第八章 ひとりで頑張らない

 涼子は『吉田家の事件』で、警察から事情聴取を受けたが、ショックであまり詳細には覚えていなかった。その代わり崎山が警察にいろいろ説明してくれたみたいである。事件の日は警察署から職場に戻ったが、動揺していて仕事が手に着かず早退して家に帰った。

 その晩、急な発熱で涼子はダウンしてしまった。どうやら風邪を引いたみたいで喉が痛く、身体が熱っぽい。だるくて何もする気になれなくて……今日で三日目、涼子は職場を休んでいる。市販の風邪薬を服用しているが、病院でちゃんと治療を受ければ、すぐに治るような風邪だと分かっているが、病院にもいかず家で寝ていた。何となく、今は病気の自分に甘えていたい気分なのだ――。


『介護』の仕事を始めて一年……涼子はこの仕事にやり甲斐を感じて、自分の天職てんしょくだとさえ思っていた。

 いつも、きちんと職務を果していると自負していた。――それなのに、先日の『吉田家の事件』で、涼子は何も出来なかった。木偶でくの坊みたいに突っ立ったまま、ただ見ていただけの自分が情けない、しかもパニックを起こして泣き出してしまった。


 かつて、涼子が『介護』の仕事をすると決めた時に多くの人を傷つけた。

 婚約者には挙式一ヶ月前に婚約破棄して、ふたりの家から飛び出した。自分の両親に結婚をしないと告げた時、母親に「どうか、式だけでも挙げておくれ」と懇願こんがんされた。親戚や友人、近所の人にもご祝儀やお祝いの言葉を貰っている手前、結婚が破談になったなんて世間体が悪くて、恥ずかしくて、もう外にも出られないと泣かれた。父親は愚痴ぐちとはいわなかったが「おまえの婚約者とご両親に申し訳ない……」と肩を落としていた。

 その後、涼子の両親は婚約者の実家に謝罪にいったが、会っては貰えなかったそうだ。相手の両親とすれば、大事な息子の将来に泥を塗ったと激怒していることだろう。どんなに責められても仕方ないことだと、涼子にも分かっている。

 それなのに……そこまで犠牲を払って、選んだ『介護』の道だったのに……自分は無能者だった。そのことを思い知らされて、ショックのあまり涼子は働く気力を失い、そのせいか、風邪まで引き込んでしまった。


 寝込んで三日目、ようやく涼子はベッドから起き上がったが……頭がフラフラする。この三日間、水以外ほとんど何も口にしていなかったことに気がついた。ずっと眠っていたようだ、途中、何度か携帯の呼び出し音が鳴ったが、無視して、さらに眠り続けた。

 今の体調は風邪だけではなく……少し鬱になりかけているのかなぁーとも思う。

 取り合えず、何か食べなくてはと立ち上がってキッチンまでいき、お湯を沸かして、インスタントのカップスープを作って飲んだ。バターロールとヨーグルトも少し食べたら、ちょっとだけ元気が出た。


 風邪は回復してきたが涼子の心は重かった。こんな自分が『介護』の仕事を続けていても迷惑にならないだろうか。太田サヨのことも、自分が会いにいってあげなかったので……寂しくて、自殺したのかも知れないのだ。

 結局、誰ひとりとして救えないし、何の役にも立ってはいないのだ。自己嫌悪で涼子は自分ばかりを責めていた。

 明日には出社しなければいけないと思うのだが、どうにも気が重くて……《仕事どうしよう? このまま辞めちゃおうかなぁー》そんなことをぼんやりと考えていたら、いきなり玄関のチャイムが鳴った。

 パジャマ姿だし、病み上がりでやつれて元気もないし、人と会うのは億劫おっくうだったので、を決め込もうとチャイムを無視していたら、今度は玄関のドアをドンドンと激しく叩き始めた。

 もう! うるさいわね。いったい誰なのよ? ムッとして立ち上がり、こっそり玄関の覗き穴から見たら、でかい図体の崎山が立っていた。


 涼子が玄関のドアを開けると、元気な崎山が飛び込んできた。

「ほい、お見舞い!」

 いきなり、目の前にフライドチキンが入ったバケツみたいな箱を突き付けられた。

「あれれ、涼子さん。すっかりやつれちゃって……」

「うん……」

「俺、心配で様子を見にきたんですよ。ご飯食べてなかったでしょう?」

「ありがとう。熱があって、食欲がなかったから……」

 あんまり、しつこくドアを叩くので……仕方なくパジャマの上からカーディガンを羽織って玄関を開けたら、やたら元気でハイテンションな崎山に、頭がクラッとして、開けるんじゃなかったと、深く後悔している涼子であった。

「ダメじゃないですか。これ一緒に食べましょう!」

 チキン10ピース入りのバケツを目の前でブラブラさせながら、崎山がいう。

「お見舞いって……ホントは自分が食べたくて買って来たんでしょう?」

「あれ、バレたかあー!」

 まるで悪戯いたずらっ子みたいに、えへへと崎山が屈託くったくなく笑う。

「もう、とにかく中に入ってよ。どうぞ」


 涼子の部屋はワンルームなので、小さなキッチンと奥に十畳ほどの洋間があるだけだ。当然、寝室兼居間なので、ベッドのある部屋に男性を通すのははばかれるが……崎山だと、あまり異性を感じられないし、涼子は内心、この男は性欲よりも絶対に食欲の方が勝っているのに違いないと思っていたから、しとしたのである。

 寝乱ねみだれたベッドを見られるのは、ちょっと恥ずかしいが……病人だから仕方がない。冷蔵庫に発熱用に買って置いたスポーツドリンクがあったので、ペットボトルごと崎山に渡すと、もう、すでにバケツを開けて、チキンにかぶり付いていた。

「いやー、うまい、うまい!」

 あっという間に5ピース食べてしまった。

「フー。いつ食べてもフライドチキンはうまいなあー」

 やっと、人心地ひとごこちついたのか。今度は五百リットルのスポーツドリンクを一気飲みした。豪快な男である。あきれ顔で見ている涼子に気がついて崎山が……。

「どうしたの? 食べてないじゃないですか?」

「崎山くんの食べる姿を見ているだけで、お腹がいっぱいになったわ」

「体力つけないと風邪治りませんよ」

「でもね……。病み上がりの人のお見舞いにチキンはおかしいでしょう?」

「えっ! そうですか? 俺は熱があっても焼き肉いけますけど……」

「それは崎山くんだけ!」

「えへへ」

 何を言われても気にする風もなく、飄々ひょうひょうとマイペースな崎山。ほんとうは、こんなタイプの人間が『介護』には向いているのかもしれない、涼子はそう思った。

 自分のペースを崩さない……実は人間相手の仕事ではそれが一番難しいのだ。


 その後、さらにチキンを3ピース食べた崎山は満足したみたいで、ニコニコしていた。この男はまったく何しにきたのよ? と思いながらも、どこか憎めない存在なのである。

 婚約者だった人は神経質で繊細なタイプだったが、崎山は無神経で大雑把おおざっぱ、こちらも気を使わなくて済む分だけ疲れないタイプである。

「あのさー」

「うん?」

 ちょっと、神妙な顔で崎山が何かいいかけてきた。

「こないだの吉田さんの件……涼子さんにはショックだったよね? あの時、涼子さんが車の中で泣いてたんで……俺、ビックリしたんだ」

「……まさか、泣くと思わなかったでしょう?」

「うん。何て言うかぁー、その……やっぱし女の人だなぁーって思った」

「不甲斐ない奴だと幻滅したよね?」

「いいや。俺……泣いてる涼子さん見て、キュンときた!」

「えっ?」

「可愛いなぁーって、抱きしめたくなった!」

「ぶっ! ま、まさか」

 涼子は噴いてしまったが、崎山の顔が赤くなっていた。

「――わたし、あの時……何も出来ずに突っ立っていただけで介護者として失格だったわ」

「涼子さんは真面目過ぎるから、ああいう場面に直面するとパニックになっちゃうんだ。俺はラグビーやってたし、少々の流血くらいどうってことないからさ」

「自信失くした。自分の職務を果たせないなら辞めた方がいいのかなぁーって……今は思ってる」

「はあ? 何いってるの? 職務とかそんな言い方は傲慢ごうまんでしょう?」

 急に崎山が厳しい顔で切り返した。涼子は驚いて、黙って、次の言葉を待った。

「俺、そんな風に上から目線で仕事を語る人は好きじゃない。職務とか、そんな義務感で行動する前に、人間としてどうするべきか。――それが先決でしょう?」

 確かに、あの時の崎山の行動は冷静沈着れいせいちんちゃくで適切だった。

 何からすべきか心得ていたように思える。それは職務ではなく、人間として取った行動の結果なのだろうか。崎山という男の一見、大雑把おおざっぱでいい加減そうな人柄の裏に隠された。男らしい行動力には、涼子も少し魅かれ始めていた。


「なぁーんちゃってね! 偉そうにいってゴメン!」

 崎山はテレ隠しに頭を掻いた。

「……ううん。たしかに崎山くんのいう通りかもしれない。わたし、思い上がっていたのかもしれない」

「何もかも、ひとりで頑張らない」

「うん」

「仲間がいるんだから、自分の手に余ることは頼んだらいいんだよ」

「そうね」

「ひとりの十歩より、みんなの一歩だから……」

「崎山くん、良いこと言うね」

「こないだ、立読みした本に書いてあった」

「あははは」

 崎山としゃべっていると涼子の憂鬱な気分が少しずつ晴れてゆく――。

「ところで、崎山くん。仕事はもう終わったの?」

「あっ! しまった。 もう一軒、利用者の家に迎えにいかなきゃあー」

「ええー! チキン食べてる場合じゃないでしょう!」

「やばい、やばい!」

 そう言いながら、崎山は慌てて涼子の部屋から飛び出していった。真面目なのか不真面目なのかよく判らない。しかし、なんだか癒される不思議な男だ。


 涼子は三日間休んで、四日振りにデイサービス『ゆーとぴあ』に復帰した。

『吉田家の事件』の後だったので、みんなが気を使って心配してくれていたのがよく分かる。実際、風邪だったのだが、それ以外の要因で体調が悪くなったのも確かである。崎山と話してから、ふっきれたみたいで少し心が軽くなったように思える。

 午前中はお年寄りの入浴の介助などをやっていたが、やっぱし身体が本調子ではないのでかなり疲れた。お昼の休憩時間、隣接する病院の中庭で本でも読もうかとベンチを探していたら、そこには先客がいた。涼子の気配に気づいて相手も振り向いた。

 先客は綾子あやこさんと呼ばれている、調理室で働く四十代後半の女性だった。

 涼子とほぼ同じ時期に『ゆーとぴあ』に勤めた始めた人だが、調理師免許を持っているので、厨房での仕事をかなり任されているらしい。崎山は、この綾子にオムライスやチャーハンをよく作って貰っている。

 職場の噂では、綾子はテキパキと仕事はよく出来る人だが、あまり職場の仲間たちとは付き合いがなく、どことなく陰のある人で、アパートにひとりで暮らしているらしい。

「どこもかしこも禁煙でさぁー。携帯灰皿持って、ここで吸うしかないんだよ」

「そうですね……」

 綾子は煙草を指に挟んでうまそうに吸っている。煙草を吸わない涼子には返答のしようもない。

「あんた、もう大丈夫なのかい?」

「えっ? はい、風邪は治りました」

「崎ちゃんがねぇー、すごーく心配してたんだよ」

「そ、そうですか?」

 崎山と綾子は親しい仲である。

「あんたが休んでる時さぁー、崎ちゃん元気なくて……あたしが作った『特製オムライス』残したんだよ。それで事情を訊いたら、涼子さんが今日で三日も休んでて、俺、心配で仕方ないって言うから、だったら、お見舞いに行きなさいよ。ってハッパをかけたんだよ」

「へぇー、そうなんですか?」

 自分のいない所で、自分が話題になっているのを聞くのは面映ゆい。あの日、崎山が涼子の家にお見舞いにきたのは、どうやら綾子のハッパのお陰のようだ――。


「崎ちゃん、いい奴だよ。あんたどう思う?」

「えっ! そんなこと急に言われても……」

 いきなり、綾子が崎山のことを打診するようなことを言ってきたが、涼子としては答えようがない。

「まっ、付き合ってみないと分からないだろうし……」

 綾子は煙草を咥え、眉間にシワを寄せて何か考えている様子だ。

「そうだ! 今度、三人で飲みにいこうよ」

「えぇー!」

「いいじゃないの、三人で飲み会しよう。あんたは飲めるんだろう?」

「まあ、少しは……」

「崎ちゃんは図体の割にお酒弱いんだよ」

「あ、そうなんですか?」

「あいつは食べるの専門でさぁー。コップ一杯のビールで顔が真っ赤っかかなんだ。マントヒヒみたいになってさ」

 そういった綾子が、うぷぷっと笑った。

「じゃあ決めたよ。日にちは後で連絡するから、よ・ろ・し・く」

 一方的に綾子が涼子にいい置いて、煙草を携帯灰皿で揉み消すと、さっさっと行ってしまった。あっけに取られて、返答もしないままに『三人飲み会』の件を承諾した形になってしまった。

 たぶん、綾子は崎山と涼子をくっつけようと目論もくろんでいるのだろうが……涼子には、そんな気持ちは毛頭もうとうないし、自分には婚約破棄で多くの人を傷つけた過去があるので、どんなに良い人が現れても絶対に好きになったりはしない。

 過去に、《婚約者を傷つけた自分は結婚して幸せになる資格はない》と涼子は思っているから、一生結婚はしないと固く心に誓っていた。

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