第十一章 二

 ヴェルタファレン王家が潰えたのは、およそ三百年前。疲弊した国をアストラスに差し出すことによって、国としての崩壊を免れたと言われている。降臨した半神アンバーシュは、人の手から権力を取り上げ、調停者として王位に就いた。貴族という考え方は地方領主の規模に留まり、現在は富める商人もまた貴族と同程度の力を持つ。

 潰えた王家はどうなったのか。

 確かに詐欺まがいを口にする者もいるにはいた。ほら吹きの類いから、貴族の自慢まで様々に。

 だが、ヴィヴィアンがそうだとは初めて聞く話だった。

「不審な貴族とは? いったい誰か分かりますか」

「さてね。外套ってのは、人の姿を隠すのでも仕立てのいいものは一目で分かるなあって思ったくらいさ。しばらくして、ヴィヴィアンは治安のいいところに引っ越していって、そのうちアンバーシュ陛下に出会っちまった」

「父親は」

「酒乱でね。引っ越した頃に葬式があったかな」

 王家の血を引くのではと言われている貧しい娘。父親を失い天涯孤独になった娘に、高貴な何者かが援助をした。そして、国王たる半神アンバーシュに出会ったというのなら、それは――何らかの仕組みが存在するものではないだろうか。

 もし本当に陰謀があったとするならば。

(逐われるべき者が、他にいる……)

「恐え顔だな。男を取って食っちまいそうな顔だ」

 老人が揶揄し、汚れた歯を見せて笑う。

 無防備な顔をさらしていたことに気付いたセイラは、表情を削ぎ落とすと、最後に、と尋ねた。

「何故、今になってそれを話すのか、教えていただけません?」

「時効にしないためさ」

 男は笑う。若い頃、腕っ節が強かったのだろう逞しい顔で。

「過去はすべて、未来へ渡す。それが罪だろうとな」

「……本当に、厄介なものをいだたきましたわね」

 思いきり鼻の頭に皺を寄せると、ガストールは肩を揺らしていた。そうして手を振る姿は、不器用な愛情を示す、気まぐれで気難しい年寄りに見えた。

「話せることはもう何もねえな。とっとと帰れ。暗くならないうちにな」

 礼を言って後にする。来た時同様、颯爽と。ここを出た瞬間顔を忘れてしまうほど薄情に。見送りに出てくれた少女には、何かあったら頼るよう告げる。彼女は何も気付いていなかったが、セイラは必要以上には何も言わず、にっこりと微笑んで、貴婦人のごとく暇を告げた。

 薄暗がりの道に出ると、人の気配を感じる。

(おや、意外に早いこと)

 つかず離れず、距離を保って追尾してくる。気配が悟れるので、恐らく素人だ。適当な者を使わしたのだろう。それともわざとだろうか。気付いているのを知って、場所を知らせているのかもしれない。

 湿ったにおいのする汚れた路地から、明るい道へ出ようとした時だった。すでに道の角に、男二人が立って待ち構えている。振り返って道を戻るにしろ、勝手を知っている彼らにこのまま追いつめられるだけと判断したセイラは、つかつかと恐れることなくそちらに向かっていった。

 いやらしく笑う男たちの前で急につまずいた。おっという顔がして二人が腕毛の濃い手を伸ばしたとき、足を跳ね上げて、勢いをつけて両の手のひらで顎を打った。相手が親切かどうかは考えない。もう一人には裾を大きく広げながら回し蹴りを食らわす。

 一度目の曲がり角でこれなら、他にも地点に誰かが立っているのだろうか。

(そんなやばいものに手を出した覚えはないけれど)

 小走りになる。汚れた水たまりを踏むと、派手な音が立った。後でドレスの泥落としを頼まねばならない。靴も汚れてしまった。そもそもこんな移動の仕方をするのが悪いのだが。

(やっぱり、アンバーシュが悪い!)

 現れた男に飛び蹴りを当てる。柔らかいドレスの生地が衝撃を和らげる。起き上がって再び走る。

(知られては困るということは、未だ権勢を振るっている者? そんな古参の官僚は、少なくともわたくしよりは年上。ヴィヴィアン様とアンバーシュの出会いがもし全部仕組まれていたとしたら、誰が得をするかしら)

 後ろから足音が来る。向こうも必死だ。こちらが攻撃を辞さないことを知って、本気で獲りにかかっている。唇を舐める。笑い出してしまいそうだったのだ。建物の間の空に、焦燥と怒りが渦巻いているように感じられた。本当に、次から次へと。金をばらまく余裕があるのは羨ましいことだ。

 しかし、前方の道に飛び越えられぬほどの不細工がたむろしていては脚を止めざるをえない。遅れて後方の者が追いついた。道の両側から挟まれて、観念した。こちらの身分を知って手加減してくれることを祈るばかりだ。

「誰の指示ですの?」

「知る必要はない」

「あら、残念。ご挨拶申し上げたかったのに。それでは、わたくしは全部忘れて手を引けばよろしいんですの?」

 聞き分けのいいセイラに、気が抜けたような空気が漂う。薄暗がりに連れ込んでどうこうしようという目論みが外れたのだろう。だが、諦めきれなかったらしい。手を伸ばした男の一人が「来い」と手首を掴んだ。

「痛いですわね。もう少し手加減なさいな」

「うるさい。黙ってろ。……ああ、分かった。本当は恐いのにそんな口をきくんだな?」

 にやにやと笑いながら臭い息を吹きかけられる。逞しいというより見苦しい毛の生えたふやけた腕の肉を綺麗に削ぎ落としてやるべきだろうか。男の目が胸元へ、腰へ、先ほどまであられなく振り回していた足下へと映る。下を向くと、顎の周りにたるんだ肉が重なる。

 やっぱり削ぐべきだわ、不快だし。セイラが右手を閃かせると、仕込んでいた短剣が腕に食い込んだ。

「ぐあ!?」

「案内してくださるなら、やっぱりそれだけの教養が身に付いた方でなくてはね」

 にっこり笑って、周囲に声を張った。

「さあ、わたくしを案内してくださるのはどなた? 不出来だと、死の門前を覗き見るかもしれませんわよ」

「…………」

 じり、と足を滑らせて近付いてくる。ちっぽけな自尊心に火をつけただろうか。

 久しぶりに思いきり暴れることができて嬉しい。苛々していたのだ。

 飛びかかってきた男をひらりと交わし、背後から伸ばされた手を避け、肘と腕で打つ。短剣をひらりとさせて、顔面を傷つければ簡単に怯む。刃物の扱いは慣れている。その気になれば指くらい簡単に落とせる。

(わたくしは、何も知らなかった。本当のことは、何も知らなくて、ただ純粋に、あの方が好きで。あの方もわたくしを大切にしてくださって)




 ――……風邪を引いていた。たちの悪い風邪だった。冬だったので、粗末な衣服と食事では耐えることができなかったのだ。熱でふらふらになりながら、仕事に出ようとするとそのまま倒れた。親方はセイラを放り出し、セイラは路地の隅でがたがたと震えていた。

 神殿に行けば、二三日、面倒を見てもらえると知っていた。けれど、そんなのまっぴらだった。神様なんて、王様になって人間の近くにいると言われていても、全員を救えるわけがない。飢えて死んでいく、同じような境遇の子どもを見た。街角では骨ばかりの老人が乾いていく。乳を与えるためにやつれた顔で働く女を知っていた。セイラはいつの間にか一人で、これからも一人で生きていく運命だった。

 ――どうしたの、と冷たい手のひらが髪を掻き分ける。

 触るな、と言ったと思う。しかしすぐに抱き上げられてどこかへ連れて行かれた。

 目覚めて知ったのは、温かい寝床。温かい食事。絶えることがない暖炉の火。家一軒分もあるその部屋は、馬鹿みたいに恵まれた世界だった。

(名前はと聞いてきたから、答えたら、妹が欲しいと言ってきた)

 妹になってくれないかしら、と。まるで何も考えていないような、平和な台詞を言った。セイラはそのお人好しを十分に利用してやろうと、金品や食料を持ち出して、裏街の貧しい者に分け与えた。

(そして……)


 それは全部あなたのものではないでしょう、と彼が言った。


「欲しいのならば、与えたいと思うのならば。自らの持っているものを与えなさい。あなたが与えているのは、誰かのものになるはずだったもの。あなたに不当に奪われたものです」


 だからセイラは地位を手に入れると決めた。権力を持って、人を守り、人に与えるものになるのだ。そうすれば、セイラにいろんなものをくれたあの人に。

 ヴィヴィアンにだって何かあげられるかもしれない。




(なのに、いなくなるだなんて、思わなかったの!)

 肩で息をし、殴ったのは何人目だったろうか。手の甲に血がにじんでいたので、指先を噛んで手袋を差し抜く。汗と血の味がする。どうやら自分も口の中に傷を作っていたらしい。ドレスの腰回りも、帯が解けてずたずただった。

 腰を落とし、拳を作る。脇を締めて、短剣の刃を確かめる。上手く使っていたから切れ味は鈍っていないようだ。

 低めた声。相手を縛める怒り。

「あの人の真実は、あたしが手に入れる」

 その時、向こうから警笛が聞こえてきた。

 巡回する衛兵団が所持する笛の音。吹き方は対象発見、集合だ。退路を塞いでいる男たちは自分たちが袋に追い込まれることに気付き、身を翻す。逃げ足が速いのがこういう者たちの特徴で、あっという間に静かになる。

 空気が変じていくのを感じながら、やれやれと肩をすくめていると、衛兵が来た。

「お嬢様、お怪我はありませんか!?」

「問題ありません」

 答えたのは、見覚えがある男だったからだ。衛兵は衛兵でも、貴族がわずかに雇うことが許されている自警の制服だ。彼が後ろから譲ると、向こうから不機嫌そうに歩いてくる人がいる。

 見事に、風景に溶け込んでいない。宰相補佐の制服。

「お兄様」

「単独行動はお前の欠点だな。セイラ」

 この兄にも知られないはずはなかったと、セイラは疲れた息を吐いた。

「捕虜にした者はいまして?」

「全員逃げられた」

 でしょうね、と呟く。転がった者まで担いでいく仲間意識に涙が出そうだ。

「お前の短慮によって、城でも水面下で色々あったぞ。お前の口を封じようとする者と、それを収めようとする者と」

「わたくしの居場所を知らせたのは?」

「ロレリア宮廷管理長官だ」

 老齢の女伯爵。確かに、宮廷の古株だ。しかし、それがどちらなのかエルンストは答えないまま、セイラに着いてくるように言う。

 しかしふと思い出したかのように振り返って、セイラに制服の上着を着せかけた。煙草の香りが立ち上り、鼻を鳴らす。

「洗濯に出しておりませんわね?」

「嫌なら着なくていい」

「少しの間だけお借りしますわ。これは、お兄様のものですもの。わたくしには、わたくしが得た財産が営舎の箪笥にございますものね」

 エルンストは覚えていないだろう。己が勝ち得たものを与えよと言った青年時代は彼にとってあまり覚えていたくない青さのはずだ。セイラの予想通り、エルンストは横顔を向けただけで、急ぐよう目で促しただけだった。

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