第七章 六

「話が大きくなっている……」

「これが彼の得意技なんですよ」

 呟きに答えがあった。近付いたアンバーシュは、声を張らずとも聞こえるその場所に来て、いちるを覗き込んでいる。荒んだ眼は和らいだ光を宿し、余計にうっすら痩けた頬が痛々しかった。

「うまくいくとは限りません。相手はアストラスです」

「その時は仕方がない。今度こそ国を滅ぼしてもらいましょう」

 そううそぶきながら思う。この取引に、二度目はない。交渉が成功するにしろ決裂にするにしろ、時間は有限となって針が動きだした。無用な時間を過ごすつもりはなかった。

 いちるは手を伸ばして、アンバーシュの頬を撫でる。

 摘まみ上げた。

「いたっ」

[馬鹿にもほどがある! 国を治め、調停する王が女一人に他を犠牲にするでないわ! 命が助かろうとも、取り返しのつかぬ事態は存在するのだぞ……!]

 汚名をそそぐことがそれだ。罪がその名だ。国を一つ取り潰して、その後、いちるもアンバーシュも愚かな国王と妃として生きていかねばならぬなど、御免被る。

[他人であがなってもらいたいとは思わぬ。賭けるのなら、己が身を賭けい!]

「痛いです……色々と……」

 すみませんでした、とぼそぼそと言う。それは地上の者たちに言うがいい。いちるは己の汚名をそそいだ。アンバーシュは自身で尻を拭わねばならない。

 まったく、と肩を怒らせているいちるの髪が、アンバーシュの手の中でさらさらと零れた。指先が触れて、短い毛先に視線が行くのが分かる。顔を背けて、柔らかいその賛辞を聞く。

「カレンが整えてくれたんですね。短くなっても活発に見えてとてもいいですね。これなら明るい色のドレスも似合うんじゃないですか?」

[考えておく]

 軽く手を払いのけて、そろそろ傍観している神々に礼を言おうとした時だった。地上から光が登ってくる。

 魚に翼が生えたような生き物は、いちるの前でお辞儀をするようにくるりと回転した。

「千年姫。我が女神ビノンクシュトが御礼申し上げたいと言っております。ご招待を受けていただけますでしょうか」

[わたくしは何もしていません]

「ご無礼申し上げました。……お詫びを、申し上げたいと」

 いちるの呪詛の開花は、ビノンクシュトの呪いが発端でもある。重ねられた呪詛が組み合って発動した可能性があった。大河の女神が責任を感じる必要はないと思うのだが、ここで断っては角が立つだろうか。

 アンバーシュと顔を見合わせ「行ってくる」と告げた。

[長居するつもりはないのでここで待っていろ。すぐに戻る。それまでに、集っておられる神々に御礼申し上げておけ。妾とお前のために、時間を割いてくれた]

 アンバーシュは唇を尖らせた。ほんの少し、顔には赤味が戻ったようだ。

「あなたは俺のことは適当に扱うのに、他の神にはずいぶん丁寧ですよね」

 いちるは手を伸ばして、その頬をつついてやる。

[大切にされたかったら相応のことをおし]

 目を見張ったアンバーシュが、やがて柔らかく肩をすくめる。

 眷属について地上に降りる。ビノンクシュトの城への道は開かれている。

 以前とは違う道を抜けると、すぐにあの広間だった。流れる滝が動き、女の姿を生み出す。いちるは頭を垂れた。あの時はずいぶん取り乱していた女神は、荒れ狂う激流とはもう一方の側面で、静かにいちるを見下ろす。響いた声音も落ち着いていた。

[あなたにお礼を言わねばなりません。ティトラテスを守ってくれてありがとう。おかげで無用な争いや穢れからこの国を守ることができました。大神の意志に、わたくしたちは容易に逆らうことができないので]

[お言葉、ありがたくちょうだいいたします。……プロプレシア女神のことは、改めてお悔やみ申し上げます]

 ビノンクシュトは平坦にその言葉を受け止めた。

[ありがとう。わたくしたちは、新たな神が誕生したことを喜ばねばなりません。今思えば、プロプレシアが、眠りと始まりの【楽園】の扉から、新しい神リューシアを送り出してくれたのでしょう……]

 楽園、と聞き慣れぬ言葉が心の隅にかかる。

 実際に口に発したわけではないため、その単語がどんな意味合いを含んだものかは分からないが、響きからして、死後の地、生命の出発地点という語感だった。

 だが、長々と話し込むつもりはなかった。再び魔眸が女神を穢そうと企むかもしれないのだ。出来るならば早く、ヴェルタファレンに戻りたかった。

[名残惜しいですが、これでお暇申し上げます。女神の安息をお祈りしております]

「もう少し、付き合ってくれてもいいのではないかな。千年姫」

 気配を感じなかった。驚きと、無作法を咎めるつもりで、声を尖らせて聞き覚えのない声主に振り向く。目を見張った。

 銀の巻き毛。銀の縁に秘められた瞳は紫。雄々しい体格に恵まれ、決して鈍重ではない長身の持ち主。黒衣を薄い羽のように着こなし、まっすぐに歩んでくる。

 目的はいちるだ。

 手首を掴まれ、覗き込まれる。一見氷のような荘厳さを思わせたが、歪んだ瞳はいやらしい笑い方をしていた。

[あなたは、どちらの]

「君もよく知っている、あの男の兄だよ」

 ヴェルタファレンに先んじて調停国と定められたイバーマだが、それを治めるのはアンバーシュと年齢はさほど変わりがない王だと、宮廷管理官たちが言っていた。王としての経験に差はあるが、両王の歳の差は二十歳ほどしかない。半神という生まれのために、男は青年をわずかに過ぎた程度の外見だ。

 こうして近付けば、男はよく似ていた。色こそ銀に紫。だが、髪を伸ばし、額を出して、色付きの衣服を身に着ければ、遠目から双子のように見えるだろう。


(イバーマの、オルギュット王……!)

 アンバーシュの兄――調停国の王たちは同母の兄弟であるから。


 享楽的な性格は目の中によく現れていた。女を捕まえて無遠慮に覗き込むことが最たるものだ。いちるは嫌悪感に肌を粟立たせ、ビノンクシュトに抗議しようと口を開く。

 だがそれよりも迫った男の顔を打つのが先だった。頬が鳴るが、手首は離されない。

[お離し!]

「夫以外には許さない? とてもいいね。そういう貞淑さがぞくぞくさせる」

 素早く動いた指先が額に触れて、いちるの身体の自由が奪われる。五感を麻痺させられたのだ。あっという間に意識の闇の中へ思考が消えていく。


     ・

     ・

     ・


 崩れ落ちたいちるを軽々と抱きかかえて、オルギュットが言った。

「ご協力感謝いたします、ビノンクシュト。あなたも大変だ。アストラスがあれほど勝手なのは昔からでしょうが、最近は度が過ぎていますね。千年姫をようやく手に入れたのだから、当然かな。同情します」

[…………]

「後は私たちにお任せください。必ずや、扉を開いてみせましょう」

 ひらりと裾を翻して、気を失ったいちるを運んでいく。残された女神は、後悔の息のように言葉を震わせて一人ごちた。

[……大神は、我が娘の死を見逃したのですか]

 それは大神だけがご存知だと、オルギュットは答えるだろう。女神は静かに流れの中に身を横たえ、その悲しみを忘れ去るべく目を閉じた。




     *




「アンバーシュ!」

 飛来したクロードは必死の形相だった。騒ぎを収めるべく奔走していただろうから当然かもしれない。だというのに、アンバーシュがのんびりと知己らと談笑していたら、さぞ怒りに震えることだろう。

「おう、クロード。お前、どこにいたんだ? 千年姫の補佐をしてるかと思ったのに、ちっとも姿を見せなかったじゃねえか」

 だが、そういうことではないらしい。ナゼロフォビナの明るい呼びかけに、苛々と答えた。

「足止めを食ったんですよ! アンバーシュの件で、命令を撤回するか期間をくれと言おうとして……大神に答えをいただく前に不審な動きを察知したので知らせに戻ろうとしたら、ギタキロルシュに、神山から出してもらえなくなりました」

「不審な動き?」にわかに神々がざわつく。それと同時に、古参とも言うべき雨神や、守護地の持ち主が舞い降りて暇を告げた。観覧は終わったし、このまま集い続けてはこの地に影響を及ぼすから戻るという。もっともな言い分だが、嫌な予感を覚えた。どうして逃げ帰ろうとするのか。

「何がありました。……『誰』が、動きましたか?」

「オルギュット様です」

 押し殺したクロードの声に、うめき声があちこちからあがる。

 ナゼロフォビナが額を叩いた。

「……アストラスの番犬じゃねえか」

「ですがこちらに来ていません。何か密命でも受けたのかもしれない」

 調停国の王なら、アンバーシュを面と向かって糾弾できる。調停者の資格を剥奪し、ヴェルタファレンを人民の手に返還することが可能だ。

 通常、神々に座の付与や罷免はできないが、大神と、調停者間ならば可能だった。調停者は、人間の世と関わらない守護神とは違い、人間の社会そのものに食い込んでいる管理者の一種。管理者の追及は、上と、同等の権威を持つ者が行える。大神を除けば、調停者同士がお互いの違背を言い渡せる。

 だがオルギュットは来なかった。クロードがここまで来たということは、オルギュットは務めを果たし、知らせがもたらされても損害には当たらないと判断されたためだった。

 その時、ナゼロフォビナが地上に目をやった。小さな水の粒が彼の目の前にやってきて、ぱちんと弾ける。水を受けたナゼロフォビナは目を見張って、苦々しい笑みを浮かべた。

「リューシアからだ。オルギュットが来たとよ」

「リューシア? ……ああ、リリルの新しい女神ですか。ということは、ビノンクシュトの、宮、……」

 口が止まった。驚きを裏付けるかのように、ナゼロフォビナは鼻で笑った。まんまと出し抜かれたと、揶揄混じりの嘲笑だった。

 今、あの女神のところには。

「イチルを、連れて行ったんですね」

「何が目的かは分からねえが、呼び出せと言ったんだとさ。でも何が目的かはよく聞こえなかったって。道を使ってとっとと戻ったそうだ。追うか」

「当然です」と答えた。あの男がいちるを抱えていったかと思うと鳥肌が立つ。いちるが黙ってついていくはずがないのだから、気を失わせるか脅しをかけたのだろう。

 クロードを準備にやり、ナゼロフォビナに協力を求める。プロプレシアの件を後ろ暗いと思っているのか、友人は快く参戦に応じた。


 南国イバーマ。西島の最果ての一つ。南にあるが、常に夜の大気に覆われ、しかしその寒波が美しい花を結ぶという。実の兄が治める、調停国。

 決して似ていない銀の男が、いちるを抱えている姿を思い浮かべ、おぞましさに身を震わせて言った。


「俺の花嫁です。あの男のものではない」

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