第九章 三

 銀夜王オルギュットの宮殿を後にした商人は、その美しさを街の人々に語った。滑らかな珠のような屋根、廊下に刻まれた彫刻や、小片細工の柱。そして何より、王の輝ける美貌。出入りを限られている異国人は、初めて踏み入れた常夜の国の不思議さに衝撃を受けるが、何百年と在位する銀の髪の王の若々しさにも胸を打たれた様子だった。

「本当に美しい、立派な青年王でいらしたけれど、私たちなどよりずうっと年上なんだよねえ」

「俺たちの高祖、いや、五世、六世の時代まで知ってるんだろう。半神でああなら、本当の神々はどんな得体の知れない……」

「滅多なことを言うものではない。神々が近しい時代が段々と終わってきているのは、確かだが」

 髭を蓄え、顔や首、手足に幾重にも皺と傷を刻んだ老商人が、煙草盆に灰を落としながら静かに諌めた。

 彼の吐く煙が、白く長く、夜空に浮かぶ。

「昔は、人の中に神が混ざっていたよ。今は別々のところに棲みなさっているが、それは我々が、彼らから遠ざかってしまったからだろう。我らにはもう魔法の力はほとんど残っていないし、神々もお与えにならない。やがて時代が変わるだろう。その時、神は我々の目には映らなくなっているかもしれない」

 ふうっと、身体中から息を抜くようにして、老人は深く息を吐く。聞いていた商人たちは、苦笑や呆れの顔を見合わせて、そういえば、と話題を転じた。

「王の側に、ちょっと変な女がいただろう。黒髪の」

「側近らしき女性ではない、金髪の方と一緒にいた方だろう? あの二人は目立っていたな。他国の人らしい訛りがあったけれど、金髪の女性とは違って黒髪のひとは顔立ちからして違ったね」

「東の女だろう。海側のスヴァムラ国で時々見かける。でも、流れ着いたって感じじゃなかったな。堂々としてたし、王と渡り合っているように見えた。見劣りしない、妙な雰囲気があって」

「神秘的と言うんだよ。あの土地の神々は、それこそアストラスと比べて得体が知れないと聞く」

 それから話題は、その女が何を着ていただとか、金髪の娘と喋っていた内容、趣味の想像にまで及び、それに対してオルギュットがどのように接したかなど細微に渡った。ひとしきり喋ってから、お互いに宿に戻ろうということになって別れる。「おおっ!」と一人が足をわたつかせた。

「どうかしたのか?」

「白蛇が這っていったんだ。綺麗だったぜ。捕まえて皮を剥げば高く売れたのに」

「そんなことをしたら祟られるよ」

 笑い合うと、今度こそと別れた。路地の暗がりを、蛇がするすると渡っていく。そうして主の腕に戻ると、見聞きしたものを伝えて再び放たれた。眷属と同じ目をして、ナゼロフォビナはその場を立ち去った。






 目を開けると、ミザントリが、いちるの青白い顔をまじまじと覗き込んでいた。

「大丈夫ですか? 顔色が……」

 首を振るも、声を出すのが億劫だった。図書室に備え付けられた椅子に背中を預け、新鮮な空気を求める。だが、夜を照らすために常に灯りを入れている室内は、蝋や香草のにおいなどで充満している。外に出た方が空気はいいが、動きたくない。

(疲れた……)

 能力の使用に細心の注意を払うと、精神が削られる。素人を相手にすると、己の望むものだけをすくいあげるわけにはいかないのが、手間なことだった。

 他人を、目として利用する。ミザントリが見てきたこの場所の様子、人を、異能を用いて拾い上げていく。

 だが、彼女自身の感情が重なっているそれらは、ともすれば暴露になる。そう伝えたが、懸念を吹き飛ばすようにしてミザントリは「やります」と答えたのだ。

「見えましたか?」

 頷く。雑音は多かったが、それはミザントリがあちこちに神経をやっていたからだ。いちるがどれを見てこいと言わなかったためにそうなった。それを除けば、彼女は周囲を把握しようと務める非常に細やかな娘なのだ。

 元々、頭のいい娘であるとは知っていた。ヴェルタファレンの貴族関係、宮廷事情を把握し、令嬢たちの中心人物だったと聞いている。いちるに対してすんなり身を引いたが、ヴェルタファレンにおいて、彼女ほどの力をまだいちるは発揮できない。


 商人たちを呼び集めたのを、オルギュットはいちるの目論みだと考えているようだったが、実際はミザントリが言い出したことだ。

「伝言などせずとも、人の口から伝わるものはたっぷりありますわよ」

 と、商人たちの噂話からいちるたちの状況が知れるように、普段通りに振る舞ったのだ。

 恐らく、問題なく過ごしていることは、アンバーシュに届くだろう。

 いちるとミザントリの滞在は、間もなく街の者の口の端にも上る。真偽不明のものにアンバーシュが激さないといい。後で謂れのないことで仕置きされるのは腹立たしい。


「姫はもう少し休んでいてください。わたくしは、また外を歩き回ってきますわ」

「元気なこと。貴族の暮らしは窮屈なのではありませんか?」

 彼女は微笑んだ。茶化して肩を竦めるのでなく、言い聞かせるような優しい表情は、いちるがミザントリの小さな傷に触れたことを意味していた。

「そういえば、先日の騒ぎのお詫びに、商人が何か贈ってくださるそうですよ。楽しみですわね」

「どうせだったら生き物を頼んでみたらどうです」

「まあ……それは素敵。世話が出来るのならそうしたいのですけれども……でも……」

 思いめぐらせていたミザントリだったが、後ろから、行くのだったら早く行かねば店が閉まる、と告げられ、慌てて席を立った。いちるはそれを見送って、しばらくそこで休んでいくことにした。


 背中を預け、天井を仰ぐ。放射状に組んだ塔の屋根の裏側が見える。柱と柱の間に絵をかけてあった。太陽と月と大地の三柱と、そこから生まれた東と西の神。三柱は眠りにつき、夜が訪れる。上から下にかけて時間の流れを表している。夜の国であるイバーマならではの絵だ。影はあまりつけず、平坦に、赤や緑や黄色の鮮やかな絵の具で人を描いている。どこかしら、東の絵巻に通じるものがある。

 宙に向かって深く息を吐く。目を閉じて、清浄な気を求める。

 これだけ疲労が深いのは、ただ力を使っただけではない。

 呪いを放置したまま、もう何日も経っている。封じを施していない状態で力を働かせば、生気を失うのは当然だ。オルギュットから清水や神酒が届けられるとはいえ、確実に呪いは進んでいく。

(……妾は、消えるのだろうか)

 この世を離れた魂は、時と運命の神々の元へ行く。だが、同じ形、心を持って生まれて来ることはできない。現世に対して過去世と呼ばれるもの、転生は、神々の御業の一つで、三柱が眠りについた時に失われたという。ゆえに、魂は、時と運命の元で、選択させられるのだとか、消滅するのだとか、あるいは三柱の側で眠るのだとか、伝わることは一貫していない。東ではそうだったので、西はどうなのかと調べてみたが、同じようにいくつも伝わっているらしかった。

 神もまた、死と消滅を迎えるようだ。だが、神々が人のように生きていると世では考えられていないのか、その日常を記したものはこの場所では見つけられなかった。

 この世界で神と呼ばれるものは、あれほどまでに自分勝手で、気ままな、ただの人の高位種族だった。人並みに、恋もすれば愛憎もする。


 せめてもう一度生を受けることが出来れば、なんとしてもあれに会いに行くものを。


 そう思いながら、果たして異形にもそれが適応されるかと考えておかしかった。

 蝋燭に照らされた机上の光を、いちるは指先で辿る。

(結局は、妾たちは、どこにでもある話をなぞっただけなのだ。もしかしたら、結びつきの物語は、突き詰めればすべて流れを同じくした単純なものなのかもしれぬ)

 添うのか。離れるのか。あるいは狭間があるのかもしれないが、最後には白と黒で分けられるそれが、愛という絆の果てかもしれない……。


 つらつらと考えていたいちるは、もう一度息を吐くと、暇つぶしの本を探すべく、棚の前に立った。

 書物が高価なものだと知ってはいたが、行くところ見るところにこうも大量に置かれていると、感覚が鈍くなりそうだ。はしごをかけねば手が届かない高さまでの棚に、革表紙の書物が詰まっている。少しの隙間も見逃したくないらしい。こう並んでいると圧巻で見目がよいので、観賞の意味もあるのだろう。中身はかつての住民の趣味で娯楽が多いが、そういうものも目を通してみるとなかなかに面白い。いちるがぼんやり考えていたのは、きっとこれらの物語のせいだ。どこもかしこもお綺麗な恋人たちの物語だった。

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