第四章 四

 いちるは、ミザントリの謝罪を受け入れた。一目であの少年にわずらわされていると見て取れたため、彼女を責めるのは筋違いだろうと思ってのことだ。しかし疑問なのはその付き合いを断たないことだ。

「あの子の母親が、私の母の妹なのです。内心どう思おうと、親類の縁は切れません。あの占い師の言う通りです」

「あんなものは占いとは呼びません」

 ミザントリがマシュートに辟易していることは明らかだった。占い師は彼女の交友関係の広さを把握していることだろう。見れば分かることを口にしただけならば、恐れることはない。

(警戒すべきは、あれらが何を望んで現れたのかということ)

 魔妖には意志がないと思っていた。東では、あれらは羽虫のように光や人の気配に寄って、蛮行をそそのかすだけの存在だった。悪徳に堕ちた者たちのことは語られてきたが、脅威にはならない。何故なら、いつの世にもそれらを成敗する者が現れてきたために。

 西では魔妖の在り方も違うのか。そうであるとしたら何故そのような差が生まれる。

 アンザが大きな声でため息をつきながら現れた。

「お帰りになりましたよ。本当にもう、なーんにも考えてないんですから。お嬢様がどれだけ迷惑させられているかとか、侯爵様やお嬢様がどれだけ心を砕いてあの方を庇っておられるかとか、ちーっともご存じない。ご自分の都合のいいようにしか考えられない方なんですよ。それこそ才媛ロレリア女史くらいの方を教育係につけたらよかったのに。あそこの伯爵様は、ご子息に甘くていらっしゃるから」

 冷めてしまったお茶を新しい物に替えて、ぶつぶつと呟きながら出て行く。茶会はしきりに直しになったものの、止まった話を、再び始めようとは思えなかった。桃の果実を練り合わせた小麦粉の生地で香ばしく焼いたパイを食し、甘い茶を飲んだのは、やはり休息を欲していたからかもしれない。

 なにゆえあのような者が現れたのか。

 黙しがちないちるを、ミザントリもセイラも放っていた。どちらも、あの占い師によほどのことを言われたのではないかと想像しているようだった。


 そのまま夜も更け、アンザの素朴で味わい深い夕食に舌鼓を打った。米を、とうもろこし、じゃがいもと一緒に煮込み香草を散らした粥、肉の味がしみ出した汁物、甘く煮付けた鶏肉。その甘辛い味は物珍しい味がした。甘く煮崩れした何かと、発酵したものの酸味の二つがあり、香辛料でぴりりとする。さわやかな甘みと酸味、嫌味のない辛みで、不思議な味だ。

「とても美味しい。これは何ですか?」

「これは鶏肉を、トマトと発酵乳に塩、胡椒を加えたものにつけ込んで焼いたものですよ。お口にあってよろしゅうございました」

 アンザは嬉しそうに、多めに取り分けてくれる。城での食事と違って、目の前で湯気を立てるものを口に運ぶことができるのは、何よりも嬉しかった。ここで一献呑めれば言うことはないのだが、贅沢は言うまい。西の酒はどのような味がするのか。

「そういえば、食事作法は無事に覚えられましたのね。お喜び申し上げますわ」

 セイラがにやにやと言った。茶と同じく夕食も彼女は同席を許されている。いちるは平然と返した。

「早く覚えねばあの馬鹿の顔を見続けなければならないので」

「まあ、それって元愛人への当てつけですの? 食事を一緒にするなんて仲睦まじくて何よりですこと!」

「なのに家出をするなんて。何があったのか聞いてもいいですか? 過去はともかく、陛下がそんなに人を怒らせるような真似をするとはわたくしには思えないのですけれども」

「わたくしも興味がありましてよ。なんだかんだ言って、アンバーシュは細やかな方ですもの。そのせいか時々、とんでもないへたれですけれど」

「へたれって……騎士団長様」

 ふむ、といちるは呟いた。

「そういえば、奇妙な取り合わせですね。アンバーシュの元妃候補に、元愛人、そしてとりあえず婚約者。この場にあの男がやってきたらどんな顔をするでしょうね」

「嫌な顔をすればいいですわ。それで? アンバーシュの何があなたの怒りに触れたのか、まだ聞いていませんわよ」

 聞くまで引かないセイラと、聞きたくて目を輝かせるミザントリ。給仕をするジュゼットも身を乗り出している。レイチェルだけがいつもと変わらない。感情がないと思えるほど顔がぴくりとも動かない。

 いちるは、三つ又を肉に刺す。

「あの男、口先だけだったので嫌気がさしました。いくら贈り物をし、言葉を尽くし、様子をうかがっていても、臆病者や腰抜けと結婚する気はありません」

 答えを咀嚼する間があって「……ちょーっと、奇妙な噂を聞いたのですけれども」とセイラが前置きする。

「夜這いに行ったって本当ですの?」

「よ、ばっ……!?」

「えええええぎゃっ! すすみませんお皿がっ!」

 ミザントリが物を喉に詰まらせ、ジュゼットが取り分け皿を落下させる。運良く皿は空で、床に落ちても割れなかったものの、セイラの問いかけを聞いた者たちの狼狽ぶりが激しい。

「黙秘します」といちるは答えた。



 客間に引き上げた。セイラにもミザントリにも自分には構わなくていいと言っておき、レイチェルたちにも一人にしてもらいたいと伝えて、長椅子に身体を乗せて目を閉じる。

 この森は精神が休まる。意識せずに離れた場所の声や音や異変を探ってしまうのは、この力を自由に扱えるようになってからの習いだった。呼吸するように、目が物を見るのと同じように意識の片隅にもうひとつ、別の目、別の耳が働いている。

 昔は、これほどの精度はなかった。神がかりのように、突如降ってきてはいちるを苛んだ。予知は、地震や大水や山火事といった大災害が主で、それらを口にするいちるは不吉な魔物として追われてきた。柱にくくりつけられて流されたことも、崖から突き落とされたこともある。

 力を持て余す娘を救ったのは、撫瑚の卜師と城主。いささか行き過ぎた方法でいちるに異能の使い方を叩き込んだ。おかげで今では環境に影響されなければ何でも見える。境の海はさすがになかなか容易に越えられぬが、地脈を辿り、風に音を聞くことができるのだ。

 ミザントリの声がする。アンザが何か答えている。この静かな家に、また来訪者が現れたようだった。

 この家は、普段からこのように人の出入りがあるわけではないはずだろう。目を開けたいちるは、身体を起こして手元の鈴を鳴らした。レイチェルが現れる。

「お呼びでしょうか」

「誰が来ましたか」

 レイチェルはそっと近付き、いちるに耳打ちする。

「昼頃お帰りになられたはずのハブン子爵様が、まだお屋敷にお戻りにならないのだそうです。こちらではないかとお屋敷の方が訪ねていらしております」

「普段から彼の素行は悪いのですか?」

「私感ですが、おでかけの場合は同行の方がいらっしゃるので、子爵様の行動はお屋敷の方々も把握されているはずです。素行が良いとは言えませんが、逸脱はなさらないと思います」

(ならば害意ある者にかどわかされたということではないか)

 舌打ちする。あの占い爺だ。

「少し静かにしていてください。集中します」

 はいと応じてレイチェルは退いた。


 瞼を下ろし、暗闇の中で第二の視覚を用いる。視野がぐっと広くなり、ともすれば目が回りそうになるのを自制する。明暗の落差が激しく、あちこちにある人の気配の残滓を寄り集める中で、マシュート・ハブンのそれを取り出した。頭の軽そうな色の粒が、いちるの凝視でみるみる糸を形成していく。

(あの少年はいずこへ?)

 ぴん、と糸が張る音。糸を見えない手で掴むと、一気にそれはいちるの意識を引いた。部屋を出てミザントリの家を出て、森を進み、途中ふらりと川の側で休み、水の中へ落ちた。粟立つ川の水をくぐり抜けて、休める場所へと誘われた少年は、そこで意識を奪われたらしい。糸が細くなり、別の糸が絡む。紫、漆黒。

 まずい、と思った時、いちるの手はそれに絡めとられた。森から岩へ、風吹く荒涼。恐ろしいほど寒々強いところ。掴んだ手を引くようにして場所が転換する。

 いちるは、そこに闇の老爺を見た。



(ひっひっひ……おいでなさいませ、千年姫…………)



「姫様っ!」

 レイチェルの怒声が響き、我に返った。殴られたような衝撃で、意識が身体に戻ってくる。

「申し訳ありません、呻いていらしたものですから。邪魔をしてしまいました」

「……いいえ。助かりました」

 本当に、助かった。レイチェルの目を見て感謝を告げる。

「……迎えが来ました。行かねばなりません」

 ばしん! と窓が叩かれ、レイチェルがそちらを見る。帳を引いた窓が、外からの振動に揺れている。風にも思えるが、その衝撃が強く、心持ち彼女の顔は強ばっている。

「お下がりください。部屋を出て、騎士団長様のところへ」

「術師がわたくしに気付きました。行かねばハブン子爵に危害を加えるでしょう」

 ごっ。窓が開いた音は、吹き荒れる強風にかき消された。

 二階の露台には、闇の固まりが落ちていた。たっぷりとして馬の形を作り上げる。その瞳は人を惑わし狂わせる光を放っている。

「お止めください。せめてわたしをお連れください!」

「来られては困ります。わたくしは、自分の身しか守れない」

 異眸の馬の背から闇の手が伸びていちるを目指す。

 いちるは笑う。

「冷静なあなたでも、取り乱すことがあるのですね」

 視界が黒に潰される刹那、レイチェルが叫んだ。

「姫様――!」

 手抜かりだった。挨拶までと言ったのを鵜呑みにしすぎた。悪徳に堕ちた術師が狡賢いのは当たり前なのに、呑気に送り出してしまった。ゆえに、これはいちるに咎がある。闇夜を疾駆する魔眸の馬の背に揺られ、ロッテンヒルの暗い森の上を飛翔する。馬が闇を引き連れて、行く方向に黒い雲がかかり、星明かりはいちるの目から遠ざけられている。

(挨拶くらいはしてやろう。常闇が意志を持っているのならば、それは恐らく、この世の悪であるもの)

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