第十六章 ふたりの新生活

 あの日は、優衣をおんぶして圭祐は自分の部屋に連れて帰った。

 傷を治療して貰うため医者に連れていこうとしたが、頑として優衣がこばんだ。たぶん、父親の暴力を表沙汰にしたくなかったのと、腫れあがった顔を人様に見られるのが恥かしかったからだろう。

 ――見た所、ほとんどが打撲の痕だけで、口の中は切れているが歯は折れていなかった。保冷剤で冷やして経過を見ることにした。それよりも繊細な優衣の心の傷の方がずっと心配だ。

 しかし、手首を切らずに圭祐に助けを求めてくれたことは有難かった。優衣の身体の傷と心の傷が癒えるまで会社を休もうと圭祐は思っている。仮にそれで、出世コースから外れたって構わない。《僕は仕事のために生きているんじゃない。誰かを幸せにするために生きているんだ!》そう考えると、今、傷ついた優衣を救ってあげられるのは、この自分しかいないのだと自負している。


 翌日、優衣は一日中ベッドで泥のように眠っていたが、ふいに目を覚まして、

「クマの……ぬいぐるみ…置いてきちゃった……」

 うわ言のように呟いた。

「またゲーセンで取ってやるから」

「うん……」

 安心したように、再び昏々こんこんと眠り続けた。

 余程、ぬいぐるみのことが気になるらしい。――思えば、あの白いクマのぬいぐるみが、ふたりの馴れ初めだった。あのクマは不思議な運命を運んできた“ 幸運のお守り ”かもしれないと圭祐は思った。

 ――ただ今は、優衣の回復を望むばかりだ。

 腫れていた打撲痕はやがて青紫の痣に変わっていった。顔以外にも肩や背中、太腿にも痣が出来ていた。口の中が切れて痛むようなので、お粥やヨーグルトを食べさせた。

 痛みに耐え、ベッドに横たわる、痛々しい優衣の姿を見るていると……こんな酷い目に合わせた父親への怒りで腹わたが煮えたぎるが、一応、優衣を預かっていることを伝えたて置いた方がいいだろうと思い、圭祐は優衣の父親に電話をかけた。

 内容は、優衣をこちらで保護していること。あなたが娘に酷い暴力を振るったことは警察沙汰けいさつざたにはしないから、今後一切優衣に近づくなということを告げて、電話を切った。

 こんな男とは、それ以上は話したくもない。

 相手にしてみたら「おまえは誰だ?」と「なんだと?」このふた言しかしゃべれない内に、一方的に電話を切られてしまったのだから、釈然としないだろう。こちらの番号が分からないように、もちろん電話ボックスからかけた。

 たとえ父親であっても、優衣をこんなめに合わせた男は許せないと圭祐は思っている。

 ――けれど、優衣はそんな父親を怖れてはいるが、憎んではいないのだ。

「お父さんはね、昔はあんな人じゃなかったよ。お兄ちゃんとキャッチボールしたり、家族で海水浴にもいったことあるし……どんなに機嫌が悪い時でも、お兄ちゃんと喋ってたらいつの間にか機嫌が直ってた。きっと……お兄ちゃんがいなくなって……寂しくて、悲しくて、誰とも上手くいかなくて……あんな乱暴なお父さんになってしまった。たけど……本当は可哀相な人なの……」

 あんな父親でも庇おうとする。

 ――優衣は優しい娘だ。

 とても純粋な心を持っている。

 どんなに酷い目に合わされても人を憎むことができない。他人の悪意をすべて自分のせいだと思い込んで、自分自身を責めて、責めて……自傷行為に走ってしまっていたのだろう。

 この子の非力な優しさにつけ込んで、日頃の鬱憤を晴らすために、娘をサンドバッグ代わりに殴ったりするような、あの卑劣な父親から優衣を守っていかなければならないと、圭祐は強く決意したのだ。

 そのため、自分が働く会社に二週間の休暇届けを提出した。一応、優衣がアルバイトしている新聞販売店の方にも、ケガで遠分休むと連絡を入れて置いた。


 着のみ着のままで逃げてきた優衣には着替えがないので、デパートにいってパジャマやホームウェアを圭祐が買ってきたが、さすがに女性物の下着までは恥ずかしくて買えない。

 そこでパソコンからインターネットで購入することにした、優衣に自分の下着を選ばせて至急で注文したら、翌日には商品が届いた。ネットショッピングはとても便利である。

 初め圭祐のベッドに優衣が寝て、圭祐はリビングのソファーで寝ていたが、優衣のために部屋を作ろうと思った。

 少しでも過ごしやすくなるように、彼女自身の部屋が必要だと判断して、ずっと封印して開けたくない部屋だったが、一年ぶりに元婚約者が使っていた部屋を開けた。少し埃臭い部屋はつらい思い出を内包して、再びはなたれた。

 この部屋の中には簡易ベッドとライティングデスク、ドレッサー、チェストとクローゼットがある。ここでセミナーのレポートを書いていた彼女の姿が目に浮かぶ――。圭祐は二、三度頭を振ると、その記憶を自分の脳から消去しようとした。今、彼女がどこでどうしているかしらないが、自分の夢に向かって頑張ってくれればいいと思う。自分もこれから新しい人生をやり直すのだから、もう彼女のことは関係ない。

 クローゼットの中には彼女の衣類がわずかに残されていたが、一年経っても取りにこないなら、たぶん不要なものだと勝手に判断して、元婚約者の荷物はすべてゴミ袋に入れて処分することに決めた。――この部屋を優衣に使わせるために。

 こうして圭祐のマンションでふたりだけの新生活が始まった。

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