前のエピソード――第十九章　二

　阿多流が戻ってくる。当然という顔ではなく、見守っていた観衆に敬意を表して軽く礼をした。そうして紗久良姫の前に出て、深く頭を垂れる。

「見事でした。誉れたる弟よ」

　けれど、と目を細くする。

「もう一騎の結果を見てから、優れた者を讃えましょう」

　阿多流もにやりとした。

　風の眷属たちが的を運んでくる。見えない手でそれを支えていたが、風が吹き始め、満津野姫が伊座矢を見た。咎める視線を無視して、彼は微風よりは強い風を楽しげに感じている。彼が命じないのならば、この空気の動きは止まらない。

　邪魔をしているのだ。

　隣にいる渡汰流が目に入る。彼の挙動。落ち着かず的を探している目。熱を感じているのか額を拭っている。

　いちるは意識と感覚を広げた。見えない白く柔らかい羽毛のような霧を掻き分けながら、異変を感じ取るための手を伸ばす。常のように思うままにならぬそれで的を掴もうとするが、掠める程度だ。しかしそれで充分だった。

　いちるは身を乗り出し、集中を乱す行為と知りながらも、「アンバーシュ！」と呼んだ。アンバーシュはすぐこちらにやってきた。

「最後の的が金属製だ」

　囁いた知らせにアンバーシュは目を見張った。もちろんそちらを見るような愚は犯さない。

「なるほど。意識しないと射抜けないようになっているのか」

　矢が跳ね返れば無様だ。的が何で出来ていたとしても、虚弱な矢を放ったと思われる。恥をかかせようと仕組まれたのだ。

　だがアンバーシュは特に気にした様子なく、いちるが苦々しく思っているのに「大丈夫」と励ましてくる。

「おかげでちょっとやりやすくなりました」

　何がと問いたかったが目が集まっている。不審に思われぬうちに、いちるはアンバーシュの袖を引き寄せる。

　額に、唇を押し当てる。

　悲鳴が聞こえる中、いちるは思いを明朗にして、言葉と意志で伝えた。

「祝福を。愛しき我が汝兄（なせ）の君に」

　アンバーシュも慣れたものだった。胸に手を置き、いちるを仰ぐようにして告げる。

［一矢を、我が妃に捧げます］

　東の習慣に、騎士は存在しない。しかし、主君を仰ぎ、高貴な女に尽くす戦士はここでも変わらず存在する。命をかけて忠義を尽くし、色恋沙汰とは無縁であるべきとされる、美しく強い男たち。女たちの心をいつの世も虜にする彼らに、アンバーシュを当てはめたのだろう。ゆえに悲鳴は聞こえず、ただただ胸がいっぱいになった挙げ句に息を漏らし、女神たちは弓を下げた西神を見つめた。

　馬を駆った勢いのまま、アンバーシュは的の並ぶ直線についた。

　一矢が的を抜く。晴れた日の雷鳴のような低い音。

　二射目も危なげなかった。音を揃えたのか、同じ響きが続く。

　三、四と続き、五射目で顔をしかめた。思ったよりも風の抵抗を感じたのか、弓を引き絞る力に余計なものが紛れていた。しかし矢は中央を抜いた。微弱な風が軌道を押したのだ。

　そして最後の的になる。素早く矢を得ようとしたアンバーシュは、急にぎくりとした顔をした。あっといちるも叫んだ。

（折れ矢だ！）

　どうやら細工は二つに留まらなかったらしい。筒の中で折れた矢が混じっていたのだ。運悪くもアンバーシュがそれを引いてしまった。しかし次の矢を探るには間に合わない。そう思ったのに、アンバーシュは弦を引いていた。

　後ろから、向こうへと強風が吹く。射手に集まっているかのようだった。自然だが何らかの意志が働いている。

　中点を狙う矢が、輝きを帯びている。擬装された的はさほど揺れず、射抜かれるのを待っていた。

　激しく鋭く空を裂く音に続けて、小爆発音が耳を打った。

　誰もが呆然としていた。最後の的は、期待した音色を奏でることなく、塵となって霧散したのだった。

［すみません］

　ぼんやりとした目が、射手に向けられる。彼の手には鏃を失った矢が一本。

［焦ったあまりに、矢を『作って』しまいました］

　的を抜いたのはアンバーシュの力。彼の能力たる雷が、研ぎすまされ一筋の形となり、矢とは段違いの強さで、狙ったものを粉砕し、跡形もなくしてしまったのだ。

　競技としては違反だが、その力を見せつけたことは違いあるまい。しかし、男は誇らしげというよりもばつの悪い顔をして、叱られるのを待っている。

　紗久良姫が噴き出した。

「ふ、ふふふ……！　まあまあ、なんて弓使いなのかしら！　『矢を作る』など、初めて。こんな騎射があるなんて」

　姫神は弟妹を呼ぶ。

「アンバーシュが優れた射手だと評価するのが妥当だと思うのだけれど、お前たちはどう思って？」

「もちろんだわ、姉様。楽しませてくださったアンバーシュ殿を評価すべきです」

「燐も……そう思います」

　審判側が言うのだから弟たちは否を唱えない。渡汰流が驚いた様子で伊座矢とこちらを見比べているが、主犯と思しき男神は薄い笑みを貼り付けたまま、腰を上げた。渡汰流が慌てて後を追っていく。

　それらには目もくれなかった紗久良姫の明るい声が響く。

［功労者に褒美を差し上げなければね。何か望むものはおありかしら？］

　アンバーシュが下馬し、回廊に降り立つ。胸に手を置いて紗久良姫に敬意を示し、微笑みを浮かべた。いちるは男を注視した。そして、これが目的だったのだと確信した。

［アマノミヤに対面する許可をいただきたい］

　その瞬間、高揚も魅惑も払拭する勢いで空気が冷えた。狼狽えた燐姫が満津野姫に縋るが、彼女もまた顔を白くして硬直している。珠洲流は眉をひそめ、阿多流は微笑んだ。紗久良姫は、笑みの形を変え、静かにそれに答える。

［それについてはお返事申し上げたはず］

［更にお願い申し上げています。我々には東の大神に会う権利があります］

　紗久良姫と阿多流が一瞬目を見交わしお互いを気にした。しかし、二人ともアンバーシュから目を離さない。アンバーシュが言葉を重ねないことを知り、紗久良姫が深く、息を吐いた。

［父神様はお会いにならない］

［そこで諦めることができるならお願いに上がりません。この世界に起こっている異変、魔眸の増長、大神や古神の思惑に、あなた方も疑問を抱いているはずです。大神は語らない。だというのに、我々は振り回されている。このままでは、守護すべき大地が滅びるかもしれない］

［お前には予感があるのか、アンバーシュ。そう口にする根拠は］

［先ほど言った魔眸の活性化。あなた方は強く感じているでしょう、アタル。でなければ、俺やエマに退治の助力など請わないはずです］

　阿多流は目を輝かせて楽しげだった。それで矛先を引いて耳を澄ませる姿勢だ。紗久良姫がめずらしく苛立ったように扇を音高く閉じ、話を切り上げようとする。

［無理な相談です。父神様が一度否を唱えたものに、わたくしたちは異論を挟むことが出来ない］

［では、褒美の権利をわたくしに譲ってはいただけませんか］

　神々の目がいちるに集う。

　アンバーシュはその手のひらをいちるの背に当て、待っていたと言わんばかりに軽く撫でた。

［望みによります］

　油断ならないと言わんばかりの表情。花の女神の冷徹な顔つきは、彼女の秘められた側面だ。咲き誇る花には枯れ落ちる時がある、己の言葉を思い返すいちるだった。

　冬枯れの、色を失った冷酷さもまた、紗久良姫神という女神を美しく、荘厳に見せている。有無を言わさぬ、東の至高の女神の姿がそこにある。ゆえにいちるは声を張り上げる。扇を握り、もう一方では拳を握って、すべての疑問を集約した。

［――わたくしが誰なのかを教えていただきたい！」

　ぐっと、紗久良姫が力を込めた。

　いちるは更に言う。

［わたくしは何者ですか。あなた方にとってどんな意味があるのです。アガルタを知り得る紗久良姫、あなたならばこの問いに答えられるはず］

［……知ってどうするのです］

［では、知らぬままでどうしろというのです。現状に甘んじていろと仰る？　あなた方から与えられるものを享受し、平穏に生きて、死を迎えろと言われるか。抗いを捨て、安寧に身を委ねることに満足しろと？　それでは、何のために生きているのか！］

　紗久良姫の顔に、亀裂のような皺が生まれる。

　いちるの声は、鋭く、女神たちの汚れのなさを射抜いた。

［汚れと澱みから目を背けず、業を負って生きねばならない。あなた方にはない生き方をわたくしは選んでいる。痛みを感ずることが妾の生であり、それを慰撫されることがわたしの望む愛だ。その愛に生を賭けている、ゆえに求めるのです、秘められるべきものなどない、貪欲に真実を、わたしの、わたしという生の由縁の在処を！］

　風がいちるを取り巻き始める。激しさを訴える道具と化して、彼女ら彼らに吹き付ける。声を荒げ、神域を乱した人ならぬ者を、神々はそれぞれの眼差しで見つめていた。高位であればあるほど、感情が伺えぬほどに平かな顔つきをしていた。

　やがて、紗久良姫が大きく肩を落とした。

［……時間を、ちょうだい］

　目を逸らし、呻くように言った。

［いたずらに真実を与えて、毒に侵される者を見たくないと思うわたくしたちの思いを分かってほしい。弟妹たちにもそれを知らぬ者がいる。まずはそこから始めねばならない］

［では、明日。伺います。それでよろしいですか］

［……ええ］

　そう言って、紗久良姫は苦く笑った。

［こんなことならば、騎射などしなければよかったわね。わたくしの真意だけは伝えておくわ。いちる。わたくしは、知らない方がいいと思っている。知れば、今のようにあなたは必ず動くでしょう。憩わせてあげたかったけれど、あなたが望むのならば仕方がない］

［御神を責めることはありませぬ］

　そう願っているわ。花女神はそう寂しげに微笑んで、一同の解散を命じた。

　いちるとアンバーシュは早々に銀珠殿へ引き上げ、各々一息つく時間を作った。いちるは胸に入れている書簡を人目に触れぬよう一度文箱に収め、華麗な衣を脱ぎ、簡素な部屋着に着替える。思考は止めていた。世話をする二人の花媛よりも遠くを見ながら、先ほどのことを断片的に思った。思う端から崩れていき、目を閉じるしかできない。

　噛んだ唇の冷たさに、更に歯を突き立てる。

　それを案じるかのように寄り添っていたフロゥディジェンマが言った。

［アナタガ、誰デアッテモ。エマ、ノ、しゃんぐりらダカラ」

　二人が下がるとアンバーシュが来る。こちらは上着を脱いだだけの姿だ。言葉もなく頬を撫でられ、目の端が熱く潤むのを感じる。さながら雪が溶けるようだった。しかし零してはならぬと俯くと、歯を立てた唇を、親指でなぞられる。

　すると、幼い女神はするりと姿を消した。いちるの虚勢が崩れるのを見ないためだった。

　後は、言葉もなく、二人、ひたすらに身を寄せていた。これから起こるものに竦まぬよう、今は耐えるときなのだと、そう願っていた。