第10話・下 黒幕はあいつである

 二千条の手にした京都タワーが見る見るうちに縮み、分解され、二千条とバイクに取り付いてゆく。

 ただでさえ重厚なフォルムのVMAXは鎧を纏い、車体そのものにも大きな変形を伴って、まるで車輪を抱え込んだ騎馬のようなシルエットとなる。


 乗り手もまた、桃色の着物の上から装甲し、フルフェイスのメットは変形・展開。さながらサイバーパンクの鎧騎士といった風体だ。



神走騎しんそうき千年風雷せんねんふうらい……そろそろケリぃつけさしてもらいますえ」



 縮小と分解の末に二メートルほどのランスと化した京都タワーを携え、VMAXを派手にウィリーさせる。

 いななき叫ぶタイヤ。標的は志文。捨て身の突撃で強引に決着へ持ち込むつもりだ。

 直進時のVMAXの加速力は志文もこれまでで把握済み。そのうえ変形・装甲の影響もあり倍加している。猶予はない。


 察した志文は即座に懐からマフラータオルを取り出す。昨日、茶器を拭き取ったものだ。これをバトントワリングの如く器用に振り回し、瞬時に絞り上げて布槍をこしらえる。

 あと二秒もすれば接敵する速度と間合い。だが敢えて志文は踏み出した。



「もろた……!」



 到達を待たずクロスカウンターを仕掛ける。二千条の読み通り、志文は攻めに打って出た。

 相手の速さを見切り、正確に突き返せる。そんな慢心、確信こそを誘っていたのだ。


 残り一秒。ここで二千条がタイヤをロックし急ブレーキ。激しい反動は車体に取り付いた装甲と二千条をそのまま前方へ放り出す。

 車体の装甲はその軽さから二千条を追い抜いて加速し、散弾の如く志文に襲いかかる。


 散弾が命中すれば動きを封じられ、回避すれば隙が生じる。クロスカウンターを狙った時点でこの二者択一から逃れられない。


 残り〇・七秒。進むも退くも万事休す。

 しかし、いかなる状況であろうと


「なんや……⁉」


 次の瞬間、志文は最後の頼みである布槍を手放し、こともあろうに手の甲で軽く打ち払ってしまう。


 降参の意か――――いや違う。

 布槍が飛散する装甲の一つに接触、弾かれて互いの軌道を逸らしそれぞれ別の装甲に衝突していく。

 蜘蛛の巣を描くようにして急速に波及する衝突の連鎖は、志文と二千条を結ぶ線上にある散弾を刹那のうちに一掃せしめた。


 残り〇.〇三秒。

 動揺に僅かだが肩を強張らせる二千条。しかし先制する機には充分。いよいよ京都タワーランスを刺突の構えに取る。対する志文に徒手で迎え討つだけの間合・時間的な猶予は無い。このまま打ち貫けば確実に勝負が決する。


 満を持しての刺突。が、ランスの穂先は志文の胴ではない何かを貫く。

 反射を繰り返した末に戻ってきた布槍だ。すっかり硬度を失ったそれは穂先に纏わりつき、二千条の視界を覆う。


(目くらましなぞ通用しいひん……!)


 もはや視覚に頼る必要はない。もとより高速で接敵しているのだ、刺突に拘らずとも当たれば決定打たり得る。突き出しかけたランスを薙ぎ払いへ転じる。

 塞がれた視界の向こうで確かに何かが的中した、が軽い。装甲か。

 一体どこに――――。


 ランスを払いきると同時に視界が開く。

 大留志文は、二千条の眼前にいた。

 頬を浅く切りながらも、二千条の視界が奪われている間に間合いを調整し、紙一重で回避したらしい。その手はランスに貫かれたタオルを掴んでいる。


「勝負あり、よ」


 ぐっと握り込むだけで、タオルがふたたび絞り上げられ布槍へと変わる。その急激な圧力に屈した京都タワーはメキメキと音をたて、真っ二つに折り砕かれてしまった。


「こんなん……あり得へん……」


 得物を失い急停止する二千条。装甲の隙間となる首筋には布槍が向けられる。誰の目にも明らかな志文の勝利であった。


 最後の境界であった京都タワーの破壊により、形を保てなくなった結界が崩れ落ちていく。

 京都市街の景色がひび割れ微粒子と化す。溢れ出した光が収まり目も慣れたころ、二人は京都タワーの前に滞空していた。

 道行く人々が向ける奇異の視線が、現実へ戻ってこれた事の何よりの証左である。


「さて、話を聞かせて貰おうかしら。何の目的があって襲いかかったのか、いえ、それよりも……」

「……茶番はええ加減にせん? みゃーみゃーに仕掛けよったんはあんたの方やないの」

「ふざけないで。東原さんは何処にいるの。それだけ答えなさい」

「はあ。そっちこそ何の話やら、てんで理解できひん。頭おかしなってんちゃいます?」


 鎧姿の姫騎士は頑として尋問に答える素振りを見せない。志文の焦燥とは裏腹に二人の会話は堂々巡りの兆しを見せていた。


 こんな所で問答をしている暇などない。今この瞬間も、東原がどれだけの危害を被っていることか。彼女は戦えない。平均的な女子高生と比べても身体は弱いほうだ。


「もういいわ。情けをかけようとした私が間違っていた」


 悪しき強者とか弱き弱者、天秤にかけるまでもない。問答による打開が望めないなら、暴力的手段に訴えるしか――――。


「ちょ、ストップ! ストップ!! こんなトコで何する気っすか!?」 


 布槍を振り上げようとする志文を、聞き慣れた声が止めた。京都タワーの向かい側、京都ヨドバシ屋上の方から聴こえている。

 声の主は狐の式神に跨り、携帯電話を片手にあたふたしている。


「仲井さん……?」「掌子はん……!」


 見咎めた志文と二千条の声が重なり、すぐに二人とも驚きに目を見合わせる。

 仲井掌子なかいしょうこ。志文の勧めをうけて、宮絆鳴みやのはんなり高校へと転校したばかりの彼女だ。隣には大鳳魅朱おおとりみかの姿もある。


「どないなってますの……」


 呆気にとられた二千条の、舞妓を模した柄のヘルメットがぽとりと落ちる。

 金の柔らかな長髪が流れ、栗色の大きな瞳と高い鼻、きりりと締まった唇。喋り口調からは想像もつかない日本人離れした顔立ちが露わになった。




 ゆるやかに意識を醒ました東原の知覚を、薄闇と湿っぽい臭気が迎える。まばらに灯る松明、苔生す岩肌、遠い水音と残響。どこかの洞窟だろうか。

 志文は、流々や獅王はどこだ。

 立ち上がろうとして、手足を拘束されていることに気付く。


「お目覚めですか? ご機嫌麗しゅう」

「ひっ……!? ど、どちら様ですか?」


 拘束具から伸びる鎖はまた別の拘束具へと繋がり、東原の背後にいる少女の手足を封じている。

 漆黒の長髪に穏やかな表情が映える慎ましい美貌。大和撫子を体現するような少女だ。


「失礼致しました……わたくし、千宮せんぐうみやびと申します。友人からは宮とみやびの頭を取って『みゃーみゃー』なる愛称で呼ばれます。どうぞよろしくお願い致します」

「あ、はあ…………私は東原聡未ひがしばらさとみです。よろしくです……?」


 不自由な体勢ながらも丁寧に礼する千宮と名乗る少女。東原もはじめこそ警戒したが、育ちの良さが窺える彼女の物腰から、害意はないとすぐに判断できた。

 千宮の口調は基本的に標準語であるものの、イントネーションにやや訛りがある。地元の学生だろうか。


「ええと……ここ、どこですか? なんで私達捕まってるんですか? なんというか、訳が分からないんですが……」

「貴女も存ぜられないのですね。わたくしもですの。困りましたわぁ……」

「ほ、ほんとに困ってます?」


 憂い顔になる千宮だが、声音からは危機感というものがさっぱり伝わらない。内心怯えていた東原もこれには呆れる。冷静になれるよう計らってくれているのだしたら大した器量だが、どうも天然のようだ。


「ふむふむ、それでは我輩の説明が必要かな?」

「あらまぁ。解説して頂けるのですね。ご配慮、痛み入ります」

「あ、どうも……って誰ですか⁉」


 いつの間にかしれっと二人の会話に割って入ってきた壮年の男性は、いかにも悪趣味な豹柄のスーツを身に纏い、これまたいかにも悪党に似合いな鷲のステッキを撫でている。

 とにかく怪しい。これ見よがしに怪しい。ミステリーであればむしろ絶対に彼が黒幕であってはいけないほどに露骨。しかしあっけなく犯人に確定した。


「単刀直入に言うと、そこの千宮みやびの能力を借りたいのだよ。なにせ我輩、自力では何もできないものでね」


(あっ、超小物ですこの人……)


 いの一番に姑息さを露呈したことに、東原は心底から落胆と安堵を覚える。見た目から言動に至るまで何もかもが噛ませ犬臭い。


「我輩は太古の昔の“鬼”の血脈を継ぐ者、城外茨門じょうがいじもん。我が一族の再興こそ唯一の悲願……とここまで言えば、少なくとも千宮せんぐうのお嬢様には察してもらえるかな?」


「申し訳ありません、未だ察しがつかず……よろしければ最後まで説明して頂けますか?」


「お、おう……我輩はね、祖先の鬼神を今の世に復活させたいわけでね。そこで京都という概念とリンクする君と二千条しぐれの『三千洛さんぜんせかい』を利用させて貰いたいわけなのだよ。ここまではアンダースタン?」


「重ね重ね申し訳ありません……あんだぁすたん、とはどういった意味なのでしょう?」


 東原と茨門が揃ってマジかと顔を見合わせる。お嬢様然とした出で立ちのわりに、もしかして単なるアホなのか。


「いいや、一旦それは忘れてくれたまえ。それでね、とはいえ戦えない君と違って、二千条しぐれは余りに強くて、我輩、手に負えないわけなのだよ。なので彼女を排除し、『三千洛』の全権が君に移行したのちに、龗神おかみのかみの呪力を借り京都の歴史から鬼神を再出力……」


 回りくどくも察しの悪い千宮のため一つずつ懇切に解説する茨門の姿が、東原の目には哀しいほど卑小に映る。

 そもそも悪巧みをしている人間がこうも口が軽くて良いのか。よく途中で頓挫しなかったものだ。

 半ば感心すらしていると、更に会話へ割り込んでくる者が現れた。


「ミスター。貴公ノ説明ハ非効率的、加エテ不必要デアルト指摘スル」


 ぎこちない人工音声の冷たい響き。灰色の髪に、大留志文をそのまま写した顔。

 椎踏乙女しいぶみおとめである。


「椎踏さん……? ど、どうして⁉」

「いいリアクションじゃあないか君! よし、簡潔に説明してくれたまえ椎踏くん!」


 一瞬にして顔を歪ませた東原がよほど愉快だったようで、茨門は椎踏の指摘を無視してどんどんつけ上がる。

 さしもの椎踏も辟易した様子を見せつつ、仕方なく口を開く。


「…………私ガ拉致ヲ実行スルコトデ、誤解ニヨル二千条シグレ・大留志文ノ潰シ合イヲ画策シタ。ミスター城外ト利害ガ一致シタ」

「ということだ! 絶望的だろう!」


 ここまでどこか楽観していた気分から一転、東原はようやく事態の深刻さを思い知る。

 無論あの志文が誰にだろうと敗れる筈がない。それは信じている。だが拉致が成功し、未だ志文が現れないとなれば、現時点で彼らの計画が成功に肉迫しているのは事実。鬼神とやらも聞くだに危険そうな単語だ。


「一体何の理由があって、こんなことに手を貸すんですか? 鬼の復活とか、そんなの百害あって一利なしですよ!」


「『鬼神』ニナド関心ハナイ。大留志文ノ排除ナクシテ、私トイウ存在ノ立脚ハナイ。私ハ本物ニナリタイ。ソレダケ」


 言われたきり、東原は口をつぐむ。

 椎踏乙女が大留志文を模して製作されていることも、彼女が高い知能を有している事も、東原は知っている。だからこそ、彼女の動機に安易に口出しするのは躊躇われた。


 自己同一性への葛藤。それは誰しもが避けては通れぬ青春期の壁であり、そしてまだ青春期の只中にいる東原自身、明確な解答を持ち合わせてもいない。

 ただそれが皮肉にもこの上なく人間的な感情であることだけは、確かなのだが。


「東原聡未ニ危害ヲ加エル意図ハナイ。私ノ標的ハ大留志文ノミ」


「……私も偉そうに言える立場じゃないですけど……それって、大留さんを排除したとして本当に解決するんですか……?」


「……質問ノ意味ガ不明」


 せめてもの思いで絞り出した問いかけも、冷たい視線の前に一蹴される。

 おそらく彼女が望む結末は誰にとっても、何より彼女自身にとって有益でない。オリジナルを抹消したところで、彼女は大留志文になどなれやしない。それだけは確実だ。


 このまま放ってはおけない。親心にも似た感情が胸のうちで膨らむも、説得らしい説得をしてやれる時間は東原に与えられなかった。


「まったく、醜い詭謀だよ。許せないね!」

「オートメタ・シフミロイド……非力な生徒を巻き込むとは、愈々いよいよ度し難いのです!」

「来たぜ……此処にッ……!」

「東原は無事かニャー?」


 洞窟に侵入する四人の同級生たち。先行した馮河、獅王、亀梨、寅丸が、途中の山路に惑わされながらも、ついに辿り着いたのだ。




「つまり、二人とも拉致られた友達を探してて、大留先輩の顔が犯人と一致して、でも大留先輩は身に覚えがなくて……ややこしい‼」

「……私としたことが、状況が見えてなかったわ……」

「うむ! どうやら椎踏乙女による、二人を争わせるための奸計なのだな!」


 大鳳・掌子と合流した志文・二千条は式神に運ばれる道すがら、仲介を得てようやく事態を把握するに至っていた。

 二千条に対しては志文そっくりなロボットが学校にいるという点からして説明に難儀したが、最終的になんとか理解を得られた。そして仲間たちが先んじて解決に奔走していると知り、二人揃って顔を覆うはめになった。


「本当に申し訳ないわ……皆が協力している間、私はまんまと踊らされていただけなんて……」

「それ、うちを皮肉っとん……や、ほんにすんまへん……最初に引っ掛かったうちが発端やしなぁ……」

「わはは!! 和解できて何よりである! すぐに到着するぞぅ!」


 京都御所を横目に駆け抜け、近代建築の海原を飛び越すと、徐々に山の緑が目立つようになる。

 一行を乗せ北上し続ける式神の行き先に思い当たるところがあったらしく、二千条はその面持ちを更に焦燥で硬くさせて掌子に問うた。


「まさか貴船きふね神社やなんて、そら往生するわ……元寧もとねはんは来おへんの?」

「それが、二千条先輩を連れて来いって言われたきり、師匠とは連絡が取れなくて」

弔羊寺ちょうようじさんも動いてる、となるとそれなりの大事と見て良いのかしら」

「貴船神社いうたら鬼神伝説の一角、丑の刻参りの起源。鬼神復活が狙いやとしたら、そら一大事ですえ」

「なるほど……椎踏さんも随分と大それた悪事に手を染めたものね」


 弔羊寺元寧ちょうようじもとねとの繋がりにもやや驚きをみせる二千条だったが、敢えてそこには触れずにおいた。否、触れられるはずもない。確認を取る志文の表情が徐々に昏くなってゆくのを、横目で垣間見たからだ。先程の戦闘中と同じか、もしかするとそれ以上の――。



 やがて式神たちは貴船神社近郊の山中へと降り立つ。鬱蒼とした木々が覆う獣道の先に、恐らくは人払いの妖術を施された洞窟が現れる。貴船川の遠い残響が、朱色に染まる一帯の神々しい静寂をいやに際立たせていた。


「先行した先輩たちが救出に向かってるはずなんすけど……とっくに片がついてんのかな」


 まばらな灯りを頼りに歩き、全神経は聴覚に集中する。水の滴りに己らの足音、そしてそれらとは他の音が微かに奥から聴こえる。

 小さな砂利が軋む音。何者かの足に踏みしだかれているようだ。

 嫌な予感がする。

 無言のうちに全員が同意した。揃って歩みを早め、音のする方へと駆けつける。


「ようやく……追いついたのですか……」


 制服を戦闘によるものであろう傷でぼろぼろにしつつ、しかし微動だにしない椎踏乙女。

 それを包囲しながらも、力及ばず膝をつく四人の仲間たち。深刻な負傷こそないものの、皆もはや限界といった様子だ。


「おや、また新たなお仲間……って、げぇ!?」

「二千条シグレ、大留志文、捕捉。計画ノ進捗ニ支障ガ認メラレル」


 後方にはいかにも小物然とした反応で縮こまる城外茨門。

 拘束され、顔を蒼くして見守るしかない東原と、おそらくは二千条の友人。


 それら状況を一瞥して、ぼそりと志文が問うた。


「……貴女、どれほどの悪事の片棒を担いでいるのか、自覚はあるのかしら」

「…………」


 椎踏からの返答は一向に無いが、肯定しているも同然だろう。

 彼女にはそれだけで充分だった。手心を加えてやれる域を既に超過していると、そう言外に警告した。これを無視するというなら是非もない。

 志文の拳が固く握られる。そこへ並び立つ二千条もまた、険しい面持ちであった。


「待っとくれやす。うちもあのカラクリを一発しばかな収まりまへん」

「勝手にどうぞ」


 素っ気なく吐き捨てると同時、二人は瞬く間に間合いを刈り取り、攻撃を仕掛けていた。


 左右から挟み討ちの打突。椎踏の性能を以てしても回避し得ない速度。やむを得ず発勁で相殺しようとするも、二人の拳はこれを呆気なく破り、防御した椎踏の腕を強打する。

 一瞬にして両肘から先の機能がダウンし、糸が切れたように垂れ下がる。

 次に右翼、二千条の裏拳は辛うじて捕捉。肘で打ち返すが、右腕全体が完全に破損する。続く胴を狙った鉄槌をすねで受けて、右膝から先もダウン。

 間髪容れぬ志文のソバットを防ぐことは叶わず、受け流そうとする体重移動も甲斐なく胴へと直撃、五メートルほど吹き飛ばされ壁に叩きつけられる。


 秒数にしてわずか一秒。あまりに一方的な淘汰だった。

 わけもわからず観戦していた茨門はやや遅れて敗北を悟り、二人の視線が向けられたことに気付いてその場に崩れ落ちる。見事に仕立てられたスーツは失禁したせいでぐしょぐしょになっていた。

 この様では抵抗もできまい。大鳳が彼を拘束したのを確認するなり、即座に視線をもどす。


 岩壁にめり込んだ椎踏はもう自力で立てない。使い物にならない手足で下手くそにもがいて、壁から抜けようと試みるも徒労に終わる。

 志文の無情な足音は留まることを知らない。


「椎踏さん……貴女なら人として共に歩めると信じていたわ。けど、ごめんなさい。〝Ringonet〟の二の舞は、決して見過ごせない」


 とどめをくれようと再び構える。狙うは自身と同じ造形の、しかし虚ろな眼差しの頭部。

 せめてもの慈悲として一撃で終わらせてやる。決心を固め踏み込もうとしたその刹那、東原の声が志文を引き止めた。


「待って、ください」


 掌子の助けを得てようやく拘束具を外された東原がよろめき混じりに駆け寄る。両腕を広げ、震える足で立ち塞がる。

 どういうわけか、彼女は加害者である椎踏を身を呈して庇おうとするのだ。


「もう……これでやめにして貰えませんか……」

「どいて東原さん。暴走したAIがどんな未来を招くか、前にその一端を見たはずでしょう」

「それはそうですけど……椎踏さんは〝Ringonet〟とは違います」

「どこにそんな確証が持てるの? 現に今、悪しき企みに加担しているわ。何であれ、彼女は禍根になり得ると自ら証明した」


 構えを崩すことなく、東原に対してさえも苛烈な眼差しを向ける。そんな余裕のない態度が、東原には異様に映った。


「確かに罪を犯す直前だったかもしれません。でも椎踏さんはまだ産まれたばかりなんですし……」

「関係ない。彼女にも人並には思考する能力があるわ。特別扱いはできない」

「だったら……人として扱ってください。裁くのは大留さんではないんじゃないですか。つ、罪を犯したら……同級生を殺すって、言うんですか」


 指摘が刺さったのか、志文がわずかにたじろぐ。平時の彼女なら説き伏せることも難しくはないのだろうが、『同級生を』『殺す』と言語化されると、さすがの志文も躊躇を禁じ得ない。

 何よりも涙目にしてまで東原からそしりを受けている、自分の行為をそれほどまでに暴力的な言葉で表現される、この状況自体が志文にはショッキングだった。


 息苦しい。気道に詰まった真綿が感情の行き場をうばう。

 温厚な東原さんがあんな目で。私を――


 志文自身でも気付かぬままに構えを解き、東原もへたり込んだことで、場を包む空気は一旦の弛緩へ至った。


「今日の大留さん……少し、変です……」

「……東原さんこそ、どうしてそこまで肩入れするの……」

「それ、は……」


 沈黙が横切る。どちらとも、相手の最後の問に答えることはしなかった。心の内に秘めたものを、あと一歩のところで晒すことを躊躇った。

 二人をよそに仲間たちが収拾に動き始める。千宮みやびを拘束から解き、倒れた仲間たちを介抱し、城外茨門をやや雑に立ち上がらせる。


 そんな中で志文と東原のあいだ半径二メートルのみ、時は静止していた。

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