第二章 十四

 戻ってきたアンバーシュは、片腕にフロゥディジェンマを抱えていた。婦女子を小包のように抱えてきたのに呆れ、降り立ったフロゥディジェンマ本人が別段気にしない様子だったのを見てまた少しため息した。周りはこういった機微を彼女に教えるべきではないだろうか。

 ドレスの汚れを払ってやり、耳の横でぶらつく帽子を直してやる。元通りにはならなかったが、城に戻るまでだ。見れぬ格好ではない。髪を梳いてやると心地良さそうに目を閉じ、いちるの腰に手を回してきた。

「援護ご苦労さまでした。被害状況は?」

「己の不注意でかすり傷を負った者がおりますが、魔眸による被害はございません。アンバーシュ陛下のお力の賜物でございます。それから……この度は姫様がお力添えをくださいました」

 ロレリアの意味ありげな視線を受けて、いちるは口の端を持ち上げる。

「しかし、どうして教えてくださらなかったのです?」

「はい、何がです?」

「仕方がありません。アンバーシュは知らないのだから」

「…………」

 アンバーシュが呆気にとられるので、いちるはしめしめと噴き出しそうになる。しかし澄ました顔を繕って、相手をほくそ笑んでやった。

「……言葉を、どうしたんです?」

「私の趣味は読書、西の本で好きなものは字引です。許嫁の趣味くらいは知っておくべきでしたね、アンバーシュ」

 外に出ることを許されぬ身で、いちるに与えられた娯楽は手を使う作業か、読み物をすることだった。二百年の積み重ねで収集した蔵書は、東西問わず様々あった。すべて置いてきてしまったが、希少だった西の本の中に、字典と神話書があり、西の言葉はこれで見覚えてしまった。

 さらに、境界の海に接する国には、海を越えた西島の人やものがが流れ着くことがあり、撫瑚国では技術改革のために他文化を知る、そういった異邦の者を召抱えていた時期があったので、いちるは日常的な会話ならば文章を組み立てることができる。これも二百年の余暇の賜物だ。

「読むのと聞くのは違うので、耳が慣れるのにしばらくかかりました。実際に喋るのは心もとなかったので黙っていましたが……分からないふりをする方が都合よかったことは認めましょう」

 使い慣れた言葉や、意味合いや雰囲気を伝える心の声とは違い、西国の言葉を用いると少々風合いが異なるだろう。いちるの教科書は神話書を始めとしたいくつかの書物であるため、言葉遣いが持って回ってしまうのは仕方がない。これでも一応、普通の言葉遣いになるよう努力した結果である。

「理解いたしました」とロレリアが笑いを噛み殺す。やや信じられない顔をしているアンバーシュの見えないところで、馬鹿馬鹿しいという様子でセイラが首を振っている。

「ところで、セイラ・バークハード。わたくしはまだ俗語に通じていないのですが、『クソアマ』とはどういう意味ですか?」

 セイラどころか、いちるの言葉を聞いたすべての者が凍り付いた。周囲から恐る恐るの視線を受けた彼女は、青ざめた笑顔で答えた。

「姫のような方が覚える必要がない言葉ですわ。わたくし生まれ育ちが悪いもので、たいへん失礼をいたしました」

「答えになっていませんが、まあいいでしょう」

 いちるは矛先を退いてやった。死にそうな顔つきをしている者たちが見れたので満足したからだ。


 後始末を任せ、騎士団が用意した馬車に三人で乗り込んだ。フロゥディジェンマがずっと目を擦っているので、肩を貸してやると、ことりと眠ってしまう。けれど瞼や鼻がぴくぴくと動くので、耳は働いているようだ。

 やれ、騒がしい一日だった。期待通りではあったが、いささか疲れてしまった。フロゥディジェンマの寝顔を見ていると、その顔をアンバーシュが見ているので、顎を上げて冷めた目を向ける。

[何故にそう笑う]

[面白いひとですね。あなたについて知らなければならないことが山ほどありそうだ。どんな隠し球が出るやら]

[今日のことは不測だった。……いつもああだというわけではあるまい]

 アンバーシュに懸念の憂いが浮かぶ。

[そうです。普通、俺がいる主都にあんなものは近付いて来ない。数もひどく多かった。何故この日にあんな群れが来たのか、まったく分からない]

[偶然ではないと考えるのか]

[それも分かりません。魔眸は俺たちの領域外の存在です。どこから来たのかも王に等しい存在がいるのかも、誰も知らない。大神にすら。やつらに何か変化があるのか、これから注意しておく必要があります]

 そこで言葉を切ったアンバーシュは椅子にもたれて笑った。

 泰然と、力ある若神の姿がそこにある。

 西島の民は恵まれている、といちるは思った。神が守護し、栄える平和な国々。安穏を授けられる人々。

 気付けば告げていた。

[西国の民は幸福だ。超常の存在の庇護がある。ゆえに弱く、豊かで残酷じゃ。真なる強者は妾を排斥するだろう。西の者の包容が、妾は苦々しい]

 静かに憎しみを吐露し、神の固まりを撫でる。

 柔らかな髪は、光を持たぬ毛先など一本もない。少女神は、愛おしく、憧れを抱かせながら悲しみを呼び起こした。小ささに。醜さに。幸いになれぬ我が身に。

(何故このようにつくられたのだ)

 その感情の由縁の最たるは、この天上青の瞳に。

 アンバーシュと見つめ合い、告げる。


[お前が嫌いじゃ。憎いと言ってもいい。妾に構うな。話しかけるな。見ることも許さぬ]


 拒絶の言葉は淡々とした。

 少女の身体を支えてやりながら、目を逸らさずに意志の強さを見せつける。城へ戻る道は、行きとは違いよく揺れた。背筋が曲がらぬようにするのが容易ではなく、なのにアンバーシュは悠々といちるに笑みを浮かべて、見ているだけで腹立たしかった。同じ空気を吸っていたくない。早く戻りたいと思うのに、その場所はこの男の国の一部でしかないということが、何より嫌だった。

「言いましたが……俺は、千年かけてもあなたを口説きます。撤回はしません」

 肉声で伝えられた意志は、いちるの顔から更に表情を取り除く。

 会話はそこで終いになった。


 馬車が城に到着し、アンバーシュは迎えに出たクロードとエルンストに囲まれてしまう。起こされてまだ眠気が取れず、目を擦るフロゥディジェンマが、いちるの袖を引いた。

[しゃんぐりら]

[どうした?]

[ばーしゅ、嫌イ?]

 明確でないそれを読み取るには、いちるは尋ね返してやらなければならない。第三者で、しかもフロゥディジェンマからの質問だというのに、言語化するのは業腹であったが、堪えて、言った。

[アンバーシュのことを嫌っているかどうかか? ……そなたは知らなくてよいよ]

[知リタイ]

 なおも彼女は食い下がる。

[エマ]

[ばーしゅ、ヒトリ。寂シイ。デモ、言ワナイ]

 許嫁と姪を置いて、すでに遠くに行って仕事の話を続けているあれを、どう『ヒトリ』で『寂シイ』人間だから可哀想だと思えというのか。まさか彼女にそう言えるはずもなく、しくじった笑顔で首を振る。

[エマ。心配せずとも、妾はアンバーシュが追放しない限り、ここに骨を埋めることになる。そこに好悪は関係ないのだよ]

[しゃんぐりら、モ]

 エマは表情も声も濃淡なく。

[ヒトリ。寂シイ]

 ――発作的に笑い飛ばさなかったのは自制の成せる技だ。

 ため息が出て、いちるは何度も首を振った。

[寂しくはない。生きているなら、これは抱えてゆかねばならぬものだから]


 フロゥディジェンマは自室へ連れられていき、いちるもまた部屋に戻った。

 汚れた衣を脱ぎ、部屋着に準ずるものに着替えながら思う。

(このままではいけない)

 肌の上に感情が描かれているような気がする。アンバーシュもフロゥディジェンマもそれを読み取ってこの心を見透かしているというのなら、受け入れてはならない。そのような弱さを癒されるためにここに来たわけではない。安寧は望まない。生きていくことに平穏はあり得ぬのだから、守られ理解されることに甘んじてはいけないのだ。

(寂しい。そうとも寂しいとも。だがそれはこのように生まれついた宿命だ。人でもなく神でもない、妾の運命でしかない。生まれついた星の光を変えることはできぬ。理解されたいとも思わない。アンバーシュ)

「……何か申されましたか?」

「独り言です」

 いちるの応答に、レイチェルは目を瞬かせた。ジュゼットの動揺は明らかで、持ち運ぼうとしたドレスを取り落とす。ネイサは苦労して隠したようだが、問いかけるようにレイチェルをうかがった。世話係の長は言った。

「失礼いたしました」

 何事もなかったかのような優美な応答だ。最初からいちるがこの国の人間だったかのようで、身勝手だと分かっていながらも苛立った。

 結い直した髪を鏡で確認し、頷く。姿見が下げられてもなお、いちるはその一点を見続けていた。きつい目をした小娘は、吐き気がするほど弱々しい、アンバーシュをして「たちが悪い」と言わしめる容色。

 いちるはもう一度胸の内で呟いた。

 優位に立たねばならぬ。このままでは後手に回ってしまう。地の利は相手にある。周囲の後押しも向こうにあるだろう。孤立無援の自分は、策を弄して立ち向かわねばならない。

 出て行ったはずのジュゼットが泡を食った顔で飛び込んできて、いちるは眉をひそめた。「どうしたの」と主に代わって尋ねたレイチェルだったが、女官の返事は要領を得ない。

 そうこうするうちに、どうやら原因が来た。姿を見せたアンバーシュをしかめ面で出迎えるが、アンバーシュは少し笑って「忘れ物です」と言った。

 クロードが捧げ持った平たい箱に、首飾りが収まっている。

「安物で申し訳ないんですが、あなたに」

 確かに高価ではないが、安いものでもなかろう。小指の先ほどの大きさのものからもっと小さなものまで、金色を閉じ込めた琥珀色の粒玉が無数に連なっている。光沢からして本物ではないが、硝子だとしても相当手間がかかった代物だ。歪みのない真円の玉ばかり。

「つけてもらってもいいですか」

「どうぞ」

 無造作に首飾りを掴んだアンバーシュは、後ろを向いたいちるに鎖をかけ、留め具をする。首の上で、玉飾りがちゃらちゃらと音を鳴らした。触れてみると、見た目によらず冷たい。けれど、琥珀色の酒のように、しばらく触れていると熱を持ち始めた。

 ネイサが捧げ持った鏡に首飾りをかけた自分が映る。悪くはない。

「……お礼を言います。どうもありが……」

 ちゅっ、と。

 唇を吸い付けられ、いちるは固まった。女官たちも飛び上がる。

 振り返り様に今日二度目の唇を奪った男は、にやりと底意地の悪い笑みで言った。

「それを着けて、まずは夕食ですね。作法は手取り足取り教えるから、安心してくださいね」

 かっと頭に血が上る。

「アンバーシュ――!!」

 ぐにり、と、頬を摘まれる。痛みではない、奇妙にむずがゆい感触に怒りのまま振り払うと、アンバーシュは表情を一変させていた。

「怒鳴らないでくださいよ。……やれるものならやってみろ、でしたか。覚悟しなさい。必ず靡かせてやりますから」

 肉食の獣の目をし、獲物に狙いを定めた顔をする。

 周りにいるはずの召使いたちは、主君の意を汲んで慎ましく何も見えないふりをしていた。やはり、いちるはたった一人で戦わねばならぬらしい。

 ゆえに(墓穴は、まだ掘っていない!)と己を奮い立たせた。

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