第九章 二

「よく考えたものだ」

 オルギュットは苦笑半分、残りは感心で言った、といちるは判断した。

 二日経っていた。

 選りすぐった品に、庶民が手の届きそうな物を揃えた、腕利きの商人たちが店を広げている。しかしその目は奥の宮のあらゆるところに投げかけられ、知ったように頷く者も少なくなかった。イバーマ王宮の王妃の住まいに、立ち入る機会などそうそうないためだろう。

 銀星は明るく、太陽の代わりの白い光珠が空を彩っている。この国の太陽を務める真珠星は、王が万全の体勢である証だった。煌煌とした白さは、最初に見たときよりも強くなっていた。力の加減で透明度が変わるのだろう。すると少しだけ、空は真の夜ではなく、明るい紺碧の色になる。いちるの首にかけた青石のようだ。

 オルギュットの視線の先では、外から招いた商人たちが中庭にこしらえた急な市場にある。後ろに控えたミザントリは、自分が口にしたことながら、苦笑を禁じ得ないようだ。レグランスも、騒ぎに少し呆気にとられている。

 先日の交渉の末、いちるは、己の庇護下にあるミザントリについてある程度の自由を認めさせた。そうしてミザントリの頼みで外から商人を呼び寄せたのだった。いちるとミザントリが一通り見物すれば他の者たちも買い物をしてよい、と気前のいいことを言ったおかげで、中庭は今、喧噪に満ちている。奥宮に詰める者たちが、いちるたちのことを忘れて買い物に耽っているからだ。


「評判は上がるが、出し抜けるとは思わない方がいい」

 オルギュットが言う。

 人の出入りを作ったが、いちるも、この男を欺けるとは思っていなかった。例えば私書を託したり、商人に混じって誰かがいるなどということは不可能だろう。何かを仕掛けるつもりはなかったが、いちるはミザントリに目を配った。彼女は、人が賑やかに行き来するのを微笑んで見守っている。

 策を持っているのは彼女の方だ。一体、何を考えているのだろう。

「何か欲しいものは?」

 尋ねられ、いちるはミザントリに聞いた。

「何かありますか」

「毛皮が欲しいです。イバーマの貂(てん)の毛皮が!」

 いちるが視線をくれると、オルギュットは肩を竦めた。レグランスが意を汲んで市に向かっていく。

「貂の毛皮とは、いい趣味だ」

「イバーマの貂は、夜空の毛並みと名高い、漆黒の色をしているのです。きらきらと光って、遠目には銀にも見えて。一度生きている実物を見てみたいものですわ……」

 うっとりと言うミザントリは、ちらりと市場に目をくれた。先ほどから、鳥の鳴き声がしているのである。さすがに荷運びする馬以外の大型のものはいなかったが、心慰めになる小さな動物がいくつか持ち込まれていたらしい。色彩鮮やかな鸚鵡や金糸雀がいた店で、ミザントリがうろうろしていたことを思い出す。きちんと目を付けていたのだった。

「見に行っても構いません」

「だったら一緒に」

「わたしは動物に好かれないので、結構です」

 本当にそうなのだ。撫瑚の城の離れにいた時も、動物が近付いてきたことがない。空に鳥が飛んでいる、遠くで鹿が見ている、ということはあったが、触れ合ったことは一度もない。城猫すら触ったことがなく、自分には妖気でも出ているのだろうと思っている。特に好いたこともないので気にしたことはないが、ミザントリが嬉々としているのを見ると、それなりに良いものらしい。

「行ってきなさい」とオルギュットが言ったのがとどめだった。暗に立ち去れと言われれば、いちるを動かすことができない。一礼して、庭に下りていく。

 温い風が吹いてくる。

「ちゃんと伝言は伝えていただいたようですね」

 いちるはオルギュットの顔についた痣に目を付けた。

「ひどい女だ。レグランスには『殴れ』と伝えるように言ったのか」

 ふんと鼻を鳴らす。本当なら自分が殴りたいくらいだった。

 芸術品のようなオルギュットの美貌は、傷がついたせいか、わずかに身近なものに変化している。手の届かぬ神が、宝物庫に秘匿される高名で美しい彫像になった。見られるようになったといちるは思う。つかみ所がなかったものが、言葉を交わしてやろうと思うくらいには。

 いちるは首にかけた青石の首飾りを撫でる。氷色をした衣装は首飾りに合わせた。首飾り自身が豪華なものなので、ドレスそのものには何の装飾もほどこしていない。防寒には丈の短い茶色の毛皮の上着を肩にかけている。連なった宝石と鎖をいじると、ちょっと、と声がかかった。

[ちょっと、邪魔しないで! オルギュット様を見てるんだから……]

 影や靄のような形だったり、身体の一部分しか現出できないエンチャンティレーアは、いちるの影に身を潜めて、じっと男を見ていた。完全に悪い性質のものではないので、側にいられても肩が重いわけではないのだが、オルギュットは視線を感じているだろう。けれどどうせ、こういう精や霊の類いがふらふらしていても気に留めぬようにしているのだ。西島は、そういうものや、神々の眷属やらが歩き回りすぎている。

 レグランスが戻ってきた。本当に、黒貂の毛皮を買ってきたのだ。値の張るものだろうにと呆れ、押し付けがましいことを言われるのだろうかと考える。彼女は買ってきたそれらを部屋に送るよう女たちに託すと、オルギュットに何かを手渡した。

「こちらで間違いないですか?」

「ああ、これだ。ハルシア工房の職人はいい物を作る」

 手の中に収まる小箱の中身は、オルギュットの目に適うものだったらしい。職人への信頼を口にすると、いちるに向かって手を伸ばした。

「何を……」

「怪我をしたくないのなら、じっとしているんだね」

 左の頬にかかる髪をどけられ、耳に触られる。穴から飾りを引き抜かれ、冷たいものが触れた。首の後ろに鳥肌が立った。

 目をやると、オルギュットの手の中に、一揃えなのだろう、銀と紫水晶の耳飾りがある。いちるの左耳にかかっているのはそれだ。耳たぶを飾る部分は、薄く伸ばし花びらを作り、その中央に宝石を置いている。その花から、雨の雫のように小さく細い銀の板が三本連なっていた。その連なりも形がそれぞれ異なり、輪になったもの、ねじったもの、粒のものと様々だ。銀の雨雫は肩に降れるほど長い。しかし、重さはほとんど感じない。

「もう片方も」

 顔を貸せ、と言われて、動かずにいると、顎を取られて横を向かされた。目を伏せるレグランスが見え、いちるもまた、視線を下に落としてしまう。

 傷つく女の顔は喜んで見たいものではない。嫌悪した相手でない限り。

 動いた拍子に鎖がしゃらしゃらと涼しい音を立てる。

「……贈り物を受け取る理由がありません」

「理由がないのが贈り物だ。よく似合っている。光の耳飾りより、よほど」

 髪に触るのと同じように鎖に触れられると、耳が引かれるようで不快だ。それに、オルギュットにはアンバーシュの耳飾りに気付いた上で取り上げたのだ。神からの下賜品を粗末に扱うことはないと思うが。

「本当に、嫌な男……」

 イバーマで作られた衣装を、イバーマの様式で身につけて、装飾品もすべて揃え、手にするものも食べるものも、皆、この王の下にあるもの。作り替えられていくようで嫌悪感があった。

 それまでのものすべて取り上げた、これと同じ扱いを過去に受けたことがある。そうして心の形を変えた。傷つき、摩耗したそれを磨いて、妖女と呼ばれた。

「名前も奪いますか? 今までのことを忘れろと言って、自分のために尽くせと」

 手を除けてせせら笑うと、柔らかく男は目を細めた。オルギュットの微笑みのように大気は温く、いちるには花の香気がまとわりつく。喧噪は遠く、時間が緩やかに流れているように感じられたが、いちるの澱になった怒りが、熾火のごとき不安が、言葉を放たせる。

「正面から目的を言わぬ卑怯が続くのならば、わたくしは、いつまでもあなたに抵抗する」

「屈辱や痛みを受けても、その虚勢は続くだろうか」

 銀鎖を引かれる。

「今は私の手の中にいる。歯向かうのは得策ではないと知っていると思うが」

 更に引かれる。普段触らぬところがきつく引っ張られ、それ以上の距離が取れなくなる。

「痛いと言ってごらん」

「……こんな、わたくしの何が必要か知らぬけれど」

 強い目をして、きつく、言い放つ。これは宣言だ。


 自分は、もう誰の物にもならない。

 所有の証は、すでにアンバーシュによって刻まれた。そうしてあの男にもいちるがしるしをつけている。引き合う綱、あるいは楔。首にかかっているものの先はお互いの手にある。


「わたくしを必要としていいのは、ただ一人。我が夫、アンバーシュのみ!」


 オルギュットの目が狩りをするものに変わった。いちるは息を呑み、自身の欠損も辞さない覚悟で身を引こうとしたが、それよりも先に悲鳴が上がった。中庭の方からだった。

 馬のいななき。市の商人たちが、繋いでいた誰かの馬が大暴れしているので、必至に宥めようとしたり、商品や身を守ろうと走り回っている。女たちは悲鳴を上げて逃げ惑い、鳥はぎゃあぎゃあと喚いていた。

 いちるとオルギュットは交戦直前の状態で静止していた。悲鳴がなければ、何か起こっていたかもしれない。男が「その首飾り」と言って、鎖から手を離した。

「王妃の首飾りだ。私が贈った」

 今そんなことを言うのは、騒ぎの原因がこれに宿っているエンチャンティレーアの仕業だったからだろう。嫉妬だ。いちるがオルギュットとただならぬ空気を発していたので、彼女は嫌がらせに馬を襲ったのだ。

 興奮していた馬を御すためにまとわりついていた者たちが、振り払われていく中、鈴の音色が響いた。ミザントリが「大声を上げないで!」と言いながら、手にした大きな銀鈴を鳴らしている。馬がそちらに耳を向けた。音を聞いているのだ。頭を振った拍子にしなる手綱が忌々しそうに、高く鳴く。

 人々が逃げたのもちょうどよかった。自身を止めようとするわずらわしい者がいなくなり、嫌がらせをした得体の知れないものも遠ざかったために、荒く息をしながら、尾を高くしてばさりと振っていた。ミザントリの鈴は魔法のように、馬の心を宥めているらしい。

 やがて、そっと近付いてきた男たちによって、馬は取り押さえられた。空気が緩み、人が戻ってくる。中庭は散々な有様で、オルギュットとレグランスの元には判断を仰ぐべく官吏が集まってきた。

「まずは怪我人の確認を。それから片付けを始めてください。被害があったものは申告してください。買い取りや弁償などを話し合わせていただきます」

「びっくりしましたわね。あんなに大人しかったのにいきなり暴れるなんて」

 ミザントリが戻って、ほっと胸を撫で下ろしながら言った。

「あの鈴は?」

「一番大きな音が出そうだったので、店先から拝借しました。あれだけで静まってよかったわ。さすがにこの格好で、荒馬に飛び乗ることはできませんから」

「出来るのですか?」

 さすがにそれはと思って尋ねると、ミザントリは肩をすくめる。

「子どもの頃は、よく。でも、もう出来ないかもしれません。一人で馬に乗ることもしばらくしていませんもの」

 よくよく、いちるは彼女について何も知らないらしい。人には意外な特技があるものだと思わず感心していると「イチル」と呼びかけられる。オルギュットが立ち去ろうとしているところだった。

「その首飾り。御せるなら君に贈る。理由がないとは言わないだろう? この先、身に着けられる者は現れるとは思えない」

 霊が宿っているせいか、それとも別の意味か、判断できぬ言い方だった。考える一瞬のうちに、オルギュットは裾を翻して行ってしまう。

 無意識に指先で石を叩くと、何よ、と声がした。

[悪かったわよ。……ごめんなさい]

 いちるは頭を振った。

[いや。……助かった]

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