第十七章 ここに居る理由は、

 優衣を保護してから、今日で六日が経った。

 顔の痣もだいぶ目立たなくなってきて、口の中の傷も治ってきたようで、普通に食事が出来るようになった。

 最初の三日くらいはショック状態で、ほとんどしゃべらなかった優衣だが、少しづつ元気を取り戻したようである。取り分け、髪を切られたことがショックだったようで、兄の健人との思い出を断ち切られた思いがしたのであろう。

 ここに来た時から、優衣は若草色のセーターを握りしめている。寝ている時もずっと放さない。どうしてなのか優衣に訊ねたら――。

「お母さんが、あたしの誕生日に手編みのセーター贈ってくれたの」

「それで、大事に持っているんだね」

「うん。――お母さんの匂いがして心が落ち着くんだ」

「そうか」

 どうやら、父親に殴られた原因は、このセーターに有りそうだと圭祐は勘づいた。

 優衣の母親が見つけるために、片桐に捜査を依頼しているが、現在は出張でシンガポールにいる。彼が帰ってこないことには捜査は進展しない。

 取り合えず自分が保護している限り、これ以上、優衣に危害を加える者はいない。母親を見つけるまでの間、優衣の心のケアに専念しようかと圭祐は考えていた。

「優衣、その髪の毛は何んとかしないといけないね」

「……うん」

「僕がついていってあげるから、明日は美容室に行こうか?」

「……そうする」

 少し不安そうな声で応えた。――素直で可愛い、優衣のそんなところが愛おしいと圭祐は思っている。

 美容室に連れていける程度に、バラバラに切られた髪を圭祐がハサミで揃えた。


「あたしは、いつまでここに居ていいの?」

 テーブルに向い合って、ふたりで夕食を食べている時、ふいに優衣がそんなことを訊いてきた。

「えっ? それは優衣が居たいだけ居ればいいさ」

「あたし、何もできないし、お世話になりっぱなしで……」

「そんなことは気にしなくていいんだ」

「……けど、迷惑じゃない?」

「優衣が傍にいてくれたら楽しいよ」

「ほんとに?」

「ああ、こう見えて、けっこう寂しがり屋なのさ。僕って」

 おどけていうと、優衣が白い歯を見せた。

「そうそう、こないだ読ませて貰った、あの詩――」



     【 紅葉 】


   紅いやら

   黄色いやら

   騒いでるんじゃない


   山の中に勝手に入ってきて

   ジロジロみて 

   写真撮って

   弁当食い散らかして

   ゴミだけ残して帰る

   観光客たち


   俺は

   おまえらに怒って

   紅葉あかくなってるんだ!



「ああいう詩を読んだら、心がほっこりするんだ」

 その言葉に優衣は嬉しそうに微笑んだ。

 身体の傷も癒えてきて、何もしないでここに居させて貰っていることが、優衣には心苦しい。最近は仕事も休んでいるみたいだし、自分が居るせいでいろいろ迷惑が掛かっている。

 お父さんは怖いけれど、やっぱり自分の家に帰った方がいいかもしれない。――これ以上、甘える分けにはいかないと優衣は思っていた。

「僕は優衣の詩のファンだから、創作に専念できる環境を作ってあげたい」

「どうして? そこまでやってくれるの?」

 ずっと虐げられていた優衣にとって、そんな親切なことを言ってくれる人がいること自体信じられなかった。

「……一年前、挙式直前で婚約者に逃げられた僕は、酷く傷ついて……ずっと心を閉ざしていたんだ。そんな時に優衣と出会って君が毎朝、可愛い詩を届けてくれた。それを読むと元気を貰えた。すっかり厭世的えんせいてきになっていた僕の心に、再び光を灯してくれたのが優衣なんだ。――だから君に感謝している」

「あたしは、ただ……」

 圭祐の言葉に、優衣は驚いて言葉に詰まった。

「もしも、ここを出て行きたいなら優衣の自由だよ。ただし、あんな父親の居る家には絶対に返すわけにはいかない。独立して暮らせるようにアパートを借りてあげるから、お母さんが見つかったら一緒に暮らせばいいよ」

 そこまで優衣のことを考えてくれていたなんて、この人は恩人というよりも……。

「――ここがいい。おにいちゃんの傍にいる」

 優衣は圭祐のことを“ おにいちゃん ”と呼んでいる。

 きっと、死んだ兄健人の影をまだ引きずっているせいだろう。お兄さんの代わりだと思われていても構わない、優衣が傍に居てくれた方がいいのだ。圭祐の心の氷を溶かしてくれたのは、他ならぬ優衣の存在なのだから――。

 もうあんな辛い思いはしたくない、二度と大事な人を失いたくないと圭祐は思っていた。


 空き部屋があるので、ここを自分の部屋として使えばいいからと、圭祐から個室を与えられた。窓には淡いピンク色のカーテンがかかっていて、白い壁にはきれいな水彩画の額縁が飾ってある。こじんまりした居心地の良さそうな部屋だった。

 昨日のことだった、優衣はベッドの下で一本の口紅を見つけた。それで、この部屋がお兄さんの元婚約者が使っていた部屋だと分かった。

 自分が知らないブランド物の口紅だと思う、肌色より少し濃いピンク色だった、大人の女性の唇に似合いそうな――。その口紅を見ている内に、何だか分からないけれど……メラメラと心の中に炎が燃えるようだった。

 もっと、もっと可愛くなりたい! きれいになってお兄さんに褒められたい! 元婚約者のことなんか、早く忘れてしまって欲しい! そんな心の叫びが聴こえてくる。

 それは初めて体験する感情だった。そんな生々しい想いを抱いたことが今まではなかった。たぶん、それは女として同性に対する対抗心だったのだ。

 ――もしかして、これが嫉妬なの?

 自分の内部で“女”が目覚めてきたことに気づかず、そんな自分に優衣は戸惑っていた。

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