第十二章 二

 ヴェルタファレンでは夏を待っている季節だった。峻険な山々は雪を下ろし、山裾では緑が広がっている。地の守護神に伺いを立てた種蒔きは終わり、川神から得て十分な水を行き渡らせた田畑の上に、蒼穹が広がる。白雲の間に、どこかしらの神々が行き来しているのに子どもが手を振ろうとすると、親は一喝して止めさせる。神々の気まぐれで、その子が連れ去られないとは限らぬからだ。

 よく晴れた日に、アンバーシュによって婚姻式挙行の宣言が出された。国王として公的に、また、大神から神殿を通して各国に告示されたのだった。


 フロゥディジェンマが顔を覗かせた時、いちるは手を挙げた。慎重になるように一度止めてさせてから、手を招く。床に広げた布は、ともすればすぐに破れてしまうからだ。

 絹の白布。生成りの布。白といっても一口にあらず、青白く見えるものもあれば手触りを感じさせる柔らかい白もある。透けるようになれば少し灰色がかって見え、重ねて見れば緑に見えるものもある。

 両手を合わせてこれからの仕事の途方もない作業を笑顔で待っているのは、衣装部の責任者イルネア・キュネイルとその部下にあたる娘たちだ。普段仕事場に据えている道具を、半分ほどいちるの居室に移しての作業だった。

 数多の布、巻き尺、物差し。布断ち鋏。針山は女たちのそれぞれの手に、宝飾品のごとくはめられている。

「以前手を入れさせていただいた黒衣のドレス、意見がすごく分かれたんですよぉ」

 イルネアは半分眠っているかのような速度で喋る。ずり落ちそうな巨大な眼鏡と、男のような長身が特徴だ。だが、あまり外に出ることがなく針仕事を主にしているためか背が丸まり、高いというより細長いという印象だった。

「不謹慎だという意見と、こういう作品が作りたかったんだっていう意見でしたー」

「あなたはどちらでしたか」

「私は作れたらそれでいいのでー」

「主任、正直に言わないでください」

 前髪を真っ直ぐに切り揃えた針子が囁きかける。ジュゼットが笑っていた。レイチェルがフロゥディジェンマのために、離れた机の上に茶と菓子を用意する。衣装部の女たちにも休息の準備は整えられているのだが、それよりも彼女たちは、自分の仕事をまとわせるいちるをまず噛み砕きたがっているようだった。

「イチル様は、とっても華奢でらっしゃいますねぇ。胸もお尻も小さくていらして、少女のような体型」

「主任。正直すぎます」

 無礼な物言いが気にならないのは、佇まいとは裏腹に眼光が鋭いせいだった。彼女は己の物差しを持っており、それに当てはめて的確な答えを導き出そうとする、探究心の強い学者のようだ。イルネアに指示されるままに身体測定を終え、普段の衣装の着心地や手触りの問診などを経て辿り着いたのが、どういう意匠をこらしたものがいいかという問いだった。

 机の前にいたフロゥディジェンマが、ぴくりと顔を上げた時、廊下からセイラとミザントリが姿を現した。

「お呼びと窺いまして」

「まあ、素敵! これ全部、花嫁衣装の布地ですか?」

 ミザントリが声を弾ませる。西の衣装に詳しくないいちるは、専門家と顔を突き詰めてこの問題に直面せねばならなかった。ミザントリとセイラを呼ぶことにしたのは、やはり話題にするのは彼女たちのような立ち位置の人々だからだ。

「助言を与えるだけしかできませんが、それでよろしいんですの?」

「結構です。『あれは趣味が悪い』と言われるのを避けたいだけですから」

 いつかの自分の台詞を思い出したらしい。セイラの目がいちるの全身を審査する。何も言わなかったところをみると合格というところだろう。ミザントリはすでにうきうきと布を手に取っている。

「なんて素敵な絹。最高級品だわ」

「どういう形にするか、もう見当はつけておられるの?」

「イチル様は、あんまり裾が広がったりごてごてするものはお嫌だと仰っていてー。私も、すっきりした形の方がお似合いだと思っているのでー、究極的に何も着けない形も面白いと思うんですよねぇ」

 イルネアが素案を差し出す。紙面には、何の装飾もない、すべらかな一枚の布が身体の線に沿って描かれ、裾だけが後ろに引きずる形だ。

「これは地味ですわ。着れば凛々しく映りますが、国王と王妃の結婚には質素すぎるのも悪印象ですわよ」

「ちょっと着てみたい気はしますけれど。でも、見て楽しいものがいいとわたくしは思います」

「それは一理ある」といちるも頷く。

「東の衣装という案もあったんですけれど、それはイチル様が嫌だと仰ってー」

「嫌なんですの?」

「東神の世話になるのに思うところがあります」

 準備されたものを断った過去がある。あの時、東神はいちるが輿入れするものとばかり考えていたようだ。いちるもそう思っていたのだが、そういえばいつの間にやら諦めていたなと思い出す。何故そうなったのだったか。

(準備がされていなかったことと、周囲が受け入れる体勢でなかったこと、それから、アンバーシュが実力行使に出なかったせいか)

 欲しいと言ったくせに、それが壊れないか恐れていた。ひどく曲がりくねった道を歩んできたものだ。ようやく手に入れたと思えば少しずつ壊れる欠陥品だから、つくづくあの男は運がない。

「アンバーシュの衣装は礼装なんでしたわね。自由度が高すぎて悩みどころですわね。どうせだったら花嫁衣装は奇抜なものがいいですわ。真似できないような」

「わたくしは、流行の最先端になる、みんなが真似したくなるようなものでも素敵だと思います。禁じ手と呼ばれるようなものも、姫が身にまとえば人々をあっと驚かせるようなものになりませんか?」

「禁じ手ですかー? となると――腕を出す脚を出す髪を下ろす被り物をしない手袋をしない派手な下着……なんてものが思い浮かびますがー」

 何か霊でも憑いたかのようだった。急に素早く話し出すので、イルネアを見知って経たないいちるたちはつかの間黙り込んだ。その間に、彼女の思考はめまぐるしく回転した。急に、人が変わったかのように紙に描き出していく。

「じゃあ、袖は膨らまず、裾も広がらず、身頃はぴったりとした形……? 装飾過多でないということは、裾は、布で軽い質感を表現することは可能かしら。動いたら広がるけれど、立っているときは身体に沿っているもの。極力薄い布を何重にもして一枚一枚の刺繍を重ねて、豪奢に見せる……いいわ、いけそう、これ、やってみたい!」

 叫んだかと思うと、萎んだ。うーんと今度は唸り出す。

「でもやっぱり上半身が地味! 宝飾は……」

「神具の装飾品をつけられるんでしょう?」

 今はいちるの耳に大神の下賜品だった『光輝』はない。清めをすると言って、今は結晶宮の一室にある。耳飾りは普段身につけているが、首飾り、宝冠、そして大事な指輪が、国王と王妃の分を揃えてある。

「金の装飾品が目立つように華やかにしたい……でも刺繍をするだけなら目新しさがない……」

「なんだかもうめんどくさいので、布一枚でお出になられてはいかが? 白い布だと貧相ですから、巨大な飾り編みをぐるぐる巻き付けて差し上げましてよ」

「裸身を晒せと? あなたではあるまいに」

 ばん! と机が叩かれる。途端、猛然と紙に向かっていく。目が悪いのは、どうやらその体勢に理由がある。紙の中に入り込みたいのか、筆と紙と机に接着するほど顔を近付けて手を動かしている。

 ミザントリがぽんと手を打った。

「これが、王宮お針子伝説の『猪突のイルネア』なのね!」

(なんだそれは……)

 だが、どうやら花嫁衣装は無事に仕上がってきそうだった。

 その後、精神を消耗させたイルネアが病人のように倒れ伏しながら打ち合わせを終えさせ、製作途中で何度か仮縫いの時間を取ることを約束し、衣装部の女たちは引き上げていった。ミザントリとセイラに茶を振る舞う時間もなく、いちるは結晶宮に向かう。

 結晶宮には、現在、神殿から出向してきている神官がいる。

 ヴェルタファレンに初めて王妃が誕生するに当たって、諸国からこの王妃に調停者としての権限の有無を問われ、ヴェルタファレンは正式に、王妃は調停者でなし、しかし有するは諸国の王侯貴族と変わらぬ権限と王妃の立場を表明した。この回答が、アンバーシュは今までと同じく調停国王として、だが王妃は他国の国主と変わりなく立つのだと認識され、一挙注目されることとなった。連日、諸外国からの文書が届けられ、結婚式に当たっての参列者の選別にひどく苦心するはめになったらしい。

 だがいちるが当面当たらねばならない問題は、儀式に関する諸々とその準備だった。

 神官はキシュという名の初老の男を中心とした五人だ。神官となった時に姓は返上される。これはかつて存在した宗教王と呼ばれる男が、聖職者でありながら国家権力を手にしたために起こった混乱を踏まえて、現在は神殿に所属した時点で、聖職者は地上のあらゆる事象から解放されなければならなくなるそうだ。

 そのせいか、キシュは浮世離れした、少年のような男だった。

「遅くなりました」

「いやいや、時間通りです。ご準備の方は順調ですか? イチル様の花嫁衣装、わたくしどもも楽しみにしているんです」

 だがその衣装も、目前とした儀式の重要性には霞む。五人の神官を前にして、いちるは西の儀式の手順を覚え込まなければならなかった。

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