第十四章 愛する心を封印して

「涼子さーん!」

 お昼の休憩時間に隣接する病院の中庭のベンチで本を読んでいたら、小走りで綾子がやってきた。

「あら、綾子さん」

 煙草と携帯灰皿を持って涼子の隣に座った。

「あのね、崎ちゃんさぁー、明日から職場に復帰できるって!」

「それは良かった」

「涼子さんに会いたがってたよ」

「まさか、そんなこと……」

 涼子はあの日、崎山の家にお見舞いに行ってから、その後は一度も行っていない。二人きりになるのが怖かったから……これ以上、崎山に好意を寄せると、自分を抑えられなくなりそうだったから――。

 綾子は崎山のケガに責任を感じて、あれから毎日、自宅にお弁当を届けに行っていたようである。

「崎ちゃんが元気になったら、すぐに娘を連れ出しにいけるんだ。セーターは小包で送ったけど……ちゃんと、あの子の手に届いたか心配だよ」

 やけに機嫌の良い綾子はひとりでしゃべっている。

「そいで、あたしねぇ、アパート引き払ってさ、崎ちゃんの家に住まわせて貰うことになったんだよ」

「えぇー、本当ですか?」

「うん。屋敷は広いし空き部屋ならたくさんあるから、ここで娘さんと一緒に暮らしたらいいよって崎ちゃんが言ってくれたんだ。家賃代わりに美味しいご飯を作ってくれたらオーケイだってさぁー」

 綾子は、楽しそうに「あははっ」と笑った。

「あたしも崎ちゃんが傍に居てくれたら心強いからね」

「何しろ、スクーターにでも突進する人だからボディーガードには最高です」

 たぶん、綾子はDV旦那の報復を恐れているのだろう。崎山と暮らしていたら、その点は安心である。

「それから涼子さんも聞いているだろう? 崎ちゃんが、いずれあの家でグループホームを始めたいって、あたしもスタッフに加えて貰うんだ。今は調理師の資格しか持ってないけど、勉強してさ、あたし栄養士の資格も取るよ。崎ちゃんの役に立ちたいんだ!」

「わたしも介護福祉士とケアマネージャーの資格も取るつもりよ」

「うんうん。あたしらも頑張って。崎ちゃんを応援しようね」

「そうね、みんなで理想のグループホームを作りたい!」

「崎ちゃんって、ほんと良い奴だろう?」

「ええ……」

「あんたたちのことも応援してるよ!」

 綾子の励ましに、涼子は俯いてうつむい薄く笑った。

 崎山との恋愛ばなしを微妙に避けていることを綾子も気づいていた。過去に何があったのか知らないが、まだ若いのに……勿体ないと思う。誰だって触れられたくない過去はあるだろう。自分だってそうだったから……それでも綾子から見て、崎山は性格もいいし、人間のうつわが大きい。きっと崎ちゃんなら、涼子さんの心の傷を癒してくれる筈だ。お節介だと思われても、この二人には幸せになってほしいと、綾子は願ってしまう。

 その後、何となく会話も途切れてしまって、お昼の休憩が終わると、それぞれの持ち場へと帰っていった。


 週末に、涼子のパソコンに田村カツエから『ホームで社交ダンスの発表会をするので、ぜひ見に来てください』とメールが届いた。しばらく、カツエとも会っていないので、涼子は発表会へ出掛けることにした。

 その日、ホームでは何組かのペアがダンスを披露した。みんな生き生きと楽しそうに踊っている。

 いよいよ最後に登場したカツエは真紅しんくのドレスで、パートナーの男性と明るいラテンのリズムでマンボを踊っていた。艶やかな衣装で達者に踊るカツエはとても八十一歳には見えない。その姿は老いても、なお人生を楽しんでいるようだった。

 カツエはホームのアイドル的存在で、みんなから拍手喝采を受けていた。


「カツエさん、お疲れさまでした」

「きれいなお花ありがとうね」

 涼子が持ってきた、カサブランカとカスミ草を組んだ花束をカツエはとても喜んでくれた。

「ダンスとっても素敵でした」

「日頃の成果をご披露したまでだよ」

 社交ダンスの発表会が終わって、涼子とカツエは談話室でコーヒーを飲んでいた。カツエの傍には曾孫の少女、沙菜さながいる。中学二年生の彼女は二学期から不登校が続いていたが、「家で引き籠ってるくらいなら、ひいおばあちゃんのところに遊びにおいで」とカツエにいわれて、毎日、カツエの住むグループホームに遊びにきている。

「沙菜や、このお花をグレマのお部屋に持っていって、お水につけといておくれ」

「はーい、グレマ」

 カツエから花束を預かると沙菜は部屋に持って行った。

「グレマ? どう言う意味ですか」

「それね。沙菜があたしに冗談で付けた呼び名だよ。おばあちゃんが『グランドマザー』でグランマだろう。だから、ひいおばあちゃんは『グレードアップマザー』でグレマなんだって。面白いだろう」

 そう説明してから、カツエは楽しそうに笑っていた。沙菜はどこかカツエに似ていて自由な発想を楽しむ少女のようである。

「あの子は今、学校にいってないからね。両親はすごく心配しているけどさ……一年や二年レールから反れたって、どうってことないよ。いつだって元に戻せるんだから。人生は机で勉強することよりも、外に出て体験する方がずっと勉強になるんだ」

「確かにその通りかも知れませんね」

「それにあの子はここで、ちゃんとボランティアをやっているよ。配膳やお掃除の手伝いをしている良い子なんだ」

「カツエさんといると誰でも前向きになれるんです」

「そうかい?」

「ええ」

「……なんか、涼子さん元気がないよ。表情がいつもより曇ってる」

「えっ?」

 涼子の顔を見て、カツエがそう言った。さすがに鋭いと涼子は驚いた。最近、崎山のことで悩んでいたので、そのことを見透みすかされたようだ。そこで、カツエに相談してみようかと思った。

 自分に好意を持ってくれている人がいるが、過去に結婚問題で人を傷つけたことがあるので、自分は人を好きになる資格もないし、結婚など考えてはいけない人間なんだと――カツエに話した。

「それで涼子さんは、その人のことをどう思っているんだい?」

「……嫌いではないし、良い人だと思っています」

「だったら、自分の気持ちを封印することないじゃないか」

「でも……」

 困ったように涼子は俯いた。

「愛することは生きる原動力だよ。愛することを止めたら生きる喜びもない」

「だけど……」

「あたしはいっぱいの人を愛しているよ。家族、友達、仲間、ここのスタッフたちも。みんなからいっぱい愛を貰って生きている。サヨさんは自分が愛されていないと思って、孤独になって、自分自身を愛せなくなってしまったから、自ら死を選んだんだ。可哀相な人だった……」

 たしかにカツエには愛が溢れている。――それがカツエの元気の源だったのだ。

「グレマは彼氏がいるのよ」

 いつの間にか、沙菜が戻ってきて横から口を挟んだ。

「あらっ! 本当ですか? カツエさん良かったね」

「女は愛することを止めてはいけないよ」

 その言葉に自分で照れて「ふふふ」とカツエは笑った。

 ふと見ると談話室の戸口に、先ほどカツエとペアでダンスを踊っていたロマンスグレーの上品な紳士が立っている。もう衣装を着替えていて、こちらの様子を窺っているようだ。涼子と目が合って軽く会釈をされた。

「あっ! こんな時間」

 慌ててカツエが立ち上がった。

「これから、デートなのよ」

「まぁー」

「沙菜や、グレマの着替えを手伝っておくれ! 涼子さんまたねぇー」

 真紅のドレスのカツエは、沙菜を連れて自分の部屋へと帰っていった。

 

 そして談話室に一人残された涼子の胸には、『女は愛することを止めてはいけないよ』といった。――カツエの言葉がずしりと重くのしかかる。

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