第十九章 七

 走る。走る奔る。流星のごとき光が、薄紅の帯を引き、夜闇に跡を残す。

 だというのに、追いつかない。フロゥディジェンマの速力でもっても、闇の動きは素早く、まるで捕まらないのだ。それどころか、突然現れた冷たい蛇がこちらに狙いを定め、追ってくる。それに翻弄され、早く捕まえねばならない敵が、どんどん遠ざかっていく。

 あの大きな敵の中にはいちるが囚われている。

 いやな気配がする。背筋がぞくぞくして、牙が疼いた。むき出しにした歯をぎりぎりと噛み合わせ、フロゥディジェンマはひたすらに駆ける。疲れ知らずの少女神に、疲労の影がつきまとい始めた。息が切れ、目がかすむ。自分が追って捕らえられなかった獲物はないはずなのに。どうして。

 どうして、一番大事なものにかぎって追いつけないの。

 苦しいと感じた一瞬だった。腹に一撃を食らい、その瞬間、二撃、三撃と食らう。目標は見えなくなった。からがら逃亡したフロゥディジェンマが見たのは、遙山並みに消えていく漆黒と、濃い水のにおい、土地の放つ臭気だった。

 しばらく、呆然とした。獣から、人の姿に転じて、身体に張り付くような冷たい風に吹かれる。

 追いかけられなかった。捕まえられなかった。冷たい風に吹かれていても、エマ、と呼んで側に引き寄せてくれる人がいない。顔を埋めることのできる柔らかな身体も、優しい手も、どこにもいない。取り戻すことが、できなかったから。

 熱いものが落下する。泣いている、と気付いて、フロゥディジェンマは驚いた。他者の泣く姿は見ても、自分が泣くことは初めてだったからだ。熱くて、胸が苦しくて、喘いで、悔しい。手のひらでこすっても、不思議なことに消えてくれなかった。自分の内側から生み出されるものは、まるで無限のようだった。

 寂しい。辛い。こんなのはいやだ。

(エマ、ハ)


 むかしも、こうやって、おいていかれたことがある……?


 見えぬものが分かる神であっても、形の定めることのできない既視感だった。






 一歩一歩、よろめくようにして出てきたアンバーシュは、慣れた気配を感じて顔を上げ、目を伏せる。

「かつて、世界は円環だった。太陽と月と大地の三神は、それを支える三つの柱として、廻る力を見守っていた」

 オルギュットの声は、西とは異なる宮殿でも豊かに響く。

 声をかける気力もなく、ゆっくりと後をついてくる兄オルギュットが話すままに任せた。

「だが、火の神を生んだことによって、柱に亀裂が生じ、三神の環が壊れた。このままでは世界が崩壊することに気付いた子神らは、円を支えることにした」

 世界の成り立ち。

 世界を支える三つの柱。

 去った三柱の神々。

 彼らの眠るアガルタの地。

 何もかもが世界の始まりに繋がっていたなど、思ってもみなかった。ただ自分は、失わずに済む存在を求めただけだったのに。

「だが、欠けたものは元には戻らない。ゆえに――ひとりにそれを埋める役目を負わせることにした」

 ――大地神。

 創世神のひとり。太陽と月に先んじて姿を消した、三つ目の柱だ。

「大地の神は、崩壊する円環のつなぎ目として、我が身の一部に楔を打った」

 その楔こそが、各地に存在する石の柱。ヴェルタファレンの国内にも存在する、土地の神、古いものたちだった。

 しかし、その楔を打っても、すべては元通りにはならなかった。力を削ぎ、世界を存続させる道を選ばなければならなかった。削がれた力の名を、過去世、前世、あるいは循環の力という。

「だが、三柱は己らの代わりとなる柱を生めなかった。だから、今でも心臓部となってしまった大地神の元にすべての魂が行き、新たに生まれるものはかの神から送り出されてくるままになっている。理を変えるならば、この世界には新しい柱が必要だ。新たなる理。新たなる大神、そして、新たなる世界が」

 それは、アストラスとアマノミヤが語ったものと同じものだった。

「あなたは聞かされていたんですか」

「立場上、疑念を抱くに至ることが多くてね。あの頃はまだ調べようと思えば調べられた。神々の口もそれほど固くはなかったし、私が秘密を知るに足る者など思ってもらえていたようだ。イチルも言っていた――この世界には、生、そして死を司る神がいない」

 生まれるべきであったものが失われたことが最初だと、大神は語った。


 東のアマノミヤ。

 西のアストラス。

 三つの柱に対して、もうひとりがいない。

 このひとりが、生まれることのできなかった、三番目の大神。


「三柱は失敗したのだ」

 そうして、不完全な形で留まることになった最後の大神は、姿を歪ませ、世界中に散った。


 異眸の者ども。

 魔眸と呼ばれる存在として。


「大神は何と言った?」

「アガルタへの道を開き、古き楔である大地女神を解き放ち、還る、と」

 そして、新たな創造を行う。

 失敗した創造をやり直すために。

 そのためだけに、彼らはアガルタへの道を探し続け、戦ってきた。神々のほとんどの者が知らない。知りたいと思うだろうか。自分たちが戦ってきた理由が、すべて、父なる大神の、死への願望のためだということ。

 だからこの秘密は、互いの胸だけにしまっておく。

「……イチルを、魔眸が欲するのは。彼女が、不完全な大神に器を与えることが出来るからだと」

「アガルタの力とアマノミヤの血。不完全だが神に近しくはある。その不安要素を解消するために、あの闇の者どもはお前に預けることにしたのだろう。イチルが呪いという闇を抱えながら、神の力に馴染んでいくように。その時が来るまで、機をうかがっていたのだね」

「どちらだと思いますか」

 前を見据えながらアンバーシュは尋ねた。

 どちらというのは、とオルギュットは皮肉な笑みまじりに問い返す。


「イチルを器と見立てて三番目の大神を受肉させるのか、あるいは、イチルに大神を産ませようというのか、という二択のことでいいのかな?」


 いちいち言葉で表すのがこの男の悪い嗜好だった。悪夢のようだとアンバーシュは思う。

 目を閉じ唇を噛み締め、頷く。渇きを覚える。今にも涙がこぼれそうだ。熱が悲しみにしかならない。否定してほしいと分かっていながらも、オルギュットは「分からないな」と静かに答えを返した。

「魔眸となった大神、産まれ損なった者としては受肉したいだろうね。アガルタに由縁の近いイチルは、神を降ろしやすい存在ではある。だが、神を産むにしても最適な存在だ。アガルタの血、アマノミヤの血、そしてお前から得たアストラスの力。ここに魔の力が加われば、まったき者が生まれるだろう――東西の大神を凌ぐ存在が生まれ、世界は純粋な闇に包まれる」

 生まれた神は恐らく魔の影響を強く受ける。すなわち、魔眸と同じく、人の辛苦や痛みに歓喜し、堕落や死を呼び寄せるものになる。その上、大神を超える力の持ち主であるならば、この世界は魔の神が統べるものと成り果てる。

 そこまで言って、オルギュットは少し笑った。

「聞きたいことはそういうことではないか。そう、ならば、私にも分からない。イチルを連れ去った者が、魔眸としての性である大神の意思を反映するか、それとも、イチルに執着した個人の意志で行動するかまでは」

「――……」

 いちるを奪いあって死んだという男。それがもし、ようやく望む者を手に入れたとするならば。

 あの細いからだに、黒い花が芽吹く。いちるの肚を突き破って大きく花開き、やがて彼女を飲み込み、新たな種子を育むだろう。そこから生まれるものが、いちるを食らうものが、善であるはずがない。

「大神の降臨もしくは誕生の瞬間に、アガルタへの道が通ずる、とあの方々は言っただろう」

 アンバーシュの無言を、オルギュットは肯定と受け取った。

 地上にいる者がアガルタへ至るには、その道筋に跡をつけなければならない。だが、これから現れようとしているものはアガルタに眠る大地神から送り出されてくる。道筋を忘れてしまう者たちとは違う。ただの人とは異なり、大神の魂ならば、絡めとっても壊れる心配はない。

「多少は命の保証があるわけだ。少なくとも、殺される確率は減った」

「あなたが、それを言うんですか」

 命を取る代わりにこの男は交渉したのだ。いちるのかけら、記憶を奪い、それを返すことで道を付けようとした。だがそれも、フロゥディジェンマの果敢な行動によって阻まれている。

 だから恐らく、アストラスはずっと待っていたのだ。己からアガルタに近付くのではなく、アンバーシュたちがアガルタに近付く時を。時が来たというのはそういうことだ。

「殺されるよりももっと悪いことが起こるかもしれない……」

 不意に強く肩をつかまれた。

 驚くアンバーシュが見たのは、光をたたえた兄の瞳。

「しっかりしろ、アンバーシュ。痛みに囚われるのはお前の悪い癖だ。選ぶものははっきりしているだろう。お前の言う『悪いこと』を受けるのはイチルだ。最悪が起こる前に行動しなければ、お前はまた失う。お前がしたいことはなんだ」

 思ってもみない態度に虚をつかれたのは一瞬。

 零れ落ちた言葉も、刹那だった。

「――イチルを助けたい」

 助けたい。取れなかった手を取り、この胸に抱きとめたい。空を仰いで自分を迎えた彼女を、空の光の中で手を伸ばしたいちるを、口づけた時に睫毛を震わせる妻を、底のない闇に囚われる前に。

「イチルを助けたい……! 失いたくない、誰にも譲りたくない。例え、それが神であっても!」

「なら、動け」

 背を向けた彼に、呼びかけようとして、留まった。オルギュットは何故そのように叱咤するか、察するものがあったのだ。

 傍らに伴っていた女性補佐官の姿が思い出される。彼女もまた、残り時間の少ない存在だった。そして、それを吐露せずに行ってしまったことが、彼なりの気遣いなのだと分かってしまう。

 動け。弄するのでなく、動け、と強く背を押されたことは久しぶりだった。だから、アンバーシュはぐっと拳を握ると、大きく足を踏み出した。まずは、アストラスの陣で助力を、そして阿多流に援軍を借りよう。撫瑚の国に攻め入る。闇の巣食う地から、いちるを引きはがすのだ。

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