第十二章 崎山の素顔

 救急車で搬送され、外科病院に収容された崎山だが、命には別条なく、スクーターに体当たりした時に、右肩を捻挫したようで亜脱臼だと診察された。

 涼子とすっかり酔いが醒めて青くなっている綾子は、救急車に乗って病院まで付き添っていったが、診察が終わって出てきた崎山は、入院するほどのこともないと、包帯、絆創膏やテーピングで固定されて、しばらく通院することになった。

 それにしても、走ってきたスクーターに体当たりして、捻挫くらいで済んだのだから、崎山の体力は凄い。さすがスポーツマンだと涼子は驚いた。

 ふたりで自宅まで送るというのに、崎山は「これくらいのケガはヘーキヘーキ!」と病院からタクシーを呼んで、ひとりでさっさと帰ってしまった。

 そして涼子は「自分のせいで崎ちゃんにケガさせてしまった……」と、すっかりしょげて落ち込んでいる、綾子を慰めながら、彼女のアパートまで送っていくことになった。


 ごみごみした住宅街の古い木造アパートの二階に綾子は住んでいる。

 涼子はアパートの前で挨拶して帰ろうとしたが、「お茶だけでも飲んで行ってよ」と、しつこく引き留められて……仕方なく二階にある綾子の部屋まで上がることになった。

 室内は玄関を入って、三畳ほどの台所と手前に四畳半と奥に六畳の和室があり、以外と広いアパートである。あまり家具はないが、洋服ダンスと整理ダンス、四畳半の部屋には炬燵が置いてあって、そこに座るようにと勧められた。

「今、お茶入れるから炬燵に入って待っててね」

 そういい置いて、綾子は台所へ立っていった。

「どうぞ、お構いなく……」

 なんとなく室内を見回すと、座っている炬燵のわきに若草色の毛糸が入ったバスケットが置いてある。何を編んでいるんだろうと、なに気なく涼子は中身を覗いてしまった。

 暖かそうなカシミヤ毛糸でセーターを編んでいるようだ。綾子が着るにしてはサイズが小さいように思えたが……。

「お待たせ」

「あ、ゴメンなさい。勝手にセーター見ちゃった」

「あらま、恥ずかしいわ。編み物は苦手なんだけど……娘の誕生日にセーター送ってあげたいと思って」

「手編みのセーターなんて素敵ですね」

「実はセーターは初チャレンジで下手なんだけど……せめて、一目一目愛情を込めて編んだんだぁー」

 そういうと綾子は薄く笑った。

「きっとお母さんの想いが伝わりますよ」

「セーターは小包で送ろうかと思うんだけど……」

「そうですね。崎山くんがケガして、娘さんを連れ出しにいけなくなっちゃったし」

「いつか娘と一緒に暮らせるようにと二間あるアパートを探した。早く娘に会いたい……」

 別れて暮らしていても、娘との断ち難い親子の絆がある。娘を想う綾子の顔には、苦悩の皺が刻まれていた。


 綾子がお盆の上のカップを涼子の前に置くと、ほんのりと甘い香りがした。

「どうぞ」

「あらっ、ゆず茶ですか?」

「寒い時には温まるからね」

「うーん、とってもいい香り」

 涼子はゆずの香りを吸い込んだ。

「涼子さんって、真面目なタイプだけど……なんか可愛い人だよね」

「えっ? わたしって可愛くない女ですよ」

「そんなことないって! いつも一生懸命に頑張ろうって気を張っているところが健気で、なんか放って置けないって、男の人はそう思うかもしれないよ」

「――誰も思ってませんよ。そんなこと」

「崎ちゃんはそう思ってるさ」

「……まさか?」

「あの子は、あれで真剣に涼子さんを好きなんだよ」

「……そんなことは、今は考えられません」

 涼子は困ったように首を傾けた。

「そうかい、まぁーその内考えてやってよね」

 これ以上、しつこく言ったら涼子に嫌がられると思って、綾子は崎山の話を止めた。お節介が過ぎたかもしれないと内心反省していた。

 涼子はゆず茶を飲みながら、崎山のケガの具合を心配していたが……好きとか、そういう具体的な感情を、彼に対して持っていないと自分ではそう思っている。


 翌日、涼子は『ゆーとぴあ』を早退して、崎山の家にお見舞いにいくことにする。

 綾子からは「崎ちゃんに食べさせて!」と、特大のお弁当箱を渡された。崎山のお見舞い品は、花やお菓子よりもボリュームのある食べ物が良いと思い、大好きだといっていたフライドチキン10ピースとペットボトルの1リットルのコーラ3本持っていくことにした。

 お見舞い品だけでずいぶんな重さだった、涼子は腕が痛くなってきたが、『ゆーとぴあ』で教えて貰った、崎山の住所と地図を見ながら家を探していた。


 手書きの地図を頼りに歩いていく内に、閑静な住宅街に入っていった。

 古い建物の家が多いが、どこも立派な門構えで敷地が広い。ひょっとして、ここら辺は高級住宅街なのかと思い、キョロキョロしながら涼子は歩く。書かれた番地に近い場所へきてみたら、ひと際大きな屋敷が建っていた。

 白い漆喰の塀でグルリと周りを囲い、門扉は格子戸の付いた純和風で立派な構えである。まるで高級料亭みたいだと涼子は思った。格子戸の隙間から中を覗くと、玄関までかなりの距離があり、よく手入れされた庭木が見えた。建物は平屋だが中はかなり広いようだ。犬の鳴き声がするので番犬でも飼っているのだろう。

 あまりにも、立派な屋敷だったので涼子は圧倒されてしまった。確かに門扉には『崎山』と表札が挙がっていたが……なんだか、入り難いのでこのまま帰りたい気分になった。――あの崎山の庶民的なイメージから、とても想像もできない大豪邸だった。

 少し迷ったが、もしかしたら家を間違えている可能性もあるので、一応チャイムを鳴らしてみた。チャイムにはカメラが付いているので、あちらからも涼子の顔が見えているはずだ。


 ――ピンポーンとチャイムが鳴った。

 こんな時間に誰だろうと、崎山は長い廊下を通って玄関の方へと歩いていく。ここは死んだ祖父が自分のために残してくれた屋敷だが、古臭い日本家屋で何しろだだっ広い。三十畳の大広間とか納戸とか裏庭には蔵まで建っている。

 そのまま、民芸博物館にでもなりそうな家だが、ずっとこの家で育った崎山は使い難いがここが大好きだった。だから祖父母や母との思い出の詰まったこの家から出ていって、お洒落なマンションで暮らしたいとか思わなかった。

 二年前母が亡くなって、ひとりになった時、遠縁の不動産業者が是非、売却してマンションを建てるようにと、しつこく何度もいってきたが、崎山は頑として応じなかった。

 友人たちからも、こんな広い家にひとりで住んでいたら鬱病になるから、一緒に住んでやろうかとまでいわれたが、大きなお世話だ、放っといてくれ! と不愉快に思い、その申し出を断った。母親を亡くしたばかりで傷心の崎山は、そんな言葉を親切だと受け留められない精神状態だったのかもしれない。

 だから、今は愛犬の黒いラブラドール・レトリーバーの『黒豆』とふたり暮らしなのである。


 モニターカメラを覗くと涼子の顔が見えた。

 びっくりして崎山は慌てて身づくろいをした。昨夜はケガで風呂にも入っていないし、会うのが恥ずかしかったが、思いがけなく涼子がきてくれたことがものすごく嬉しかった。

「あ、あれ、涼子さん? ちょ、ちょっと待っててね」

 玄関の扉を開けると、愛犬の黒豆が嬉しそうに駆け寄ってきた。黒豆はいつも広い庭で放し飼いになっている。崎山に飛びついて尻尾を振って愛情を示す、全身真っ黒でちょっと怖い感じがするが、実はとても人懐っこい性格の犬である。

 門扉の向こう側から、涼子がこっちを見ていた。

「ゴメンよ。犬が飛び出すんで鍵をかけてるんだ」

 右肩を脱臼しているので、左手で内側の鍵を開けて涼子を中に入れてくれた。

「崎山くんって、すごいお屋敷に住んでいるのね」

「古いだけが取り柄の家ですよ」

「はい、これ。崎山くんの好きなもの持ってきたわよ」

「おぉー! フライドチキンだ。これが食べたかったんだぁー」

 相好を崩してはしゃいでいる。一緒に黒い犬も尻尾を振っていた。


 この屋敷は伝統的な日本家屋である。障子、床の間、書院窓、欄間らんま、広縁、まるで日本旅館みたいだと思った。中庭の見える客間へ涼子は通されたが、中庭には築山つきやまがあり、錦鯉が泳いでいる池もあるし、植木はきれいに剪定せんていされていた。ぐるりと見回して《こんな屋敷を維持していくのには、相当なお金がかかるんだろうなぁー》と、ぼんやりと涼子は考えていた。

「お待ち!」

 お盆に湯のみを載せて崎山が運んできた。

「肩が痛いのにお茶なんかいいのに……」

「大事なお客様だからお茶くらい出さないと、ご先祖様に叱られるからさ」

 そういって「えへへ」と笑う崎山が、こんな豪邸のお坊ちゃんとは到底思えない。

「ケガは大丈夫?」

「うん。後は日にち薬で治します。それよりスクーターの人は大丈夫だったかなぁ?」

「ええ、スクーターは倒れたけど、運転していた人は大丈夫そうだったよ。自分も脇見運転で、人が飛び出したのに気づかなかったっていってたし。それより乗ってたスクーターに体当たりされてびっくりしてたわよ。ホントに崎山くんたら無茶するんだから……」

「だってさぁー、綾子さんがケガしたら『ゆーとぴあ』の利用者のご飯を誰が作るのさ? 俺がケガした方がマシじゃん!」

「あははっ」

 崎山のヘンな理屈に思わず涼子は笑った。――この男は何を考えているのかよく分からない。


「あぁー、美味かった!」

 フライドチキンを八個食べ、コーラを1リットル飲み乾して、崎山が満足そうに呟いた。涼子は食べている崎山を見ているだけで、もう満腹になったような気がする。――こういう所が、子どもみたいで母性本能をくすぐるのかもしれないと涼子は思った。

「こんな広い家に、本当にひとりきりで住んでるの?」

「ああ、お袋が亡くなってから、ひとりと一匹暮らし」

 中庭のガラス戸の向こう側で、黒豆が嬉しそうに尻尾を振っている。

「お掃除なんかどうしてるの?」

「俺、こう見えて意外と掃除好きなんだ。ま、使ってる部屋だけだけど休日にやってる」

「そうなの。でもお庭の植木の手入れは大変よね? 植木屋さんに頼むの」

「あははっ。それが……俺、通信教育で『庭園管理士』の資格を取ってるんだ」

「えっ? 何それ」

「庭師の資格だよ。福祉介護士の専門学校へ通ってた時に、アルバイトで庭師の手伝いやってたんだ」

「へぇー、凄い! スポーツマンだと思ったら、そんな特技があったなんて……」

 涼子に褒められて、崎山は照れ臭そうに「えへへ」と笑っていたが、底知れぬ能力を秘めた男である。

「お祖父さんが大事にしていた庭木を枯らせたくなかったんだ。ほらっ、築山の所に梅の木があるだろう? ガキの頃、いたずらしてお祖父さんに、あの木に縛られたんだ。昔風の躾だから……」

「あははっ」

「梅の木に縛られて泣いていると、お祖母さんがジュースと飴を持ってきてくれたっけ。縄を緩めて、お祖父さんの機嫌が直るまで大人しくしているんだよって……」

 崎山はどこか遠くを見るような目をして話している。この家の中には、捨てられない記憶や思い出がいっぱい詰まっているのだろう。


「俺、将来、この家でグループホームを経営したいと思っているんだ」

「ここでグループホームを?」

「うん。お年寄りたちが我が家のようにくつろげる。こじんまりしたグループホームを作るつもりだ」

「ええ、この家なら広さも環境も申し分ないと思うわ」

「――その時には、涼子さんもここにきてくれるかな?」

「えっ?」

「一緒にグループホームを運営してほしいんだ」

「もちろんスタッフとして、お手伝いさせてください」

「スタッフじゃなくて……そのう、俺のパートナーとして……一生、そばにいて……」

 崎山は顔を真っ赤にしていた。たぶん、それは崎山のプロポーズの言葉だったのかもしれないが……。しかし、涼子は聴こえない振りをする。

「そうねぇ、優秀なスタッフだと認めて貰えたら、ずっと働きますから……」

「……うん。涼子さんには、ずっと一緒に働いて貰いたい!」

「ええ、そうさせて貰います」

 崎山の気持ちは涼子にも分かっていた。

 しかし、婚約破棄して傷つけた元婚約者のことを思うと……とても結婚なんか考えられない。自分ひとりが幸せになるなんて申し訳なくて……けっして崎山のことが嫌いではないが、もう恋はしないし、結婚は出来ないと、そう心に決めた涼子だった。

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