第十一章 三

 流れる、銀の光。刻まれた痛みの赤と高潔な白い光。

 淡い流れの中に、浮かんでは沈み、沈んでは浮かびながら、流れを下る花の枝。

 見知らぬ闇。何も見えぬゆえに誰にも知られぬ名もなき世界。かつて何者も通ってきた道筋は、上るのではなく下ることでどこまでも不安定な場所となる。

 ゆえに、その花が零す光はどこまでも明るく、優しく、慕わしく。伏した者たちの目に飛び込んで、力を宿す。

 異なる双眸が、そこかしこで無数に輝く。手を伸ばした魔眸たちは、しかし距離を掴めずに、手にし損ねる。

 この場所では時も距離も常に変じる。近いと思ったものは彼方に、彼方にあるものは足下にある。ただその銀の花だけは、誰の手からもすり抜けていく。まるで、今は誰も手にしてはならないと拒絶するかのように。

 なおも欲した者たちが這いよると、荒々しい吠声がした。

 銀の体毛で包まれた前足で蹴立てれば、不安定な魔眸は容易く消滅する。

 強力な力を持ったその獣でも、長くそこを駆けているがために疲労が濃かった。同じところを延々と走っている。

 しかし、彼女はそれを取り返さねばならないのだ。



     *



 これは誰だ。

 自分はかどわかされたのか。

 銀星の輝く夜空。平たい土壁の家々。空に近い巨大な建造物は社を思わせるが、それにしては慕わしい暖かな光が灯っている。人の生活の輝きだ。

 空に浮かぶ小さな箱の中から覗き見る世界は、まったく、自分の想像の範疇にないもの。

 何もかもが見知らぬ世界。けれど美しいところだ、と自分を落ち着かせるべく考える。

 不可思議な力で動く馬車を駆る男は、青ざめた顔でこちらを見ていた。その必死さを理解することができない。これは誰で、自分とどう関わりがあるのだろう。時折もたらされる天啓のように声を閃かせたので、多分格の高い、神霊の類いだとは思う。

 美しい男だった。秀でた額。女性的な容貌だが、女々しさは感じない凛とした男の顔。琥珀を溶かしたような黄金の髪は、神々しい光を男にまとわせている。見事なのは瞳の色だった。姫を飾る宝石のごとき、透明で煌めきを帯びた青。強い光輝を感じさせる空の色だ。

 わたしは庵から連れ出されたはずだ、と直前までの記憶を思い返す。森を越えた村から男どもがやってきて、家を踏み荒らしていった。数少ない持ち物、着替えや食料、分けてやっていた薬草を鷲掴みにして懐に入れて。抵抗する間もなく殴打され、手足を縛られて、露になった素肌に舐めるような男どもの視線を睨み返していた。そうして、それから。

(そこから、記憶がない)

 何者かが介入して連れ去ったのだろうか。この男が現れたのか。だがここは、東国の景色ではない。胸元に触れるとごわつく。血臭がし、眉をひそめる。村の男どもは、まさかこの身体の不可思議を確かめるべく手を出したというのだろうか。

 だが、着ているものに見覚えがない。安物の衣は、外気の冷たさに耐えられる上等な織りの不可解な衣服に変わっていた。

「誰だ。お前は……お前が、わたしを連れ出したのか?」

 目の前の男は、西の人間の特徴である白い肌や色素の薄い髪や瞳の色をしている。問いかけてから、東と西は言語が異なることを思い出す。相手はそれを知っているから、特殊な力を用いて語りかけてきたのだろう。しかしその他に言葉を伝える手段が思いつかなかった。伝えたいことを思い浮かべろと言われたが、それが本当に相手に通じたかも判断できぬままだ。男は、そのまま、凍り付いたように青ざめてしまった。

「…………」

 様子を窺うこちらの戸惑いに気付いて、彼は口元を覆った。険しい顔をせぬよう、注意を払っているらしい。

[俺が、分からない?]

 声が頭の中で響く。

 頷く。

 見たこともない。名前も知らぬ。ただ美しい異国の男だ。

[どこまで覚えていますか]

 だから、それを伝える術がないのだ。強く念じろと言われたことを思い出し、努めようとするが、声に出すようにして、頭の中にあるものを伝えるのは容易ではない。意識がすぐに飛んでしまうからだ。集中しようとすれば、次第に頭痛がして眉間に皺が寄ってくる。対する男も掴み取れぬ表情をした。近付けばいいのだろうかとわずかに距離を詰めて見上げる。

(しかし、本当に真っ青な、美しい目だ……)

 遠い楽園、アルカディアの住人は、このように光を宿した瞳を持つのかもしれない。

 相手がはっとした。同時に、気付いた。その思考すらも漏れている。意識せぬままに親しい距離にまで近付いており、飛び離れた。警戒を持ってしかるべきだというのに、相手の空気に影響されてしまっている。この男は、自分が何者なのかを知っている。だからこれほど真っ直ぐに関わろうとする。

[あなたは、だれ]

 一つだけを念じてみる。すると、彼はひどく傷ついたように目を伏せてから、答えた。

「アンバーシュ」

 続けて頭の中で響く。

[西の大神の子、半神のアンバーシュです]

 あなたは、と尋ねられ、心臓が鳴る。もう久しく、名を名乗ったことすらなかった。誰も彼も、名を呼ぶことを必要としなかった。声に出すと、違和感が先立った。

「わたしは名無しだ。人からは、オヌ、と呼ばれていた」



 異国の宮に連れてこられたオヌは、そこで己と故郷を同じくする者に対面した。小作りの顔と青白い肌。黒髪と黒い瞳。一人は威厳ある恐らく神、影のように控えているのは従者として使っている仙だろう。アンバーシュと名乗った男としばらく別室で話し込んでいる間、オヌはそこで手持ち無沙汰に座っていた。

 汚れた衣服が不快だった。着慣れぬ型の衣装。下着らしき締め付けが苦しい。だが生地は温かく、職人の手が込んだ美しい仕立てだ。

(こんなものを着せられて、わたしは一体どうなったというのだろう……)

 窓に近付く。空には、月以外に発光する白珠が見える。あれも神々の力の一つだ。

(……何とかと、呼びかけられた)

 あれが、あの男がつけたわたしの呼び名だろうか。誰でもなく、何者でもない己に名付ける酔狂。頼りないこの異能に目を付けたのは間違いないだろう。でなければ確信を持って、頭に直接呼びかけたりなどしない。窓に映った、髪の短い己に少しだけ驚く。幼い子どものような髪型だ。

 人の気配がして、仙だろうと思わしき者がやってきた。表情に乏しい顔で「着替えを」と東の言葉で告げられ、頷いた。

「ご自分で、着替えはできますね」

「これならば。ありがとうございます」

 この、胴を締め付け、足下が見えなくなるほど裾が広がった衣装ならば不可能だったが、彼がまとっている単衣物と袴ならば問題ない。一礼して出て行ったので、オヌはあの仙を男性だと確信した。女性か男性か分からない、線の細い、美しい顔をしているので、一見して分からなかったのだ。何となく男であろう、というのは、目と耳の間の感覚で感じられるのだが。

 衣装を脱ぎ、汚れを拭う。刺傷されたらしく、胸元に回復したばかりの桃色の引き攣れが見えた。鏡で身体を確認する。他に傷は見当たらない。

(少し、太っている……)

 手首の周りが骨張っておらず、柔らかい肉がついている。鎖骨の下もすべらかというよりは、ふっくらと、豊満になっていた。肋が浮いていたのが脂肪がついている。そして、どこもかしこも磨き上げられたように染み一つない。

 意味するのは、贅沢。裕福な暮らし。

「囲われていたのか、わたしは?」

 身に覚えがない。

 記憶がなくなっていることは想像がついたが、実感がなかった。

 絹で出来た衣装に身を包む。女がまとうには素っ気ない、浅葱に紺の袴だ。頭髪が短いので一見して少年のようだろうと、鏡を見る前は自嘲しただろうが、体全体が丸みを帯び、血色の良い肌をし、唇にまで血の通う己は、女にしか見られぬと分かると不思議に感ぜられた。着替えを終えて部屋を出ると、外には仙が待機していた。

「こちらへ」

 促されるままに別室に入ると、彼の主である青年神が待っていた。

「恵舟」と呼んだのは仙の名だろう。指を動かし、次の仕事を暗に命じると、恵舟は一礼して下がっていった。

 部屋には二人きりではなかった。あまりにも気配が薄かったので気付くのが遅れたが、片隅に、琥珀色のアンバーシュが、こちらを視界に入れないように窓を向いて立っている。オヌは跪くべきか悩み、結局、深く頭を垂れるだけで待った。

 聞こえたのは、溜め息だった。

「その様子ならば、本当らしい。記憶がない?」

[オルギュットは彼の領域にいます。今はすべての門を閉ざした状態ですから、彼を引きずり出すことはできません]

 淡々としたアンバーシュの声。

[やっぱり殴っておくんだった]

「事情が、何も分かりませぬ。あなた方は、神でいらっしゃるのですか」

 そこからかと吐いた息にあった。

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