第十三章 引き裂かれたバースディ

 ――今日は優衣の十九歳の誕生日だった。

 朝刊を配っている時に、そのことを圭祐に告げたら、会社を休んで優衣を映画館に連れていってくれた。その後、素敵なレストランで美味しいランチを食べて、携帯ショップに寄って、誕生日プレゼントに携帯電話を買ってくれた。もちろん名義は圭祐だが、連絡用に優衣が持ってなさいと渡された。

 父に反対されて、今まで携帯を持つことができず、肩身の狭い思いをしていた優衣にとって、何よりも嬉しいプレゼントだった。

 これで圭祐が早起きしなくても、いつでも連絡を取り合える。――そう思っただけで、二人の距離がぐっと縮まったような、そんな気分になった。


 駅前のロータリーで圭祐のビートルから降りて、優衣は停めておいた自転車に乗って帰宅する。

 自転車のペダルを漕ぎながら、今日は夢のように楽しかったぁーと、今日一日を思い出して優衣の口元がほころぶ。圭祐と一緒にいると心から安らげる。こんな気持ちになったのは久しぶりである。いつも父親の影に脅えて暮らす優衣にとって、圭祐は心の拠り所になりつつある存在だった。

 大好きだった亡き兄の健人を想う気持ちと、圭祐を想う気持ちは、ちょっと違うような気がする。それが、なんなのか優衣にはよく分からないが、心の底から湧き上がる熱い想いに戸惑っている。だけど……優衣は思う、《たぶん、あの人はあたしに同情しているだけなんだわ》あんな立派なマンションに住んで、外車に乗っているような人が、不細工で貧乏な自分なんか……きっと、気まぐれで優しくしてくれているのに違いない。――これは、いつか醒める夢なのだと優衣は思っていた。


 自転車が自宅に近づいてきて、古い二階建ての家の屋根が見えてきた。何だか陰気臭い家だ、母が居た頃には玄関の周りにプランターを並べ花を育てていたが、今は手入れする人もなく枯れてしまっている。玄関の前には古いタイヤや壊れた家電品などを放り出してあり混沌とした感じなのだ。

 最近、父の義男は仕事にもいかないでずーっと家に居る。

 どうやら職場でトラブルがあって仕事をされているようだ。父は無口で小心な男だが、何か気にいらないことがあると、いきなり激昂して罵詈雑言ばりぞうごんを吐き出すので、他人から相手にされなくなる。――そんな状態で生活が逼迫ひっぱくしている辻本家では、優衣の収入だけが頼りだ。

 しかし、優衣の新聞配達とパチンコ店の清掃の仕事では、せいぜい月に六万、七万円の収入にしかならない。もっと稼げる仕事を探せと、父から口喧くちやかましく言われている。

 だから父には仕事を探しに行くといって、今日は家を出てきた。きっと帰ったら、仕事は見つかったかと煩く訊かれることだろう。――それを考えた途端に、優衣はひどく憂鬱な気分になった。


 自宅に着いて玄関の前に自転車を停めた。まだ六時前なので今から食事の支度をすれば間に合う。父はいつもきっちり七時に食事が出来てないと機嫌が悪いのだ。

 玄関の鍵を優衣が開けていると、家の前に宅配便の自動車が停まって、自分宛ての小包を渡された。誰だろうと宛名を見たが知らない女の人の名前だった。それほど重い物ではない、しかも配達日指定されていた、優衣の誕生日の今日だった。

 よく見ると、それは見覚えのある字だ《もしかしたら……お母さん?》はやる気持ちで優衣は小包を開けた。

 小包の中には手編みと思える若草色のセーターが入っていた。

 そして一枚の便箋が――。


 『 お誕生日おめでとう。

  優衣、元気に暮らしていますか。

  お母さんも頑張っています。

  きっとおまえを迎えにいくから

  もう少し待っていてください。 

                   母より 』


 それは家出していた母、綾子からの小包だった。

 セーターは母の手編みのようだ、ちゃんと自分の誕生日を覚えていて、母がプレゼントを贈ってくれたのだ。そして、おまえを迎えにいくと書いてある《あたし、お母さんに捨てられたんじゃないんだ》優衣は嬉しかった。

 若草色のセーターを胸に抱きしめて泣いた。

 涙が、後から後から……溢れだして……止まらない《お母さんの匂いがする》一年前に家出した母親が、恋しくて、会いたくて、優衣は泣きじゃくった。


 その時である。突然、乱暴に玄関のドアが開いて父の義男が出てきた。

「そんな所で何をやっている!」

 優衣の持っているセーターを見た。

「それは何だ?」

「……な、何でもない」

「貸してみろ!」

「いやー!」

 セーターを取り上げようとしたので、優衣は抵抗した。

「なんだとっ! このバカ娘がぁー」

 怒った父は優衣の長い髪を引っ張って、無理やり家の中に引っ張り込んだ。そして箱に入っていた便箋を読んで、それは綾子が送ったものだと分かったようである。

「これは母さんが送ってきたものだな。こんなもん送ってきやがって!」

 いよいよ激昂した父は、優衣からセーターを奪おうとしたが、抱え込んで離さないので殴ったり蹴ったりした。それでも優衣は必死でセーターを守った。

「こんちくしょう! このガキ逆らいやがる」

 そう言うと、父は奥からハサミを持ってきた。

「うっとうしい髪しやがって、俺が切ってやる!」

「やめてぇー!」

 優衣の髪を鷲づかみしてハサミを入れた。優衣は悲鳴を上げて逃げ回ったが、父は執拗に追いかけてきて髪をザクザクと切った。

 そして、泣き叫ぶ優衣の頬を拳で何度も殴りつけた。



   あなたの空と わたしの空は ツナガッテイル


      あなたの時間と わたしの時間は ツナガッテイル


   あなたの想いと わたしの想いも ツナガッテイル


      だから今日も 笑顔で生きていける 


                              優衣



 携帯電話のお礼にと、優衣が即興でこんな詩を書いてメールで送信してくれた。

 優衣にとっては始めての携帯電話だったので、初めは使い方が分からないようだったが、圭祐が操作の仕方を丁寧に説明したら、すぐに慣れて初めてのメールを打って、この詩を圭祐に贈ってくれたのだ。

 とても良い詩なので『保存』をかけて携帯に取っておこうと圭祐は思った。


 ――圭祐の携帯が鳴った。

 画面表示を見たら『辻本優衣』と出ている。夕方別れたばかりなのに、どうしたのかと思ったが、買って貰ったばかりの携帯電話が嬉しくて、早速かけてきたのかと思って出てみると――。

「もしもし、圭祐です」

「…………」

 どうしたのだろう? 返事がない。

「もしもし、優衣?」

 微かに泣き声のようなものが聴こえてきた。

「どうしたの? 何があったの?」

 絞り出すような嗚咽が携帯から聴こえてくる。優衣の声に違いない。

「優衣、優衣! どこにいるんだ?」

 泣き声は号泣に変わっていった。きっと優衣に何かあったのだ、圭祐は心臓がドキドキした。

「優衣、落ち着いて……今、どこにいるのか教えてくれ!」

「……こ……うえん……」

 やっと、それだけ聴き取れたが、いったいどこの公園なのだろう。圭祐と優衣の家の間には大小三ヶ所の公園があるのだ。

「どこの公園?」

「……ここ……の……」

 ――分かった。どうやらメゾン・ソレイユの敷地内にある公園に居るようだ。

「優衣! すぐいく、そこで待ってろ!」

 圭祐は携帯を握ったままで、急いで部屋から飛び出した。

 マンションのエレベーターに飛び乗ったが、エレベーターの速度が遅く感じるくらいに気が焦っていた。やっと一階に着いて扉が開くと一目散に飛び出して走った。


 メゾン・ソレイユの敷地内に小さな児童公園がある。昼間は子どもを連れた若いママたちで賑わうが、夜にもなるとほとんど人影もない。仄暗い街路灯にぼんやりとシルエットが浮かんで見えた。花壇の傍のベンチにぽつんと座って女の子が泣いている。

「優衣!」

 名前を呼んで、急いで傍へ駆け寄った。その声に優衣がゆっくりと顔を上げた。

 ――優衣の顔を見た瞬間、驚きとショックのあまり……圭祐は言葉を失った。

 左の頬から顎にかけて赤く腫れあがっている。瞼も腫れて半分塞がっていたし、唇は切れて血が滲んでいた。さらに悲惨なのは長かった髪がザクザクに切られていた。

《――あまりに酷い……》この痛々しい優衣の姿に……圭祐は思わず涙が零れた。


「優衣、いったい誰にやられたんだ?」

「お父さんが……」

 その言葉を訊いた途端に、《自分の娘に、こんな酷いことをする奴は絶対に許せない!》圭祐は怒りで腹わたがたぎるようだった。そんな男は殺してやりたいとさえ思った。泣きじゃくる優衣の肩を強く抱きしめながら言った。

「優衣、もうあんな父親が居る家に帰らなくていい! 僕の傍にいろ」

 圭祐の言葉に、こくりと頷いた優衣はもうあの家には二度と戻りたくないと思っていた。

「優衣はこの手で守る!」

 ――そう宣言して、包み込むように優しく優衣を抱きしめた。そんな二人のシルエットを夕闇が呑み込んでいった。

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