第三章 私の現実
1 荒らされた部屋
警察署の建物内は、独特の冷たい雰囲気に満ちていた。
思わず尻ごみしてしまいそうな気持ちを勇気づけ、私は受付で名前と用件を告げる。
すぐに担当の刑事さんがいるという部屋に案内されたが、あいにくと外出中だった。
そこは大勢の人が忙しく出入りする大きな部屋で、周りにいる刑事さんたちも、気さくに椅子に座ることをすすめてくれて、正直ホッとする。
取調室なんかでなくて良かった。
婦警さんがお茶を淹れてくれたことで、緊張でガチガチだった心も、ほんの少し和らいだ。
海君は少し離れた長椅子で、壁にもたれかかって座りながら、私を待ってくれている。
もの珍しそうにあたりをきょろきょろと見ている様子に、また少し、私の心は穏やかになった。
「やあ、お待たせしたね」
出先から急いで帰ってきてくれたのだろうか。
来ていた上着を椅子の背に掛けて、私の目の前に腰を下ろした担当刑事さんは、汗だくだ。
「ひとまず例の彼を自分の部屋に送ってきたよ。今はまだ顔を会わせないほうがいいと思ったんだが……余計なお世話だったかな?」
人好きのする笑顔を浮かべているわりに、刑事さんの目は鋭い。
私は慌てて頭を下げた。
「いえ……ありがとうございます……」
「うん」
様々な書類が積み重ねて置いてある机の上から、一冊のファイルを取り、刑事さんはパラパラとめくる。
「一晩ここで頭を冷やして、今はすっかり落ち着いてる。自分がしたことを申し訳なかったとも言ってたし……もうこんなこと、起こさないといいんだが……」
「はい……」
頷く私に、刑事さんは少し声の調子を変えてつけ足した。
「ただ……こういう問題は、簡単には片づかないことが多いからね……」
私の胸はズキリと痛んだ。
「少し詳しく話を聞かせてくれるかな?」
「はい」
それから私は村岡さんというその刑事さんに問われるまま、幸哉との関係について話をした。
出会った頃のことから、最近の関係に到るまで。
できる限り詳しく話した。
順を追って、覚えている限りのことを全て聞いてもらった。
正直、人には聞かれたくない話もあったけど、警察に協力を仰ぐためには、情報提供は不可欠だ。
村岡さんはまめにメモを取って、私の話をちゃんと聞いてくれた。
私はと言えば、少し離れたところにいる海君が、気になって仕方がなかった。
(できれば海君には聞かれたくない……なんて……私の身勝手だよね)
またズキリと胸が痛んだ。
「実は私たち警察にできることは、そんなに多くはないんだ。岩瀬君――だったかな? 彼に対して、君に近寄らないように警告を出すこと。それに従わない場合には、さらに禁止命令を出すこと。これくらいだ。検挙すれば懲役や罰金も課せられるが、それにはまず先に、キミが彼を告訴しなければならない……」
聞き慣れない言葉の羅列は、まるでテレビドラマでも見ているような気分だった。
しかしこれは私の現実だ。
私と幸哉との間の話なのだ。
「懲役……? 告訴……?」
事態の深刻さに、私はただ呆然とするしかなかった。
村岡さんはそんな私を見て、表情をさらに柔らかくする。
何も知らない小さな子どもを見守るように、どこか悲しそうな目をした。
「そこまでおおごとだとは思っていなかったかな? でも彼がやっていることは、あきらかにストーカー行為だよ。法的にも認められている犯罪なんだ」
諭すように一言一言告げるその口調は、どこか故郷の父を思い出させた。
「だけど……!」
幸哉をそこまで糾弾する権利が、私にあるんだろうか。
いつまでもダラダラと関係を断ち切ることさえできず、ほんのついこの間まで傍にいた私に。
「もちろん君がそれを望まないなら、私たちに強制する権利はない。そこまでやったら、正直、あとには憎しみとか負の感情しか残らないからね。君も彼もまだ若いし、今日の様子だったらしばらく時間を置けば解決するんじゃないかとも思う。あくまで私の意見だがね」
私の感情をちゃんと気遣ってくれる優しい口調に、頭が下がった。
「とりあえず、もしまた何かあったら、すぐに連絡しなさい。私のほうでも、時々彼のことは気にかけておくから……」
村岡さんは俯いてしまった私の頭をポンと優しく叩くと、目の前に名刺をさし出した。
朗らかな声で、
「大丈夫だよ。君にはちゃんとボディガードもいるようだ……」
ふり返り、少し離れたところに目を向ける。
顔を上げた私は、いつの間にか海君が真っ直ぐにこちらを見ていたことに気がついた。
村岡さんに向かってペコリと頭を下げている。
「今のところはとりあえず、様子を見よう……そのほうがいいだろう?」
「はい。ありがとうございます」
せいいっぱいの感謝をこめて、私も頭を下げた。
村岡さんの言うとおり、時間が解決してくれるのならそれが一番いいと思った。
夕日が空を真っ赤に染める中、海君と手を繋いで家までの道を帰った。
警察署に向かっていた時とは真逆に、気持ちがどんどん落ちこんでいく。
夕暮れ時はもの悲しい――海君との別れの時間が近づくから。
どこから来てどこへ帰っていくのか、私にはわからないけれど、いつも今ぐらいの時間になると、「また明日」とニッコリ手を振って、海君は帰ってしまう。
別れ際の約束がある限り、きっと明日も来てくれるんだろう。
だって海君は約束を破らない。
でもそれはいったいいつまで続くのか。
私にはわからない。
確かな保証は何もない。
寂しい気持ちでちょっと俯きがちに下を向いて歩くと、綺麗に舗装された歩道に、私たちの影が仲良く並んで伸びていくのが見えた。
けれど実際には、私たちは警察署を出てから一言も話をしていなかった。
まったく口を開かない海君に、
(さっきの話どこまで聞こえたんだろう? 海君はどう思ったかな……?)
いろんなことが気になっている。
どうしようもなく胸が痛む。
「真実さん」
ふいに名前を呼ばれてドキリとした。
いつもの声と全然違う、すごく真剣な調子だったから、私は二つ並んだ影法師に目を向けたまま、海君のほうを見ないで返事した。
「何?」
海君は長い時間、何も言わなかった。
ただ黙って歩き続けるだけ。
だから私も呼びかけられたことは気にしないで、黙って一緒に歩き続ける。
目が痛くなるほどに見つめ続けた二つの影は、だんだん長くなって、そのうち夕闇にまぎれて見えなくなった。
いくつもの角を曲がって、いくつもの信号を越えて、私のアパートが近づいてくる。
私の足はどんどん歩くのが遅くなり、そのうちピタリと止まってしまった。
自然と海君も立ち止まることになってしまう。
(もしも、部屋の前で幸哉が待ってたらどうしよう……?)
心の中で呟いた不安の声が、まるで聞こえたかのように、
「大丈夫だよ」
海君が囁いた。
見上げてみたら、薄闇の中、泣きたくなるくらいに優しい顔が、私をじっと見下ろしていた。
「俺がついてるよ」
短い言葉が嬉しかった。
けれどそれと同時に不安な心も大きくなる。
私は首を横に振った。
(海君を巻きこみたくない……! 海君をひどい目にあわせるようなことになるのが、一番怖い……!)
私の思いはきっと海君には通じているだろう。
だけど彼もまた、静かに首を横に振る。
「駄目だよ。絶対に一人でなんて帰さない。今、真実さんがあいつに捕まるようなことになったら、俺は後悔してもしきれない」
強い口調できっぱりと言われて、私はまた俯いた。
「だけど怖いよ……海君がひどい目にあったらどうしよう……」
私の不安を打ち消すように、海君が繋いだ手に力をこめた。
「大丈夫。殴りあいになったら、確かに分が悪いかもしれないけど、俺はちゃんと秘密兵器を持ってるから……!」
そして、胸ポケットから出したその秘密兵器を、得意そうに私の目の前で振ってみせる。
ごく普通の携帯電話。
「えっ? ……携帯?」
いぶかしげに見つめる私に、
「そう、これでいつでもパトカーを呼べる。昨日みたいにね」
ひどく真面目な調子で、海君は答えた。
その真剣な顔が、言ってることまるでチグハグで、私は吹き出さずにいられない。
「やだもう! 海君ったら!」
海君はそんな私の様子を見て、
「やっと笑ってくれた」
と、大きなため息を吐いた。
心の底から安堵したような声だった。
「海君……」
彼がずっと私の様子を気にかけていてくれていたことに、私はこの時初めて気がついた。
そういえば、警察署に入ってからはずっと、不安と恐怖ばかりが心に渦巻いて、私はとても笑うような心境ではなかった。
その上思い出したくないようなことも思い出さなければならず、聞かれたくない話を海君にも聞かせることになったかもしれない。
そう思うとやるせなくて辛くて、沈む気持ちばかりが心の中で折り重なっていた。
だけど海君は、その間もずっと私の心配をしてくれてたんだ。
そうわかっただけで、笑顔が自分の中で、何倍にも何十倍にも広がっていくのを感じた。
「ありがとう」
それだけを言って、誰よりも優しい人の顔を見上げる。
「どういたしまして」
海君はいつもどおりに、すました顔でそつなく答える。
そのことが嬉しくて、また私は笑顔になった。
わざとゆっくりと、歩く速度を遅らせて、たどり着いた私の部屋の前に幸哉の姿はなかった。
ホッとして、隣に立つ海君の顔を見上げる。
彼は私と目があった瞬間、いたずらっ子のように笑った。
「なんなら部屋の中までついて行こうか?」
途端、頭の中で、昨日部屋の中で二人きりになってとんでもなくドキドキしたことを思い出した。
「い、いいよ!」
慌てて手を振る私に、
「なんで? なんか問題ある? どうせ俺がいたって、真実さんは普通に寝ちゃうだけでしょ?」
海君は前髪をかき上げながら、いかにも意味ありげに笑ってみせる。
「もうっ! やっぱりまだ根に持ってるんじゃない!」
私は大好きなはずのその笑顔に、こぶしを振り上げた。
「いいです! 一人で帰ります!」
キッパリと宣言して、海君に背を向ける。
「ゴメンゴメン。ふざけすぎた」
海君がしきりに謝っているけど、聞いてなんかやるもんか。
私は彼の声を無視して、玄関のドアへと手をかけた。
――その瞬間。
それがギイッと音をたてて簡単に内側に開いたことで、私の体も思考も凍りついた。
「真実さん!」
海君がすぐに私とドアとの間に入りこんで、自分の後ろに私を庇おうとする。
「やだ! 海君!」
私は彼のシャツをぎゅっと握りしめて、背中に額を押しつけた。
「大丈夫だよ」
彼が用心深く開いたドアの向こうに、人の気配はなかった。
でも、中に踏み入ろうとした足がびっくりして止まってしまうくらい、部屋の中はめちゃくちゃに荒らされていた。
引出しの中身や、クローゼットの中身、ありとあらゆる物がひっぱり出され、テーブルも椅子もひっくり返っている。
「……どうして…………?」
しばらく呆然と立ち尽くしたあと、私は海君の後ろから歩み出て、ヨロヨロとした足取りで力なく部屋の中へ入った。
一通り見てまわって、特になくなっているものや、壊されているものはないと確認する。
(ぐちゃぐちゃに荒らされただけ……だよね……?)
それが誰の仕業なのかは、考えなくてもわかった。
私は唇を噛みしめる。
クローゼットの前に散乱する下着類をかき集めながら、顔を上げないで、
「ゴメン……海君、ちょっと外で待ってて」
とお願いした。
「ああ……うん」
海君はすぐにドアから出て行って、誰かに携帯で連絡を取ってくれているようだ。
きっと村岡さんだろう。
警察が来る前に、人に見られたら困るものだけでも片づけようと、私は歯を食いしばって必死に涙をこらえながら、ぐちゃぐちゃになった自分の下着を一つ一つ拾い集めた。
学で使うテキストやノート類も、全て残らず鞄と本棚からひっぱり出されていた。
そういえば、幸哉は私が大学に行くことを極端に嫌っていた。
(……破かれたりしてないかな?)
部屋中に散乱するレポート用紙やルーズリーフの山に、絶望的な気持ちで目をやった時、偶然にか、故意にか、ドア近くの紙の山のてっぺんに載せられた私の写真が、目に止まった。
私が自分で持っていた写真ではなかった。
幸哉に暴力を受けた直後の姿だろうか。
傷だらけの体を丸めて、死んだように幸哉のベッドで眠っている私。
(……こんなの海君に見せられない……!)
手の中に握りこんだ写真をギュッと握りつぶしながら、私は怒りと悲しみで体が震えるのを感じた。
(ひどいよ……! こんなの嫌だ……)
他にもないか、必死で探し回る。
床を這いつくばって確認しているうちに、じっと自分に注がれている視線に気がついた。
おそるおそる後ろをふり返る。
ドアの向こうにいる海君が、真っ直ぐにこっちを見ていた。
目があった瞬間、今の私と同じくらい、彼もまた泣きそうな顔をしていると思った。
(見たんだね。海君)
それはどんな現実よりも、今の私には受け入れがたい絶望だった。
「私の考えが甘かったとしか言いようがないな……すまない。怖い思いをさせてしまったね」
駆けつけてくれた村岡さんはため息を吐いて、とても悲しそうな顔で私を見つめた。
でもその目の奥には、厳しい光を宿している。
「やっぱり岩瀬幸哉に警告を出させてもらうよ。その上で告訴するのかしないのか。キミにもよく考えてほしい……」
残念そうに、それでもキッパリと宣言されれば、私に反論する力はもう残っていない。
「はい」
静かに頷いて、打ちのめされたような思いで胸に手を当てる。
村岡さんの背後に目を向けて、もう一度海君の顔を見る勇気が、私にはなかった。
「今日は用心のためにも友だちの家にでも行ったほうがいい。ここは私たちがしばらく見張っておくから」
優しく気遣ってくれる村岡さんに頭を下げる。
「ありがとうございます」
それから村岡さんと、一緒に来ていた刑事さんに手伝ってもらって、簡単に部屋の片づけをした。
海君も、いつの間にか部屋には入ってきたけれど、照明器具やテーブルなんかの大きな物を片づけるばかりで、細かな私のものには手をつけようとはしなかった。
私のほうを見ようともしない彼に、私もわざと背中を向け続ける。
でも背中越し、ずっと彼の動きばかりを気にしていた。
(こっちを見てよ。海君)
彼がいったい何を考えているのか。
気になって仕方がない。
いろんな思いが頭の中を駆けめぐって、気を緩めると涙が零れそうになる。
だから歯を食いしばって、必死に部屋の片づけを頑張る。
(何か言ってよ。海君)
これ以上、彼に何を望めるというのだろう。
私には、もうどうしようもなかった。
「好きだから」という思いだけで傍にいてもらうには、今の私の現実はあまりにも厳しいものだ。
このまま優しさに甘え、自分の感情に溺れていたら、もっと彼を傷つけることになる――きっと。
彼が私に感じてくれている好意は、果たしてそれに見あうほどのものなんだろうか。
私と同じくらい強いものなんだろうか。
わからない。
自信なんて全然ない。
だから私は目を閉じる。
耳を塞ぐ。
確かめもせずに、彼の前から逃げだしたい衝動に駆られる自分を、これ以上引き止めることなんて、もうとてもできそうにない。
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