第十四章 七

 一瞥したいちるが放った第一声が「やっと来たのか」だったことに、セイラは安堵していた。そんなところで彼女に救いを求めていた自分が、ひどくみっともなかった。初対面で堂々と啖呵を切ったセイラ・バークハードが、見方を変えれば勝者となった次期王妃を前に、あなたは知っているのかと過去を持ち出したのだ。

 ヴィヴィアン様の、と言っただけで落ちた沈黙に、いちるは少し、思案していた。真っ直ぐにセイラを射抜こうと、尖った鏃を探すように、威力の高い言葉を選んでいる。

 やがて、黒の瞳が、セイラを縛った。

「わたくしは、あの女のようにはならない」

 最初の一矢は確実に胸を射抜いた。だが、そこから感情が噴き出す前に、そして、といちるが続けた。

「彼女のようには、なれない。あれほどの記憶をアンバーシュに刻み付けることは、今のわたくしには不可能です」

 これで満足か。そう告げる瞳がセイラと交わり、逸らされた。セイラが表すことができるのは、頭を下げること。この人に対する、憎たらしいほどの尊敬だった。


 結婚式前日に姿を消さなければ、きっと、そのまま尊敬していたと思う。


「あの、くそ女(あま)――!!」

 という叫びが、ヴェルタファレン宮廷のすべての声を表していたと、セイラは自負している。



     *



 ロッテンヒルの森は、木々の様子こそ違えど、森への慕わしさを呼び起こす眺めだった。光を遮る木の葉も、湿った大気も、濃くなる暗闇も肌に馴染む。やはりこの日陰こそが己の居場所なのだ、と足踏みしている己がいて、いちるは立ち返る。不相応な幸を望んでいるのではないかと。

 誰が何を知っているのか、いちるは知らぬ。腹に何を抱え、何を望むのかに抗する術が見出せぬ。それらの思惑が日々を打ち壊していくことを防がねばならぬのに、誰も彼もが静観を決め込んでいる。唯一突破口となろうエリアシクルは呼びかけに沈黙で返し、焦燥で焼け死んでしまいそうだった。

(出来うるかぎり長くなければならぬ。それが、妾の果たすべき義務)

 命を、僅かでも長らえてアンバーシュに指し示さねばならない。何を、と言われても判然とした答えを返すことはできないが、消え行くものに何が残せるのか、いちる自身も見たいと思う。

 梢の間から真っ直ぐに差し込む日の光を、受け止められるのではと掌を向けてみるも、淡く温かいだけで質量はなかった。夏衣の上に頭巾のついた旅衣を着ているが、それでも充分に森が涼しい。暁の離宮は、窓や扉を開け放たねば熱がこもるので、久しぶりに外の空気を味わったという気がした。

 弦の音が聞こえたのは、その時だった。

 首を巡らせると、石の上に竪琴を持った灰色の髪の青年が座っていた。

「ヒムニュス神」

「やあ、いちる。久しぶりだね」

 詩と音楽を司る神は、そう言って音を数粒奏でた。意味のない音は、彼が奏でるだけで森の雫を表したものになった。脳裏に、雫を溜めた緑の葉が見える。

「結婚式だから来てみたんだ。やっぱりいいねえ、お祭りって。詩人がたくさん集まっていて、いい歌が聴けそうだよ。ああ、もてなそうとかはいいからね。ぼくは人に紛れているのが好きだから」

 そう言って機嫌良く竪琴を鳴らしている。いちるは、何故この神が今ここに現れたのだろうと考えた。二度目の目通りだが、最初は、騒ぎを聞きつけて現れたと言わなかったか。だったらこれから何が起こるというのか。

「ぴりぴりしないでよ。ぼくが騒ぎを呼ぶんじゃない。ぼくはいつも見ているだけだ。そして整理するだけ。歌という形でね。今回は、あなたの歌が一度決着するから、それを見に来たんだよ。悪いことが起こるわけじゃないよ」

「あなたは、どこまでのことをご存知なのですか」

 ぴん、と張りつめた高い音がした。

「それは、あなたの素性? それとも、アストラスが何を知っているかという話?」

「どちらも」と慎重を期して答えた。ふむ、と青年は考え込んだ。

「ぼくは世の事象の大体のことを知っているけれど、アストラスほどじゃあない。大神はぼくらの父神だ。あの方しか知らないことが山ほどある。アガルタというものも、大神はそれに近しい神々や神獣がふとした時に口にしたという程度なんだよ。それが真実なのか、ぼくの歌では確定できない」

 ただ、と彼は調べを作り始めた。水の流れ、暗闇に辿る一筋の銀の川を、音が描いていく。


「――アガルタ……我らが来る場所。始まりの土地。三柱が眠るゆえに終わりの園。我らはやがては三柱の元へ帰らねばならない。だというのに、未だ扉は閉ざされたまま。三柱は、我らを見捨てたもうたのか?」


 男の声がした。呟き。そこに潜む、ひび割れるような苦悩。渇き、欲している。――いつかそこへ。


「アガルタという場所にいる者たちが、その扉を守護している。ならば、その者を捕らえればいいのではないか」


 手を伸ばす。照り返しで銀となって見通せぬ海に、娘が溺れている。湧水の神馬は、苦しむ乙女を見過ごせず、手放した。


 その先は見えない。音が止んでいた。

 いちるは口を開いた。

「わたくしは、アガルタなのですか。エリアシクルによって攫われ、東の手に落ちた、この世ならざる存在なのですか」

 被り物の下で、詩神の瞳が輝いた。鏡のように平らな、いちる自身しか映っていない不可思議な眼だった。

「ぼくは答えをあげられない。それはあなたが手に入れるべき答えだから。でもよく考えれば可能性に行き当たることができる。あなたはアガルタだ。でも、アガルタじゃない。あなたのことを、神々は汚れたアガルタと呼ぶだろう。その意味を、よく考えてごらん」

 生であって、死であるもの

 アガルタであって、アガルタでないもの。

 少しずつ明らかになってきた己の形を、いちるは心に留めた。何があろうと、これまで積み上げてきたものを揺らがさせはせぬ。記憶を失った手落ちのようなことを、再び繰り返すことはない。

「魔眸が何者なのかを、あなたはご存知ですか」

「生と死の狭間にあるものだ。死に取り憑き、生を与える。生を奪い、死に引きずり込む。統治者はいない、というけれど、強い力を持っている個体がどこかしらに潜んで群を作っていると聞いたことがあるな。あなたを狙っているのは、そういう類いのものだと思うけど……ぼくは西神だから、東のことはあんまり詳しくないんだ」

 いちるの過去を知る者。強い執着を抱いて、魔眸に身を貶めている者。

 震えた右腕を掴んでいた。心当たるものがあったのだが、そんなはずはないのだ。今になって、日々を脅かしに来るなど考えられない。あの時、あの者たちは死んだのだ。愚かな内輪揉めで、お互いの命を奪い合った。そうして脅威は去ったのだ。だというのに、あの男たちが、またいちるの世界を変えようとするのか。

(いいや、同じことはさせぬ)

 いちるは力を手に入れ、二度とあれらに負けるようなことはない。その時が来るならば、抗ってみせる。

「その時は、近くないけれど遠くはない。あなたたちの物語を楽しみにしているよ。まずは、結婚式だね。それじゃあ」

 目も開けられぬ突風が木立の中で吹き荒れ、ヒムニュスは姿を消していた。彼は流浪の宿命とあらゆる場所を巡る性質を持つという。風の眷属を連れているのは道理だった。乱れた髪を整えつつ、宮廷管理官にヒムニュスが来ていることを伝えておくだけはしておこうと決める。

 人の気配がした。今度は、詩の神のように不意ではなかった。奥の木立から、ゆっくりと、思案しながらやって来る。そして、はたと我に返っていちるを見つめた。諦めのような苦しげな微笑みを浮かべて、言った。

「前日に出奔ですか。今頃すごい騒ぎですよ」

「お前に言われたくはない、アンバーシュ」

 主役二人が式前日に城を抜け出したのは、考えてみると見物だが、体験したくはない。だが、いちるとて、アンバーシュが出て行くのを察知しなければこんなところにいないのだ。

「よくあなたの言うことを聞く人がいましたね」

「クロードに、送るだけ送れ、アンバーシュが連れて帰ると言った」

 しまったな、とアンバーシュは苦笑した。

「クロードのいいところは生真面目で融通が利かないときがあることだったんですが、ミザントリの件があったから、あなたにはもう適用されないのか」

「もういいのか」といちるは言った。明るく言っていたアンバーシュは、穴が開いたかのような間を置いて、軽く首を振った。いちるは、そのまま歩き出した男の後ろにつく。

 ロッテンヒルの森の奥には、魔女の住む家がある。

 ヴィヴィアン・フィッツの隠れ家だ。

 この日までずるずると引き延ばしにしていたのは、意気地がなかったのか迷っていたのか。いちるを思うのならば捨て置くべきか、それとも決着を付けるべきか、考えたのだろう。当の本人が失われた今では、何も変わらなかったのだと見当がついた。アンバーシュは、未だに納得もできず、終わらせることもできぬ傷を抱いて、迷っている。

「結婚を止める、などとは言わないだろうな」

「さすがにそれは意気地がなさ過ぎる。困っているのは、確かですが」

 アンバーシュはこちらを見ない。過去にあるものを見ている。

「……一緒に死んでやれば、こんなことにはならずに済んだのではないかと思っています。でも俺は死にたくなかったし、死んでしまう彼女に失望した。だから今考えていることも、ひどく身勝手な言い分の上でのことなので」

 負うべきだと、そう言いながら求めているのは、行き場だ。終わらせたいのに手放せない、手放してはならないと考えて抱えているものを下ろしたい。いつまでも堂々巡りをしている。その様を哀れだと思い、何を待っているのだと腹立ちもした。アンバーシュは、無意識にいちるに解を欲するのだ。

(その傷だけは、妾のものにならぬのに)

 ヴィヴィアンを、初めて恨めしく思った。二度と癒せぬ傷を残して去ったあの女。魔に身を貶めて、それほどまでに愛していると言うだけ言って消えた、ただの女に、いちるは勝てぬ。その身が儚きものであったがゆえに。その心がどこまでもか弱かったために。

「わたしに、許すと言わせたいか」

「あなたの言葉は救いにはなる。ただ、俺は誰にも許されないんだと知っています」

「楽になるなら言ってやる」

「あなたは優しいですね。俺は、あなたに詰られるべきだと思うんですが」

 アンバーシュが立ち止まる。

 いちるの手が、男の手を捕らえる。

 指を絡めるも、甘さなどない眼をして、口を開く。

「わたしを使え。埋められるものが、あるだろう」

 アンバーシュが刹那、目を眇めた。怒りが過ったことを知りながら、いちるは続けようとした。

 その一言を絞り出すまで、一瞬に様々な葛藤があった。妖女と罵られ、甘んじて受けてきたそれを体現する言の葉。決してそうではないと鎧っていた己を突き崩すもの。羞恥と嫌悪に顔を歪めたのはどうしようもない。


「わたしが、ほしいだろう?」


 男を誘う卑しい言葉。

 でもそれは、相手がアンバーシュだからこそ口に乗せられる。

 獲物が罠にかかった時、いちるは薄暗い喝采を密かに叫んでいた。

 優しく触れ合う唇は、傷を舐めるように静かだ。そうしているアンバーシュは、いちるを見ていない。いちるを通して、傷を見、流した血を補うために触れている。

 その膿んだ傷も痛みも、決していちるのものにはならぬ。ならば。

(忘我させる)

 温もりと触れ合いで傷を埋める。別の傷を刻むことになろうとも、アンバーシュ相手に己が身を使うことは厭わぬ。つかの間、物を言わぬ道具になってやろう。

(溺れるがいい。慰めるがいい。そのくらいならば、使われてやるから)

 抱き寄せる気配がなく、ためらっているのが感じ取れた。いちるは絡む手を握り、己の側に引き寄せる。もう一方の手で首を抱くと抵抗する力を感じた。

 だが、深く触れ合うまでの数瞬に、アンバーシュがはっと息を呑んでいちるを突き飛ばした。

「あ――」

 そうして、力なく後ろへよろめいた。

「あぶな、かった……」

 数分でやつれたように溜め息し、顔を覆っている。

「ちょっと……何考えてるんですかあなたは! 結婚式まで接触は禁止! 麓とはいえ神山に登るから、そういうのはなしって話し合ったでしょう!?」

「我に返るとは、情けない男だ。理性の有る無しも時と場合によるだろうに」

「煽ってもだめですからね。式まで近付かないでください。ああもう、何ですかあの殺し文句は。一度でもそういうことをすると際限をなくすんです、止めてください。言ったでしょう、人の傷を持つなと」

 アンバーシュは怒っている。

 だが、いちるは欲しいのだ。何もかも食らい尽くしたい。アンバーシュのことで、己のものにならない箇所があるなど、許し難いことだ。いちるは唇を舐めた。

「誘いに乗ったくせに……」

「っ……そういうことをするのは、ひ、卑怯です」

 平静を整えつつ、アンバーシュは呻くように言った。

「縋れるだけ縋って、諸共傷つくのが目に見える。癒されたいからあなたを側に置いておくわけじゃないんですよ」

「そうか、ならば予言する。お前はわたしが必要になる。忘れたいと思って、わたしを利用する。わたしはそれを承知の上で、お前を受け入れる。それでいいだろう」

「イチル」

「いつまでも他の女の話をされるのは不愉快だ」

 ぴしゃりと口でも言ったし、アンバーシュの手も打った。頬を張り飛ばすのはさすがに次の日のことを思って止めてやったが、その機微に気付いたかどうか。

「二度と口にするな。思っているだけならば止めん。お前が何を思ってわたしを求めようと、わたしはそれを許容する」

 分かったら帰るぞ、と手を引く。それでも鈍いので、手の甲をつねると「痛っ」と叫んで、目が覚めたかのように何度も瞼を開け閉めし、後ろをついてくる。

「イチル」

「余計なことを言うと張り飛ばすぞ。各国の賓客の前で頬を腫らしたいのならば、」

「愛してる」

 いちるは口を閉じ、頷いた。

「…………それでいい」

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