第五章 十四

 異界の扉をくぐってリリル川の上に出ると、冷たい水気がわずかに吹き払われたのが分かった。

 あの城は、ビノンクシュトの抗えぬ悲しみに満ちすぎていたのだ。

 細い川の側から、白い花が見送っている。

[アンバーシュ]

「はい」

[少し、降りてもらえるか]

 彼は何をするのか問わずに従ってくれた。川の側に馬車をつけると、いちるはそこから飛び降りて、雨に濡れた土と草を踏み、裾を汚してそこに跪く。

 初めて触れる白いそれは、花弁こそ白く淡く輝いて見えるが、茎と葉は頼りなく見えてしっかりその重たげな花を支えている。リリルにしか咲かないというその花が、昼の光を浴びるため川辺に水のごとく咲いていた。

 咲き群れるのは、きっと寂しいゆえのことだろう。

 その茎を引き、ぶつりと断ち切った。何度もそれを繰り返して、指先を緑と土の黒で汚し、蟻と小さな羽虫が這わせるままにしながら、数本を束ねた。

 そうして、川に投げ込んだ。

 ひらひらと舞い落ちた切り花は、流れに乗って東へ向かう。やがて境の海へ出て、神々の光届かぬ大地の神の安息の地へ誘われるだろう。奥底でともに眠れる太陽と月の神々が、きっと彼女を愛でてくれる。ナゼロフォビナがリューシアを守るように。

「呪いは返る、という言葉が東にあって」

 いちるは誰ともなしに言った。

「わたしは、プロプレシアを殺した敵を呪った。それが己に返ってくるのは仕方のないこと。だからこれは、わたしが負うべきものだ」

 水の中に花が沈む。その花を、ビノンクシュトは見ることはあるのだろうか。そうしていちるにかけた呪いを後悔することはあるのか。

 いちるは後悔したことはない。負わなければならないものを負うだけ。これまでと同じように続けていくだけだ。母である女神の怒りと悲しみは間違っていない。尽きぬ悲しみを慰めるため、怒りを鎮めるだけの時間を、いちるは手の中に持っている。人でないことの幸いは、それだった。

 背後から肩に埋もれた声と吐息に身を委ねる。

「助けられなくて、すみませんでした」

(いいや、アンバーシュ。それでよいのだよ)

 わたしを助け、わたしだけを見つめ、わたしのために力を尽くす。

 女神を失い、神が生まれ、いちるはそれを得た。その残酷と喜びが巡る風の匂いを、もう二度と忘れることはないだろう。無情な生と死が例え神という存在に訪れようとも、もうすべては始まっている。運命は来りて、もう止めどないところまで。

 息を吐く。

 胸がぜえ、と不気味な音を立てた。

「……イチル? どうしてこんなに冷たいんです」

 寒いからだ。身体が凍えて震える。

 意識の固まりに、闇の底からかぎ爪がかかった。底へ落とそうと綱を引くそれは、みるみるいちるから生命の力を奪っていく。耳の奥に蘇る耳障りな声に、竦むほどの過去が押し寄せる。

 闇。牢獄よりも狭い、棺のごとき箱。暗い色をした炎。痛み。

 忘却で蓋をした、何も知らなかった頃の、痛み。

 ――呪いが、因縁の種子に突き刺さった。

 緑の匂いに誘われたかのように、疼くそれ。咲き誇る時期を知った種が、苗床に沈み続けたそれが、時を知って芽吹きを迎える。

 本当ならば訪れるはずがなかった。いちるは撫瑚から動くつもりもなく、西に来ても不自由はしなかった。もう完全に己の力がそれに勝ったのだと、そう信じていたのに。

 手足が冷たく、心臓の音が耳の近くで聞こえ、深い眠りがいちるを誘う。

 記憶は無意識にさかのぼり、あの日の呪詛が刻み付けられているのを思い知らされた。あのときの怒りと屈辱と恐れは、到底忘れることができない辛く苦いものとなって、百年はいちるを長らえさせた。思い通りになるものか、私欲に走るものか。この愚か者どもと同じものになってたまるか。

 腰に回ったアンバーシュの手を、その闇へ落下しないように握りしめていた。

「呪いが、芽吹く。発動しないと思っていた、卜師の――」

 意識が遠ざかり、空が反転する。

 蒼穹を仰いで叫んだ声は、途方もない過去を見た。




『これよりお前は撫瑚の人柱。神気を循環させる道具となって、この地を富めるものとするのだ。撫瑚と、我らと裏切るでないぞ。裏切ればお前に死が訪れる。ゆめ、忘れるな』




 二百の歳月を経て、撫瑚の術師の呪詛が発動したのだ。








 心地よい波動が絶えた。

 絶えたと思ったけれど、それは鼻先をかすめるくらいの小さなものになってしまったのだった。弱々しい微動に不審を抱き、風の声と大地に伝う地脈を読む。水の女神の元に死が訪れ、新しい神が生まれたことを聞いたが、望む知らせは教えてくれなかった。

[しゃんぐりら?]

 呼びかけてみるけれど、遠すぎて届くわけがない。

 フロゥディジェンマは寝台から飛び降りると、窓を開けて露台に出て、そこから空へ跳躍した。獣の尾が、流星のように伸びた。








 腕の中で溶けるようにして力を失ったいちるを抱きとめたアンバーシュは、一瞬何が起きたのか分からなかった。どんな攻撃も、襲撃もないというのに、彼女は意識を失い、青白い唇をして目を閉じている。白磁よりも青い頬、氷のように冷えた肌に我を失いかけたが、ぐっと腹に力を込めていちるの顔を叩いた。

「イチル! どうしたんです!」

 無理矢理考えを巡らせると、原因に思い当たることができた。

(ビノンクシュトの呪い……)

 しかしどういう症状が起こったのかが分からない。女神の呪いは、曖昧で不確かな、発動範囲が特定されないものだったはずだ。

[イチル!]

 強く心に呼びかけると、瞼は震えるものの動き出す気配がない。意識も、彼女の中で働いているあらゆる力も異能も失われていく。器の水がこぼれるように、両の手で受け止めようとするのにみるみる染みだしていく。

「アンバーシュ!」

 それは、アンバーシュにとって救いの声だった。

 見上げると空に、黄金の髪を靡かせ、剣を佩き、兜と鎧を身に着けた女神カレンミーアの姿があった。

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