第2話 昼の購買は死地である
その日の授業は、誰も教師の言葉を耳に入れていなかった。
ある者は絶え間なくひそひそ話をし、ある者は黙して窓の向こうを凝視している。教師でさえも集中力を切らし、たびたび手と口を止めていた。何にせよ緊迫した雰囲気だけは共通している。
原因はたった一つの噂。
〝あの大留志文が弁当を忘れてしまった〟
この市立
すなわち、昼食には弁当か購買の二択しかないということ。
学内に戦慄が走った。
昼休みの購買部は戦場である。学内に潜む強者たちが惣菜パンを求めて一同に会し、拳を交える。
生半可な一般生徒が首を突っ込もうものなら半年の入院は避けられない。
そこへ学内最強と目される大留志文が参戦するのだ。死者が出たとして誰も不思議には思うまい。
「あら。あなたも弁当を忘れたの」
当の志文はそんな緊迫した空気を意にも介さず、ただ一人真面目に授業を受け、三時限目の休み時間を迎えた。
話しかける相手は、武林などとはまったく無縁の薄幸そうな女子生徒・
これといった交友はなかったのだが、顔を青くしている様を見かねて声をかけていた。
「はい……しかも寝坊して朝ごはんも食べてなくて」
東原は隈をたたえた目をこすり、もう一方の手では腹をさすっている。
小耳に挟んだ話では、彼女は連日夜遅くまで漫画の執筆に勤しんでいるという。志文には、東原の経路の淀みが手に取るようにわかった。
「やはり購買に行くのは……無謀ですよね」
俯く東原の肩にそっと手を添え、志文がにこやかに答える。
「さあ、やってみなければ判らないものよ。取り敢えず行くだけ行ってみてはどうかしら?」
チャイムが鳴り、熾烈な戦いの幕が切って落とされた。
購買周辺は生徒・教師を問わず、大勢の見物人たちでごった返している。
やがて人の波が裂かれ、数人の生徒が購買の前へと出ると、喧噪は一気に静まり返る。
なかでもひときわ大柄な女子生徒の登場には、全員が息を呑んだ。
幼少期に飛行機事故に遭った際の逸話はあまりに有名だ。失速する飛行機から飛び降り、素手で投げては飛び乗って、目的地まで無傷で辿り着かせたという。
生まれながらの剛腕と、尋常ならざる鍛錬によって得られた外功。そんな彼女ですら今日は武者震いを抑えられずにいた。
「『まさか』ってヤツだけどよォ~~……大留はマジに来るんだろうなァ~~?」
「発汗・筋肉の緊張などから、今の貴女は相当に怯えていると見受けるのです。恐竜の親戚が情けない話なのです」
どこか突き放した口調で冷静に告げる小柄な少女、
鉄扇を得物とする彼女の一振りは容易に嵐雲を逸らし、雷すらも弾くという。台風を打ち消して体育祭を無事開催にこぎつけた逸話を知らぬ者はない。
この二人は〝購買五傑〟として名を馳せる学内屈指の強者だ。
ちなみに他の三人は今日は弁当らしい。
「いーや違うぜ。例えるなら、たまたま拾った五百円で買った宝くじの下三桁が五〇〇だったみたいに、楽しみで堪んねーって感じだぜ。そういうお前こそ、いつもより落ち着きがねーよなァ?」
「ご冗談を。流々は常に冷静沈着です。貴女のような野蛮な
早くも二人の間に剣呑な空気が流れだす。
そこへ人波を割って新たに女生徒が現れた。――大留志文である。
真打の登場を前に、腕に覚えありの強者たちまでもが黙りこくる。
「焼きそばパンを買いたいのだけど」
静寂を破ったその一言を皮切りに、飢えた猛者たちが一斉に志文へと襲い掛かる。
分銅鎖、カランビット、棍。とても学業に必要とは思えない多種多様な武具が、同時に全方位より迫る。
だが志文が動じることはない。片手で鎖を掴み、ほかの武具を巻き取り、軽く氣を発しつつ手放す。
「「「ああぁぁぁぁ――――っ!!?」」」
弾丸の如く窓ガラスを貫いて飛び去る武具たちに引き摺られ、一瞬にして大半の敵が消え去った。
一掃され寂然とする購買前へ、事もなげに志文が歩を進める。ところが獅王と馮河は、当然と言わんばかりにその前へ立ち塞がる。
「何か用かしら。三人分なら品薄の購買でも事足りるでしょう?」
「分かってねーみたいだから言っとくがよ……!」
「流々たちは『勝利の悦』という『調味料』が欲しいのです……!」
「……下らないわね」
最初に仕掛けたのは獅王。丸太のような腕を振り下ろし、志文の頭を叩き潰そうとする。
これをわずか一歩の移動で避けると、その間隙を縫うように馮河の鉄扇が飛んでくる。回避すると今度は獅王の剛腕。
外功を極めた獅王の、破壊力のみに任せた大振りな打撃。
優れた内功によって自在に飛翔し、間合いを支配する馮河の鉄扇。
日頃から敵対している二人だからこその阿吽の呼吸だ。
いずれか一方を受け止めれば、もう一方からは逃れられない。双方から逃れ続ける限り、反撃は許されない。
標的が倒れるまで決して終わることのない連撃。いかに学内最強と謳われる大留志文であっても、この連携を前にしては手も足も出まい。
――――そう思われたのは、二人の眼前から志文が消えたその瞬間までだった。
「ど、どこに……ッ」
「後ろなのです!」
気付けば、二人の背後に志文が立っていた。
突然のことに困惑する観衆を尻目に、獅王と馮河だけがいち早く真相を悟る。
「まさかそれが……縮地だってェのかよ!?」
縮地。有体に言えば、接近や潜り込みを相手に悟らせぬ為の特殊な歩法。
だが二人はひと時も目を離していなかった。志文のそれは、歩みによって進むのではなく、距離を縮めることによって進む、もはや仙術に近いまでの技だったのだ。
焦燥のあまり連携を無視した獅王が、破れかぶれに剛腕を振りかざす。
志文は回避しようともせず、振り返りざまに貫手で獅王の胴をさっと撫でた。すると獅王の動きは止まり、たちまち全身を痙攣させ始める。
目にも留まらぬ神速の衝きによって経脈を塞いだのだ。
獅王は膝から崩れ落ち、然る後に失禁する。なお、命に別状はない。
「連携を乱すからこうなるのですッ!!」
すかさず馮河が鉄扇を投擲。窮地にあって極限まで高まった彼女の内力は、空中で鉄扇を四つに分身させる。
鉄扇は蜻蛉の群れのように不規則な軌道で迫る。
しかしその場の誰もが思った。内功のみで大留志文に挑むなど愚の骨頂である、と。
案の定、構えすらなしに放たれた志文の内力は鉄扇のコントロールを奪い、馮河の許へとUターンさせた。四肢を抑え込むように飛びつき、吹き飛ばされた彼女を大の字で壁に拘束する。
ものの数秒で磔にされ、馮河の顔が紅潮する。
「己が武をつまらない独占欲に行使する。それがあなた達の限界よ」
「ア、アアアアンタタタタ……やややややっぱきききき綺麗だだだだだ……」
「大留志文……その厳しさにキュンとするのです……」
ほどなく二人とも意識を失う。それがダメージによるものか羞恥によるものかは、定かでない。
唖然とする観衆を尻目に、志文は淡々と焼きそばパンを購入する。
会計を済まし志文が離れたのを見るなり、ようやく活気を取り戻した観衆たちが購買へ殺到する。
そこへ東原が遅れて到着した。分かりきっていた結末とはいえ、決着後の有様だけを見ると目を丸くするしかない。
立ち尽くすばかりの東原へ歩み寄り、志文は穏やかに告げた。
「持ち合わせが足りなくて一つしか買えなかったの。半分にして一緒に食べましょう」
「そ、それは大留さんのものですよ……」
「これはあなたに対する敬意として受け取って。道は違えど、己の道に心血を注ぐあなたのこと、尊敬してるのよ」
「大留さん……!」
その日、大留志文のファンクラブに新たに三人が加入した。
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