夏④

「先輩お待たせしまし、うわっ!」

 少しだけ長引いた四時限目。私は急いで多目的室に向かった。ドアから見えた先輩の姿に、慌てて教室に駆け込む。今日の私はなにかとそそっかしい。どういうことかと言うと、案の定。そのまま出しっぱなしになっていた椅子に引っかかって転びそうになったのだ。

 身体が大きく傾いた瞬間、痛みを覚悟して私は強く目を閉じる。だけどおでこに当たったのは、同じ硬いでも、冷たい床ではなく、温かい何かだった。ふわり、柔軟剤の香りが鼻をかすめる。

「大丈夫か?」

 上から降ってくる温かくて低い声で、その何かが憧れの人の胸だということに気が付く。

「ご、ごめっきゃっ」

「あ――っ」

 慌てて飛びのくと次は後ろにあった机にぶつかり、バランスを崩す。今度こそ冷たい床に身体を打ち付けた。痛い。

「慌てることないのに」

 言いながら、苦笑を浮かべた先輩が手を差し出してくれる。そっとその上に手を載せると、グイッと見た目によらず強い力で引っ張って立たせてくれた。体が熱いのは、きっと転んだせいだけじゃない。

「お手数おかけして、すみません……」

「ううん。そのくらいのほうが、こっちもやりやすい。……あいつなら、巧くやれるんだろうけど」

「あいつ?」

 聞こえた言葉に首を傾げる。

「……声に出てた?」

 小さくですけど、と頷くと、はは、と力なく先輩は笑う。

「うちのクラスに、四月に転校生が来たんだけど。知ってるかなあ、明るい茶髪にグレーの瞳の」

 佐々木先輩の言葉に、四月に灯香先輩と話したときにすぐ近くにいた男の先輩を思い出す。あのとき灯香先輩の彼氏さんかと思った。きっとあの先輩だ。

「派手な先輩ですよね」

 確か、灯香先輩と噂になってるって聞いた。人の恋路には興味津々なくせに噂話が大嫌いな遥香は、その話を聞いたときに、これまで見たことがないほど眉間にしわを寄せていた。あ、嘘。これまで見たことないほど、じゃない。相葉に視線を向けるときもあれくらいしわを寄せてる。遥香曰く、噂話に左右されることがすごくくだらなくて嫌なのだそうだ。……つまり、その噂話と同じ表情を向ける相葉に対しても、くだらなくて嫌だと思っているのだろうか。そう考えるとなんとなく、相葉が可哀想に思えてくる。

「うん、たぶんそいつ。鳴海なるみっていうんだけど、あいつはすぐにいろんな人と仲良くなれるんだ。それが少しうらやましくて。俺、同性異性問わず話せる人だいぶ限られてるんだけど。初対面でしかも年下の異性って、あんまり話したことないから、実は緊張してる……って、何話してるんだろうな」

 先輩が笑う。だけどその笑顔は、太陽が雲に隠された中で力なくうなだれている向日葵のようだった。なにか、今まできっとあまり先輩が表面に出さなかった、出せなかったなにかを掴めそうな、ここで掴み損ねたら、もう二度と私の前でそれを出してくれないような。そんな直感。私は載せたままだった手に、キュッと力を入れる。うなだれた向日葵に水をやるのは、私がいい。

「緊張したっていいじゃないですか」

「神崎さん?」

「確かに、他人とすぐ仲良くなれるってすごいと思いますけど、きっとその分、どうしても浅く広い付き合いになっちゃうんじゃないかなって思います。まあ平等の深さで付き合うのは難しいので、人によって深さは変わるとは思うんですけど、そしたらすごく浅い人だってできちゃいます。……その、鳴海先輩? って人のことは全く知らないので、勝手な解釈ですけども。だから逆に、限られた人としか話せないってことは、どうしても範囲は狭くなるわけですから、自然と付き合いは深くなっていくわけです。だから、その、ええっと、ですから……うまく言えないですけど、先輩は先輩でいいんです!」

 必死に言葉を紡いで、先輩を見つめる。先輩にとって私を、灯香先輩からよく聞く神崎彩香という名前の少女から、実行委員会で実際に会話をした神崎彩香として認識したのが昨日でも、私は一年と数か月、ずっと先輩を見続けていた。常に笑顔でいながらも、あまり他人と一緒にいるところを見かけない人だった。でも避けられているというわけでもないようで、たまに誰かと笑い合う姿を目にすることもあった。どちらの先輩も好きだ。外見が好みド直球だったのも正直ある。でも、こんなに長くひとめぼれを続けていたのは、先輩からにじみ出る誠実さを感じていたからだとも思うわけで。見ているだけでわかるくらいの誠実さを持っている人だからこそ、きっと狭い範囲の中でも生きていけるんだと思う。こんなに必死に想いを伝えたいと、今目の前にいる先輩を肯定したいと、そう思うようになったのは――いつでもすっぱりと切れる、けれども長い長い期間のひとめぼれがいつ切ってもどこかに傷がついてしまうであろう片想いに変わったのは、私の言葉で見せてくれた、あの向日葵のような笑顔を見てしまったから。

「ありがとう」

 ふんわりと先輩が笑う。つられて私も笑う。

「ていうか、先輩が緊張してるだなんて気が付きませんでしたよ」

「そう? まあ、うん。君が緊張してるの見てたら、なんだか比較的緊張しなくて済んだって感じ?」

 からかうように笑いかけられて、不覚にもトクンと心臓が跳ねる。

「も、もう、先輩!」

 頬を膨らませて口を尖らせると、先輩は楽しそうに笑う。その笑顔にも心臓が飛び跳ねて、もうなんか、先輩ずるい。

「あ、そうだ」

 ひょいっと私が手を載せてた掌が離れる。右手から無くなったぬくもりが少し切ない。そんなことを考えていたら、目の前に折りたたまれたメモ用紙を差し出された。それを受け取って、開く。メモ用紙には、数字の列とアルファベットの列。

「それ、俺の連絡先。企画の締切的に、夏休み中も連絡取り合わなきゃいけないだろうし」

「あ、じゃあ、今登録――」

 慌ててスカートのポケットからスマホを取り出そうとした私を、先輩が片手で制する。

「俺が何のためにメモ用紙に書いたと思ってるの。校内でのスマホ使用は校則違反だよ、ばれたら即没収」

「そ、そうでした。ごめんなさい」

 危ない、浮かれすぎて基本的なことが頭から抜けていた。キュッとメモ用紙を握りしめる。そしてそれを丁寧に折りたたむとそっと胸ポケットに入れる。

「また帰ったら、メールしますね」

「うん、待ってる。じゃあ、弁当食べながら企画の話し合い、始めようか」

「はい」



「――送信っと」


 お疲れ様です。文化祭実行委員、二年B組の神崎彩香です。連絡先、ありがとうございます。さっそく登録しました。私も、メールアドレスと電話番号、送りますね。――これから、よろしくお願いします。


 さんざん悩んだ挙句、結局普通の内容になってしまったメールを、先輩に送る。とても長い時間をかけて考えたのに、相手に届くのは一瞬なんだな、なんて当たり前のことを考えてみる。

 それにしても、スマホのメール機能なんて久しぶりに使った。最近ではチャットのようなメッセージアプリを使うことが多い中で、ゆったりとした会話ができるメール、というのはどことなく佐々木先輩らしくて、私は知らず知らずのうちにニンマリと口角を上げていた。ふっと暗くなった画面に自分の顔が映ったことでそれに気が付き、苦笑する。もしかして、遥香にいつも注意されている顔って、こんな表情なんだろうか。我ながら気持ち悪い。……気をつけよう。

 そう思ったとき、暗くなった画面が明るくなり、新着メールの通知を表示した。慌てて開くと先輩からだった。


 こちらこそよろしく。


 短い文章。だけど、私のために打ってくれた文章。嬉しくて、私はじっとその画面を見つめた。

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