第六章 常夜

第六章 一

 片手で肥満体の男の身体を部屋に突き飛ばしたカレンミーアは、アンバーシュに廊下で待つように言うと、自分だけ部屋に入ろうとする。

「待ってください、俺も」

「あたしは女、お前は男。メンディークは男だが医学の神だ。入っていいのはお前以外」

「医学と言っても治癒の神ではないがね。診るだけだよ」

 部屋から顔をのぞかせたメンディークは、ビノンクシュトの城から帰還する途中でカレンミーアの眷属に捕まり、アンバーシュが提供された山の上の彼女の城まで引っ張られてきた。先生の愛称で親しまれる彼は、連行に文句を言うことなく、患者がいるならとやってきてくれた。

「悪いところが分かっていれば、そこを司る神に快癒を願うんだが。まあ、いちおう診させてもらうよ」

「――お願いします」

 人のいい顔で優しく相手を思いやる口調を用いたメンディークに、アンバーシュは深く頭を下げた。過去の所業を覚えているらしい彼は多少面食らった様子だったが「任せなさい」と請け負い、カレンミーアとともに部屋へ消えた。


 リリル川で立ち往生していたアンバーシュを見つけた、帰城途中のカレンミーアは、緊急事態を察し、彼女の居城であるシルメル山に案内してくれた。ビノンクシュトの城に戻るわけにもいかず、いくら風の道を使えば近いと言ってもヴェルタファレンに戻ることが危ぶまれた状況で、彼女の申し出はありがたく、眷属も連れていた彼女は神々の帰る道を張って、適当な神を医師として連れてきてくれた。感謝してもしきれない。

 今回のことは自分の過信が招いたであろう事態だっただけに、腹立たしく口惜しかった。変事が起こっているなら言ってくれればいいのにと、見当はずれにいちるを責める言葉が浮かぶ。

 銀の箔という名を持つ、戦士たちの信仰集う霊峰の城は、今は深い霧に閉ざされている。カレンミーアがそのように結界を張り、霧の神から遣われている眷属に命じているからだ。魔眸に対する防衛として彼女が敷いたのだった。

(魔眸。やつらの狙いは、いちる。だが、何故彼女に?)

 人に生まれながら人でない彼女の血肉を欲するというだけでは、襲撃の理由が弱すぎる。人を操り、水の女神を穢してまで、やつらは己の存在を知らしめたいというのだろうか。いちるが欲しいのならば、そのまま秘匿すればよかったのに、さらった後の手が打たれていなかった。おかげで奪還できたわけだが、動きが不可解に過ぎる。髪を切らせ、拷問を施し、それでも手放した意味。

(思い知らせるとしたら、彼女とその周辺に)

 闇の異形に通じる者が誰もいないだけに、考えても無意味かもしれない。

 それに、呪いが発動したのは何故か。

(彼女は『卜師』と聞き慣れない言葉を使ったが……)

 改めて、自分が何もしてやれていないことを痛感する。いささか気が長過ぎたようだ。時間は、どれほどあっても足りないというのに。

 誇りある自我、己が己であるといういちるの自意識は、異常なほどに強い。彼女は他者からの憂慮を感じることができない。自分の足で立っている、立つべきであるという過剰な自立への欲求は、彼女と他者の間に境界線を引いている。潔癖なまでに完結した世界は、いちるのそれまでの歳月を表している。欲求や願いを口にし誰かの存在に頼らなかった、いちるの世界。

 誰も彼女を理解せず。

 彼女は、誰をも必要としなかった。

(そんな存在が、己の望みを言えるとは思えない……)

 だからアンバーシュは聞くべきだったのだ。嫌がられ、遠ざけられても、彼女のすべてを受け入れる必要が。彼女の秘匿している過去や、傷や、痛みや秘密を。どんな手段を使っても。

 ――何もかもを暴き立てて。

「――俺のものに」

 ひとり零した言葉の熱に、アンバーシュは両手を口元で合わせる。

 ひとつ秘密が明かされれば貪欲に奪う己を自覚している。

 もう止めることはできない。

 空と雪山の城は、静かに閉ざされていく。



 扉の開く音に立ち上がると、怒った顔のカレンミーアが現れ、アンバーシュの襟首を無造作に締め上げる。「カレン」と呼んだメンディークに免じてか、彼女は手を離し、忌々しげに隣の部屋に来いと言った。

「彼女の容態は? あなたの見立てではどうなんですか」

「はっきり言おう。――かなり危ない」

 予想外の答えに言葉を失った。

「何が……彼女に?」

「原因は呪詛だ。ビノンクシュトの呪いをきっかけに、彼女に植えられていたもう一つの呪いが働いたのだと思う」

 メンディークが両手を後ろで組む。

「彼女は、特殊な形に身体を作り替えられている。彼女の元々の能力、循環とろ過の力を、特定の地域に作用するように働かせているようだ。そうだね、ろ過器の働きを課せられていると言ってもいいだろうか」

「土地に縛られていると言うんですね」

「そうだ。呪詛の形からして、人が施したものだろう。それもかなり昔に。この呪いは、発動すると、彼女の生命力を対象地に流し込む。ろ過器としてだけでなく、彼女自身を動力源として使用するものだ。この場合、彼女がただの人でないことがかなり厄介だね。不老のせいで永久機関と化して、いつまでも呪いの苦しみは終わらない」

 終わらない、という響きに眉が寄った。

 生命力を吸い取られ続け、意識が曖昧になり、立ってすらいられなくなる。力を流し込むだけの装置となり、人でもなく神でもなければ、獣でも生き物でもない。ただの動力になる。

 声の温度は無意識に下がった。

「発動した理由は分かりますか」

 メンディークとカレンミーアが視線を交わす。

「カレンから一通り話を聞いた。魔封じを施していた場所に囚われていたんだったね? だから、彼女と呪縛の接続が一時的に断たれてしまったのが原因だろうと推測する。わたしは術師本人ではないからなんとも言えないが……東島と西島、距離は離れていたが彼女は役目を果たしていたために呪いは発動しなかった。だが、魔封じのせいで役目を怠ったと判断されて、術師の施した発動条件に引っかかってしまったのではないだろうか。うーん……とは言うが、わたしには何とも。何がきっかけだったのかまでは読み取れなかった。すまない、アンバーシュ」

 医神は頭を掻いた。

「術師の性格だとか、彼女との関わり方だとかである程度条件の推測はできると思うんだが、どうやら君はこの呪いのことを知らなかったようだしねえ……」

 聞かなかったのが悪いのか。

 どちらにしろ、話してはくれなかっただろう、と思う。いちるは呪詛が芽吹く可能性が低いことを目算していたに違いない。でなければ西に来ることに同意しなかっただろう。絶対に明かすつもりはなかったのだ。

「想像していても仕方がないぞ、アンバーシュ」

 組んだ腕をほどき、カレンミーアが迫る。

「過去を振り返り悔いていても、彼女の呪いは止められない。呪詛は千年姫を蝕み、永遠に続くという。本人は無理だとしても力ある術師を見つけ出して解呪させるか、それとも大神の力を借りるのか、他の方法を探すか、お前は決めねばならん」

 戦女神の苛烈な眼差しは、戦士の闘志を促す強いものだ。アンバーシュはメンディークに尋ねる。

「解呪は難しいでしょう。俺たちの力を合わせても、ビノンクシュトの呪いすらも解けない。けれど失われた力を補う方法はある――そうですね?」

 医神は哀れみの眼差しでため息をつく。カレンミーアが鼻に皺を寄せ、顔を背けた。アンバーシュは、自嘲の微笑みで扉に手をかける。

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