第七章 五

[何もせず、ただついてきていただきたいのです。もし、お力を見せてもよい方がいらされば、少しはったりを利かせていただければ結構です。戦う必要はありませぬ]

 大人数の神を引き連れてきたのだから、いちるが彼らと契約を交わしたのではとアンバーシュは考えるだろう。アンバーシュの逆鱗に触れ、また勝手をして自分を削ったと激怒する。そうして、そうさせたのは自分だと後悔を覚える。戦うことも辞さないといういちるの決意を見て取ったアンバーシュは、いちるの言葉を聞く用意をするはずだ。


 後は、いちるの出方で決まる。

 ナゼロフォビナは、気遣わしい声色で言った。

[まだ動けるか]

[あれが戻ってくれば、何とかなる]

 余力はない。動力は確かに削られている。尽きる前に連れ戻さねばならない。あれの横暴を止められるのは己だけだという自負がある。果たしてそれが上手く伝わるかという懸念はあるが、分岐点であるとは思っていた。これで恐らく、双方の膠着した関係に決着がつく。

 雲が近付く。形をなぞるようにして、雷の小蛇がのたうっている。力を溜め込んでいるのは明らかだった。ナゼロフォビナが布陣に動く。地上への影響に備えて、またいちるの防護を開始する。数が見えるように神々は位置を広げながら、鉄槌を下す雷神を取り囲んだ。

 しかしここまで来てなお、いちるは己のことを信用ならずにいた。

 それでも唇に乗せる、その名前は、何故かこれまでとは違う心持ちがした。

[アンバーシュ……]

 気を引き締め、叫ぶ。

[出てこい、アンバーシュ!]

 雲が打つ。生き物のようになった風が、黒い渦を動かしていく。吹かれながら、いちるは今更ながらに短くなった己の髪を意識していた。これを見てあの男はなんと言うだろう? 何をしにきたと眉をひそめるだろうか。喉の奥から上がってきたそれが恐れとは信じられず、いちるは思いきり顔をしかめた。何を、弱気に。

 そうして、馬車がやってくる。屋根のない車が、飾りの車輪を輝かせて。二頭の天馬はどこかしら落ち着きなく頭を振り、引いた手綱に高く鳴いた。現れた男を見て、いちるは息を吸い込んだ。なんとまあ、酷い顔だと思ったのだ。

(あんなに、やつれて……)

 何日もろくに眠らず食事もしない、ひとときも心安らいだことのないものがする目だ。物が見づらいのか眉間にもまなじりにも皺が寄っている。表情を作ることができず、弱々しい。

 いちるでは決して届かない距離、されどアンバーシュにとっては雷撃を繰り出すことのできる位置で、横たわる沈黙を前に向き合った。

 お前は馬鹿かと、常のいちるなら言う。だが、それはアンバーシュの神経を逆撫でするだろう。だが無用なことは止めて戻ってこい、という懐柔の手も嫌われる。撥ね除けられて、終いだ。

 深い、息が出る。少し、目眩が始まった。

[アンバーシュ。……妾はそれを望んでおらぬ]

「呪いに食い殺されていくあなたを見過ごすことはできません」

[国一つは高すぎる]

「あなたに比べれば安い」

 そこで初めてアンバーシュは他の神々を見遣った。見知った顔を見つけたのか、険悪な表情で舌打ちしたのが聞こえる。いちるに再び目を向けたのは本気かという問いかけだろう。いちるはわざと髪を弾いた。幼子のような髪型は、アンバーシュの胸を締め付けたらしかった。

[お前を止めるぞ]

「止められると思いますか?」

[止められるとも。お前は残酷ではないし、良心を失っていない。今、この状況で誰が困窮しているのか、正しく把握できるはず。よく考えてみよ]

 いちるが伸べた指先が、遥か地上へ向く。豊かな森は息をひそめ、動植物たちは怒りを感じることなく粛々とさだめを受け入れようとする。そこに生きる者は、絶望に打ちひしがれているだろう。目の前の半神が破壊し、大神に見放された地でもある。

 見捨てられることは、絶望である。

[もうよい。妾はお前に見捨てられることはないらしい。それが分かっただけで、もう、よいのだよ]

 視界が一瞬にして白く染め上げられる。雲の中でのたうつ蛇に似た電が、地上に牙を剥く瞬間を待っている。吠えたそれは宥められるように唸りを潜め、いちるたちの出方を待っている。

「呪いが解けません」

 アンバーシュの声は壊れかけた硝子のようだった。

[さだめであった。人ならずとも、神のごとき寿命は三柱が許さぬのであろう]

 畳み掛けるようにして言ったのを、アンバーシュは察した。笑みを佩き、いちるを嘲笑う。

「受け入れるなんてあなたらしくもない」

 男の全身が光を帯び始める。

「為政者を追い払って、国の名前を消せば、任を果たしたと言うことができる。たったそれだけなんですよ? それだけで、あなたは救われる」

「お前には分かっているはずだ」

 静かな声は、ナゼロフォビナだった。

「ティトラテスは肥大化していた。そこにお前のこれだ。継承問題が起こる。地方領主の争いが始まる。解放を求める人間たちが戦うだろう。――血が流れるぞ、アンバーシュ。穢れを厭う水の神々、守護地の者が弱り、力ない者は消滅する。プレシアの子のような者が。消滅した神は、二度と戻らない」

[人間もそうだ、アンバーシュ。死んだ者は、二度とこの世に生まれ落ちぬもの。儚き者の死の一端をお前が担うつもりか。その手で、妾を求めるのか]

「お願いだから」

 懇願の言葉は、命令に等しかった。

「邪魔を、しないでください。美しさを謳う資格は、あなたにも俺にもないんです。誰かが幸福な時、必ず誰かが不幸だ。対価が目に見えるからと言って、幸せを欲することが罪なわけじゃない。あなたも、求めたでしょう?」

 重なりながらすれ違っている。その手を取ったはずなのに。

 だからこそ、いちるは言う。

 微笑みで。

[さてな。不思議な心持ちではあるが……もう心残りがないらしい]

 あの時に、といちるは呟く。

 暗闇に一条の光が差し込んだ、あの時に、いちるは何もかも解き明かしたのかもしれぬ。己の望み、長らくの問いの解のひとかけら。分かってみれば卑屈というほかない疑問だった。

 神の救いが来なかった、自分は選ばれなかったと、拗ねていただけなのだ。

[お前が来た、アンバーシュ。それでもうよいのじゃ。妾のさだめの解を、お前の言葉にしよう]

 手を伸べる。両の手を、迎え入れるがごとく。

 わたしの手はここにある。


[どうしてこのようにつくられたのか――それは、お前のために]


 雨神が、風神が。アンバーシュの作り上げていた雷を壊し、雲をほどく。黒は銀に、雨は太陽に変わり、湿って重い大気を軽やかにしていく。額に光が触れて眩しく、いちるは目を細めた。自身では気付くことはなかったが、その時の微笑みには、種々の神が息を呑み、身を乗り出していたという。

 男は、目を奪われたように立ち尽くしている。何をぐずぐずしているのか。

[たかだか妾一人じゃ。お前の世界から消えるのは。それが何より許せぬというのなら、もっと他に方法があろう?]

 息が零れた。笑ってしまったのだ。アンバーシュは、心底異論がある顔をして何かを言いかけたからだ。しかしそれも、いちるの笑い声で驚愕の表情に変わる。

[妾を、幸せにしてごらん。少しでも長く。永く]

 そうして、果たそう。

[その間に、お前に絶対に消えぬ感情を焼き付けてやるから覚悟おし!]

 アンバーシュは、顔を覆った。頭が痛いのか、目が、久方ぶりの日差しに染みるのか。うめき声。苛立ち。腹立たしさを必死に抑え込んでいる。

 馬鹿なことを言ったと思っているだろう。いちるとて思わぬわけではなかった。こうして向き合った時に、絶対に言わぬ可能性もあった。自分の気性ならば、意固地になり、怒りをぶつけることもあっただろう。だが、思いがけず苦笑していたのは、アンバーシュの表構えも内側も無惨だったせいだった。

 それでいいと思った。それだけで十分だった。

 この神が来りて、いちるを選んだ。いちるはそれで、少しは報われたのだ。

「……死んでしまいますよ。いつか、呪いで」

[交渉次第であろうな。ティトラテスをここまで追い込んだのだから、多少は何か恩があってもよいと思わぬか。例えば、解呪できずとも封ずるとか]

「できると思うぞ」

 舞い降りたのはナゼロフォビナだった。そうして虚空に声を投げる。

「この仕業をご高覧あらせられる諸神よ! 千年姫の功業を正しくご評価願いたい。大神に見捨てられたティトラテスの地を見殺しにせず、諸神の守護地を穢れから救い、己が命を投げ打ってアンバーシュを止めてみせた。乙女の献身に報いるべきではないか」

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