第十九章 二

 それは、己の思いを歪めることなく無垢に抱き、真実を口にする少女神の、救いの言葉に似ていた。

 少女が前方を見遣った。待っている藤の元に、葵の姿がある。何か話している様子だったがいちるを気にしている。いちるは、フロゥディジェンマの手を握った。その強さに、少女は不思議そうな顔をして見上げたが、微笑みを投げて歩き出す。二人に追いつくと葵が一礼した。

「何がありましたか」

「姫様がお出になられた後、阿多流男神様から使いが参りまして、アンバーシュ様がお出掛けになりましたとご連絡をいただきました。それから、今度は紗久良姫様からのお使いが、姫様をお招きしたいとのことでしたので、お知らせに参りました」

 気遣って寝かせてやったというのに出て行ったらしいことに、いちるはわずかに苛立ちを覚えた。そうして、自分勝手に歩き回っている奔放さに呆れた。いったい、何をしにきたというのだ。

 銀珠殿に戻って着替えをし、花媛殿へ行く。今日の衣は、蘇芳に蔓模様の打ち掛けだ。細帯は納戸色に金銀の薔薇。髪は後ろでまとめ、前髪を中央で分けた。頬に近い一房を丁寧に梳る。支度を見ていたフロゥディジェンマは、髪を梳かし、椿の花の髪飾りを留める。その間に、いちるは耳に光輝の耳飾りを下げた。

 花媛殿の奥、広い回廊になっているところに連れて行かれる。何かに気を取られているフロゥディジェンマが遅れないようにと思い、彼女の目を奪っているものを探ろうと目を凝らした、異能はいつものように強く働きはしないが、歩廊の手すりの向こうの中空に淡く感じ取れたのは、覚えのある気配だ。

(……誰だ?)

 もう一つの目も霧がかかったようで見えない。苛烈ではなく、若い、草木に近い気が手に取れる。恐らく男だ。かすかな苛立ちと罪悪感のようなものが、かさついた不快感になっている。呻く声がして少女を見る。彼女の目は、人ならぬ瞳孔となり、獲物を狙うように鋭くなる。少女神が警戒と敵意を抱く相手。

「そんなところに立って、どうしたの、いちる?」

 紗久良姫、満津野姫、燐姫という姉妹が揃っていた。表に出ているのは姫神たちだけで、世話をする花媛たちは御簾の向こうにいる。フロゥディジェンマが目に入らぬようさりげなく後ろへやりながら挨拶をした。にこにこと満津野姫が言った。

「ちゃんと起きてきたのね。でも体調が悪いのなら無理をしないで、わたしたちに言ってちょうだいね?」

 昨夜のやり取りを思い出し、咳払いをする。頬が熱くなってしまうのが口惜しい。満津野姫は扇を当てて笑いを噛み殺している。

「満津野。あまりからかってはいけません。更に口を閉ざしてしまってよ」

「御用と伺いました」

 切り出すと、紗久良姫は扇を持つ手で回廊の向こうを指す。女神の手が回ると、風が流れ、丸い皿のようなものを運んできた。皿の内側には中心に向けて円が描かれている。

「的ですか」

「陶器製よ。騎射をやろうということになったので用意させたの」

 もちろん射手は姫装束の女神たちではない。風の道を踏んできたのは阿多流だ。黒髪をまとめ、射籠手をつけた濃紺に金を入れた狩装束に身を包んでいる。太刀と腰刀を佩いている姿は、要望と相まって惚れ惚れとする男ぶりだ。

 後に続くのは珠洲流だ。彼もまた髪を束ねた上での狩装束だ。青紫に菱の衣だった。別れた後にこの行事を聞き、急ぎ支度したのだろう。末弟とはかくも姉兄に振り回されるものかと哀れになる。

「弟妹が揃うと、いつも何かしらで遊ぶのだけれど、今回はお客様も来ていることだし、少し大きなものを催そうと思ったの」

 嫌な予感がした。珠洲流に遅れて、新たな一騎がやってくる。黒馬に見覚えがあった。馬上の男は、西の装束に身を包み、邪魔になる髪を肩にかけるようにして紐で結んでいる。目の周りの疲労は取り除かれ、甘い笑みを浮かべた。

[おはよう、イチル]

 手すりを挟んだところで手綱を引いてそう言った。いちるにも馴染みのある黒駒は、微笑むようにして目を細めた。馬の首を撫でていると、アンバーシュが唇を尖らせる。

[いつもと違う格好なので、ちょっとびっくりしました。あんまり、綺麗な格好をしないでほしいですね。俺以外の目が集まるのは嫌だな]

 背後では、満津野姫が潤んだ目をして両手を合わせている。

 お前な、と西の言葉で囁いた。

「弄言も大概にせよ」

「西の衣装は危うい魅力がありましたけど、こちらの格好をしていると、とても妖しくて、どきどきします……」

 初めて会った時を思い出します。そう言うアンバーシュの目はいちるの睫毛一本ですら逃がさぬように熱く注がれている。頬を掴んで引き下ろしたい衝動を堪えなければならなかった。

「剥いたくせに」

「夫の特権です」

「伊座矢兄様。渡汰流。二人は参加しないの?」

 満津野姫が問いかけた先に、回廊に座する男神たち。伊座矢は胸元をはだけた寝起きのような格好で、渡汰流は直垂姿だ。

 ふっと、鼻先に触れた感覚にいちるは眉を寄せた。渡汰流を見る。先ほどより距離が近いため、実の視力と相まって、焦燥が強く感じ取れる。

 先ほどの敵意、あれは、彼だ。

「燐。多鹿津はどうしたの?」

「書を、読んでいるみたい」

 紗久良姫は仕方のない子と呟いている。

「武神である兄上と、アンバーシュが相手では勝ち目はない。俺は負けると分かっている勝負はせん」

「俺もです」

 言って、渡汰流はいちるを睨んだ。いつぞやのことを思えばこれが再度の目通りだ。しかし向こうは紗久良姫に侍っていたこちらを見ているだろう。敵意を抱かれたままなのも無理はない。

「戦いの神であるアタルに勝てるとは思いませんが、存在を宣伝するのにいい材料でしょう? これも付き合いです」

 いちるは胡乱に男を見た。それだけで獲物を持つアンバーシュを知らなかったためだ。武器の類いを持ったところを見たことがない。雷電を自由に操ることのできるアンバーシュは、側近であったクロードが刃物を好まないため、普段から帯剣をしていなかった。だから、下げている矢や弓の使い方を知っているのかすら、いちるには分からない。見せ物になることを厭わずに勝負に出るということは、それを引き換えにする何かがあるとしか考えられない。

「……怪我はするな」

「はい」と面映い顔をしてアンバーシュが微笑んだ。

 馬を駆っていく。遠ざかっていくのを見送っていると、フロゥディジェンマが袖を引いた。はっとして、急いでしかめ面を作る。

[あやつめ、エマのことを忘れていたな]

[問題ナイ。イツモドーリ]

 達観した言い方のせいで、満津野姫と燐姫がくっと喉を鳴らして慌てて口元を隠す。いちるは口を曲げながら、位置につく三人の男たちを眺められる場所に座した。中空に揺れる的を見ながら、離れた位置にいる若神に気を払う。

 感覚を信じれば、先ほどの不穏な気配は渡汰流のものだとはっきり分かった。

 外側に感じ取れたということは、騎射を行う場所に何かを仕掛けたのかもしれなかった。彼は落ち着いた様子で三者が揃っているのを見ているが、アンバーシュの番になれば動き出すだろうか。そうしていると、はたと、その向こうにいる伊座矢と目が合った。

 にたりと男神は笑い、いちるは眉を寄せて視線を返す。

(伊座矢神の指示か……?)


 りん、と鈴に似た涼やかな音色が響く。

 珠洲流の一射が最初の的を射抜いたのだ。陶器の的は、矢を受けて楽音を鳴らし、砕ける。その美しさも競うものなのだ。

 アマノミヤに連なる男子の一人として、珠洲流は危うさも見せず、淡々と矢を射った。引き絞られた弓弦の響きもまた音になっており、彼の雅びかつ堅実な手が表れていた。

 すべてに的が射抜かれた。見守っていた女神たちから溜め息が零れる。髪の乱れを丁寧に整えた珠洲流に、大きく拍手が鳴らされた。フロゥディジェンマが手のひらを叩き合わせているのだった。

 引き結ばれていた珠洲流の口元が、それで綻んだ。今度は溜め息でなくぎゃっという悲鳴が上がる。近付き難いとされている貴公子の和やかな表情に、胸を射抜かれたのだ。西の少女神が与えた表情に、いちるも胸のすく思いをする。

「あなたらしいわ。華々しさはないけれど、典雅で堅実な射ね」

 紗久良姫の言葉を、珠洲流は表情を改め、一礼して受け取った。一筋、額から汗が伝い、彼の緊張が知れた。前座とはいえ、彼なりに気を張っていたのだと分かり、生真面目さをからかいにする者としては、つい微笑みが浮かぶ。それと知らぬ者たちは、歓声をあげ、頬を染めて青年神を見ていた。


 二人目。阿多流が位置につく。愛馬らしい神馬は、彼の威厳に見合った雄々しい巨馬だった。きらびやかな鞍は重そうだが、それを意に介さない軽やかな駆け足。そうかと思えば、前の蹄を規則正しく動かして空を掻いている。御している阿多流は静寂に身を置いたように重々しいが、愛馬は乗り手の猛々しさを反映しているのは間違いない。

 馬が駆け出した。阿多流の上腕に力が込められる。一射は鋭く、力強かった。陶製の的が割れる音は、舞い散る雪の儚さではなく、鐘を鳴らす荘厳なものになっている。男神の顔に笑みが浮かび、二射目。今度は花びらのような大きさとなって高い音が奏でられる。三射目が低い音を奏でたので、阿多流が音色を制御していることが分かり、満津野姫と燐姫が息を呑む。

 いちるは畏怖を覚え、矢に込められた激しさ、馬を駆る力強さに胸を掴まれたように思った。西の戦神カレンミーアの雄々しさ、華やかさに比べ、東の戦神の強さはねじ伏せる烈度だ。相手を竦ませ、抵抗する気力を奪う。その苛烈さに逆らうことが出来ないと分かるからだ。

 アマノミヤの直系、最初の男子。戦いを司る神。彼がこれほどの力を持つのならば、父なる大神はどんなに強大な存在だろう。すれ違い、言葉を下げ渡されたことを思い出し、いちるは冷たい手を拳にした。

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