄い唇が開いた。

「……私は、そなたを愛すことはなかったが、そなたを生んだ娘は、そなたを、愛していた」

 いちるを後ろにやっていたアンバーシュも目を開く言葉だった。

「アガルタの娘が、そなたに贈った名を、その証として贈る……」

 低く囁かれたその名は、東の島、彼女の暮らした大地を意味する言葉。

 楽園から引き離された乙女が、その場所を心から想った事実を感じ取り、いちるは唇を噛み締め、目を閉じた。

 ――真秀。その名はもう名乗ることはないだろうが、生まれた者が誰しも与えられるように、名を貰ったということが染みていく。

 わたしは、生まれたことを誰かに喜ばれたのだ。

 そんないちるの様子を見守っていたフロゥディジェンマが、居並ぶ者たちへ高らかに告げた。

「みんな。私は、西の大神の座をもらった。だからその力で、世界を少しだけ作り替えようと思う」

 わくわくと、子どもが遊びを始めるかのような明るさで、女神は誘う。空に手をやったのは、ここに姿はない誰かに聞こえるように。


「大地神の楔を放つ。三柱と世界の繋がりを解き放って、アガルタを永遠に閉じる。そして、地上世界を自立させる!」

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