第一章 夢の代償

 霜月しもつきに入ると日が暮れたら気温が下がって、ぐっと冷え込んでくる。

 里見涼子さとみ りょうこはダウン入りのジャケットの襟を立てた。なんだか雪になりそうだと空を見上げて、足早に家路を急ぐ。

 帰ったらバスタブにお湯を張って、炭酸の入浴剤を入れ、ゆっくり浸かって、身体の凝りをほぐし、身体を芯から温めたいと、そんなことを考えながら歩いていた。

 最寄りの駅から歩いて十五分、仕事帰りにスーパーで買い物をしてから、ひとり暮らしのワンルームマンションの部屋へと帰る。仕事柄、帰宅時間はやや不規則だが、今の仕事が好きなので苦にはならない。

 涼子は介護の資格を取って、今は老人介護施設で働いている。


 去年の今頃だった――。

 挙式まで一ヶ月を控えて、新築マンションを購入して、すでに同棲していた婚約者の元から涼子が飛び出していったのは、彼を深く傷つけたことは分かっている、きっと恨んでいることだろう。

 あれから涼子にも実家の方にも、彼はいっさい何も言ってこない、かえって不気味なくらい沈黙している。しかも、ひとりで結婚式場へいって、挙式のキャンセルを手続きをして、結婚式の招待状を送った友人たちに、断わりの連絡までやってくれた彼には、ほんとうに申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

 突然、婚約者に逃げられて、結婚をぶち壊しにされた、その時の彼の心情を思うと……つくづく自分は残酷な人間だと涼子は思う。

 優しいけれど頑固な一面もある、決して弱音を吐かない、そんな彼のプライドをズタズタに引き裂いてしまった。どう繕ってみても、どんなに謝ってみても、簡単にゆるされる問題ではない……。

 だから、彼に書いた手紙も素っ気ないものだった。何枚か手紙を書いてはみたけれど、どれも自分勝手な言い訳にしかなっていないので、結局、短い言葉で締め括った。

 彼に不満があったわけではないし、嫌いになったわけでもない。ただ、今は結婚する時期ではないと……根拠はないが、確信を持って、あの時そう思ったのだ。


 ふたりは共通の友人の結婚式で知り合った。

 新婦と同じ職場で働く涼子と、新郎の高校時代から友人だった彼。ハネムーンに出発する新婚さんをみんなで見送った後、結婚式参列者の友人たちだけ、七、八人集まって、二次会にいくことになった。

 居酒屋のテーブル席で涼子は彼と隣同士になった、ふたりは初対面だったが、今日の結婚式の模様などを話しながら楽しく飲んでいた。二十七歳の涼子は三十歳までには、どうしても結婚したいという漠然ばくぜんとした希望があった。二つ年上の彼も、やはり三十歳くらいには身を固めたいという希望があったようだ――。

 居酒屋で気が合って、お互いに好感を持ったふたりは早速メール交換をした。その後、何度かデートを重ね、ふたりきりで旅行して深い関係になったが、結婚の意思は固まっていたので、お互いの両親にも紹介して、申し分ないパートナー選びだと認められた。

 この時点まで、涼子も結婚に夢を描いていたのに、何故か……?


 ふたりの結婚の準備は順調に進んでいった。新居として新築マンションを購入することにした、3LDKの間取りで、子どもが生まれても広く使えるよう、ゆったり設計の部屋だった。

 新居が決まったのでふたりは早々に同棲を始めた。それを機に涼子は会社を寿退社ことぶきたいしゃして、挙式まで花嫁修業をするつもりだった。

 毎朝、彼を会社に送り出した後、暇を持て余した涼子は、何か資格を今の内に取っておこうと考えた。『介護』その二文字が新聞の紙面から呼びかけてきた。

 お互いの両親も、いずれ高齢になれば『介護』が必要になってくる、嫁として『介護』の資格を持っていたら、何かの役に立つかも知れない。そう考えて、彼にも相談したら喜んで賛成してくれたので、涼子は『介護』のセミナーを受講することになった。

 週に三日、三ヶ月間の受講でホームヘルパー2級の資格が取れるという内容である。ただ、家族の役に立ちたいという、ほんの軽い気持ちから思い立った事だったのに――。


 市の生涯学習センターの三階の会議室のような所で介護セミナーがおこなわれていた。

 受講生は子育てを終えた主婦から、若いスイーツな女の子、三十代の独身男性、そして金髪で耳にいっぱいピアスを付けたズリパンツの、どう見ても『介護』とは不釣合ふつりあいな青年まで、様々な人たちが三十人ほど集まっていた。

 午前中の十時から午後三時までお昼の休憩を挟んでびっちりと講義があった。聞いたことをノートに取って、宿題のレポートを提出するのを繰り返すだけだったが、久しぶりに学生に戻れたような気分で楽しかったし、仲間の受講生たちとも涼子は親しくなっていった。


 セミナーも終盤しゅうばんに近づくと、介護施設での実習が始まった。

 涼子は自宅から自転車で二十分くらいでいける。介護付きグループホームに実習にいくことになった。高齢者たちが五十人くらいで暮らす施設で認知症の進んだ入居者も多く、介護は大変だったが、比較的裕福な家庭の老人たちだったので設備と環境は良好だった。

 一週間の実習期間で涼子は、太田サヨという八十三歳のお婆さんの身の回りの世話をすることになった。

 サヨは頭はしっかりしているが、足腰が弱っていて車椅子の生活だった。涼子はサヨの車椅子を押して、散歩や近くのスーパーに買い物に連れていった。自分の孫みたいな若い娘さんに、お世話して貰えるなんて嬉しいねぇーと喜んでくれていた。

 読書が趣味で、短歌を詠むというサヨは、いろんな知識のある聡明な老女だった。


 ある時、車椅子で散歩中に、

「私はもう歩けないし、自分の世話が自分で出来なくなった。人様ひとさまの手をわずらわせないと生きていけない。……こんな私が生きていても社会の迷惑なるだけだろうか?」

 いきなり、サヨが涼子にそんなことを訊く。

「そんな迷惑なんて……そんなことありません」

「そうかしら? 生きてたって何の役にも立たないし、これからもっともっと世話がかかるんだよ」

「今まで家族や社会のためにいろいろ尽くしてきたんだから、これからはのんびりと……」

「だけど、私は家族からも社会からも必要のない人間だから……」

「――そんな、そんなこと絶対にありません!」

「……だったら、どうして誰も会いにきてくれないんだい?」

 突然、、サヨは肩を震わせて泣き出した。

 ここに入居して三年になるサヨだが、その間に家族が面会にきてくれたのは、最初の頃の数回だけで、お正月も家に帰ることなく、このホームで過ごしている。ここ一年以上は誰も面会にもきてくれていない。

 彼女は寂しかったのだ――。家族からも社会からも自分は、『捨てられた人間』という思いがぬぐい切れなかった。


 サヨの言葉に涼子は衝撃を受けた。老人たちは長生きしていることを喜ぶどころか、申し訳ないことように思っている、それは何かがオカシイ……どうして老人たちがそんな思いに駆られるだろう? 

 それは社会の仕組みとか家族の愛情にも問題があるかも知れないが、やはり介護の現場でのケアが十分でないせいではないかと思う。――何んとかしてあげたい……自分が力になれるのなら、サヨのような孤独な老人の話し相手になってあげたいと涼子は思っていた。


 残りの実習期間も出来るだけサヨの話し相手になって、寂しい思いをさせないようにと涼子は気を配っていた。

 あの時、あんな風に言って泣いたサヨだが、その後はケロリとして冗談をいってはよく笑っていた。《サヨさん、元気になってくれたみたいで良かったわ》そう思って少し安心していた涼子である。


 今まで、涼子がやってきた仕事といえば事務職だった。

 パソコンにデーターを入力したり、クライアントの個人情報を管理したり、会議に必要な資料を集めたり、そういう細々した仕事を機械相手にやっていた。だから仕事の達成感はあっても感動などなかった。

 こんな風に人の心に触れるような仕事は初めてだった。

 老人たちに『介護』という日常的な世話を通じて、彼らの笑顔や喜び、時には怒りに触れながらも、涼子は人と人の心の交流に甲斐がいを感じ始めていた。

 こうして『介護』という仕事が、涼子のなかに眠っていた使命感のようなモノを呼び覚ましたのだ。


 いよいよ、涼子のグループホームでの実習も最終日となった。

 一週間、入居者の世話を手伝ってくれた涼子に、スタッフから労いの言葉を、老人たちからは感謝の言葉が贈られた。

 この時、涼子の心の中では単に資格を取るためだけではなくて……結婚してからも、この仕事をずっと続けていきたいという意思が固まりかけていた《はたして、婚約者は許してくれるかしら?》心配だけど、話し合って理解して貰おうと考えていた。

 花束をプレゼントされ、さよならの挨拶をして、みんなにホームの玄関まで見送られて帰ろうとして手を振っていたら……車椅子のサヨがハンカチを目にあてて泣いていた。

 慌てて戻って「また、すぐに会いにくるからね」と言って、肩を叩いて励ました。サヨはハンカチに顔をうずめながら「うん、うん……」と子どもみたいに、何度々も頷きながら涙をぬぐっていた。

 帰り道、自転車のペダルを漕ぎながら……泣いているサヨの姿を思い出して、涼子も切なくて涙がこぼれた。《あの孤独な老人に、自分はどうやって向き合えばいいのだろうか?》そのことばかりを考えていた。


 それから一週間ほどは、実習のレポートのまとめやら、溜まっていた家事を片付けるのに、忙しい日々を送っていた涼子である。

 その間、結婚式場に行ってウェディングドレスの試着やら、披露宴の料理や引き出物のなどを彼と決めたりして、結婚式の準備も刻々と進んでいったが……何故か、涼子の心の中は冷めていて、挙式前のうきうき気分にはなれなかった。


 やっと暇を見つけて、グループホームの太田サヨに会いにいくことが出来た日――。

 サヨの好きな栗饅頭をお土産に買って、いそいそと面会にいった涼子だったが……グループホームのスタッフから聞かされた言葉は信じられないものだった。

「太田サヨさんは三日前にお亡くなりました」

 その言葉に涼子は愕然がくぜんとした。


 まさか、一週間前はあんなに元気だったのに……自分が会いにいけなかった間に、サヨに何があったのだろうか? 詳しい事情を訊こうとしたが「個人情報なので……」その言葉にはばまれて、何も教えては貰えなかった。

 しょんぼりして帰りかけたら、実習の時に世話をしたことがある入居者のおばあさんとロビーでばったり会った。涼子の顔を見つけると、向うから近づいてきて「談話室にいきましょう」と誘われた。

 ホームの談話室は十畳くらいのスペースにテラスに置くような白くて丸いテーブルが五、六脚並べられていた。明るく大きな出窓には蘭や観葉植物が飾られて、雑誌や新聞、テレビ、部屋の角には飲料水の自販機も置かれている。

 ここは入居者同士が談話したり、面会者と会ったりするのに使われるスペースなのだ。

 おばあさんは自販機で缶のお茶を二つ買ってきて、一つは涼子の前に置いた。そして、プルトップを外してひと口飲むと、こちらが訊ねもしない内から、サヨの話を聞かせてくれた。


 三日前の早朝、サヨは宿直の職員が夜食作りに部屋を空けていた隙に、鍵を盗んで玄関と門扉もんぴを開けて、車椅子に乗ってホームを抜け出した。その後、駅前の歩道橋の長いスロープを車椅子で上まで登り切って、そこからスロープで降りずに、なぜかサヨは階段の最上段から車椅子ごと転落して全身を強く打って亡くなった。

 高齢者ということもあって警察は事故と自殺の両方で捜査しているが、陽も昇らない早朝のことで、目撃者もいないので真実のほどは分からない。

 結局のところ事故死ということで片付けられそうである。ホームとしては管理面で遺族から訴えられないかとビクビクしているらしい。


 一気に捲し立てるように喋るおばあさんに、

「えっ! それってどういうこと?」

 涼子には、おばあさんのいっている意味がよく理解できない……。

「だから、昇りはスロープで上がったのに、降りる時に車椅子ごと歩道橋の階段から落ちたんだよ」

「事故じゃなくて……」

「サヨさんはボケていなかったさ」

「確かに……」

「亡くなる二、三日前から、サヨさん食欲がなくて、ご飯も食べなかったみたいなのよ」

「サヨさん、元気がなったんですか?」

「――そう言えば、あたしたち『短歌の友』の仲間なんだけど、サヨさんが最後に詠んだ歌が……確か……そう……」

 おばあさんはサヨの短歌を詠んだ。


   老い果てし が為ならず生き恥じて 

   無様な吾が身 消すすべもなく


「あれがサヨさんの辞世の句だったのかねぇ……」

 そう呟いて、深いため息で話を締め括った。

 詳しく事情を教えてくれたおばあさんに、サヨのために買ってきた栗饅頭を渡して、お礼の挨拶をしてホームを後にした。


 サヨの死んだ事情を聞いて、涼子はショックだった。

 もしかしたら……自分が会いにいかなかったので、サヨは寂しくて死んだのかもしれない。そんなような気がしてならない。きっと、老いていく孤独、生きている孤独に、もう耐えられなかったのだ――そんな風に涼子には思えた。

 もっと早く会いにきてあげれば良かったと、《ごめんなさい、サヨさん……》悲しくて涙が止まらない。

 サヨが詠んだ最後の短歌が、涼子の頭の中でエンドレスリピートで再生されていた。


   老い果てし 誰が為ならず生き恥じて 

   無様な吾が身 消す術もなく


 どうして、そんな悲しい歌を詠んだの? 

 サヨを救ってあげられなかった、自分自身を涼子は激しく責めていた。


 それから二、三日経って、少し気持ちが落ち着いて決心が固まったので、涼子は婚約者に思い切って相談した。

「介護の仕事を続けたいので、もうしばらく結婚を待って欲しい」

 真剣な涼子の言葉に、彼は深く考える風もなく、

「仕事なら、結婚してからでも少しは続けられるし、将来、子育てが終わったら、本格的に介護の仕事を始めたらいいじゃないか」

 その返答に涼子は心底失望した。


 たぶん、そんな風にしか考えてないのなら……涼子が仕事に打ち込みだしたら、彼はきっと不満を口にするだろう。それが原因で夫婦げんかになることは十分予想が出来る。

 将来、離婚するくらいなら、今、結婚しない方が賢明かもしれない。

 涼子には、サヨに対する罪悪感のようなものがあって……今、この介護の仕事を続けていかなければ、とても良心の呵責かしゃくに耐えられなかったのだ。


 ――結婚と仕事の両立は、自分には無理だと涼子は判断した。


 そして、結婚式一ヶ月前のあの日……会社に出勤する彼を見送って、その後、慌てて荷物をまとめると、メモ書きのような手紙を残して、あの部屋から涼子はひとり出ていった――。


 真冬の夕暮れ時、人足も絶えた住宅街の道を涼子は帰宅を急ぐ。

 この寒さで身体は冷え切っているのに、頭は妙に冴々さえざえとしている《あれから、一年か……早いなぁー》そんな感慨に耽りながら……その間、涼子にもいろいろあったが、ホームヘルパー1級の資格を取得して、今は老人介護施設で働いている。

 忙しいけれど、今の仕事に遣り甲斐を感じているから、三年の実務経験を積んだら、国家試験である介護福祉士の資格も取りたいし、将来的にケアマネージャーを目指して勉強していたいと涼子は考えている。

「ふぅー」

 吐いた息が真っ白だ。手袋の中の指先は凍えている。

 この寒い季節を、彼はどんな気持ちで迎えているのだろうか、それを思うと涼子は心が痛かった――。

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