第十二章 三

「あ、これ、新しい神話書なんです。よかったら差し上げます」

 予定されていたその日の講義が終わって、キシュが書物を差し出した。表題にはアストラス神話とあった。革を貼り、金と宝石を縫い付けてある高価で壮麗な装丁だ。そうそう改訂できないものだが、今年はその改訂年に当たっていたのだとキシュは言う。

「言い回しの難解な部分をもう少し分かりやすくして、後半部分に三年前までのことを書き足してあります。それから、索引も付けたんですよ。補訂版では用語解説までつけてしまいました。こちらも差し上げます」

 半分の厚みの補訂版まで差し出される。薄い方を手に取って、いちるは目次索引をゆっくりと辿っていった。「ア」にあたる部分を、二度、眺めた後、欲したものがないと判断する。

「ありがたくちょうだいします」

 本を閉じた。



     *



 呼び出しを受けて向かうと、アンバーシュは机に向かっている最中だった。声がかけられるまでその場に立ち、エルンストやクロードが動き回るのを見る。侍従が捧げ持ってくる書類を受け取るのはエルンスト。彼が目を通し、不備がなければクロードへ、アンバーシュの机の上へ行く。結婚式に関する諸外国へのやり取りは外務がやっているはずだから、これは日常に処理される仕事だ。一ヶ月近く留守にしたのだから溜まるはずだった。

「一度止めます。セイラ」

 周りに停止を宣言し、アンバーシュは待機していたセイラを呼んだ。

 そうして、エルンストとクロードが部屋を出て行くのを見届けて、続きを口にした。

「宮廷管理庁に上がった報告書と、あなた自身の報告書を読みました」

 セイラはわずかに目を細くした。

「ここに、俺の報告書を添えて最終報告とします。目を通しておいてください」

 束を差し出される。一枚目はセイラが上げたロッテンヒルの魔眸出現の可能性の進言書、二枚目から四枚目は宮廷管理官が調査した内容の報告書、そして、五枚目以降はアンバーシュの手だった。

「…………」

 セイラはゆっくりと息を吐いた。

 こうなると、分かっていた気がした。

 アンバーシュは軽く両手を握り合わせて、セイラを見上げている。紙の束を寄越した後から変わらずその姿勢だ。そこには彼の静けさがあった。表面上のものなのか、煮えたぎるものを隠しているのか。深く、息もできぬほど沈みたがっているのか。静かすぎる、凪いだ瞳だ。


 こんな紙の上で、セイラの救い主は殺される。文面に目を走らせる度に、何度も。


 救えたのかと問いかければ、何と返すだろうか。救いたかったという願望か。救えても哀れだったと悲しみを吐くだろうか。ただセイラは、もう、隠されていたことを知ってしまったので、小娘のように殺傷力の高い言葉を投げつけてアンバーシュを詰ることができなくなった。

「あなたが」

 殺したのよ。

 発せられなかった言葉は、お互いの胸に突き刺さる。セイラは知っている。自分が焦がれていたヴィヴィアンという女性は、この城から去った時に失われてしまったのだ。誰も彼女を光のままに生かしてあげられなかった。曖昧な誰かというものが人の光を奪い、不特定な何者かが、闇に突き落とした。方法はいくらでもある。言葉でも表情でも態度でも。空気にさえ、影は浸食する。そして、曖昧で不特定な者は、いつでも自分自身に変わり得る。

「罪を犯した者こそ、罰されるべきですか」

 アンバーシュが言う。

 セイラは弾かれたように顔を上げた。『罪人』が意味するのは明確な存在だ。罰を下すに該当する者がいなければ、もっと別の言い方をする。自分たちではないと、アンバーシュは遠回しに言っている。


 知っているのだ。


「力及ばなかった者も、負うべきでしょう」

 この男は、知っている。何が起こったのかを分かっていて、負うと言う。

 自分のものではないものを。

(忘れない――)

 日々の中に、アンバーシュは彼女の面影を見るだろう。幸福な一夜に、かつてそうした女がいたことを。セイラの顔を見る度に、刻み付けられる。いつまでも苛み続ける。傷に楔を打ったのはセイラで、セイラはまた、自分の傷にも穿たれているものがあることを知った。お互いがそこにいる限り、決して忘却を許さない。そこにヴィヴィアン・フィッツという名の女性がいたこと。


 毒を受けながら、毒で侵した。

 これはきっと、表にならない、わたくしたちだけが持ち得る真実という名の毒。


 いちるとアンバーシュが光の糸を首に掛け合ったならば、セイラはとアンバーシュは毒で侵し合っていく。この男との絆とは糸であり楔であり鎖である。いつか、滅ぼし合う。

「……あなたと関係を持った女は」

 セイラは唇を歪めた。

「例外なく、滅びる運命にあるのね」

 アンバーシュは、ただ、微笑んでいた。



 執務室を後にしたセイラは、自分の仕事場に戻る気にもなれず、彷徨うように回廊を歩いていた。午後の光が明るくて、外に目をやると眼球が痛む。生理的な涙が滲んだ。

 そこを、見知った影が通り過ぎた。後ろを気にしながら、前方に向ける注意を疎かにしている。あのままではつまずくのも時間の問題だ。

「ミザントリ様」

「っ!? あ……騎士団長様」

「どうかしまして? 不埒者でもおりましたか」

「いえその、あの……」

 まさか本当に追いかけられているのか。すると、向こうから呼び声が聞こえてきた。男の声。柔らかい低音のそれは、先ほどアンバーシュの部屋から出て行った男のものだ。

(あれは、クロード様?)

「き、騎士団長様、その、失礼させていただきます!」

「待って」とセイラは腕を掴んだ。細くか弱い二の腕だった。

「どうして逃げていらっしゃいますの?」

「う、それは……」

「ミザントリ様、どちらにいらっしゃいますか……?」

 クロードの声が近付くにつれて、ミザントリの瞳の中に渦巻きができたように見えた。泣き顔になると、彼女はずいぶん子どもっぽい。穏やかに愛らしく話すくせに、混乱すると泣きじゃくる幼児になってしまう。

「あああうぅ……! お、お願いします……わたくしのこと、秘密にしてください。後でちゃんとご説明しますから!」

 泣かせたいわけではなかったのでそれで手を打つことにした。セイラは、ミザントリに自分の部屋に行くように言うと、自らクロードのいる方向へと歩き出す。わざと音を立てて脇目も振らず行くと、目の前に男の姿があった。

「クロード様。アンバーシュとの話、終わりましたわ」

「ああ、セイラ殿。……もう、いいのですか?」

 気遣いが見える。彼もまた報告書を読んだのだろう。

 ふと尋ねてみたくなる。あの頃、彼は特にヴィヴィアンに興味を抱いている様子がなかった。礼節を尽くしていたが、それ以上のものではなかったと思う。主君の、大事にしている恋人。ある程度距離を置いた、淡白に感じられる態度だったのは、何か理由があったのだろうか。

「あなたは、どう思っていらしたの。ヴィヴィアン様のこと」

 クロードはセイラに、優しく微笑する。

「あの方のおかげで、アンバーシュはここにいられました。昔から、いつもどこかへ行きたがっている人だった。それがどこかも知らないままで……。大神がヴェルタファレンに腰を据えさせたのは留めるためだったと思います。ヴィヴィアン様と出会わなければ、いつか解き放たれて、どこかへ行っていましたよ」

 クロードは己の言葉に笑った。

「私はヴィヴィアン様がいてよかったと思います。多分アンバーシュは、彼女から人を愛する方法を教えてもらった。そして、悲嘆も、憎まれることも、失うことも」

 そうであればいいと願う口調だった。彼は彼なりに、ヴィヴィアンに親愛を寄せ、大切にしてくれていたのだ。疑い深い己をセイラは恥じた。アンバーシュの側に侍っているくせに、クロードは純真なところがある。彼は、心からヴィヴィアンの魂の平穏を祈ってくれていた。

 ところで、とクロードはそっと尋ねる。

「ミザントリ嬢を見かけませんでしたか?」

「いいえ? でも、どうしてイレスティン侯爵令嬢なのです? イチル姫がお呼びなのかしら」

「ええと、そうですね……少し話をしたいと思っているのですが、どうも、機会が合わないようで……」

 目を逸らす。額に少し汗が浮いている。動揺しているのだ。後ろ暗いところがあると分かったが、突くとミザントリと話したことが知られてしまうかもしれない。彼女から直接の原因を聞く方がいい。幸いにも、ミザントリは詭弁を弄して、相手を貶める性格ではなかった。クロードを一方的に批難するような内容は、事実がそうでない限り、有り得ないだろう。

「見かけたら伝えておきますけれど、本当にめずらしいですわね。クロード様が特定の女性を探しまわっておられるなんて」

「っ!」

 あら、真っ赤になったわ。意外すぎる強い反応に、起こっている問題がふわふわと桃色に彩られ、ひらひらと花が舞っていることを知り、セイラはにんまりとする。

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