第三章 【 taboo word 】
身を切るような冬の冷気。指先とつま先が凍えて感覚がなくなる。剥きだしの耳は冷たい風に晒されて
高校卒業後、就職活動に失敗した優衣は、近所の新聞店で朝刊の配達のアルバイトをやっている。人見知りで人間関係が苦手な優衣は誰とも話さないでひとりでやれる、この仕事を気にいっているが、朝が早いのと冬の寒さはさすがに辛い。
まだ夜も明けきらない早朝に優衣はこっそりと家に帰る。
父の部屋からイビキが聴こえる。まだ父は眠っているようだから起こさないように……そっと忍び足で二階の自分の部屋に戻る。もしも寝ているところを起こそうものなら、寝起きの悪い父に怒鳴られるから――。
優衣は古い二階建ての分譲住宅に、父の
義男は軽貨物で運送の仕事をしているが、この不景気で仕事の注文も思うようにない。働いていた母の収入もなくなり――辻本家の生活は
義男は酒も飲まない小心な男だが、仕事の
母が出ていった今、優衣は家事と父の世話を任されている。
優衣は不機嫌で短気な父が怖かった――。
早朝の仕事で昼間は寝ていて、夕方から早朝にかけて起きているが、出来るだけ父とは顔を合わせたくなかった。
日常の生活態度について、義男は
そのせいで情緒不安定になって、自分さえいなければと……自己嫌悪に落ち込んで、その苦しみから逃れるために、自分の身体を傷つける自傷行為リストカットをやってしまう。
まるで出口のない暗闇のトンネルを彷徨うような、ぎりぎりの精神状態だった。
そんな優衣の唯一の趣味は詩を書くことである。
苦しい時、悲しい時、寂しい時……詩を書くことで自分自身を慰めてきた。心の中を
ルーズリーフに書き込まれた、優衣の詩。
【 水底 】
悲しみは 涙となって溢れだし
しょっぱい味のプールになった
わたしの苦しみは終わらない
涙のプールに落ち込んで
どんどん深みに沈んでいく
どんなに足掻いても
浮かび上がることができない
この水圧から逃れられない
水底から見える空は
あんなに明るくて
手を伸ばせば掴めそうなのに
わたしの悲しみは終わらない
このままプールの水底で
息を止めて沈んでいたい
まるで水死体のように
義男も昔はあんな気難しい人間ではなかったが、可愛がっていた長男の
優衣はいつも亡くなった兄の健人のことを想っていた。
幼い頃から気が弱くて引っ込み
優衣のこともよく可愛がってくれた。健人は兄だけど、憧れの異性でもあった。《大きくなったら、お兄ちゃんのお嫁さんになりたい》それが幼い頃の優衣の口癖だった。世界一大好きな男性はお兄ちゃん健人なのだ。
家族にとって太陽のような存在だった健人が、バイク事故で急死したのは三年前の冬のことだ――。道路をバイクで走行中、後ろから追い越してきたトラックに追突され、反対車線に弾き飛ばされて、対向車に轢かれて即死だった。
健人の葬儀の日、父も母も悲しみで打ちひしがれていた。
出棺の時、優衣は兄がくれた白いクマのぬいぐるみを《優衣だと思って一緒に連れて行って……》泣きながら、兄の棺の中に入れた。
その時だった、父義男の呟く声が聴こえた。「なんで健人なんだ? 優衣だったら良かったのに……」はっきりと耳に聴こえた。義男は健人の代わりに優衣が死んでくれたら良かったのに――と、そう思っていたのだ。
日頃から、父は長男である健人に大きな期待を持っていた。それに比べて、優衣には冷ややかだった。大事な健人が死んで、要らない子の優衣が生きてることが、義男には納得できなかったのだろうか。――そして、父の言葉は鋭いナイフのように優衣の心に突き刺さった。
その時のショックで優衣は引き籠りになり学校も不登校になった。
それから家族の歯車が狂い始めた、《お兄ちゃんが死んでから、うちの家族はバラバラになってしまった》優衣の嘆きも天国の兄には届かない。両親の仲も悪くなって、ついに母が家を出ていってしまった。
あれから一年になろうとするが、母から優衣の元になんの連絡もない《お母さんは優衣のことを捨てたんだ!》悲しくて、寂しくて、耐えられない日々だった。
あの時、父が呟いた「なんで健人なんだ? 優衣だったら良かったのに……」その言葉は――。
親として決して言ってはいけない言葉だった。
優衣のルーズリーフに悲しみの詩がひとつ。
【 taboo Word 】
君が天使なら
私が悪魔になって
その綺麗な翼に傷をつけよう
もしも君が悪魔なら
私が天使となって
君の罪に裁きを下そう
これは 君を傷つけるためだけ
ただ そういうゲームなのさ
理不尽は【 taboo word 】
もう 逃げ場なんかないんだ
世の中には善も悪もないのさ
在るのは悪意に充ちた
自己満足だったりして……
18782+18782=37564
イヤナヤツ+イヤナヤツ=ミナゴロシ
ほら 素晴らしい数式だろう?
全ての罪を懺悔するがいい
絶望の淵までゲームは終わらない
理不尽は【 taboo word 】
発狂しそうな太陽を投げつけた
二階の優衣の部屋は六畳の和室でベッドと机と本箱がある。女の子の部屋にしては、かなり殺風景だ。部屋に余計なものを置かない主義の優衣にはこの方が落ち着く。
赤い綿入りの
自動販売機で買ったホットココアをひと口飲むと、温かな甘さが口の中に広がって、ほっとするひと時だ。――それは、一日の内で優衣が安らげるわずかな時間だった。
ふと、昨日ゲームセンターで会った、
――きっと、ひどく傷ついているのだろう。
その婚約者の人が、今でも大好きなのかもしれない。だったら《あの人は可哀相だなぁー》と優衣は思った。あまり異性には興味のない奥手な優衣だが、圭祐のことはちょっと気になった。
それというのも、圭祐は優衣の亡くなった兄健人に雰囲気がよく似ていたからだ、ゲームセンターで白いクマのぬいぐるみを渡された時、お兄ちゃんと似ている! と一瞬、茫然となったほどに――。
昔、健人が優衣のために白いクマをUFOキャッチャーで取ってくれた時も、昨日と同じようにベンチに座って待っていたら、健人が「これ、取れたよ」と言って優衣に渡してくれたのだ。そのシチュエーションさえ同じで、まるでデジャヴのようだった。――兄健人の姿がダブって見えた。
今朝、昨日のお礼にメゾン・ソレイユの七〇七号室のドアポストに、優衣の小さな詩を書いたメモと一緒に朝刊を入れてきた。《えへへ、ちょっと恥ずかしいけど、あの詩を気にいって貰えたらいいなぁー》そんなことを考えて、ひとり照れ笑いをしていた。
「優衣、優衣―!」
突然、階下から優衣を呼ぶ怒鳴り声がした。
父が起きたようだ。今から朝食を作りにいかなければならない。ゆっくりと優衣は降りていく、暗く冷え切った階段の底には絶望的な日常しかなかった――。
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