第十六章 にしきあや 一

 いちるの一日には、昼餉の前と夕方前に、間食の時間が設けられている。自身の習慣で、周りの者が正午頃に取る一日最初の食事を、いちるは茶に変えている。朝餉は使用人たちが摂る時間と同じだ。その後の茶の時間には菓子や麺麭などの軽食が持ち込まれ、人より多く食事をするせいで二の腕や腹部に贅肉がついてしまった。

 白花宮に移ってから、いちるには女官が増えた。元よりいた三人は新参を監督する立場になり、細かな仕事を下の者に申し付けているようだ。ジュゼットなどは世話をされているのかしているのか、はなはだ疑問ではあるが、実はこの娘が最も茶を淹れるのが巧いのだから、うまく世界は回っていると思う。

「今日はエマ様はいらっしゃらないんですね」

「今日は散歩の日だから、来るとすれば午後でしょう」

 エマの日を過ごして以来、彼女が人から食べ物を与えられていることが発覚したので、出てこない時は十分に物を食しているのだと学んだいちるだった。黄瓜を挟んだ麺麭を、食器を使って口に運ぶ。ジュゼットが淹れた茶を置いた。一口飲む。

「いい風味です」

「ありがとうございます!」

 こんな明らかな笑顔で、この娘はうまくやっているのだろうかと心配になる返事をする。肩が張り切っているので、思わず唇が弧を描いてしまう。だからか、いちるは椅子を指してやった。

「お座りなさい」

「え……えええっ!?」

 ジュゼットはぶんぶんと手を振った。

「いけません姫様……じゃなかった、妃陛下!」

「女官は座ってはならないと決めたのはどこの誰です。今はわたくしが、お座りなさいと言っている」

 きつい口調で言うと、しおしおと娘は椅子を引き、着席した。もぞもぞと落ち着かぬのは、いちるの目がじっと見つめているからだろう。

 茶色の髪、茶色の瞳。女官に登用されるにふさわしい愛らしさはあるが、普段の行いはそそっかしすぎる。元気がよ過ぎ、感情が表に出やすいので、腹芸には向かない。伸びやかに育ったのであろう、大らかさが見える。

「あなたは、どこの生まれですか」

「ええと……クインテルです。北の、山の奥の村です」

 ヴェルタファレン北部の山脈地帯だ。独自の山岳民族が住み、都のある平原に住む人々とは様子が違っているという。

「あ、でも、山の人たちとは違うんです。ちょっと血は入ってるかもしれないんですが、山裾と森の間の村には、こっちの人たちと同じような人が住んでるんです」

「家族は?」

「両親と、兄と、弟と妹たちがいます。六人兄弟です」

「あなたが長女」

「はい。仕事を探して、クインテルの領主様のお屋敷に入ったんですが、そこで女官の登用試験があるって聞いて、受けてみることにしたんです」

 よく受かったものだと、いちるは思った。

 ジュゼットは首を傾げた。

「あの……これって何の尋問でしょう?」

「世間話です。あなた方のことを聞いたことがなかったので、興味がありました。ジュゼット、恋人は?」

「え、は、あの……いません、すみません」

「何故謝るのですか」

「姫様、じゃない、妃陛下が、いま幸せ真っ盛りなので眩しくて自分が惨めなんですすみません」

 いちるが眉をひそめた途端、すみませんすみませんすみません! とジュゼットの謝罪が連呼される。

「いやでも! だって姫様、お綺麗になられたんですもん! 最初はちょっと恐いなーとか変わった人だなーって思ってたんですけど! 実際は結構いろんなところを見逃してくださるし、さりげなく気を遣ってくださるし、陛下と一緒にいると案外お可愛らしいところが」

「ジュゼット」

 あわわわわ、と口をわななかせて席を立つ。椅子の背もたれを縦にするのは、果たして女官の挙動だろうか。いやそれよりも、アンバーシュとの様子を見られていたということは由々しきことだ。

「かっ、かわいい……とは、わたくしに使うべき言葉ではない」

 アンバーシュがひっきりなしに言うので、その言葉は忌まわしいものとして発せられる。顔を歪めながら否定すると、ジュゼットは目を丸くして、首を振ってみせた。

「全然、そんなことはありませんよ? 姫様はお綺麗だし、凛としていらっしゃるし、とってもお可愛らしいです……あっ、怒らないで! 怒鳴らないでください!」

 再び椅子の背に隠れて叫ぶ。いちるは細かく震え、きつく眉を寄せた。

 世間話をしようとしたのに、自分の根を掘られては本末転倒だった。しかも翻弄されている。あのジュゼット、割った食器と一ヶ月の給金にさほど違いがなかろうという、ジュゼットにだ。

 むっつりとして茶を運ぶ。美味な芳香が、厭わしい。

「美味しい」

「あ……ありがとうございます……あの、冷めていると思うので、新しいものをお淹れしましょうか……?」

「そういう時は、黙って変えるものです」

「は、はい、申し訳ありません!」

 八つ当たり気味に言うと、ジュゼットは飛んできた。茶器を包む布を取ると、新しい茶器を返し、熱い茶を注ぐ。ジュゼットが急須を置くのを確かめてから、仰いだ。

「幸せそうに見えるのか。わたくしが?」

「……正直に申し上げていいんですか?」

 許す、と頷くと、ジュゼットは胸を押さえて深呼吸をする。

「……以前は、もう少し刺々しかったです。周りみんな敵みたいな、息をひそめる獣みたいに私たちのことを見ていらしたと思います。今は、楽に呼吸してるなって、思うんです」

 ジュゼットのくせに、よく物を見た言い方をする。単に慣れたというわけではないと娘は言っている。そこを居心地よく過ごしているのだと見ているのだ。

 だが時々いちるが息苦しくなることを、この娘は知らぬのだろうか。

「新しいお湯、持ってきます。何かありましたら、他の者をお呼びください」

 冷めたものを一式持って下がっていく。一人になったいちるは、焼き菓子を咀嚼しながら、この居場所について考える。

 新しい部屋、新しい立場。与えられた役割と、付随する責任。それらは決して息を締めない。負うべきものを知った上でここにいるからだ。しかし、何が、時折、己の呼吸を奪うのだろう。唇が渇き、喉の奥が重くなる時がある。今は少し、その予兆がある。

(体調が悪いわけではない。アンバーシュに聞けば分かるか? 一番妾と過ごしているのはあれだ。何か気付いたことでもあるやもしれぬし)

 いちるはレイチェルを呼んだ。アンバーシュに会う時間が欲しいと告げると、調整すると答えがあった。

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