第十一章 十一

 オルギュットが剣呑な眼差しで背後を見遣る。

 窓が帳で覆われている。

「何だ、あれは……」

 帳と思ったものは、黒い鳥の羽だった。鳥が今まさに侵入せんと首を突っ込む。その隙間を埋めるようにして、形の定まらない獣や虫のようなものが、見えない壁を押すようにして顔と身体を押し付け少しずつ迫ってくる。ぎらぎらと輝く瞳に気付くと、思考が鈍くなり、一瞬自分がどこにいるのか分からなくなる。

 触れたくもない汚れを目にするかのような顔で、オルギュットは呟いた。

「……邪魔なやつらだ」

 次の瞬間、輝いた光の刃がやつらを一掃していた。青く感じられる夜空が窓の向こうに広がっている。オヌは這うようにして起き上がると廊下へ飛び出した。自分のところにあんなものたちが来たのなら、アンバーシュが来ないはずがない。彼もまた襲われている。




 ――アンバーシュ……!

 声がした。夢現つの帳が一枚取り払われ、覚醒が始まった。瞬きすればまた一枚消える。幾重にも重なった覆いが取り払われた時、突き刺すような魔の気配で息が出来なくなっていた。放った魔力が相手を弾き飛ばす。女の悲鳴をあげて影は倒れ込んだ。

 冷や汗が伝う。こんなものに侵入を許したとは、どれだけ気を取られていたんだと舌打ちしてしまう。生気を奪われて意識が混濁していたなんて、これだから半神はと舐められるのだ。

 床で震える闇に近付いていったアンバーシュは、それが形を定めていくにつれて絶句した。

 波打つ髪。華奢な手足。細い首に小さな耳。口づけ囁きかけたことのあるそれらは、月日の中に失われたはずのもの。神々にすら及ばない時間の支配者の領域に去ってしまった、若さというものだ。

「アンバーシュ様……」

 声が呼ぶ。涙をたたえて。

「ヴィヴィアン……」

 その年齢、その姿を二度と取り戻すことがないはずのかつての恋人が、淡く、微笑んだ。

「アンバーシュ様、私」

「去りなさい」とアンバーシュは告げた。

「そんなものを引き連れて、そこまで身を落としても、俺はもうあなたに応えてあげられないんです」

 ヴィヴィアンの影から幾つかの眸が地上を覗き、瞳を動かしている。魔の者たちは周囲に更なる獲物がいないかを探り、命令を待っていた。影が出来るはずのないところにまで黒が伸び、アンバーシュの放った力で萎縮したように頭を退く。そんな魔性を、素足を見られたかのように頬を染めてヴィヴィアンは恥じた。

「見苦しいと、分かっています……」

 けれど、と瞳を伏せて呟く。これが本当に人ならば、心動かされるかもしれない傷ついた仕草だ。

 内蔵が冷たくなる恐れを味わう。これは何だと自問した。人であったはずだ。永遠を教えてくれる女性だと思ったこともあった。別れた今は、己の罪でもあった。

 魔眸にまで堕ちるほど彼女を痛めつけた。その果てがこれだ。

「ヴィヴィアン」

 罪深さで息が出来ない。白い腕を、汚れなく見える柔らかい手を伸べて、ヴィヴィアンは怯えた微笑みでアンバーシュを待っている。次の瞬間悲鳴が短く聞こえた。無意識のうちに払いのけていたのだ。

 痛みで震えていたヴィヴィアンは、ばっと顔を起こすと、笑った。口が裂けるほど無理矢理口の端を押し上げ、目に憎悪をたたえて。

「私ではいけないのですね。アンバーシュ様」

「……そうです」

 一人で立ち上がり、打ち据えられた手を胸元で押さえる。

「アンバーシュ!」

 いちるが飛び込んできた。そうしてヴィヴィアンの姿に驚いた。「レイチェル……?」と戸惑うように名を呼ぶ。アンバーシュは気付いた。その名は暁の離宮の女官の名。彼女が覚えているはずがない。

「名前を偽って彼女に接触したんですね?」

「本当に、何もかも忘れてしまっているのね。私はその方に何度もお目通りしたんです。ロッテンヒルの家で、ティトラテスの貴族の館の地下牢でも。でも、まったく気付かれる様子がないから。それで、ああ私はやっぱり醜く老いてしまっていたんだわと気付いたんです」

 ヴィヴィアンが己の身体を撫で上げる。

「ディセンダ様に感謝しなくては。あなたが愛したこの身体を取り戻してくれた。アンバーシュ様、今の私なら、あなたの望みを叶えることができるんです。あなたさえ許してくれるなら、私は永遠にあなたの側にいます。あなたの兄君と、元王妃であった従者のように」

 驚いて振り返ると、見たくもなかった顔があった。それは向こうも同じだろう。薄ら笑いを消して、オルギュットは吐き捨てた。

「お前のようなものに言われるとなかなか業腹だな」

「同じ魔に堕ちると私たちは一定の意識や知識を共有するのです。オルギュット様。あなたの側にいる方は、あなたの力によって善の方向に留められ、私ほど知ることはないようですけれど。でも、私は知っています。あなたもまた、半神半人であることを思い悩み、別の存在にその答えを見出そうとしたんでしょう?」

「愚かしいと嘲笑うか。付け入ろうとしているお前が?」

 半笑いでいなしたオルギュットに、ヴィヴィアンは優しく首を振る。

「手に入らないものを欲することこそ、生きとし生ける者の営みではないでしょうか」

 気付けば、その手の中に輝く枝がある。ヴィヴィアンを取り巻く闇の気配の中、その花枝は抗議するかのように光を増した。途端、いちるが胸を押さえて膝をついた。細い息を吐いて、苦悶している。

 オルギュットが言う。

「お前が手にしていいものではない」

 アンバーシュは、ヴィヴィアンの手にあるものがいちるの魂の欠片だと気付いた。

「ヴィヴィアン!」

「私ではいけないのなら、アンバーシュ様、私が、その魂を持っていたらどうでしょうか。あなたと心を交わし、あなたが知っている女になったなら、あなたは私を欲するのではありませんか?」

 枝を手折ることすらためらう少女の純粋な眼差しで彼女は言った。心からそうすることができると信じているのだった。

[出来るんですか]

[知らない。魂の掛け合わせなど初めてだ]

 両者とも相手を見ずに、お互いにしか伝わらぬ言葉を交わす。役に立たないやつめと苦々しく思ったのは、きっとどちらもだ。ヴィヴィアンが枝を折ろうと考える瞬間を思うと、アンバーシュもオルギュットも手を出せなかった。

 その時だった。

[許サナイ]

 星が、落ちてきたのだと思った。

 光が降り、銀の燐光をふるい落とす獣が唸った。甲高い少女の声が、獣の吠えに変わった。

[しゃんぐりらヲ傷ツケタナ!]

 笑い声が迸る。手が出せないと知っていて彼女は笑う。いちるの怒りの声が聞こえたのはその時だった。

「わたしの……」

 黒い瞳に焔が燃えた。

「わたしの[妾の]ものに手を出すな――!!」

 光り輝いた枝を抱いて、ヴィヴィアンは目を閉じる。水のように溶ける表面へ枝を押し込むと、いちるは背を仰け反らせて声にならない悲鳴を上げた。がたがたと震えて、血の気を失っていく。オルギュットが彼女を抱きとめる。見えない魂の糸が切れぬよう手を添えているのだ。

 銀の枝は、完全にヴィヴィアンの内側に飲み込まれた。声が飛び交い大気が震えた部屋に、一転して静寂が訪れる。星すらも息を詰め、風は何が起こるのかを見定めようとした。不安で辺りが暗い。光が奪われた。


 ヴィヴィアンは顔を上げて、にやりと笑った。

 それは、アンバーシュのよく知る、いちるという女が浮かべる、満足そうな強い微笑みだった。

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