第二章 幻想の冬
身を切るような冷たい風に混じって、雪にもなり切れない、みぞれが頬を打ちつけていた。
真冬の夕暮れの街、誰もが寒さを
急いで帰ったところで、圭祐の3LDKのマンションには「お帰りなさい」と待ってくれている人はいない。ふと、懐かしい面影が頭をよぎったが、圭祐は慌てて打ち消した。
未練がましく、あの部屋にひとりで暮らしているが、広すぎるし、寒々しくて帰る気がしない。――春になったら、あのマンションは売って……もっと手頃な広さの賃貸を借りてもいいなぁーと圭祐は考えていた。
――三十歳、結婚考える年齢になって、むしろ結婚から遠ざかってしまった。
あの日から一年、いろんな想いを……仕事に没頭することで忘れようとしてきた。出来るだけ余計なことは考えずに、会社と家を往復するだけの日々を送っていたのだ。
マンションの部屋も使っているといえば、ダイニングキッチンと寝室だけで、他の部屋はドアすら開けたことがない。特に彼女が使っていた、あの部屋は封印したままで存在すら忘れようとしていた。
あの日のことを思い出すと……圭祐の胸はきりきりと痛み出し、噴き出しそうな感情を抑え切れなくなってしまいそうで怖かった。今までの人生で経験したことのない『婚約者に逃げられる』という屈辱感――。いっそ彼女を憎めたら、こんな理不尽な感情からも解放されるのかも知れない。たとえ、彼女を捜し出して本音を聞けたとしても、傷ついた心は元には戻らない。
――もうやり直すことは不可能だろう。
だから圭祐は、こう思うことにした、《君はいなかった! 最初から存在しない女性なんだ!》全ての記憶を拒絶した。そうやって、心の傷口に絆創膏のようにその呪文を貼り付ける。
あれから一年……彼に取っては、ただ、生きているだけの虚しい日々だった。圭祐の悲しみは圭祐にしか分からない。だから、誰からの慰めの言葉にも耳を貸さないで、ただひとり沈黙し続けた――。
今日はいつもより早く仕事が片付いたので、どこかで夕食でも食べるか、ちょっと飲んで帰ってもいいな、そんなことを考えながら駅前の商店街をぶらぶらと歩いていた。
圭祐は自宅では酒を飲まないことにしている。ひとりで酒を飲み出すと……一年前のことを思い出して鬱々とした気分になって遣る瀬ないからだ。やけ酒を煽るような惨めな男にだけはなりたくなかった。
商店街は賑やかでいろんな店から音が聴こえてくる。パチンコ店、コンビニ、ゲームセンターなどの。――どうして、あの時、そんな気分になったのか分からないけれど……あれが、いわゆる『運命』って奴だったのかも知れないと、後ほどになって圭祐には分かった。
ゲームセンターの前を通りかかった時、なんだか、急にストリートファイターみたいな格闘ゲームがやりたくなった。ゲームセンターなんか大学卒業以来、ほとんど入ったこともなかったのに、なぜか、たぶん寒いせいもあったのか? エキサイト出来るようなゲームがやりたくなって、ふらりと店内に入った。
久しぶりのゲームセンターに勝手が分からず、きょろきょろと薄暗い店内を見回す。圭祐がやりたいゲーム機はどうも奥の方にあるみたい、そこから人工的な爆発音が聴こえてくる。入り口付近にはUFOキャッチャーなどのクレーンゲーム機がたくさん設置されていた。カラフルなぬいぐるみが入っていて見ているだけでも楽しい。
ひとりの少女が真剣な眼差しで、UFOキャッチャーをやっていた。
彼女は白いクマのぬいぐるみを狙っているらしく、何度、失敗してもチャレンジしていた。白いクマのぬいぐるみは頭の部分が大きいので、クレーンの握りではなかなか掴めず、重さですぐに落ちてしまう。それでも少しづつ移動させて取り出し口近くまできていたが……もう後一歩だぞと、圭祐は後ろから見ていたら……惜しいところで少女はプレイを止めてしまった。どうやら資金がなくなったようで……後、一、二回のプレイで取れそうだったのに……。
少女はケースの中をじっと覗き込んで、悔しそうに軽く叩いて、がっくりと肩を落とし、その場から立ち去った。
圭祐はなんとなく、その少女の後ろ姿を見送っていた。
すると、隣のUFOキャッチャーをしていたカップルが、こちらを指さして「ねぇ、ねぇ、あれ取れそうよ」女の声が聴こえてきた。その声に慌てて圭祐は硬貨を投入口へ放り込んだ。
「これ、あげるよ」
白いクマのぬいぐるみを少女に差し出した。
きょとんとした顔で圭祐の方を見ている。――たぶん、年は十代後半くらいで、化粧っ気のない地味な感じ、色白だがまだニキビの痕が残っている。おどおどした黒い瞳と長い髪が印象的な少女だった。
「これは君のものだよ」
「……ありがとう」
やっと、少女は手を伸ばして受け取った。
あの後、隣のカップルに白いクマを取られそうになったので、圭祐は硬貨を入れてUFOキャッチャーの続きをした。二回ほどのプレイで白いクマは取り出し口に落ちた。
そして、店内を探して回ってやっと見つけた。少女はゲームセンターの奥にある喫煙コーナーのベンチにしょんぼりと座っていた。
「そのクマ欲しかったんだろう?」
「うん」
「いくら使ったんだい?」
「三千円くらい……」
「買った方が安いんじゃないか」
「でも、このクマはゲーセン限定品で……どうしても、これが欲しかったから……」
俯いて小さな声で喋る少女。
その手には白いクマがしっかりと握られていた。何気なく圭祐も少女の隣に腰をかけた。――日頃、あまり人と気安く喋らない圭祐だったが、なんだかこの少女の寂しげなオーラに魅せられて、少し話をしてみたくなった。
圭祐はこの少女に、どこか自分と似た匂いを感じていたのかもしれない。
「君は学生?」
「ううん、働いてる」
黒っぽいフード付きのコートに、ジーンズとスニーカー姿の彼女は、どう見ても社会人っぽくは見えない。服装のセンスも野暮ったい。少女は俯いてぽつりぽつりと自分のことを話す。
「今、アルバイト……去年、高校卒業したけど就職出来なくて……」
「そっか……」
「就職の面接で何度も落ちた」
そう言うと彼女は申し訳なさそうに肩をすぼめた。
「今は不況で新卒の就職も難しいから」
圭祐の会社でも今年は新卒採用が少なかった。
「コンビニとか求人多いけど……」
「サービス業なら求人チラシ貼ってるのよく見かける」
「あたし……不細工で愛想も良くないから接客業もダメみたい」
なんだか、ずいぶん自分自身を卑下している子だなと圭祐は思った。
喫煙コーナーのベンチに座って話しをしていたら、男が三人ほどこっちにきて灰皿を囲んで煙草を吸い始めた。煙草を吸わない圭祐は煙がこっちに流れてきて煙いので、どこかへ場所を移動したいと思った。
「お腹空いてない?」
「えっ?」
「何か軽いものでもどう?」
「あ……」
少女は戸惑っているようだ。いきなり食事に誘うのは、確かに
「心配しなくても、そんなんじゃないから……僕は家に帰ってもひとりだから、食事のツレが欲しいだけなんだ」
圭祐が笑いながら言うと、少女も納得したみたいで「うん」と頷いてベンチから立ち上がり、後ろからそろそろと付いてくる。
『そんなんじゃない』とは、下心という意味だが……初対面でどう見ても自分よりもひと回りは年下の女の子に、そんな気持ちは全く持っていない。
ゲームセンターの並びにあるハンバーガーショップで軽い食事を取ることにした。
レストランに入るよりも、こういう慣れた所の方が警戒しなくていいかと思ったからだ。カウンターの前に並んで「好きなものを注文しなよ」と圭祐が言うと、少女は迷うことなくチーズバーガーとジュースとポテトを頼んでいた。
ふたりの注文品を乗せたトレイを持って空いているテーブルを探す。平日のどんな時間帯でも、こういうお店はだいたい満席状態だ。特に駅前だと待ち合わせや軽い食事に利用する人が多いからだろう。
奥の方に二人掛けの席が空いていたのでそこに行って、少女と向かい合って座った。着ている服やヘヤースタイルは野暮ったいが、よく見ると幼さの残る
先に食べ終わった圭祐はゆっくりとホットコーヒーを飲みながら、少女が食べるのを見ていた。彼女はマイペースというか、あまり動作が早くない。まるで小鳥が
食べ終わるとお腹が膨れて少し警戒心もなくなって来たのか、少女の固い表情も柔らかくなってきた。
「さっき、ぬいぐるみ渡してくれた時、お兄ちゃんかと思った」
「君のお兄さんのこと?」
「うん。三年前にお兄ちゃん交通事故で死んだ」
「あ、そうなんだ」
「このクマは前に同じもの持っていたよ。今日みたいにゲームセンターでお兄ちゃんが取ってくれたんだ。さっきみたいにあたしに渡してくれた。まるでデジャヴみたい……」
少女は手に持った白いクマのぬいぐるみを愛おしそうに撫でている。
「じゃあ、そのクマは……」
「お兄ちゃん大好きだったから、天国でも一緒に居られるようにクマのぬいぐるみを、あたしの代わりに、お兄ちゃんの棺の中に入れて焼いてしまったから、今は持ってないの」
その時のことを思い出したのか、少女の瞳は悲しみの色になった。
そうか、この子も大きな悲しみを抱えて生きているんだ。表情の暗さはそのせいなんだと分かった。
さっきは気付かなかったが、ハンバーガーショップに入ってコートを脱いだら……少女のセーターの袖口から包帯を巻いた手首がちらっと見えた。しかも左の手首だ。もしかしたらリストカット?
少し
「手首どうしたの?」
この問いに一瞬、ハッとしたような顔になったが……しばらくの沈黙の後、
「……切った……自分で……」
「死にたかったの?」
少女は黙って、手首の包帯を隠すようにセーターの袖を引っ張っていた。
「痛くて……深く切れなかった」
「死んだりしたら両親が悲しむだろう」
「お母さんが家出して、今はお父さんとふたりで暮らしてる」
「辛い時、相談する友達とかいないのか?」
「あたし……高三の二学期からほとんど学校いってなくて……友達いない」
「イジメられていたとか……」
「そうじゃないけど、クラスの雰囲気に溶け込めなくて……いつも保健室登校だった」
「……そっか」
少女は心にいろんな傷を抱えていて、それらが原因で
「あたし……不細工だし、不器用で何も出来ない。親にも愛されていないし、生きている価値のない人間だから、消えてしまいたい……」
そう言って、白いクマを抱きしめて少女は泣き出した――。
辛い話をさせて泣かせてしまった、圭祐は悪いことをしたと思っていた。目の前で泣いている、この少女に対して大人として何か励ましてやるべきなんだろう。だが、
圭祐は考えていた《生きている価値ってなんだ?》それは人が決めるのか、自分で決めるのか? 必要とされない人間、役に立たない人間、不自由な人間は生きていてはいけないのか?
そんなはずはない! どうして、そんな風に自分を追い込んでしまうんだ。『生きている価値』ではなくて、生きることに価値があるんだ! そうじゃないのか?
圭祐は心の中で自問自答していた。
「――君がそんな風に自分を『生きている価値』のない人間だと言うのなら、僕も『生きている価値』のない人間なんだ。一年前、僕は婚約者だった女性に捨てられた。しかも簡単に……それは僕って人間に価値がなかったってことなんだ!」
今まで抑えていた感情が突き上げてくる。
少女のカミングアウトで、心の傷に貼り付けていた絆創膏が剥がれてしまった――。それは怒りではなく、悲しみでもない。――悔しさだった! 婚約者の心を掴み切れなかった、自分自身への痛烈な悔しさだった。
不覚にも、圭祐は見知らぬ少女の前で涙を流していた。
ハンバーガーショップを出て、少女が駅前の駐輪場に自転車を止めているというので、そこまで取りに行って、自転車を押している少女とふたりで歩いた。圭祐の住むマンションは駅から十分くらいの所にある。少女に家はどっちと聞いたら、圭祐と同じ方向で隣町だった。
さっき、不覚にも涙を見られたので大人の圭祐としてはかなり気恥ずかしい。あの後……ふたりは言葉が見つからなくて、心が落ち着くまで黙っていた。感情を晒けたイタイ大人の圭祐に呆れることなく……椅子に座って待っていてくれた。ずっと年下の女の子なのにその存在に安心感を覚えた。
ただ、お互いに相手が自分と同じように、悲しみを胸に圧し込んで生きている人間だということは理解できた。あんな風に感情を
「あそこ、僕の住んでいるマンションだから」
白い高層マンションが近づいたので指で示した。
「メゾン・ソレイユ?」
「うん? そうだけど……」
「去年建った十四階建のマンションでしょう? 何階の何号室?」
知り合いでも住んでいるのか、少女は詳しく訊きたがる。
「七〇七号室」
「……
「えっ! どうして知っているんだ?」
圭祐は驚いて少女を凝視した。
今日、偶然会ったのに、どうして自分のフルネームで知っているのだろう? 不思議で仕方がない。
「いつも、新聞を配っているから……あたし」
「……へえ、そうなんだ。僕のフルネーム、知っていたから驚いたよ」
「毎朝、マンションのドアポストに部屋番号と名前を確認しながら、新聞入れているから覚えた」
少女は照れ臭そうに笑った。
「朝刊は早いだろう?」
「うん。三時にはお店に入ってる。でも、その前に閉店後のパチンコ屋さんの清掃バイトもしてるよ」
ただの
「冬は寒いし、朝早くは眠いだろうに……」
「新聞は誰とも話さないで、ひとりで仕事ができるから気が楽でいいんだ。もう一年くらいやってる」
繊細そうな少女には、人間関係で神経を擦り減らすよりも、孤独な仕事の方が性に合っているのかも知れないと圭祐は思った。
『メゾン・ソレイユ』のエントランスの前にきたので、圭祐が「じゃあ」と軽く挨拶してマンションの中に入ろうとすると、後ろで突然少女の声がした。
「ねぇ! 雪が降ってきたよー」
振り向いたら、先ほどまでみぞれだったのに……いつの間にか雪に変わっている。暗い夜の街を真っ白な雪が舞い落ちる。
まるで綿帽子のような、ふわふわの雪だった――
――ふと、一年前のあの日を思い出した。
マンションの七階のベランダから見た、あの雪は幻想的でとても美しかった。会社から帰ったらメモを残して婚約者がいなくなっていて、ひとり部屋に残されて、やり場のない悲しみに
「寒くなるから、暖かくして配達しろよ」
「うん。今日はありがとう」
「あ、君の名前は?」
名前を聞くのを忘れていた。
「優衣、
「可愛い名前だね。気をつけて帰りなよ」
少女は恥ずかしそうに笑っていた。
この子の笑顔は無邪気で可愛いなぁーと圭祐は思った。もっと笑顔の輝く子になったら、素敵な娘になれるのに……。
――この時『
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