第十章 過去は振り向かない

 優衣の母親捜しの件で大学時代の先輩、片桐智和かたぎり ともかずに電話をしたら、明後日から仕事でシンガポールにいくけど、今夜なら少し時間があるというので、急遽きゅうきょ、ショットバーで会うことになった。

 片桐は大学卒業後、官庁に勤めていたけれど、宮使みやづかいは性に合わないと三年で退官すると、バックパッカーになって世界中をひとり旅してきた男である。一年ほど放浪の旅をして日本へ帰ってきた時には、まるで中東の傭兵ようへいみたいな逞しく不敵な面構えになっていた。

 その後、片桐は叔父が経営する『片桐探偵社かたぎりたんていしゃ』で働くことになった。

 アメリカに半年ほど探偵修行にもいっていたらしい。探偵社での主な業務は浮気調査と素行調査、たまに行方不明人を捜すことがあるという。片桐のようなアクティブな男には、探偵業が性に合っていると圭祐は思った。


 片桐に指定された店『Bar Tomorrow』は、雑居ビルの地下にあった。

 薄暗い階段を降りて、重い木の扉を押し開けたら、大人の隠れ家のようなショットバーがそこにあった。店内は間接照明で落ち着いた雰囲気が漂う、長いカウンターと後ろの棚には色とりどりの洋酒瓶が並べられていて、バーテンダーはお客の注文を訊いてからシェイカーを振ってカクテルを作る。

 あまり広くない店内を見回して片桐を探すと、カウンターの奥に座っていた。手に持ったグラスをちびりちびりと飲んでいる様子だった。黒っぽいジャンバーとよれよれのチノパンを穿いた先輩はパッと見は風采ふうさいが上がらない。

 圭祐の姿を見つけて、片桐が手招きをした。 

「よお!」

「こんばんは」

 空いている隣の席に腰を下ろすと、バーテンダーにマティーニを注文した。

「おまえから電話なんて珍しいじゃないか」

「ええ、電話では詳しい事情は説明できませんでしたが、先輩に捜して欲しい人物がいるんです」

「……まさか、元婚約者か?」

「ち、違いますよ!」

「そうか。だったら良かった。あれから一年になるんだなあ」

 一年前だったら、その話題に触れられたら、圭祐は焼けた鉄にでも触ったように過剰反応していたことだろう。今はそうでもなくなってきている、鈍感になった自分が自分でも不思議なくらいである。

「この女性を探して欲しいんです」

 あの日、ビートルの車内で優衣がトートバックの中から取り出した、家族写真の中に写っていた母親の顔を写メしたものを見せた。

「ふぅ~ん。おばさんじゃん。おまえ、このいう熟女が趣味になったの」

「ひどいなあー。その人は知り合いの女の子の母親で一年前に家出して行方不明なってるんです」

 母親の名前と年齢、優衣から聞いた特徴などについて説明する、圭祐の言葉をメモに取りながら、ところどころ質問を入れる。すっかり探偵の顔になった先輩である。

「旦那と喧嘩して家出したんだな? 男性関係はなさそうか?」

「それはなかったみたいです。夫婦仲が悪くて、夫が暴力を振るっていたのが原因みたいだった」

「DVかぁ~。結構多いんだよな。調理師免許を持ってるんだったけ」

「家出する前は社員食堂で働いていたようです」

「中年女性で調理師の資格があるんだったら、たぶん同じ仕事を選んでいるだろう。社員寮の賄いや学校食堂、それから老人ホームの厨房なんかが可能性として高い。その線で調査してみるか」

「さすが先輩はプロですね」

「見つけるのにそんなに時間はかからないと思うけど、俺さ、明後日からシンガポールへ一ヶ月ほど出張なんだ。それまでに片付けたい仕事もあるし……その後でも良ければ引受けるけど、急ぎなら他の業者を紹介してもいいぞ」

「いいえ、先輩にお願いしたい。早い方がいいけど、やっぱり知ってる人の方が安心できるから……」

「分かった。俺に任せなさぁ~い」

 優衣の母親の写真を写メで先輩のスマホに送った。――これには商談成立である。


「ところで……おまえ、もう大丈夫なのか?」

 氷で薄まったハイボールを飲みほすと、おもむろに訊いてきた。

 一年前、片桐先輩にも結婚式の招待状を送っていた、その後、破談になったためお断りとお詫びの手紙を送った人たち、その一人であった。

「もう過去は振り向かない。そう誓った」

「そっか。圭祐、おまえは強くなったな」

「そうでもないさ。かなり苦しんだよ。やっと最近ふっ切れてきたんだ」

「俺はおまえがまだメソメソしてんじゃないかと心配してた」

 破談直後は人々の好奇の目にさらされていた。

 いろんな人が同情やら慰めの言葉を圭祐に言ってきたが、そっとして欲しかったので、誰ひとりの言葉にも耳をかさなかった。――ただ、かたくなに自分の殻に籠っていた。

 そんな中、片桐からメールが届いた。『ドンマイ!』たったそれだけの言葉だったが、かえって嬉しかった。ぶっきら棒だが、昔から片桐は後輩思いの優しい先輩だった。

「彼女と僕は縁がなかったんだ。お互いに結婚相手として相応ふさわしいと思って選んだけれど、運命がリンクしてなかった」

 世間並みならいいと安易に決めた結婚だった。相手の気持ちを深く理解しようとする努力が足りなかった、それゆえ破談になったのだろう。

「まあ、結婚してからトラブル起こすより、結婚する前に見切った方が利口かもしれん。この仕事やってると男女の修羅場しゅらばを度々見せられるからな……」

「彼女が今幸せなら、それでいいんだ。恨みごとなんかいいたくない」

「それでこそ男だ!」

 パシッと片桐が背中を叩いた。手に持ったマティーニを口に含み、アルコールに少し力を借りる。

「僕は今……本当に守ってあげたいと思える相手に巡り合ったから」

「そうか、おまえの表情が明るくなってたから、これは何かあると思った」

「えっ? そんなことが分かるんですか?」

「そりゃあ、探偵だから勘が鋭くなくっちゃ~この仕事は勤まらないさ」

 片桐が叔父の探偵社を手伝うようになって、調査員が五人も増えたらしい。企業の業績や裏金、政治家や暴力団関係など、片桐は海外まで調査にいくことあるという。

「俺はおまえが元気そうで安心した」

 ちらっとロレックスの時計を見て、

「悪い。今夜はおまえと飲みたかったけど、そうもいかない。今から浮気の張り込みがあるんだ」

 酒豪で鳴らした片桐がハイボールをちびりちびり飲んでいるのはオカシイと思っていたら、まだ仕事が残っていたのか。忙しいのに、わざわざ時間を割いてくれた先輩の優しさに圭祐は感謝した。

「ああ、それから……さっきのDV旦那の件だがな、もし他に家族が同居してるなら、その人が暴力の犠牲になってなきゃいいんが……じゃあ、また連絡するよ」

 そういい置いて、片桐は足早にショットバーから出ていった。


 ? 片桐が最後にいった、あの言葉が気にかかる。

 父親の話をする時、いつも優衣の目が脅えたような色になる。常に父親の影にびくびくしている様子だった――。

 ビートルの中で見せて貰った家族写真には父親が写っていない。四、五年前に撮影したものだろうか、今より明るい表情の中学生の優衣と利口そうな顔つきの高校生、たぶんこの人が亡くなった兄か、それと母親と三人で写っていた。寂しい時には、いつもこの写真を眺めるんだといっていた。

 出来るだけ早く、優衣の悲しみを取り除いてやりたかった。マティーニをもう一杯だけ飲んでから帰ろうと圭祐は思った。

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