第十五章 交わらない線
崎山が一週間ぶりに職場に復帰してきた。
亜脱臼した肩がまだ上がらないので、当分は送迎車の運転は無理だということで、代わりにデイサービス『ゆーとぴあ』のアクティビティの
普段から利用者たちに人気のある崎山は、楽しいトークでレクリエーションの場を盛り上げて、老人たちを喜ばせるのが実に上手い、認知症のおばあさんまで楽しそうに笑っている。――持って生まれたリーダーシップを発揮している。
崎山は不思議なオーラを放つ男だと、涼子は感心しながら仕事振りを見ていた。
綾子が崎山家への引っ越を完了させて、崎山のケガもだいぶ回復してきたので、約束通り三人で、綾子の娘を連れ出しにいくことになった。
辻本家まで、涼子の軽自動車で行くことになったが、大きな身体の崎山は後部座席でちょっと窮屈そうだった。綾子が助手席に座って、自宅までの道案内してくれるという。
涼子は運転している内に、ここは以前に住んでいた町の近くだということに気づいた。元婚約者とこの町にあるマンションで暮らしていたのだ。ここは出来るだけ近づきたくない場所だった、この町の風景を見ていると、彼の面影が脳裏をよぎって、罪悪感に
とにかく綾子の娘を救出するため、事情が事情なだけに今は仕方がない。
古い二階建ての家が見えてきた、ここが自宅だと綾子が指差すので、その家の前に車を停めて三人は降りた。
綾子は緊張した面持ちで家の前に立って眺めていた、一年振りの帰宅にたぶん複雑な心境なのだろう。玄関前のプランターの草花は枯れ果て、玄関を塞ぐ古タイヤと壊れた扇風機、ゴミ箱や新聞紙と段ボールが乱雑に放置され、雨ざらしで錆びついた自転車……何だか、重たい空気の家だと涼子は感じていた。
ついに意を決したように、綾子は持っていた自宅の鍵で、玄関のドアを開けて家の中へと入っていった。そして、二階に娘の部屋があるからと階段を上がろうとしたら、物音に気づいて、奥の部屋から初老の男が出てきた。
「綾子!」
この男がどうやら綾子の夫ようだ。
「あんた! 今日は優衣を引き取りにきたよ」
「なんだとぉー! このアマ勝手に家から出ていきやがってぇー」
綾子に殴りかかろうと男が腕を振り上げたが、その腕を崎山にむんずと掴まれた。いきなり180cm以上もある大男に、その腕を押さえられたのだからかなり驚いている。
「だ、誰だよ。おまえらは……」
「綾子さん、早く二階の娘さんを連れてくるんだ!」
「は、はい!」
綾子は階段を駆け登り娘の部屋へ向かったが、しばらくすると降りてきて「娘がいない……」と、がっかりした顔でいった。
「あんた! あの子はどこへいったんだよ」
崎山に押さえられている夫に向かって訊いた。
「あのガキはこの家から出ていった……」
「なんだって? それは本当かい? まさか、あの子に何かしたんじゃないだろうね」
綾子は厳しい顔で、夫に
「五日前の夕方、俺がちょっと怒ったら……そのまんま家から飛び出していったんだ」
「あんた! さては娘を殴ったんだろう? あの引っ込み思案の子が自分から家を飛び出すなんて有りえない、よっぽどのことに違いないんだよ!」
「俺は何にもやってねぇーよ……」
「嘘つくんじゃないよ! この野郎がぁー」
激昂した綾子が、夫に殴りかかろうとするの慌てて涼子が止めた。
「綾子さん、落ち着いて……娘さんが失踪した手掛かりは何かないの?」
「おいっ! 何か知っていることを聞かせて貰おうか?」
崎山が男の腕をさらに捻りあげて、脅すような凄味のある声で質問した。
綾子の夫は崎山にビビって抵抗する様子もない。女こどもに暴力を振るうような男ほど、相手が強いと何にも出来ない小心者なのだと涼子は思った。
それにしても……やっぱり崎山は頼りになる男だ。
「いててぇー! 家出した……あくる日に、男の声で、娘さんは自分が保護してるから、今後いっさい近づくなと……電話があったんだ」
「それは誰よ?」
「知らねぇーよ! 初めて聴いた声だった。若い男の声で……」
「その男の所に、娘が居るんだね?」
「俺は何も知らん!」
これ以上、訊いてもこの男は何も答えられそうもないので、仕方なく、三人は辻本家から撤退した。
今回の救出作戦は空振りに終わった――。
綾子は娘が家出して行方不明になっていることに、ひどくショックを受けて……帰りの車の中でずっと泣いていた。なぜか腕に白いクマのぬいぐるみを持っていた。
「そのぬいぐるみ、娘さんの部屋から?」
「うん。昔、これと同じぬいぐるみを兄の
「綾子さん、きっと娘さんと会えるからね! 一緒に探そうよ」
「そうだよ。娘さんは、あんな暴力親父と居るよりも、自分の意思で家出したというのなら……今いる場所の方が安全かもしれない」
ふたりで落ち込んでいる綾子を励ました。
「いったい、どこへいってしまったんだろう。あの子、可哀相に……今頃、どうしてるんだろうか?」
「きっと、見つけますから……」
「あたしが、一年前に家出したばかりに……あの子にツライ思いをさせてしまった。みんな、みんな、あたしが悪いんだ。ごめんよ。母さんを許しておくれ……」
綾子はぬいぐるみを抱きしめて、絞り出すように嗚咽を漏らす。バックミラーに映った崎山もしょんぼりして悲しそうだった。
帰りの車の中は、まるでお通夜のように重たく沈んだ空気になってしまった。
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