第十一章 十二

 ゆっくりと目を細めていくところも、木の枝がしなるように背筋を伸ばすところ、力なく、しかし意識的に優美に首を傾けるところも、いちるの動きそのものだ。

 見た目はヴィヴィアンなのに、いちるがそこにいる。

 緩く瞬きをして、口元をほころばせる。

「ああ……こんなにも、あなたが愛おしくなるなん、」


 言葉が、不意に止まった。


 思いがけないものを知ったかのように、目を開き、震え始める。それは彼女が意識しない衝動であるらしく、押さえつけるように肩を抱くと、いや、と呟いた。

 いや、嫌、イヤ、嫌。重なるごとに絶叫と化す。


「あああ痛いっ、痛い、痛……っ!!」


 苦痛を感じているのだ。激しく身体を振るが、痛みは消えない。ますますヴィヴィアンの悲鳴が引き裂かれるようになる。

「いやぁっ!! 痛い、痛いぃっ! どうして!? 痛い痛い痛い! こんな……!」

 髪を振り乱し床に這いつくばって爪を立てた。涙を流し、口が閉じられないため唾液が滴る。筋のあちこちが勝手に動き、蜘蛛のような体勢になった。人の形を作っていた闇は一部が霧散し、再び集まってくるも、反射を抑えられないため辺りを漂うだけだった。

「止めて、嫌だ嫌だ! 止めろ! 痛い! 止めて、お願い、お願いだから。ちゃんと集中するから、力を使えるようになってみせるから! 待って、まだ出来ないだけなの、出来るようになるから、ちゃんとする、お願いだから止めて、止めてやめてやめて! お願いぃいっ!」

(魂の、記憶)

 いちるという人格が、あの形になったわけ。

 二百年間、彼女は東の国のひとつに君臨した。人でなく神でない女が、最初から異能を容易に操っているわけではなかったということは、そこにいるオヌという人格が物語っている。彼女は今失っている歳月の中でそれを磨き、妖女と呼ばれ、千年姫と称されるまでになったのだ。

 訓練という名の拷問を受けて、魂を削った。形を整えて、いちるという人格になった。そんなものを他人が受け入れたとしても、耐える心がなければ痛みを叫ぶしかない。

「助けてっ……助けて、アンバーシュ様!」

 アンバーシュはびくりと身体を揺らし、ヴィヴィアンといちるの両方が映し出される闇を見た。

「見捨てないで! 私が間違っていたの。あなたが欲しくて、どうしても一緒にいたくて、でも手に入らないなんて耐えられなかった! 一緒になるには死ぬしかないと思ったんです。でも、でも許されなくて」


 暁の宮でのお茶の時間に訪れたアンバーシュは、ヴィヴィアンに迎え入れられた。青ざめた彼女の顔はその頃日常だった。突然発作的に動かないように、騎士団長を時々見回りにやらせていたが、彼はアンバーシュの訪れを知ると、外で待機していると言った。部屋には二人になった。

 茶器に手を付けた時だった。いつの間にかフロゥディジェンマがいることに気付いた。ヴィヴィアンは悲鳴をあげ、机の上のものをすべて払いのけた。

 フロゥディジェンマはただ見ているだけだった。すべてを知っていて、どのように振る舞うか見定めるつもりなのだった。

 アンバーシュはゆっくりと茶碗から手を離した。高く澄んだ音を立てて割れ、絨毯に染みが広がっていった。騎士団長は錯乱状態のヴィヴィアンを取り押さえ、別室に隔離した。歪んだ顔がいつまでも瞼の裏に蘇るようになった。

 見ないで、と叫んだ、彼女の。

 アンバーシュは、何度も夢でそこに立ち返る。


「そんなことでしか、あなたが思えない私を見られたくなくて……!」

 そう言っている彼女の、苦しみもがく手をこの期に及んで取ってやれない自分は、結局は残酷な人間なのだ。あの時感じた絶望が再びアンバーシュに襲いかかる。だってこの女はいちるではない。もう、選んでしまった。

 少女神が告げる。瞳だけで。血珠の眼を柔らかに細めて、罪を。

「あ、ああああああ――!!」


 だというのにそれを見逃せずにいる。

 アンバーシュは床を蹴っていた。

 ヴィヴィアンが消えるのは一瞬だった。砂の城が崩れるように、鳥や、虫が留まっていられず飛び立つように、形を失った。

 その直前、手は取れないと思っていながらも願っていた。

 あの時、二人の関係が終わることなく続けられていて、彼女が老い、自分が取り残される瞬間に、最後に贈りたかったもの。――安らぎの中での死。送り出す、次なる生があるのだと祈って。例え、同じ形で二度と会うことはなくとも。

 包み込もうとしたアンバーシュに気付いてヴィヴィアンは目を丸くし、苦しい微笑みを浮かべた。その表情は、再会したうちで最もヴィヴィアン・フィッツという女性を現していた。

「ひどい、ひと」

 何も残さずに。影すらも星に洗われて。

 そうして、アンバーシュに触れることなく、魔眸は消滅した。


(……もっと残酷なことを、してしまったのかも、しれない)

 最期だからこそ手を伸ばした。抱いてやろう、せめて見送ってやれればと願ってしまった。周りを見ず、自分が救われたいという思いだけで、終わりまでヴィヴィアンを苦しめてしまった。

 だというのに悲しんでいる己が、許せない。傷つけられるべき人生などこの世界のどこにも転がっていない。だが、アンバーシュはヴィヴィアンのそれに、深く傷を付けたのだった。

[違う]

 背中に人の温もりが押し付けられた。

[残酷ではない]

 いちるの声。

 明確な言葉はない。ただ身体を押し付けて、腹部に手を回してくる。しかしアンバーシュは目を見開き、痛いと言われてしまうくらいきつく彼女の手を握った。

 お前程度のものを残酷とは言わない、その声がまざまざと蘇る。

 彼女は言う。東の言葉はアンバーシュには分からない。けれど込められた思いは感じ取れた。叱ってもいない、怒ってもいない。ただ、祈るように。引き止めるように。決していちるが見せない傷つきやすい無垢さ。もしかしたら、二百年の間に隠された本心なのかもしれなかった。

「お前は彼女を見捨てなかった。お前は残酷ではない」






 長く寄り添っていた二人だったが、ついにアンバーシュは気持ちを立て直し、夜の燐光を浴びる銀の枝を手を伸ばした。だが、それを攫う手がある。

「返してください」

「失うかもしれないのに?」

 黙したまま相対し合いながら、これが同じ苦悩を抱えたことがあるとは信じられないアンバーシュだった。

 人でありながら人として生を終えることができず、長いときを生きなければならない半神が直面するのは、存在の自覚の問題だ。人以上の歳月を生きる間に生じる、時間と意識と存在の乖離をどのように克服するか。

 アンバーシュはそれを他者に求めた。永遠に忘れられないもの、激しく刻み付けられる輝きを、時を越えて行くための力に欲した。

 オルギュットもまた他者に求め、死した魂を消滅の間際で繋ぎ止めることによって、己の体感する時が留まるようにした。変わらずにそこにある者がいるのだと。

 だから、出した答えは似ていて、違う。アンバーシュはオルギュットのように物わかりもよくないし、悪趣味でもない。

(俺たちは永遠を欲した。そうしてお互いとは真逆のものを、イチルに見出してしまったのだろうか)

[おるぎゅっと]

 呼んだフロゥディジェンマは幼子の姿になる。いちるが驚いた顔をするが、いつものように少女は向かっていかなかった。淡々としているがぐっと堪えるように、オルギュットを見上げる。不埒な真似をすれば噛み付く、という決意を感じる。

[エマ。私は彼女を愛している]

 アンバーシュは目を見張った。

[彼女に悪いようにはしないと約束しよう。間違うとすれば、アンバーシュの方だ]

 悩まないでほしかった。そうだろうと問いかけられ、そうかもしれないと考える隙があったのだ。難なくフロゥディジェンマを抑え込んだオルギュットは、忍び笑いながら言った。

「この状況でも、アストラスも動かないようだ。目的を達したか否かも不明。何も知らせてこないところをみると静観しておられるらしい。本当に、困った父上だ」

 大神の動きを感じない。何か起こっている様子もない。切り離されたとも感じない。一秒がずっと同じ調子で重なっている。まさに静かに見ているという状態だ。

「アガルタへ辿り着くこと以外に目的があるのか。あるいは、東の大神と同じことをしたいのかもしれないな」

 嫌な顔をしているアンバーシュは、あながち外れていなさそうだと感じたらしいオルギュットと顔を見合わせた。もしそうだとするなら、これからもいちるが狙われる可能性がわずかながらにあるのだ。

 オルギュットは、記憶の花枝を弄ぶ。普段よりも手つきが妙に優しく感じられて、眉間に思いきり皺を寄せた。

「止めてください。目の前でいたぶられているように見える」

「私たちにアガルタの記憶はない。だが大神や古神にはわずかに残っている。それが彼らを突き動かすのかもしれない。さて、次に何が起こるのだろうな」

 オルギュットは戦いの間際に浮かべるような微笑みを浮かべる。その時だった。ぴしゃりと、アンバーシュが落とす雷よりも鋭い意志が貫いた。

[返せ]

 一つのことを念じると、その言葉は強度を増す。進み出た東の女を、オルギュットは興味深そうに見つめた。

 焔を宿したままの瞳で、彼女は真実、記憶を欲していた。

[私にはその権利。あなたには、返還の義務がある]

「君の言うことは至極正しいな。これは君のものであってアンバーシュのものではない。アンバーシュが返すなと言っても、君の言うことにこそ従うべきだと私も思う」

 それを聞いてアンバーシュは彼女を強い力で引き剥がした。

 窓の外へ足を向ける。風の眷属を呼び、その足場に乗る。こちらを見る眼差しが、とても強く、これから磨かれて研ぎすまされていく予感があるから、もう逃げられないのだと分かっていた。

「……少し時間を下さい。もう俺は」

 それでも、空中の階段を上りながら言った。

「失いたくないんです」

 アンバーシュの意志を聞いて風が起こり、彼女たちの視界を覆った。遠くへ離れていきながら、やっぱり俺は酷い男だと思った。記憶を取り戻し、苦悶する彼女を見たくなかった。そうして、間違っている選択を、自分の恐れを責められたくないだけで逃げ出した。それをいちるなら、必ず弱虫と嘲るだろう。

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