第十六章 にしきあや 二

 執務の間の扉は開け放たれている。

 前室に当たる部屋の椅子に腰掛け、出入りする官吏たちを眺めていた。座っているだけでじっとりするほど暑いのに詰め襟に長裾の制服を着込み、額に汗を浮かべながら、書類を手に、伺いを立て、招き入れられ、また別の仕事を手に出て行く者たち。騒がしい足音とともに蒼白になった者が飛び込んで、出る間際に何度も礼をしながら出て行くのも目撃した。いちるは優雅にお茶をしながら、それらを横目にしている。

 そうして、アンバーシュが国主として座っているのを初めて見るのだと思い当たった。結婚式など公の場はまた特殊であった上、日常の執務を見ることはまずないし、その程度のことに異能を使うほどでもない。

 臣下を従えるアンバーシュは、だいたいにおいて貼り付けている微笑みは薄く、厳しいわけでも張りつめているわけでもないが、感情が見えぬほどになって、白く渇いた砂地か、生温い沼のような雰囲気をまとっている。問うべきことを尋ね、問いかけに答えるが、そこにはアンバーシュ個人はどこまでも小さいものとしてのみ存在する。そんな顔を知らなかった。笑顔の他は、己の望みや感情に振り回されて、疲弊し、痛めつけられているアンバーシュしか知らない。

 人の行き来が少なくなってようやく、部屋の主が顔を出した。

「すみません、お待たせしました。どうぞ」

 にこり。笑顔を浮かべ元通り穏やかな様子でいちるを招き入れる。机の上は片付いており、来ていた仕事を終えてしまってから、いちるを呼んだのだとみえた。「多忙だったか」と型通りに尋ねると、アンバーシュは「至急のものが来たので、ちょっとは忙しかったですかね」と微笑んだ。

 扉は、今も開け放しにしている。待ち人はいない。

「気になりますか。秘密の話ですか?」

「違う。嬉しそうな顔をするな」

 それは残念、と本気でそう思っている顔をする。机の上の細かい塵を手の甲で払いながら、立っているいちるにどうぞと椅子を示した。素っ気ない革を張ったのみの椅子で、座り心地はいいとは言えないものだ。

 書類を出来るだけ多く置くために、男の仕事机は広い。座っている本人がこじんまりとして見えるくらいだ。手元に筆箱とその他の用具を置くだけなので、空いている部分が広すぎて見える。後ろに窓があるが、昼の日差しが眩しいために薄い帳で覆ってあった。壁際には引き出しのついた棚と、本棚がある。どちらもあまり触れていないのか、気配は薄い。

「仕事部屋を見に来たわけじゃないでしょう?」

 いちるの視線を知って、アンバーシュが言った。それには答えず、言った。

「あんな顔をするのかと思っていた」

 胸に、覚えのあるしこりが生まれていた。目を男には向けず、呟く。

「あんな顔は知らぬ」

「……覚えがないんですが、表情ですか? 鏡を見ながら仕事をするわけではないので、分からないですけど。何か不安になりましたか」

 いちるはそこでアンバーシュを見た。不安、という言葉に反応したのだ。

 不安、と一度自身でも呟き、いちるは頭を振った。

「……近頃、胸が重く、喉が渇き、呼吸がしづらくなることがある。何か心当たりはないか」

 アンバーシュは素早く問うた。

「呪いは」

「そこまで気力を奪われているわけではない。ゆえに、呪詛ではない、と判断する」

「あなたや俺の場合、体調不良の原因は、我々の力の及ぶもの、呪詛によるものしか当たれるものがないです。そうでなければ精神的な負担だと思うんですが、今は?」

「……少し、重い」

 じっといちるに視線を注いでいたアンバーシュは、正面の席からいちるの隣に腰を下ろした。言葉もなく、いちるの顔を薄い色の瞳で覗き込む。そうすると、先ほど見ていた国主の表情に似通って見えた。細かな白砂、黒々とした沼、底に沈むほどの深い何か。いちるは視線を逸らそうとしたが思い直し、芯を据えて真っ直ぐに見返すことにしたが、肩の辺りが力む己を律することができなかった。

「力を抜いて」

 囁きが掠め、びくりとする。アンバーシュが吐息混じりに笑う。

「何もしませんよ」

 見られているだけで唇がわななくから、見るな、と言いたい。男の目は、時々、銀色になって眩しい。強い光を浴びると、頬が熱くなる。胸の奥の重い部分が、ぶるぶると震えて熱い固まりになったように感じられる。鼓動の音が鈍重になるのに、激しい。

 アンバーシュは目を落とし、いちるに掌を向けさせて、手の中央に親指を置き、滑らせて手首を取る。指に脈が触れている。

 この男の睫毛は髪より薄い金色なのか、と今考えるべきでないことを思っている。

 涙という実物ではなく、この睫毛から感情の大きな光が零れてくることを知っている。それはいちるの目に触れ、頬に落ち、眩くていつも目を細めてしまう。わずかに開いた唇で、何かを、己でも制御できない感情で形にならない言葉を紡ぐ代わりに、名前を呼ぼうとした。その時だった。

 アンバーシュは、うん、と何かに納得いったかのように頷くと、ぱっと笑顔になった。

「様子を見て、もし悪いままならメンディークを呼んで診てもらいましょうか。今日はとりあえず、ちょうどいいので、付き合ってください。仕事です」

 声の調子が変わる。動作がはっきりとする。温度の高い空気が霧散し、いちるは、言われるがままに外出の支度をすることになった。


 アンバーシュの馬車に乗り込むと、都の北側にある森の中へ向かった。勾配を上がって小さな山のようになったそこは、要塞の城壁の代わりをしている。王都は三郭に分かれているが、前方に向かって広がっているため、王宮を最後にすると背後はその森だけだ。

 一足分ほどの距離を飛翔すると、森の中へ降り立った。馬車は天空へ帰り、いちるは、西の繻子靴では慣れぬ山道を昇っていく。

「王都には物理結界を置いています。魔石を嵌めた法具の発動で、内外の出入りを遮断するものです。いきなり壁を出現させる魔法、と言うと分かりやすいでしょうか。非常事態にはこれを使うんですが、あなたにもその発動権限があるので」

 使い方を教えておきます、と言って森の奥へ進んでいく。ふと思い出したかのように振り向いて、いちるに手を差し出した。掴まると、アンバーシュの歩みが遅くなる。

「困ったことに、この結界は遠隔操作が出来ません。直接来てもらうしかないんですが、場所は後で見てもらいます。あなたは多分、一度見たら探れるでしょう?」

 そう言われ、いちるはもう一つの目を用いて俯瞰してみた。結晶宮のほぼ真北に位置する場所にいる。真南に下れば王都の正門がある。すると、その目が近くに引き戻され、その勢いでいちるは頭をぶつけたような痛みを覚えた。その原因は、アンバーシュが示した、森の中の柱にあった。

 自然の中にあっては不自然な、人工の柱だった。金属でつるりと覆い、地を深く穿っている。アンバーシュの三倍もあるが、柱としては女一人分ほどの太さしかない、小さなものだった。

 意識を注ぐと、柱が、地脈に通じて力を蓄えているのが感じられる。この不可思議なものも、神の力と人の英知で作った代物なのだ。

 東にはこのようなものはない。地脈を通じて、東神は力を紡ぐ。人に力を与える者は、東神においては異端になる。

 東には存在しない、調停者というものがアンバーシュなのだと思うと、何とも言えない気持ちがした。胸のしこりが深く根ざしたように感じたのと同じものだった。

「発動は、権限がある者がここに来ると、この柱自身が導くように出来ています。この結界は時間がかかる上、発動後は内側は完全に閉ざされます。結界を解くのにも時間がかかるので、使いどきを見誤らないようにお願いします。仕様書が城にあるので後日確認しておいてください」

 おしまい、とアンバーシュは締めくくった。用はそれだけのようだ。蒸した緑の中で、それで、と男は首を傾げる。その拍子に、琥珀に濃い金の髪が零れた。

「胸の重みは解消されましたか?」

 いぶかしく男を見返した。

「関係がない」

「ないことはないと思うんですが、どうですか」

「解消はされていない。まだ重い」

「分かりました。ではもう少し様子を見ましょう」

 段々と苛ついてきた。

「お前は、わたしの不調の原因が分かっているのか?」

「分からないから俺なりに探っているんですよ。少し歩きましょうか。こうでもしないと、休み時間にしてもらえないんです」

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