第九章 あっちの空とこっちの空

     【 ひこうき雲 】


   青い画用紙に

   白いクレヨンで

   一本線をひいた


   あっちの空とこっちの空

   きみの空とわたしの空


   ふたつにわられたお空が

   さみしくて呼びあった


   おーい おーい


   あっちの空はくもってる

   こっちの空は雨になりそうだ


   そしたら風がふいてきて

   白いクレヨン消しちゃった


   ひこうき雲もふきとんで

   ふたつのお空はなかなおり

   よかったね 青い空


          優衣



「あっちの空とこっちの空」そう書いた優衣の詩は、どこかふたりの距離を感じさせる。優衣のいる空のことは何もしらない。――だけど、あの子が幸せじゃない境遇だということは何となく分かっている。

 優衣の瞳がいつも遠い過去を見つめているのは、きっと、今が幸せではないからなんだと思う。いつの日か、優衣が現在を見つめて生きていけるように、何が出来るのか圭祐は自分なりに考えてみようと思っていた。


 伝えたいことがあるので、優衣の配達の時間を待っていた。

 ポストに新聞が挿し込まれた音がしたので、慌ててドアを開けて様子を見た。

「優衣―!」

 圭祐の呼び声に振り返ったその姿は、ブルーフォックスのイヤーマフを付けて、髪は水色のシュシュで束ねられていた。

「おはようございます」

「あ、プレゼント身に付けてくれているんだね」

「はい……」

「優衣に良く似合ってる!」

 圭祐のその言葉に、はにかんで頬を赤らめる。

 すっきりと髪をまとめ毛皮のイヤーマフを付けた彼女は予想以上にチャーミングだった。この娘も少しだけ身なりに気を配れば、容貌は決して悪くないのに……と圭祐は思った。

「今度、どこかへ出かけないか?」

「えっ」

「日曜日は用事とかある?」

「ううん。何も……家に居るだけ……」

「そっか。だったら今度の日曜日にドライブに行こう」

「ドライブ?」

「そう、僕の車で少し遠出をしよう。山と海どっちがいい?」

「……海。寒いけど、冬の海を見てみたい」

「よし分かった。日曜日、九時に駅前のロータリー交差点の所で待っているから、いいかい?」

「うん」

 嬉しそうに優衣が頷いた。その表情に満足そうに圭祐も頷いた。

 そして「配達ご苦労さま!」と声をかけ、ポケットで温めておいた缶コーヒーを優衣に手渡した。

 太い新聞の束を手に、次第に遠ざかる優衣の姿が見えなくなるまで見送ってから、圭祐は自分の部屋に戻った。


 駅前のロータリー交差点の中央には、小島のような大きな花壇があり、四季折々の花が咲いている。今は冬なので三色すみれが黄色や紫、白と鮮やかな色彩でいろどられている。花壇の真ん中には、金属で作られたモニュメントが設置されて時計塔の役目を担っている。

 いわゆる、ラウンドアバウトと呼ばれる方式で、中心の小島のような花壇の周りを既走車両を優先し周回するシステムで、ロータリー交差点の利点を生かしつつ、欠点を改良したものなのである。

 目立ちやすいモニュメントの近くに、愛車のシルバーグレーのフォルクスワーゲンを停めて、優衣がくるのを圭祐は待っていた。

 モニュメントの時計が九時を指す五分前に、きょろきょろしながら優衣が駅前を歩いてくる。初めて会った時にも着ていた黒っぽいジャケットとイヤーマフを付け、オタクっぽい布のトートーバッグを手に提げていた。

 先に気がついた圭祐が車を移動させて、優衣の方へと近づいていって、車のウィンドウを開けて「優衣」と声をかける。

 きれいな外車が傍らに停まったので優衣は面食めんくらっていた。

「おはよう。これが僕の車だよ」

 圭祐は車から降りて、優衣のために助手席のドアを開けた。それはニュービートルという、丸いフォルムのアンティークなデザインのドイツ車で、右ハンドルである。

「素敵な車ですね。こんなの初めて乗った……」

 日頃、父の軽貨物の助手席にしか乗ったことのない優衣は、ひどく緊張しながら乗り込んだ。

「ビートルは古い車だけど、これは新型のビートルなんだ」

 優衣が助手席に座ると、シートベルトをするように促して、圭祐も車に乗り込んだ。

「外車って、すごい……」

 車内を見まわして優衣が呟いた。

 この車をテレビや写真などで見たことがあったが、まさか実際に自分が乗れるなんて考えてもみなかった。

「さーてと、お姫さま。今日は海までお連れしましょう」

「やだ、あはは……」

 圭祐がおどけていうと優衣は嬉しそうに笑った。

 ステアリングホイール脇に設けられた一輪挿しには小さな鈴蘭が活けてある。鈴蘭の花言葉は『幸福が訪れる』優衣への想いを込めて、圭祐が選んだ花である。――爽やかな鈴蘭の香りが仄かに漂ってくる。


「飲みものあるから、どうぞ」

「ありがとう」

 ドリンクスタンドには缶コーヒーが挿してある。ふたりっきりで車に乗り込んだら、引っ込み思案の優衣は緊張して無口になってしまった。カーステレオから軽いJポップを流す。なんだかお互い話の糸口が見つからない。

「――詩はいつから書いてるの?」

 優衣が貝になってしまわないように、さりげなく圭祐から質問をする。

「えっと……小学生の高学年くらいから……きれいな詩を書くと、お兄ちゃんや友だちが褒めてくれるから……」

「そうか、自分のために詩は書かないのかな?」

「……自分のために書いた詩は真っ暗で、誰にも読ませられない」

「暗い詩でも、それが優衣の心を映した言葉なら読んでみたいな」

「あのう。本当に読んでみたいですか?」

 そういうと、優衣は膝の上に置いたトートーバッグに目を落とした。そこには二冊の詩のルーズリーフが入っている。

 優衣は躊躇ちゅうちょしながらも、その一冊を圭祐に渡した。



     【 石ころ 】


   泣き出したいほど辛いとき

   心のスイッチをOFFにする

   何も見えない 何も聞こえない 何も感じない

   そうすれば悲しくても 

   顔は笑っていられる


   すべてをシャットアウトして 

   自分の殻の中へ逃げ込む

   弱いわたし 不器用なわたし 意固地なわたし

   心が傷つかないように 

   そうやって自分を守ってきた


   アルマジロのように固まって

   壊れそうな自分を隠しているの

   触れられないように

   石ころみたいに転がりながら 

   それでも守りたい 小さなプライド



 優衣自身の詩は、現実逃避と自己憐憫じこれんぶん、そして自虐的な詩ばかりだった。

 そこには、生きることへの希望も喜びもなく、絶望感と悲しみだけが漂う。まだ、大人にもなっていない彼女が、なぜ、人生をそこまで悲観するのか、その理由を圭祐は知りたいと思った。


 ドライブ途中の『道の駅』でふたりは休憩をとることにした。

『道の駅』の中にはレストランやコーヒーショップ、お土産物屋があった。その中に洒落た洋菓子店が見つかったので、優衣におやつを選ばせた。彼女は「これ前から食べてみたかったの!」とガラスケースに陳列された、カラフルな色どりのマカロンを見て喜んだ。

 ドライブ中に食べるマカロンを三つほど選んで、後は詰め合わせにして、お土産に持たせた。

 再び、ビートルに乗リ込むと真っ直ぐ海に向かって走らせる。

 優衣は久しぶりのドライブらしく、車の窓から流れる風景を楽しんでいた。まだ若いのだから、もっと外へ出て、いろんなことを楽しんだら良いのに……だが、それが許されない事情が優衣にはあるようだ。

 やがて、ビートルは海に沿って伸びている湾岸道路を走り始めた。白い砂浜と冬の荒い海。雪も少しちらついて外はかなり寒そうだった。どこかに停車できる場所はないかと探しながら運転していたら、しばらく走ると『海の公園』と書かれた標識が見えた。そこのパーキングに車を停めて、ふたりは車窓から海を眺めていたが、優衣が「海岸にいってみたい」といい出した。 


「海岸は、かなり風が強いし寒いよ。大丈夫?」

「うん。海好きだけど……あんまりいったことなくて、波打ち際までいって見てみたい」

 優衣が着ている黒いジャケットは、だいぶ着古しているようで生地が薄くなっている。この娘はおしゃれに興味がないというよりも……着る物をあまり持っていないのかもしれないと、圭祐はそう思った。

「そっか。優衣は詩人だから綺麗な風景を心のアルバムに取っておきたいんだね」

「――そうかもしれない」

「あ、そうだ。後部座席に僕のウインドブレイカーが積んであるから、それを羽織ったら少しは寒さが凌げると思うよ」


 圭祐の紺色のウインドブレイカーを羽織った優衣と海岸の方へ降りていく。海からは容赦なく激しい風が吹き荒む。おまけにみぞれ交じりの冷たい雪まで降ってきた。ふたりは向い風に押し戻されそうになりながらも、海へ海へと歩いていく……。

 ――その姿は、まるで『心中の道行』みたいだと、圭祐は心の中で自虐的に嗤った。


 海岸の波打ち際に立って、ふたりは海を眺めていた。

 夏なら海水浴で賑わう砂浜も、今の季節は海からの漂流物や海藻などで薄汚れている。沖の方では、カモメたちが強い風に吹き飛ばされそうになりながら海面すれすれを飛んでいく。遠く水平線は鉛色の空を映している。――冬の海は、蒼く冷たく心まで凍えそうだ。

「そろそろ車に戻ろうか?」

 じっと海を見ている優衣に焦れて、圭祐が声を掛けた。

「あたしが小学生の頃、夏になるといつも家族で海水浴にきたんだよ」

「海水浴かあ、子どもの頃には僕もよくいった」

「いつも海が怖くて、なかなか入れないあたしを、お兄ちゃんが手を繋いで一緒に入ってくれたんだ」

「優しいお兄さんだね」

「うん。なのに……優衣をひとり置いて、お兄ちゃん天国に逝っちゃった」

 冷たい風にあてられた優衣の頬はリンゴのように真っ赤になっている。血色が良くみえるが、このままでは風邪を引きそうだ。圭祐は用意して来た言葉を優衣に言おうと決めた。

「優衣、僕とひとつだけ約束して欲しいことがあるんだ」

「……なぁに?」

「どんなに辛いことがあっても、ひとりで苦しんで……手首を切ったりしないでくれ! 苦しい時には、この僕を頼ってきて欲しいんだ」

「――ありがとう。あたし、今まで相談できる人がいなかったから……」

「優衣、今の願いは何?」

 そう訊くと、しばらく考えていたがぼそりといった。

「お母さんに会いたい」

「そうか」

 優衣の母親は一年前に家出している。

「死んだお兄ちゃんとは、二度と会えないけど……生きているお母さんとは会いたい……早く会いたいよう……」

「そうか」

「お母さんは、あたしを置いて出ていった、ずっと寂しかった……」

 優衣が嗚咽を漏らす。

「分かった! 絶対に探し出してあげるから。お母さんの名前と歳は?」

「辻本綾子、四十七歳……」

「きっと、お母さんと逢えるからね。大丈夫だよ」

 泣いている優衣を圭祐は優しく抱き寄せた。《震える小鳥を胸に抱く……》この娘は絶対に自分が守ってやると、圭祐はそう心に誓った。

 強風に立ち向かうように肩を寄せ合って、ふたり波打ち際に立っていた――。


 海岸からの帰り道。食事をしようと優衣を誘ったが……「夕食の時間に間に合わないと、お父さんに叱られるから……」と車内でサンドイッチを食べた。駅前に着いて、車を降りると慌てて自転車で帰って行った。

 母親が家出した後、どうやら優衣と父親は上手くいっていないようだと圭祐は感じた。

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