第四章 三

セイラは落ち着いた足取りだが背に怒りが噴気しており、ミザントリは内心ではらはらとしていたようだが、出て行ってからのち、廊下から激しい音は聞こえてこなかった。

 そうして静かになる、かと思いきや人の声がする。

(…………)

 嫌悪を与える気に感覚がうるさく反応する。

 落ち着いて茶も飲めぬのかと顔をしかめた時、アンザが迷惑そうな表情でため息混じりに人の来訪を告げた。

「お嬢様。マシュート様がいらっしゃいました」

「やあ、ミィ! 元気か!?」

 声が大きい。鬱陶しい大声の持ち主は、小柄な少年だ。

 まだ十代半ばだろう。髪が少し長く、大きすぎる目もあって少女のような顔立ちだが、声はすでに太く、手足は成長を予期させて長い。だが全体的に細く不健康そうだ。女物の衣服を着せて黙らせれば、男たちが目の色を変えてほしがりそうだったが、どうも所作が粗野でいけない。

 寸法が合っていないのかばたばたという足音をさせ、胸を突き出すようにして歩くのは、父親か近しい男家族がそのように動くせいだろうか。

 目をやらずに様子を見て取るも、かかわり合いになりたくないために顔を向けない。見れば最後、動いてしまう自分がいるからだ。

 ミザントリが顔をしかめて立ち上がる。

「マシュート。いったいどうしたの。急に来るなんて」

「ミィに会いにきたのさ! 幼馴染みだから、君のことを心配して当然だろ?」

 ミザントリは迷惑していた。隠れ家を荒らされれば仕方がないことだろう。いちるを気にするそぶりを見せたが、それに反応したのはマシュートの方だ。大げさに目を見開き「この方は?」と尋ねる。

「……アンバーシュ陛下の婚約者、イチル姫でいらっしゃいます。マシュート、だから今日はあなたの相手はしてあげられないの」

「初めまして、イチル姫! 僕はマシュート・ハブン。ハブン子爵です。ミザントリの幼馴染みなんです。じゃあ本当だったんだね、ミィと暁の宮の方が友達になったって!」

 ミザントリの言葉をまったく聞いていないどころか、いちるに無遠慮な視線を投げつけてくる。侮蔑はないが、あからさまな好奇に気分が悪くなった。はっきりと顔を向けた瞬間、目を険しくすると、少年は大きく目を見開き、ミザントリに言った。

「真っ黒な目だ。まるで黒水晶みたいな!」

(同じ表現でもどうしてこうも受ける印象が違うのか)

 アンバーシュの方が断然まし、と思うのはすでにマシュートの印象が悪いせいだろう。こんな露骨に雰囲気も何もなく言われれば、褒められている気などしない。

 そう考えて眉が寄った。

(妾は、あれのあの言葉を口説き文句と認識しているのか?)

「マシュート、約束もなく訪問してくるのは無礼に当たります。わたくしの先約はこの方です。あなたの相手はできないの。早くお帰りなさい」

「そんなこと言わないで。ミィが喜ぶと思って、面白いのを連れてきたんだ。暁の宮の方にもきっと楽しんでもらえると思うよ」

「マシュート、わたくしの言っていることを聞いているの?」

「聞いてるよ! だから楽しんでもらえるようにしてきたんじゃないか」

 感嘆した。見事に話を聞いていない。

 そもそもいちるが挨拶を返していないことを気にも留めていないらしい。恐るべき感覚だ。世界が自分の思う通りに構成されているようにしか思えない。

 そんなマシュートが示したのは、いつの間にか戸口に立っている黒い人影だった。腰が曲がった、老爺だ。巨大なかぎ鼻が被り物の下から覗いている。

 異能が顔を見ようとして、いちるは反射的に無意識を押しとどめた。

「紹介するよ! 巷で噂になっている、占い師ディセンダ。未来を占ってくれるんだ」

 嫌な感覚の源だ。いちるは判じた。

 ひひっと喉にかかる声で翁は笑う。

「これはこれは、前途洋々なお嬢様方。初めまして。わたしはディセンダ。未来を読むことを生業としている者にございます」

「……ご挨拶をありがとう。ですが、占いは結構です。マシュート、帰って」

 生まれ育ちの律儀さでミザントリは応じたが、ディセンダは懐から水晶玉を掴み出し顔の前にかざしてみせた。片目だけがいびつに映し出され、ミザントリが嫌な顔をして顎を引く。

「ほうほう、お嬢様にはいい縁が巡りなさっている。ただ、縁を結びすぎて迷惑なものまで引き寄せてしまっておられる。そして、お嬢様はそれに疲れてしまっている」

「何を……」

「ミザントリ。そこまで言うのなら、占ってもらいましょう」

 立ち上がったいちるは顎を引き、衣装の裾を引いた。真っ向から対峙する意思表示として、困惑する侯爵令嬢の前に立ち、少年と占い師を引き受ける。

「西の占いとやらに興味があります[悪しき言霊を用いて悪行を引き寄せる似非卜師め。この妾に用があるのだろう?]」

 鉤鼻の占い師は笑った。やはり異能の持ち主らしい。投げつけたもうひとつの声は、この場では彼にしか聞き取れない。

「そうは仰るけれど、姫。わたくしはおすすめしません」

 きっぱりとミザントリは断じたが、いちるは笑みを浮かべた。

「こういう輩と関わることも一興。あなたは幼馴染み殿の相手をなさい。この男には色々聞いてみたいことがあります[感謝せよ。二人きりになってやる]」

「占いによって聞かれたくないこともございましょう。部屋に二人きりにさせていただいてよろしいですかな?」

 賛成しかねる目でいちるに訴えるミザントリは、いちるの気が変わるのを待っていたようだが、最後には仕方ないと頷いて「騎士団長様を呼んできます」と言って幼馴染みを連れて出て行く。

 だがいちるは見た。彼女に意味もないことを話しかける少年には、糸が絡み付いている。腰に紐をつけるように、首に輪をかけるように何重にも。それは、いちるのもうひとつの視界にしか映らない、異能の力のものだ。

 関わりたくなかったが、見てしまったからには仕方がない。何の力もない娘たちが離れたのを見、糸の端が占い師の袖に伸びているのを確かめて、いちるは不敵に言い放つ。

[妾のことをどこで知った。愚か者につけこんで、雷霆王の膝元でことを起こすつもりか、卜師]

「ひひひ。あなたさまのことはよぉく存じておりますとも。それこそアストラスの神々が語るのと同じように。千年姫。東国の託宣の妖女と呼ばれるあなたさまは、我ら影の者には詩神が語る物語のようにまぼろしのお方。お会いできて嬉しく存じますよ」

 恭しく、皺にまみれた手で大きく礼をする。

[御託は良い。用件を述べよ。あの子爵だという少年を惑わしてまで妾にまみえようとする理由は何か]

「直訴する機会を下さるか。なんともやお優しい。ひひっ」


 急に空が暗くなる。風が荒れていく。緑を通した光は闇に吸い込まれ、日だまりの温もりは冷えていく。卑小な老爺が嵩を増し膨らんでいく。見上げるほどの巨大な固まりとなって、いちるを落ちくぼんだ目で覗き込んだ。


「撫瑚の千年姫。我らの元へおいでなさいませ。光のかたわらは、息が苦しゅうございましょう」


 指先が喉に触れる。

[世迷い言のためにここまで来たのか。ご苦労なこと]

「虚勢を張っておられますな。あなたさまの魂は冥府の河のほとりにいなさる。現世に生きることもできず、冥府に下ることもできぬのは、さぞかし苦しいことでしょう。それは力ある者のさだめ。このディセンダもまた、力あるゆえに選択を迫られたのです」

[詭弁を弄すか。耳が穢れるわ]

「お疑いとは嘆かわしい。真実でございます。姫も時がくればお分かりになる。異能の力を持つ者は、おしなべて選択を許されるのです。新たにこの世に生まれ、影の中に生き続けるか。冥府を下り、安寧の眠りを得るか」

 いちるは苛立っていた。何故セイラは来ない。ミザントリは呼んでくると言ったのではなかったか。それともこの男は場を遮断できる能力の持ち主なのか。他人がいるところに現れたゆえに、さほど害意はなかろうと判断したのは間違いではなかったはずだが。

[妾を欲するは何者ぞ]

 異眸の翁は嗤った。


「闇と影の申し子。それ以上は申しますまい。お会いになれば分かりましょう」


 光が戻ってくる。雲間から光が届いたのだ。

 魔物の翁は、最初の通り、いちるの前に腰を曲げた男に戻った。

「せっかくのお目通り。ディセンダが未来をひとつお教えしてさしあげましょうか」

 持ち上げた水晶玉の中に、霧か雲の陰りが生まれる。覗き込んだ占い師の瞳を遮るほどの厚い雲になって、緩やかに流れ、渦を作る。

「光の子らが何故ご自分に惹かれてくるか、あなたさまは分かっておられない。その理由はなんとも簡単なこと。まばゆき光行き渡るこの世に、あなたさまは異質なものであるからゆえに。闇と光が惹かれるは天命なのです。高貴なる紫の輝点の方」

 その雲が、赤黒く濁った。

「あなたさまの足下は闇で深い」

[去ね、亡者。妾の本質は妾自身は何より知っている。繰言で惑わそうとする下策には飽きた]

 仰せのままに、と占い師は甲高い声で笑った。

「西神の子に嫁ぎなさるなら、影の申し子の元においでになられてもよかろうに、とこの爺が余計な気を回したまでのこと。本日はご挨拶まで」

 扉を叩く音がした。いつの間にか閉まっていたそれに気付き、いちるは男の術中にはまっていたことを知らされる。見れば、窓も閉じられている。状況に気付いたいちるは目を険しく細めるのに、ひひひと笑い声がした。

「お入りなさい」

「失礼いたしますわ。占いはもう終わりまして?」

 セイラの脇をすり抜けるようにして、覚束ない足取りで出て行く老爺が見えなくなってから、いちるは頷いた。セイラもまた後ろを気にし、扉を大きく開け放してから、やれやれといった様子で腰に両手を当てる。

「不用心です。二人になるためとは言え、扉は開けておいでくださらないと。不必要な詮索をされて困るのは、わたくしではありませんけれど!」

「心配をありがとう。来てくれて助かりました」

 眉が跳ね上がる。そして薄気味悪そうに囁かれた。

「……あの男、妖術師だったんじゃありません? あなたが素直なのってすごく気持ち悪いですわ」

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