第十九章 ダイヤモンドダスト
圭祐のマンションで優衣と暮らし始めて半月が過ぎた。
優衣の身体の傷はすっかり治り、心の傷も治ってきたらしく表情が明るくなってきた。たぶん、ヘヤースタイルのせいかも知れないが『マドンナ』から帰って以来、少しおしゃれにも目覚め始めた優衣は日に日に可愛くなってくる。
この頃には少し余裕が出てきて、家の中で圭祐のために料理や洗濯までやってくれている。調理師の母親に仕込まれた料理の腕もなかなか大したものである。
本来、優衣は家庭的な娘で家事が好きなようだ。
まだ父親を怖れて、ひとりでは外出しようとしない。買い物にいくのも、遊びにいくのも、いつも圭祐と一緒じゃないと外へ出ていけないのだ。人見知りの強い優衣は圭祐だけに心を開いてくれる。世間に出るのが怖いなら、ずっと家にいればいいのだと圭祐は思っている。
小鳥のように籠の中が安心できるらしい。
優衣のこういう内向的なところが可愛いと思う。《たぶん、自分だけを愛してくれる女性を僕は探し求めていたのだろう》圭祐にとって理想的な女性である。――そんな優衣を守っていこうと心に誓っている。
ここの生活に慣れて、暇を持て余した優衣は圭祐のパソコンに興味を持ち始めた。今までパソコンを持ったことがなく、学生時代に授業で触ったくらいの経験しかないのだが、珍しく自分から興味を示したので、彼女専用にノートパソコンを買い与えた。
さっそくインターネットのSNSにブログを作って、優衣は自作の詩を発表し始めた。ネットのコミュニティーに、詩人仲間が出来て作品の批評などし合っているようだ。圭祐はそれは良い傾向だと思って見ていた。リアル社会では引っ込み思案の優衣だがネットでは上手くコミュニケーションが取れているようなので安心した。
SNSのブログは優衣の楽しみになったようである。
【 春のワルツ 】
窓辺の日差しに
まどろむ人よ
カーテンの隙間から
春の風が吹き込んできた
起きて 起きて
眠っていては もったいない
ドアの向こうでは
新しい季節が始まっている
さぁ 春の息吹を
深呼吸して
優しい想いが満ちて
心がフワリとしたでしょう
紅潮する頬 胸の心拍
ドキドキが止まらない
その心拍数は三拍子
春の序曲が聴こえてきた
さぁ 愛する人の名前を
そっと囁いて……
『 』
その名を呼べば
胸が熱くしめつけられる
そう この感じ?
あぁ 恋におちた!
春に心を躍らせて
ふたり手を取りあって
クルリ クルクル
ワルツを踊りだす
あなたの胸の中
素敵な三拍子のリズム
フワリ フワフワ
夢見心地のステップ
― 身も心も溶け合って
ふたりのワルツは終らない ―
優衣
こんな詩を書いたからと、優衣が自分のブログを圭祐に見せにきた。
その詩は、春を夢見るようなワルツのリズムをイメージして書かれた明るい作品だった。今までの優衣の心理状態では絶対に書けない。
たくさんの人が閲覧してコメントを残してくれていた。みんなに作品を読んで貰うと、やる気が出て嬉しいとブログを見ながら優衣が微笑んでいる。
「優衣、そのカッコの中には、誰の名前を書き込むんだい?」
「――それは内緒だよ」
そう言って、唇に人差し指を立てて優衣は「ふふふっ」と笑った。その表情は大人の女性の
――少女だと思っていた優衣を、女として意識し始めていることに、圭祐は自分でも気づいていた。
「ねぇ、ダイヤモンドダストって見たことある?」
ソファーで新聞を読んでいる圭祐に、優衣が突然そんなことを訊いてきた。
「ダイヤモンドダスト……ずーっと昔に、スキー場で見たことがあるよ」
「今、パソコンの動画で見てるんだけど……とってもきれい!」
キッチンカウンターにノートパソコンを置いて、椅子に腰かけて画面を見ている。
「幻想的で素敵……あたしも……一度見てみたいなぁー」
食い入るようにダイヤモンドダストの動画を見つめている。たぶん、詩人の魂が求めているのだろう――。
「見にいこうか?」
「えっ?」
「見られるかどうか、天候の問題だから保証できないけど……僕が昔見た、そのスキー場でまた見られるかもしれない」
「いってみたい!」
「そうか、じゃあパソコンからホテルの予約を入れるよ」
決まれば即行だ。何しろ圭祐は休職中だったので、いつでも出かけられる。平日だったのでスキー場のホテルの予約は
さっそくスタッドレスタイヤをビートルに履かせて、ふたりは車に乗って出発する。深い雪道を『ダイヤモンドダスト』という幻想を見にいくために車を走らせた。
〔ダイヤモンド・ダスト〕
細かい氷の結晶が空気中に浮かび、それが太陽光線できらきら輝いて見える
――そこは見渡す限りの銀世界だった。
信州にある有名なスキー場で標高が高いので、かなり気温が低く、氷点下20度以下の早朝ならダイヤモンドダストが見られる可能性がある。ここのところ晴天が続いているので上手くいけば――あした朝日の昇る頃に見られるかもしれない。
圭祐は《きっと神様が、僕らのために見せてくれるに違いない!》根拠はないが、そんな予感がしていた。
スキー場のホテルには夕方遅くに到着した。
フロントで渡された鍵でツインルームのドアを開けて中に入ると、ベッドが二台並んでいて、圭祐はちょっとドキリとした。優衣とはもう半月近く一緒に暮らしているが、同じ部屋で寝たことはなかった。
傷ついて、自分に助けを求めて逃げてきた女性に、手を出すような卑劣な真似だけは絶対にしたくない。
部屋に荷物を置いて、ふたりは服を着替えた。ここに来る途中にデパートに寄って、ホテルのディナー用に優衣の服を買った。それは淡いピンクで上品な透け感のあるジョーゼットのワンピースでやや襟ぐりが広く、胸元にはコサージュが付いて、裾はたっぷりのギャザーのついたフェミニンなスタイルだった。同色のシルクオーガンジーストールで胸元をふわりと覆う。そして、生まれて初めて履いたという白いハイヒール。
まるで、舞踏会に出かけるシンデレラ姫みたいな優衣をエスコートして、ふたりはディナーにホテルのレストランへ向かった。
そこには大きな暖炉があり薪が赤々と燃えていて、生演奏のピアノはサティの『ジムノペティ』を奏でていた。大きなガラス窓を透して見える、一面雪景色のホテルの中庭は、蒼い月に照らされ白々と雪灯りが美しかった。
そして、ふたりは窓際のテーブルに案内された。テーブルには赤いバラとキャンドルが飾られ、その仄かな灯りが優衣をいっそう美しく映し出す。淡いピンクはまるでウェディングドレスのようだった。
「こんな素敵な所にきたの、初めて……」
夢見るような顔で優衣が呟いた。使い慣れないナイフとフォークでフランス料理を懸命に食べている。
「優衣は、僕のお姫さまだから、これくらいのことは当たり前なんだ」
「お姫さまなんて……うふふっ」
口角を上げて微笑んだ優衣の唇が、ゾクッとするくらいセクシーだった。
赤ワインで少し酔いがまわってきた圭祐は、今宵こそ彼女を自分のものにしたいという欲望が沸々と湧き上がってきて……そんな自分を懸命に
――ロマンティックな雪山の夜はふけていく。
結局、昨夜は飲み過ぎて優衣に
つい気分が良くてワインのグラスを重ねる内に酔いが回ってしまい、部屋に戻ると、突然の
安らかな寝息を立てて気持ち良さそうに眠っている、お姫さまのおでこにキスをして、優しく抱き寄せ《焦ることはない。ふたりの時間はこれからいっぱいあるんだから……》再び、一緒に眠りに落ちていった――。
「おにいちゃん! 見てー!」
突然の大声に圭祐は目を覚ました。優衣が窓辺に立って外を眺めながら興奮した声で何か騒いでいる。
ベッドから起き上がった圭祐は驚いた。確か、昨夜は服を着たままで寝てしまったはずなのに……ホテルの浴衣を着ている。どうやら優衣が着替えさせてくれたようだが、ちょっと恥ずかしくてキマリが悪かった。
「おにいちゃん、早く早く、見て! 見て!」
窓辺から手招きをして呼ぶ。
「どうしたの?」
「ほらっ! あれ」
圭祐は眠い目を擦って、窓の外を見た瞬間、思わず歓喜の声をあげた。
「ダイヤモンドダストだぁー!」
その朝、屋外の気温はマイナス20度くらいだろうか。昇りはじめた朝日を受けて、ダイヤモンドダストが静かに舞い上がっていた。空気中の水分が氷となって舞う様子は、キラキラと眩しく神々しいほどの美しさだ。
ふたりは神様が
――慌てて服を着替えると、屋外へと飛び出していった。
こんなマイナス20度もあろうかという
「ダイヤモンドダスト!」
大声で叫んで、兎みたいにぴょんぴょん跳ねる。
「きれい! きれい!」
空に向かって掌を
こんな嬉しそうな優衣を初めて見た。ストレートな感動を全身で表現するのは、たぶん優衣自身生まれて初めてだったのではないだろうか――。
その時、圭祐の瞳に映ったもの『嬉しそうな優衣』と『ダイヤモンドダスト』は、彼の心に限りない喜びを与えた。
「あんまり走り回ると転ぶよ」
そういった矢先に、雪に足を取られて転んでしまった。
尻餅をついた優衣を起こそうと、笑いながら圭祐は片手を差し出した。するとその手を、思いがけない強さでギュッと優衣が握り返した。
そのまま、ふたりは見つめ合っていた。
「おにいちゃんが好き……」
恥ずかしそうに、小さな声で優衣が呟いた。
「優衣……」
握り合った手をゆっくりと引き寄せて、そのまま腕の中で優衣を抱きしめた。
「君は僕の一番大事な人だ」
ダイヤモンドダストが舞い上がる中、ふたりは自然と唇を重ねていた。
優衣の柔らかな唇は、誰も触れたことのない新雪のようだった。優衣、君が二度と傷つかないように命をかけて守る。それが僕の使命だって分かったんだ! このまま、時間が止まればいいと思っていた。
ふたりで見たダイヤモンドダストが消えないように、愛のフォトにして、永遠に心のアルバムに残していこう。
『ダイヤモンドダストは、神様からの祝福のプレゼントなのだ!』
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