第十一章 母と娘の絆

「涼子さーん!」

 振り返ると、崎山が後ろから追いかけながら涼子の名前を呼んでいる。仕事が終わってタイムカードを押して帰ろうと、ロッカールームに向かって歩いていた時のことである。

 涼子が立ち止まって待っていると、息を切らせながら崎山がやってきた。

「どうしたの?」

「――涼子さんって、以外と歩くの早いなぁー」

「そうかしら? 普通よ」

「後ろから何度も呼んでるのに、さっさっと歩いていくから……シカトされてるのかとちょっとヘコんだ」

「ゴメン! 聴こえてなかったわ」

「あ、さては仕事のことなんか考えていたでしょう?」

「あらっ、バレた」

 たしかに、涼子は仕事のことを考えながら歩いていた。

「涼子さんって真面目だからなぁー。俺なんか仕事終わったら。晩飯なに食べようくらいしか考えてない」

「あはっ、崎山くんらしいわ」

「だけど……気持ちの切り替えって大事だよ。俺、ラグビーやってたでしょう。試合でミスとかして、それをいつまでも引きずってると実力が発揮出来ないんだ。――出来るだけ、早く気持ちを切り替えないと仲間にも迷惑かけちゃうからさ」

「そうね。崎山くんのいう通りかも……」

 涼子は生真面目なタイプなので、いろんなことがいっぺんに出来ない。それはたぶん気持ちの切り替えがヘタなせいかもしれない。結婚に関しても『介護』の仕事と両立できないのが嫌で婚約破棄したくらいなのだから――。つくづく不器用な人間だと涼子は分かっていた。

「そうそう、綾子さんから今週の金曜日に飲み会どうだろうって伝言がきてる」

「金曜日?」

 そういえば、綾子と病院の中庭でそんな約束をさせられたような記憶が……。

「俺はお酒が飲めないけど……三人でいこうよ」

「ええ、別に構わないけど……」

「ホント? ヤッホー! 涼子さんと飲み会なんて超ハッピーだぁー」

 子どもみたいに崎山がはしゃいでる。無邪気な男で面白い。たぶん、涼子とは間逆のタイプである。だが、そんな崎山には自分にない『強さ』を感じているのも確かだ。


 綾子が飲み会に選んだお店はこじんまりした居酒屋で、料理も美味しいと評判の店である。三人だが掘り炬燵がある個室に案内された。たぶん、予約を入れておいたからだろう。狭い部屋だが、三人で顔を突き合わせてしゃべるには丁度よい広さである。

 さっそく崎山がメニューを見て、あれこれ注文を考えていた。

 涼子にも注文を訊かれたが、特に食べたい物もないし、好き嫌いもないので、崎山と綾子に任せることにした。

 取りあえず、ビールを頼んでコップに注ぐとそれぞれが手にして掲げた。

「カンパーイ!」

「お疲れさまー」

 乾杯して互いの仕事を労う。お酒の弱い崎山はコップに半分ほどのビールを飲んだだけなのに、しばらくするともう顔が真っ赤である。

「お酒弱いねぇー、もうお猿のお尻みたいに真っ赤かだよ」

 綾子が、崎山の顔を見てからかっている。

「俺は食べるの専門だから。ご飯ならいくら食べても大丈夫!」

「崎ちゃんは、頭がお子ちゃまだからお酒がダメなんでしょう」

「あぁー、綾子さんひどいこと言うなぁー」

「あははっ」

 ふたりで冗談をいい合っている。その微笑ましい光景を涼子はにっこりしながら眺めていた。その内、注文の料理が運ばれてきて、崎山はいきなりカツ丼を食べ始めた。

「なんで、カツ丼なんだよ!」

 あきれ顔で綾子が訊く。

「いやー、俺にとっちゃあ、お食事前の前菜がカツ丼なんよ」

「涼子さん、こいつ面白い奴でしょう?」

「あははっ、ホントに……」

 綾子は焼酎のお湯割りを飲みながら、涼子にも話を振ってきた。

「あたしにとっちゃ、崎ちゃんは息子みたいなもんでさぁー」

「おっきい息子さんですね」

「そうでもないさ……もし生きてたら、崎ちゃんより一歳年下の息子がいたんだけど……ね」

「あ、ごめんなさい。辛いこと思い出させて……」

「いいよ。どんなに悲しんでも死んだ者は戻って来ないってことが、最近やっと分かってきたんだ。これも崎ちゃんのお陰かもしれないけどね」

「綾子さん、死んだ息子さんのことをいつまでも悲しんでいても、息子さんは天国で喜ばないよ」

 手羽先をかぶりつきながら、崎山が良いことを言う。二杯目のお湯割りを飲みながら、綾子はしんみりした顔でしゃべる。

「出来のいい息子でさ、家族の自慢だったよ。あの子が死んでから家族がおかしくなったんだ」

「ショックから立ち直れないでいるんでしょう」

「死んだ者の記憶に縛られて、生きている者が大事なものを失ってしまうのは、本末転倒ほんまつてんとうなんだ」

 いつも冗談ばかり言っている崎山が、やけにシリアスなことを言う。

「だけど……家族には絆があるから……」

 つい、涼子が代わりに反論してしまう。三杯目のお湯割りのグラスをテーブルにドンと置くと、綾子が一気にしゃべり出した。

「あたしさぁー、今、家出中なんだよ。旦那と娘を置いて家を出てきちゃったんだ。旦那がDVで、もう我慢ができなくて……殴られるのが怖くて……娘を置いて、あたしだけ逃げ出した」

 綾子のいきなりのカミングアウトに涼子は言葉を失った。

「かれこれ一年経つよ。やっと生活が落ち着いてきたら……娘に会いたくて……」

「娘さんは、大丈夫でしょうか?」

 その問いかけに綾子の顔が、泣き出しそうに歪んだ。

「あたし……娘に悪いことをした。もしかしたら、あたしの代わりに娘が殴られてるかもしれないんだ」

 その言葉に崎山は食べるのをピタリと止めた。

「綾子さん、もしも、そうだったら娘さんを早く助けてあげないとダメだよ」

「崎ちゃん! 娘はとても繊細で傷つきやすい子で……自殺しかねない。何度か家の近くまで様子を見にいったんだけど、あの子は昼間は外に出ないんだよ。おまけに旦那が家に居て、会いにもいけない。電話かけても、いっつも旦那が出るし……あたしも旦那に見つかるのがすごく怖いんだよ」

 よほど夫の暴力が怖いのか、綾子の顔は恐怖に引きっていた。


「よし! 綾子さん、一緒に娘さんに会いにいこう。俺も付いていくから」

 キッパリと崎山が宣言した。

「崎ちゃん! ホントに付いてきてくれるの?」

「おう! 任せとけって!」

 身長180cm以上もある立派な体躯の崎山が、一緒に付いてきてくれれば、もう怖い物なしだ。しかもラグビーをやっていた青年とケンカをして勝てる者はそうはいないだろう。

「ありがとう。崎ちゃん……これで、やっと娘とも会える……」

 綾子は目頭を押さえていた。そんな酷い父親と暮らしているのなら、一刻も早く救い出してあげたいと涼子も思った。

「綾子さん、わたしも付いていきます。何かの役に立つかもしれないし、大学時代の友人で弁護士事務所に勤めている人も知っています」

「涼子さんまで……ありがとう」

「みんなで娘さんを救出にいこうぜっ!」

「これで、やっと連れ出せるよ。もうすぐ娘の十九歳の誕生日なんだ、それまでに会える。本当に嬉しい……」

 綾子は感極かんきわまって泣き出した。

 そんな綾子を励ますように、崎山が冗談を言って笑わせている。――この男は大きな身体と同じくらいの抱擁力を持っていると涼子は思った。


 今度の日曜日に、綾子さんの娘を連れ出しにいく計画を三人で決めた。

 その後、喜んだ綾子はかなり焼酎のお湯割りを飲んでいた。居酒屋を出る頃には、もうべろんべろんに酔っ払って足がふらついていた。

 その様子を見て、心配だから送っていくという崎山の言葉に綾子は、

「いいから、いいからー。崎ちゃんは、涼子さんを送ってあげなさいよ」

 そういって、「バイバイ」と手を振って、ふらふらしながら歩き出した。

「綾子さん、大丈夫かしら?」

「危なっかしいなぁー。ちょっと待ってて、タクシー拾って乗せてくるから……」

 崎山は綾子の方へ走っていった、通りに出ると幹線道路も走っているので交通量が多い。酩酊状態の綾子を捕まえて、崎山は「ここに居るように」といい置いて、タクシーを探し始めた。

 その時だった、酔っ払った綾子がふらりと道路へ飛び出した。歩道側だったので、一台のスクーターが角を曲がって走ってくるのが見えた。

「綾子さん!」

 涼子は大声で叫んだ。

 その声に気が付いた崎山がすごい勢いで綾子の方へ走っていった。綾子を助けるために、なんと崎山はスクーターに突進して体当たりをしたのだ。間一髪、スクーターは崎山の体の楯につんのめるようにして、ゆっくりと転倒して止まった、そして……崎山も倒れた。

 その側で、綾子は尻餅を着いて茫然としていた。

 涼子は慌てて二人の方へ走り寄ったが、崎山は腕を押さえてうずくまっていた。……涼子は震える指で携帯から救急車を呼んだ。

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